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その4






ふとした時に向けられる視線に心がほんの少し痛む。
しかし、陽人にはそれを避けることも、それから逃げ出すこともできなかった。
なぜなら、目の前の人物と再び出会えた偶然を無駄にしたくなかったから。





あれから両親に了解を得、恋人である幸太郎をも説得した啓人は、毎週火曜と金曜の夜を家庭教師の日と決めた。
弟の恋人との初顔合わせ。





「はじめまして」





緊張してうつむく陽人に振り注いできたのは、懐かしく、聞き覚えのある、優しい声。
思い出すたびにドキドキした、バイオリンのGの音に似た、甘く響く声音。








忘れられないその人物への言いようのない気持ちが恋だと気付いたのは、出会って1ヶ月経った頃だった。
同性へ恋心を抱く自分に驚いたものの、その気持ちを否定することはできなかった。
たった数分の出来事が、陽人自身さえ知らなかった性癖を目覚めさせてしまったのだ。
ほんの一瞬触れただけの指先のぬくもりを、ずっとずっと大事にしまっていた。
宝物のようなその指先の感触を思い出し、甘い疼きが身体を駆けることもあった。
同じ街に住んでいるのなら、いつかきっと会えるはずだと、そう信じていた。
もし出会えたとしても、何をどうしたいとか、そんな欲求は全くなかった。





ただ・・・もう一度会いたかったのだ。





その願いは叶った。
叶ったけれど、その再会は予想外のものだった。
まさか、1年前にバイオリンを拾ってくれた優しい青年が、陽人の心を捉えて離さなかったあの青年が、双子の弟である啓人の恋人だったなんて!








呆然とする陽人に、幸太郎は優しく笑いかけた。
「ヒロにはいつもお世話かけられてます」
冗談ぽくそう言った幸太郎の背中を、「何言ってんだよ」って叩く啓人。
話には聞いていたけれど、その雰囲気だけでふたりの親密度が理解できた。
軽く自己紹介をし合った時、陽人がバイオリンを習っていることを啓人が幸太郎に話して聞かせたけれど、幸太郎は珍しそうに相槌を打っただけだった。
陽人のことなんか、これっぽっちも覚えていない様子だった。
そりゃそうだろう。
もしあの出来事を覚えているのなら、啓人に出会ったときに勘違いするはずだ。
何せふたりは見分けがつかないほどにそっくりなのだから。
もちろん陽人も何も言わなかった。
啓人から聞かされていた。
幸太郎は、誰にでも親切だということ。
時には啓人が嫉妬するくらいに。

だから、あの出来事も、幸太郎にとってはたくさんの親切の中のひとつに過ぎないのだ。
覚えていなくて当たり前だ。
恋焦がれた相手との再会の喜びと失恋の痛みを同時に味わった陽人だったが、なぜか思ったよりもショックではなかった。
おそらく、幸太郎の相手が、啓人だからだ。
ぶっきらぼうだけれど、幸太郎の啓人に対する言動には愛情が感じられたし、啓人も気の強い部分をさらけつつも幸太郎に甘えているのが見てとれて、ふたりはとても幸せそうだった。
本来ならそんな場面を目の前で週に2回見せつけられるなんて耐えられない屈辱のはずなのに、陽人は嬉しかった。
仲睦まじいふたりを見ていると、まるで幸太郎に愛されているのは自分のような気分を味わうことができた。
屈折した感情なのはわかっている。
でも、陽人はそうやってずっと生きてきたのだ。
むしろ、幸太郎が同性という枠を越えて、自慢の弟である啓人を選んだことを誇りに思った。
幸太郎の視線を感じると、少し胸が痛むけれど、それでも一緒に勉強することを望んだ。
それは、厳しいレッスンを受けても仕方ないのに止められない、バイオリンに対する気持ちと似ていた。








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