inspiration |
その5
陽人は幸太郎がやってくる週2日を心待ちに毎日を過ごした。
陽人にとっては何の意味ももたなかった日常も、幸太郎に会うために費やす時間だと思えばとても有意義なものに思えた。
幸太郎に少しでも良く思われたいから予習・復習は欠かさなかったおかげで、要領よく何でもこなしてしまう啓人のペースについてゆくことができた。
もともと啓人は幸太郎と一緒に過ごす時間を増やすために陽人の提案を受け入れたのだから、家庭教師の顔で数式を口にする幸太郎にいささか不満を持っているようだったが、幸太郎はそんな啓人をうまくなだめ、2時間みっちり机に向かわせた。
ケジメをつけるタイプなのか、その2時間は幸太郎は啓人の恋人の顔を一切見せなかった。
そしてその時間だけは、幸太郎は陽人と啓人の共有物だった。
啓人の部屋の小さなテーブルを3人で囲み、黙々と問題集に向かいながらも、陽人は幸太郎の存在を意識せざるを得なかった。
考え込んでしばらく手を止めると、幸太郎はすかさず問題集を覗きこむ。
整髪料と煙草の入り混じった大人の匂いが陽人の鼻先を掠め、それだけで鼓動が高鳴った。
ペンを持つ手は節くれだった大きな手で、骨や血管が浮き出ているのが妙に印象的だった。
わかるまで説明してくれる優しい響きの声は、あの時と全く変わりなく、陽人の心をさんざめかせた。
そして2時間みっちり家庭教師という役割を全うした後には、幸太郎は啓人の恋人となる。
さすがに陽人の前でベタベタいちゃつくことはないけれど、2時間の拘束は啓人を開放感でいっぱいにし、恋人に甘えるそぶりを見せるのだった。
幸太郎も、やればできるのに持続性のない啓人の性格を把握しているようで、啓人へのご褒美のつもりなのか好きなようにさせていた。
会えない間に自分に起こった出来事を逐一幸太郎に報告する啓人と、その報告を笑顔で聞いている幸太郎。
問題集や参考書を片しながら、陽人はその笑顔をそっと盗みみるのが好きだった。
そしていつものように心の中で啓人と自分を入れ替える。
さりげなくテーブルの下で絡められている手と手が目に入れば、指先が熱を帯びたように熱くなった。
「アキ、これからバイオリンのレッスンするんだろ?」
啓人のその言葉を合図に、陽人は啓人の部屋を出て行くのも、暗黙の了解となった。
本当はレッスンなんてどうでもいいのだ。
音大に進学しないのなら、週2回くらいバイオリンに触れない日があってもかまわないのだ。
それでも陽人は荷物をまとめると素直に立ち上がる。
「幸太郎さん、ありがとうございました」
丁寧に頭を下げる。
「陽人くんも、以前のように『コウちゃん』でいいって。その呼び方、背中がむず痒くなる」
「だろ?おれもそう言ってるんだけどなぁ。会った日から突然呼び方変えちゃってさ」
陽人は曖昧に笑みを浮かべると、何も言わずに啓人の部屋を出た。
どうしてだろう。
ずっとコウちゃんと呼んでいたのに、あの時の青年が啓人の恋人のコウちゃんだと知ってから、気安く呼べなくなってしまった。
『コウちゃん』
そう呼んでいいのは、同じ顔でも啓人だけなんだ。
そんな思いに支配されたから。
もともと無口で人見知りの陽人は、家庭教師の時間中もほとんど口を開かない。
好きな人と会える日に唯一口にする好きな人の名前は、その人を啓人と共有することができる時間から、啓人だけに返す、決別の時に口にする言葉だった。
*** *** ***
「あれ?おまえ何してんのさ」
聞き覚えのある声に驚いて振り返ると、幸太郎が憮然とした表情で陽人を見下ろしていた。
「おまえ、今日はダチと先約があるからっておれの誘い断ったんじゃなかったっけ?」
「えっ、あっあの・・・・・・」
ぶっきらぼうな物の言い方に陽人が口篭ると、幸太郎はハッとバツの悪そうな表情を浮かべた。
「あ・・・もしかして陽人くん?」
陽人が頷くと、幸太郎は照れ笑いを浮かべて頭を掻いた。
「ごめんごめん。びっくりしたろ?」
「い、いえ・・・」
街の雑踏の中、幸太郎と向かい合って立っていると、季節は違えどあの時のことが甦り、陽人の胸を締め付ける。
毎週2回顔を合わせてはいるものの、こんな風にふたりっきりで話したこともなく、顔を上げることもできないまま、足元に視線を落とした陽人を前に幸太郎も黙り込んでしまった。
偶然会えた喜びが陽人の胸を一杯にしたが、如何せん会話が続かない。
『啓人と間違えちゃったんですか?』
『幸太郎さんこそ何してるんですか?』
そんな些細な台詞さえ口にすることができなくて、陽人はそんな自分を恨めしく思った。
「じ、じゃ・・・」
会えたのは嬉しいけれど、これ以上ここにいても仕方がない。
幸太郎に辛気臭い子だと思われるのも恐かったから、陽人は深々と頭を下げるときびすを返した。
「あ、ちょっと陽人くんっ」
突然腕を掴んで引き止められ、陽人は驚きのあまりカバンをドサリと落とした。
幸太郎は陽人の腕を掴んだまま、ひょいとカバンを拾い上げる。
「ご、ごめんなさい」
パンパンとカバンの埃を払うと、ほら、と笑顔で陽人の前に差し出した。
大切なバイオリンをわざわざ追っかけて届けてくれた、あの時と同じ笑顔で・・・
「陽人くん、これから少し時間ある?」
カバンを受け取りながら驚いて見上げると、柔らかな視線とぶつかった。
「ちょっとお茶でもしようよ」
夢のような誘いに、陽人は小さく頷いた。
戻る | 次へ | ノベルズ TOP | TOP |