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その24






「その手袋、持っていてくれたんだね」
指摘されてカッと赤くなる。
恥ずかしくて手を隠そうとして、大事なヴァイオリンを落としそうになったのを、幸太郎は助けてくれた。
おかげで距離が縮まる。
そこで陽人は気がついた。







この手袋のこと・・・幸太郎は覚えてる・・・・・・?







驚いたように見あげた陽人の思考はすべてお見通しだというように、幸太郎が薄く笑みを浮かべた。
その優しい眼差しに陽人は釘付けになる。
瞳に映る人物を包み込む暖かさを持つ幸太郎を好きになった。
あの時から、そして今も、ずっと。
瞳を見ればその人となりがわかる、瞳はその人の本質を浮き上がらせる、そう言ったのは誰だったか。
どうしてここにいるのか、手袋のことを覚えているのか、聞きたいことはたくさんあるのに、気持ちが声にならなくて、陽人はただ幸太郎の前に立ち尽くすしかできないでいた。
どのくらい見つめ合っていただろうか。
陽人には恐ろしく長く感じたが、ほんの少しの時間だったのだろう。
ピュッと吹いた冷たい風を頬に感じ、陽人はピクリと身体を震わせた。
どうしてだろう。心が温かい。
無意識に手袋を外し頬に手をやるとそこは冷たいのに、心臓のもっと奥の、陽人の心の真ん中は火が点ったようにぽかぽか温かい。
きっと優しく暖かい幸太郎の眼差しのせいだと陽人は思った。
幸太郎の瞳に自分が映されるなんて滅多なことではない。
しかも、ほんの短い時間でも独占してしまえるなんて。
聞きたかったことはどうでもよくなっていた。
聞いたところで幸太郎が答えてくれるとは限らないし、聞いたってどうしようもないことだ。
陽人はこの場所を離れて、もう戻ってはこないのだから。
最後に会えただけで幸せだ。
「あのときは本当にありがとうございました。このヴァイオリンも、手袋も。本当に助かりました。ずっと返さなきゃって思ってたんだけど、何となくタイミングを逃してしまって・・・やっと返すことができます」
陽人は外した手袋を幸太郎に差し出した。
「きっともう新しいの持ってるだろうし、いらないかもしれないけど」
陽人は知っていた。クリスマスに啓人が幸太郎に手袋をプレゼントしたのを。
センスの良い啓人が選んだだけあって、とてもお洒落で暖かそうな手袋だった。
差し出した手袋を幸太郎は受け取ろうとはしない。
それどころか、少し怒っているように見えて、陽人は慌ててその手を引っ込めた。
そして自分の間違いに気付く。
「ご、ごめんなさい。ほんっとおれって失礼なヤツですよね。借り物を使ってたばかりか、そのまんま返そうだなんて」
びくびくと他人の顔色をうかがってばかりの小心者のくせに、どこか気が利かない自分が本当に嫌になる。
優しい言葉と暖かい眼差しに、すっかり気が緩んでしまっていたようだ。
普通に考えても、返すのならばきちんと洗ってからだろうし、随分経っているのだから、新しいものを返すべきなのだ。
自分のダメさ加減を改めて認識した陽人は、会えただけで満足しろ、余計なことはするな、と自分を叱咤して、手袋をポケットに詰め込んだ。
幸太郎は黙り込んだままだ。
負のオーラをビリビリと感じてももう遅い。
最後の最後に幸太郎に不快な思いをさせてしまった。
この街に未練を残し、うろついていたからだ。
さっさと出て行けばよかったのに。
幸せの湯たんぽをくれた幸太郎にとんでもないことをしてしまったと、唇を噛んでももうどうしようもない。
行こう。
零れそうな涙をぐっとこらえ、陽人はありったけの気持ちを込めて言葉を紡いだ。
「どうか幸せになってください」
もう顔を見ることもできなくて、深く一礼したとき、驚くほどのタイミングで、バスが停車した。
少し遠回りになるけれど、駅に向かう市内循環バスだ。
ドアが開き、陽人は躊躇いなくバスのステップに足をかけた。
その瞬間、グイッと腕を引かれて、ステップから足が離れる。
引き止められた身体は後ろに傾き、背中がぶつかった。
「乗らないの?」
マイクを通して聞こえる運転手の声に、背中を受け止めた主は「ええ、行ってください」と答えていた。
目の前でプシュっと音を立ててドアが閉まり、ブルブルとバスが遠ざかって行くのを、陽人は呆然と眺めていた。












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