蒼い夜






<9>








おれたちが一緒に外出したのは、それが最後だった。
翌日は野郎ばっかりでハイキング、その翌日からは思い思いに過ごしたけれど、片岡から外出の誘いも受けなかったし、アトリエにこもっているようだった。
何だかんだ言っても静かなのが好きなヤツだから、のんびり読書でもしているんだろうと、少し淋しく思いながらも、おれと康介は西山夫妻に料理を教わったり、辺りを散策したりして過ごした。

ほとんど顔を合わす機会はなくて、食事の時くらいだった。
でもその時間は、ひとりでいろいろ考えるのには十分だったし、ありがたかった。







****     *****     *****







空が何ともいえないきれいな紫色に染まり始めた頃、おれはこの別荘で見つけたお気に入りの場所で空を見上げていた。
ごろんと寝そべり、手を頭の後ろで組んで、ぼーっと天を仰ぐ。

ここは小さな森の最奥に位置する場所。
木々が密集しているところはむき出しの土で覆われているのだが、ある一部分だけ緑の敷物のように草が生えている。そこに座ると、池に反射する光や水面に映る木々が、とても美しく見えた。おそらくベストポジションなのであろう。ここで、この別荘の主はスケッチでもしていたのだろうか。







おれはここに来てよかったと思っている。
今まで何度か経験した二人きりの旅行のように甘いものでも何でもなかったけれど、それ以上のものを得ることができた。
片岡の生い立ちを知ることができた。

そして、これからのおれたちについても・・・考えることができた。
明日、ここから去り、家に帰ったら、今度は引越しの準備に追われるであろう。
オフクロが反対するわけがない。むしろ歓迎するだろうから。

そうすれば、4月からは、新しい生活が始まる。
おれと片岡の、ふたりの生活がスタートする。

ここに来るまでは、ただ単純に喜んでいた。うれしかった。不安もあったけれど、期待のほうが大きかった。
何も気にすることなく、ずっと一緒にいられる、そう思うとたまらなく幸せだった。
そう、ここに来るまでは・・・・・・







ここに来て、片岡の悲しい過去を知った。唯一の叔父さんを亡くし、片岡を愛しているのはおれだけだ、おれが片岡を愛していく、そう思う心に変わりはない。
けれど、ずっと愛して続けていくのと、ずっと一緒に生きていくのとは・・・違うことだと気づいた。
片岡は、おれは想像していたよりも、遥かにいい家の出身であることを知った。
親とは縁を切っている、兄がいるからおれはあの家には用のない人間なんだと、片岡は言う。
自分を愛してくれなかった両親を、兄を、家族だとは思っていないと、片岡は言う。
それでも、おれは片岡がそこに生まれたことには、何かしらの意味があると思う。
それに、片岡のことを最も案じているであろう叔父さんの言葉。





『おまえの外見や地位じゃなく、おまえの過去も未来も全部ひっくるめて愛してくれる人を見つけたら、おれに紹介しに来てくれよ』





片岡はおれをアトリエに招いてくれた。それは尊敬する叔父さんへの紹介の意味もあったのであろう。
片岡がおれを愛してくれているのは事実。
事実だけれど・・・・・・







叔父さんはどう思ったのであろう。
紹介されたのが、こんなまだテンでガキの、しかもどこから見ても立派なヤロウで・・・
片岡くらいのオトコならば、素敵な女性をエスコートして来てもおかしくない。
むしろそれが正しい在り方なのだ。

おれのどこが好きなのかとおれが尋ねた時、片岡は言った。





『強いて言えば、一生懸命生きてる姿にホレた・・・かな?』
『親のため弟たちのため、まだまだ甘えたい歳なのに、地に足踏ん張って生きてる。すげー大きいもの背負って生きてるおまえは、たくさんの金持ちボンボン生徒たちの中で光ってたよ』
『安心できる場所におれはなりたいと思ったんだ』





まるで昨日のことのように思い出される片岡の告白。
そして、片岡はおれにとってその通りの存在となった。片岡の傍ならおれはいつだって寄りかかることができた。おれが悩んだり苦しんだりしている時に、いつだって現れておれを勇気付け、慰め、癒してくれた。
なのに、おれは片岡になにもしてあげられない、何も与えてあげられない。
世間に顔向けできない恋愛を強いられ、しかもわがままで優しい言葉も知らない、八歳も年下のオトコに縛られていて生きていくことが、片岡にとって幸せなのだろうか。
一生懸命生きているヤツなんで、この世の中にはゴマンといるだろう。背中にたくさんのものを背負い込んで生きてるヤツなんて、探せば溢れ出てくるに違いない。
そんな中で、片岡はおれを選んでいいのだろうか。一生懸命生きている、素敵な女性はきっといるに違いない。そしてそんな女性のほうが片岡には必要なんじゃないだろうか。片岡を幸せにしてくれるんじゃないだろうか。
もし、片岡が大きな家の生まれじゃなかったら、代々の代議士の家系なんていう、おれが想像もできないような家柄じゃなかったら、おれはもう少し気楽にこの恋愛を考えることができたかもしれない。
けど、知ってしまった今は・・・







一緒に歩いて行けない・・・そんな思いでいっぱいだった。
この数日間、思いのよらなかった事実ばかりを見せ付けられ、オドロキの連続でおれの許容範囲を確実に超えてしまっているから、少し弱気になっているのかもしれないけれど、だからこそもう一度じっくり考える必要があるのかもしれない。

片岡がもしおれのこんな考えを知ったら、バカだと罵るだろう。そして、バカだと言いながらも、そのバカとともに生きていこうとするだろう。
すべてを捨てても。

そんな人だから・・・もしその時がきたら・・・おれはうまく片岡を言いくるめなければならないのだ。
一緒に訪れた教会で、十字架を目の前に、おれは誓ったのだ。
『もしおれたちに罪があるのなら、おれが全部背負います。だから・・・どうかこの人に幸せを・・・・・・』

そして、初めて神に願った。
『おれの存在が片岡の幸せを妨げるようなことがあれば、どうか進むべき道を教えて欲しい』
だから、おれはもう悩む必要なんてない。
そのときが来るのを・・・待てばいいんだ・・・・・・
カサカサと葉擦れの音が聞こえ、おれは上半身を起こして振り返った。
「先生・・・」
そこには片岡が立っていた。
「だからっ、もう先生って呼ぶなって!」
眼鏡の奥から戒めるようにおれを見たが、口元は笑っていた。
「なんで?」
「なんでって・・・こっちに来るのが見えたから追っかけてきてみた」
おれの隣りに腰を下ろすと、真っ直ぐ池の向こうの景色を見つめる。
「ここはさ、冬になるとすげえ綺麗なんだ。池には氷が張って、今よりもっと太陽の光が反射してキラキラ輝くし、向こうの木々は雪化粧をするからさ」
そう言えば、この庭で四季を感じることができると言っていた。ここは『冬』の場所らしい。
しばらく無言で池を眺めていた。
いつしか空は白み、薄い月が見えていた。おれは結構な時間をここで費やしていたらしい。
「成瀬・・・」
名前を囁かれどきりとした。妙に艶っぽく、甘い声だった。
「今晩・・・アトリエに来いよ・・・・・・」
「えっ?」
思わず声を発した。それって・・・・・・
「なっ?おれ待ってるから・・・・・・」
こここに来て二日目にドライブに誘われて以来、ふたりっきりになったことはないし、ましてや初日にその気になって以来、キスもしていない。
だからおれはいろんなことを冷静に考えることができた。抱き合ってしまうと、愛し合い、つながりひとつになってしまうと、おれはどうしようもなくなってしまうから。
それに、弟たちと同じ屋根の下で、そういう行為をすることにも抵抗があった。なんていいながらも一度はその気になったのだけれど。
「でも―――」
「おまえを抱きたいんだ・・・おまえを感じたい・・・亮、おまえを愛し合いたい・・・・・・」
おれの言葉が甘い睦言にかき消され、おれを真っ直ぐに見つめる真剣な双眸と、言葉を紡いだくちびるが、おれの心を震わす。
顔が近づいてくると、くちびるが重ねられた。優しく甘いキスに身体が痺れ、懐かしいにおいとぬくもりにおれは片岡にギュッとしがみついた。
「何時でもいい。おれは亮を待ってる・・・」
耳元で囁かれる誘いの言葉を受け入れるかのように、片岡のくちびるを吸った。
そのときが来るまでは・・・この人と一緒にいたい・・・この人のぬくもりを感じていたい・・・・・・
後でどんなにつらかろうが、どうでもよかった。
そのときが来るのを・・・待てばいいんだ・・・待ってればいいんだ・・・・・・
自分に言い聞かせるように、何度も心で繰り返した。







                                                                       





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