beloved




第一話




嵐の前の静けさ。
頻繁に使用されるその言葉の意味を身をもって理解したのは、クリスマスという、もしかしたら恋人同士にとって最大のイベントを数日後に控え、街も人も嬉々とした雰囲気に包まれているのとは裏腹に、店を飾り立てるクリスマスツリーも倒れてしましそうな強く冷たい風の吹き荒れた日だった。








***   ***   ***








「やっぱこのセーターも持ってったほうがいいかなぁ」
クローゼットから引っ張り出した洋服の山の中で、おれはひとりごちた。
とはいっても、たいした衣装持ちでもないくせにどれにしようか悩むのは、初めての海外旅行に心躍らせている証拠である。
ありがたいことに、世界の政治経済の中心であるニューヨーク街の様子は、毎日のようにテレビでうかがい知る事ができる。
向こうの冬はかなり厳しいらしく、街ゆく人はだれもが厚手のコートを羽織っていた。しかもみんなお洒落だ。
数日後、おれは片岡と一緒にニューヨークへ旅立つことになっている。
早めに取り掛かっていた卒論であったが、後半思うようにはかどらなくて、結局締切りギリギリに指導教授の了解を貰い提出する有様だった。
それでも、片岡が代わりにパスポートの申請をしてくれたり、旅行に必要な小物類を用意してくれていたから、おれは自分の荷物だけをスーツケースに詰めるだけでよかった。
卒論がはかどらなかった原因は、突然現れた片岡の双子の兄から聞かされた話によるところが大きい。
それまでが安穏とした毎日だったから、余計にその話に酷い衝撃を受けた。
片岡にはそのことを話さないと決めていたし、ひとり悩んでもどうなる問題でもないのに、頭から離れることはなかった。
卒論のために時間を減らしたバイトでも、些細なミスを犯し迷惑をかけることもあった。
無論、一番肝心な卒論の執筆に集中できるはずもなく、こんなんじゃダメだと自分を追い込めば追い込むほど、すっきりしない心も頭も焦燥感に支配され、自分の感情をコントロールすることの難しさを改めて知った。
何も知らない片岡との、それまでと何ら変わりのない毎日も、おれには違う時間に思えて、まるで何事もなかったかのようにあの男から連絡がないことも、おれを不安にさせた。
彼の、片岡を連れ戻そうとする気持ちは真剣だったし、そのためにおれが邪魔であることは明らかで、だから片岡が本気で好きだったという優梨子という女の存在をおれに知らしめたはずだ。
そして、彼の思惑は見事におれの中の不安を呼び起こし、揺さぶっている。
優梨子が今は俊哉の妻でも、片岡にとって過去の女のひとりであると軽く考えることは到底できそうになかった。
それでも今は、片岡が愛しているのはおれだと、おれがいちばんだと、それを感じたいために今まで以上に片岡を求め、身体を重ねる回数が増えるから、卒論に集中できなくなるのも無理はない。
お互い抱きあうことは嫌いじゃない。
いつもそれなりに時間をかけてゆっくり愛し合うセックスだったけれど、輪をかけておれが求めるようになったし、休日にはベッドの上でうだうだ過ごすことも多くなった。
抱かれている時は、何もかも忘れられた。
片岡のことだけを考えていられた。情熱的なキスや丁寧に施される愛撫、そして甘く優しく囁かれる言葉に、愛されていることを見出し満足した。
そんなおれのただひとつの楽しみは、片岡との旅行だった。
これがあったからこそ、どうにか卒論を提出できたのだ。
あの男と優梨子のいるこの日本から離れて片岡とふたりっきりになれば、気持ちに変化があらわれるかもしれない。
いろいろなことが短期間でありすぎて、ナーバスになりすぎているだけで、片岡とゆっくりした時間を過ごせば、もっとゆったり構えることが出来るようになるかもしれない。
夢と希望で溢れているニューヨークという街が、マイナス思考になりがちなおれの心を勇気付けてくれる気がして、かなりハイテンションで準備をしているのだ。
「やけに楽しそうじゃないか」
背後からの声に驚いて振り返ると、にやけ顔の片岡がドアに凭れて立っていた。
「歌まで歌って、そんなに楽しみか?」
「か、勝手に入ってくんなよ!」
おれが口ずさんでいたのは、すでに解散し伝説と化している某バンドの曲。しかもサビの部分の繰り返し。
仕方ないから行ってやるなんて高飛車な態度で了解した手前、手放しに喜べなくて、心の中ではウキウキしっ放しなくせにそんな気持ちはおくびにも出さなかった。
もちろん卒論に追われていたのもあるのだか。
おまけに、おれは片岡の前で歌というものを歌ったことがない。
これでも高校時代は、平日なら一時間50円なんていう看板につられて、よくカラオケボックスに行ったものだ。いちばんお手軽で安価な娯楽だったから、弟たち3人を連れて行っても大きな出費にはならない、便利な遊びだった。
エコーの聞いたマイクで歌うと、日常の忙しさを忘れることができたし、歌うこと自体も嫌いじゃない。今でもたまに誘われると行ったりする。
しかし、おれは片岡には歌を聞かれたくなかったのだ!
というのも、片岡はびっくりするほど歌が上手い。
初めて聞いた時には驚いて、そして聞き惚れてしまった。
もし、二ノ宮や弟たちと一緒でなかったら、おれはメロメロのくてくてになっていただろう。
ラブソングを隣りで歌われたときにゃ、もう・・・
そのときの片岡の選曲が、歌詞のわからない英語曲でよかったと心から思った。
そんなわけで、おれはこいつの前で歌を披露するなんて絶対しないと誓ったし、そういう機会に合った時も、喉の調子が悪いからと逃げていたのだ。
なのに、あまりの嬉しさに、口ずさみながら荷物を作っていたなんて!
しかも「ニュ〜ヨ〜クッ、ニュ〜ヨ〜ック」ってアホの一つ覚えみたいにサビを繰り返して!
あぁ、その歌しかニューヨークの歌を知らない自分の無知さがいまいましい・・・
何年も一緒に暮らしていて、こんなことよりもっと恥ずかしい姿をさらしているのに、それでもこんな些細なことが恥ずかしくてどうしようもなくて、それを隠すために言葉が乱暴になるのはおれの性格上仕方がない。
「結構、上手いじゃないか、成瀬の歌」
褒められたって何も嬉しくないぞ!
「う、うるさいっ!」
「それに、いたく楽しみなようだし?無理に付き合ってくれるのに、悪いな」
悪いなんて思っていないくせに、おれの気持ちだってすっかりわかってるくせに、そういう言い方をする片岡は本当に意地悪だと思う。
だいたい、顔がにやけてるってんだよ!
「べ、別にそういうわけじゃねえよ!この歌が今のマイブームなだけだ!」
しかもこの期に及んでも素直じゃないおれは、バカ丸出しだ。
ほんとはすっげえ楽しみなんだ、って笑って言えたら、きっとこいつだって高い金だして連れて行く甲斐があるだろうし、おれだってすっきり気持ちよく出発できるのに・・・・・・
何だか顔を見るのが恥ずかしくて、手当たり次第にあたりに散らかした洋服やら小物やらを闇雲にスーツケースに詰め始めた。
ポンと何かで頭を叩かれ、首をひねって後ろを見やると、すぐそこに片岡がしゃがんでいた。
「ほら、これ」
差し出されたのは見覚えのある紙袋。駅前の書店のものだ。どうやらこれで頭を叩かれたらしい。
「何?」
受け取ってガサガサと包みを開くと・・・ニューヨークのガイドブックが数冊出てきた。
本に落とした視線を慌てて上げると、メガネの奥の瞳は優しく笑っていた。
「おれはニューヨークは経験済みなんだ。だからおまえが行きたいとこ、チェックしとけよ。どこでも連れてってやるから」
さっきまでおれを揶揄っていたときとは違う甘い声音に、心が溶けそうになる。
「そんな広い街じゃないから、いろんなところ回れると思う。どこをとっても刺激的な街だし、ちょっと人生変わるかもしれないぞ?」
「あんたも、人生変わった?」
ふっと片岡の表情が静寂を帯びた。
「そう・・・だな。変わったかな・・・」
スーツケースに荷物を詰めたことのないおれの、隙間だらけの仕事を見やると、片岡はそれを手際よく直し始めた。
                                                                      









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