蒼い夜






<4>








アトリエは、洋館のいちばん南奥にあった。本館とは廊下で結ばれているだけで、離れのようになっている。
ギィッと古めかしい音をたて押し開けられた木のドアの向こうは、太陽の光でいっぱいだった。光源は天窓らしく、柔らかな春の陽射しがこげ茶色のアトリエの床を白く染めていた。
腰の位置くらいから天井までは大きな窓となっていて、そこからはふくらみかけた桜の木が数本見えた。
壁際にはキャンバスそのままの絵や、額に入れられた絵が重ねて置かれていた。
絵の具で汚れた一角にはキャンバスのないイーゼルが淋しそうに置かれていて、亡き主人がそこで作業をしていたことを示していた。
そのほかには、作業台らしいデスクと大きなソファとローテーブルしかない。
空気を入れ替えるためか、窓を順番に開け放っている片岡の背中におれは尋ねた。
「あんたのオジサン、絵を描く人だったんだって?」
「まあな。反対されても絵を捨てなかった人だから、じいさんとも仲悪かったし、おれのオヤジともうまくいってなかった。だからかな?両親に相手にされないおれをすごくかわいがってくれた。長い休みに入るたびにここに連れてきてくれて・・・小さい頃のおれがいちばん安心できた場所なんだ、ここは」
花冷えの風なのか、この土地特有のものなのか、冷たい風が窓から入り込んできて、テーブルの上においてあった雑誌をぱらぱらとめくった。
不意打ちにそんな話を聞かされて立ちすくんだおれの手を引いて、窓辺へと誘った片岡は、冷たい風をものともせず話を続けた。
「このさくら、満開になったらすごく綺麗なんだ。叔父の自慢だった。自慢なのに、誰にも見せなかった。社交的な人じゃなかったからね。特にこのアトリエには誰も入れなかった。ずっとここの管理を頼んでいる西山さん夫婦でさえ、あの廊下からこっちへは近づかない。叔父が亡くなった今でさえも。叔父とおれとおまえしかここに入ったことはないんだ」
「おれ・・・?おれは・・・」
「おまえはいいんだ。おれはおまえにここに来て欲しかった。できればこのさくらを見せたかったんだけどな。今年は例年より桜の開花が早いって言ってたからもしかしてって思ってたけど・・・まだだめだな?」
まだつぼみのさくらの木を見つめるその横顔が、残念というより淋しそうで、身体の奥から熱い思いが湧きあがって溢れそうなのに、胸でつっかえて言葉にならない。
「叔父は画家のくせにあまり外に出たがらなかった。だからこの広大な土地の中で四季を感じることが出来るようにとたくさんの季節の植物が植えられているんだ。また案内してやるから・・・」
「それでここは・・・春を感じる場所?」
目の前には桜の木。そして花壇には春を思わせる色彩豊かな花たちが風に揺られていた。
「叔父は春が好きだったから。この季節、ここにやってきてはキャンバスに向かっている叔父の傍らで、読書したりして過ごしてた。とても静かな時間だった。ここはおれと叔父だけのものだった。誰にも邪魔されない、侵されない、この世でたった一つの場所だったんだ」
おれは片岡に初めてあった時のことを思い出していた。上等そうなスーツを身にまとい、育ちのよさそうな、かっこいい青年教師だったけれど、その瞳は冷たくて、自分以外のものは寄せ付けない、興味のない、全てをシャットアウトしているような眼差しだった。
授業は楽しいし、見かけよりは明るいヤツなんだと、数ヶ月たつと思い始めたけれど、それでもどこかしらで一線を引いていて、絶対に生徒に深入りはしなかった。
おれと付き合うようになっても、あまり自分のことを話したがらない片岡に、おれは業を煮やすこともあったけれど、片岡は思い出したくなかったのかもしれない。
誰にだって過去はある。幸せな過去もあればそうでない過去もある。
おれは・・・幸せだった。父親を早くに亡くし苦労もあったけれど、たくさん愛されて育ったという自負はある。
でも片岡は・・・そうでなかったんだ。自分を愛してくれたのは、たったひとり、叔父さんだけだったんだ。
おれは、繋いでいた片岡の手をギュッと握った。
「叔父はずっと病気を隠していて・・・息をひきとる数日前にここで会ったんだけど、その時こう言ったんだ。『ここはおれとおまえの思い出の場所だから。けどもしおまえに心から愛する人ができたら、ここに連れて来いよな。おまえの外見や地位じゃなく、おまえの過去も未来も全部ひっくるめて愛してくれる人を見つけたら、おれに紹介しに来てくれよ。このアトリエ3人目の入室許可を出そう。もちろん春の季節にな』ってね。叔父には紹介できなかったけど、きっと喜んでるよ。成瀬の訪問を・・・」
片岡はおれの手を離すと、冷えてきたからと窓を閉め、重ねられたキャンバスを壁に立てかけていった。
「おまえ、絵とか好きか?」
「詳しくはないけど見るのは好きかも・・・・・・」
その絵は、こってりぬりたくられた油絵でなはく、透明感溢れた水彩画だった。どれもこれも優しいタッチの、真っ白な壁が似合いそうな作品ばかりだった。
「絵本とかの挿絵なんかも描いてたんだ、叔父は」
「結構名の知れた絵描きさんだったんだって?二ノ宮が言ってた」
「好みがあるんだろうけどな。個展なんかもあまり開かなかったし、積極的に売る人でもなかったけど、信望者はたくさんいたみたいだった。今でも買いたいって人が後を絶たないんだけど、もう売りたくないんだ、おれは」
片岡は一枚の絵の前に座り込んで、手招きしておれを呼んだ。誘われるがままに隣りに腰を下ろす。
淡いピンク色が瞳いっぱいに広がった。
一際大きなキャンバスが様々なピンク色で埋め尽くされていた。ひとつの色にもこんなに種類があるのかとびっくりするくらいに。
「これって・・・あのさくら・・・?」
「そう。おれがいちばん気に入ってる絵。おそらく叔父もね」
おれはその絵をしばし眺めていた。
春うららかなぽかぽかした陽気の中の満開のさくら。
水彩画で描かれたさくらは、透き通るような柔らかさと、凛とした毅然さを備えた美しさを、キャンバスいっぱいに放っていた。

水彩画特有の少しぼやけたタッチが優しくて、ほんわか温かい気持ちになった・・・それなのに、それと同時に切なく、胸が締め付けられるような、形のない悲哀に襲われて・・・
「―――成瀬・・・?」
「なんでかな・・・?こんなに明るい綺麗に満開のさくらなのに・・・なんでかな・・・・・・?」
自分でも涙もろいと思う。小説や映画、スポーツ中継でさえ、胸が熱くなることが多々ある。けれどそれらにはドラマ性があった。泣かそう、感動さそうという第三者の意図も働いているように思う。
だけど、この絵にはそんなものはない・・・ないはずなのに、後から後から涙が滲んで止まらない。
「お、おれってすっげえ恥ずかしくない?ははは・・・」
力なく笑うと、涙を振り払うかのように、腕でゴシゴシと涙と拭った。
すると、その腕をぐいっと掴まれ、顔を上げると、片岡が正面すわっていた。
「そんなにゴシゴシこすると赤くなるだろ?バカ」
コトンという小さな音のほうに視線を送ろうとしたおれに、逆光でシルエットになった片岡の顔が近づいてきた。
キスの予感に自然と閉じられた瞼に柔らかく温かいくちびるを感じ、さっきの小さな音は、片岡が眼鏡を床に置いた音なんだと、そんなことを考えた。

服の袖で擦りすぎたのか、生暖かい片岡の舌がふれたときヒリヒリと痛みを感じ、おれは待ちきれないように身体をずらすと、片岡のくちびるにくちびるを重ねた。
誘うように薄くくちびるを開けると、誘われるのを待っていたかのように片岡に翻弄された。
遠くに遠くに陸の楽しげにはしゃぐ声が聞こえた。








                                                                       





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