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その23
見るものすべてが懐かしく思えるのは、感傷的になっているからだろうか。
小さな頃よくドーナツを買ってもらったパン屋は、今ではスイーツも扱うおしゃれなベーカリーへと変身した。
コンビニの走りだったのだろう何でも売っていた小さな商店は、いつの間にかなくなり、1階にコンビニの入ったマンションへと移り変わっていた。
小さな書店は淘汰され、大型書店に取って代わられた。
車の通行料は増え、比例して歩道が整備され、どんどん便利になってゆく。
移り変わりの激しい世の中だから、そのうち陽人の知らない街へと変貌するのだろう。
そのうち陽人の足跡さえ綺麗さっぱり消えてしまうに違いない。
―――最後にヒロと会えてよかった……
陽人は今、啓人に渡された幸太郎の手袋を嵌めている。
まさかまたここに戻ってくるとは思ってもみなかった。
そして啓人がこの手袋のことを知っていたことも。
これを手にして1年と少し。
自分では密やかにしているつもりでも、同じ家の隣りの部屋なのだから、何かの拍子に見られている可能性はある。
元の持ち主が幸太郎であることを知った経緯はわからないけれど、もうそんなことはどうでもよかった。
告白には驚かされたけどとても嬉しかった。
啓人は何もかも承知の上で陽人を追いかけ、これを託してくれたのだ。
その気持ちだけで胸が一杯になった。
啓人はああ言ってくれたけれど、陽人はここに戻るつもりはなかった。
啓人と話ができたこと、手袋を手にしたことで、何かが吹っ切れた気がした。
『諦めるな』と啓人は言ってくれた。
それは幸太郎への思いを諦めなくてもいいということなのだと、陽人は思った。
だから諦めない。
諦めないけれども、その恋情を叶えようとは思わない。
―――叶うわけがないんだけど……
以前のように、出会った頃のように、こっそり胸にしまいこんで置こう。
時が過ぎれば啓人とも幸太郎とも笑い会える日がくるに違いないし、そのうち陽人にも新しい恋が訪れるかもしれない。
それまではひとりで頑張ろうと心に誓った。
十字路のさしかかり、陽人は足を止めた。
このまままっすぐ行けば駅にたどり着く。
でも左に曲がれば……
ここを離れるのはまだ名残惜しい気持ちが、陽人の足を左へと向けた。
*** *** ***
街路樹の道をゆっくり歩く。
感情に素直になれば足取りも軽くなるなんて、げんきんなものだと思いながら、陽人は足の赴くままに進んだ。
陽人の横を路線バスが通りすぎて行く。
たった1年前のことなのに懐かしい。
あの時大切なヴァイオリンを忘れなければ幸太郎を好きになることはなかったかもしれない。
啓人の恋人として紹介されたとしても普通に接することができたに違いない。
運命を決める神様はなんと意地悪なことか。
しかしすぐに思いなおす。
どんなシチュエーションでも好きになっただろう。
相手の感情を悟り包み込んでくれる彼の優しさや温かさ、心の広さを知ってしまったのなら。
幸太郎に出会えてよかった。
想いは叶わなかったけれども、陽人に恋することを教えてくれた。
辛いこともあったけれど、楽しいこともたくさんあった。
幸せな気持ちにさせてくれた。
だから後悔する必要はない。
思い出のバス停にバスが停車し、遠くに人がひとり降りてくるのが見えた。
その人物がゆっくりと陽人に近づいてくる。
まさか……
もう会うことは叶わないと諦めていたその人が、陽人を見つめていた。
心臓が止まるかと思った。
人間心底驚くと声も出ないのだと知った。
喉に蓋をされてしまったように、ただ口を開けるだけしかできない。
意図して何も言わないのだろうか、すぐ目の前に立っているくせに、陽人を見つめるだけ。
陽人は混乱していた。
どうしてここにいるのか。
陽人が今日出発することを知っていたとしても、この場所に陽人が来たのは単なる気まぐれであって、誰も知るところではないのに。
立ち尽くす陽人をじっと見つめるばかりで、言葉を発しない。
視線が辛くて逃げ出したくなる。
どういうわけでここにやってきたのか、心の内が読めないのが怖い。
陽人はギュッと胸にヴァイオリンを抱きしめた。
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