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その21
「陽人、ほんとにひとりで大丈夫なの?」
母親の心配そうな声に戸惑ってしまう。
仲が悪いとかそういうわけではないけれど、あまり自分に関心がないことは肌で感じるものだ。
何でもできる明るい啓人をより気にかけてしまうのは仕方のないことだと諦めていた。
だから家を出るときもあっさりしたものだと思っていたのだ。
「やっぱりお母さん一緒に行ったほうがいいかしら」
こんな風に心配されたのは久しぶりのことで、何だか戸惑ってしまう。
「大丈夫だよ。荷物は全部送ってあるんだし。入学式まで少し時間があるから徐々に整理して、足りないものがあったら連絡するから」
陽人の荷物はケータイとサイフ、それに大切なヴァイオリンだけだ。
呼ばれればお正月くらいは帰ってこようと考えてはいるけれど、それも最初の1〜2年だけで、其の後はフェードアウトさせようと思っている。卒業後もここには戻ってこないつもりだ。
生まれて18年間住んだ家。
玄関横の洋室はヴァイオリンの稽古ができるように防音が施されている。
自室は整理したけれども、その部屋は手付かずのままだった。
きっとそのうち陽人のにおいなんて消えてしまうだろうけど。
結局啓人には会わずじまいになりそうだ。
あれから陽人は啓人とできるだけ会わないようにした。
啓人はいままでと全く変わりなかったけれども、陽人のほうが同じように接する自信がなかったからだ。
それでも家族なのだから顔を合わせることもある。
そんな時は戸惑いや不安、後ろめたさが先に立って、どうしても平静を装えなかった。
聡い啓人のことだ。
口数の減った陽人をおかしいと思っているに違いないが、何も言わなかった。
そしてそのことがさらに陽人を困惑させるのだ。
しかし、別れの時が近づくに連れて、このままでいいのかという思いが湧いてきた。
生まれた瞬間からずっと一緒だった双子の弟。
一緒に笑い、一緒に泣いたこともあった。
啓人の優しさや強さに何度も助けられた。
この世でたったひとりの同じ顔をした人間。
明朗活発で賢く強い、自慢の双子の弟。
幸太郎のこと以前に、啓人とこのまま別れてはいけないのではないか。
眠れない夜を過ごし、たくさん悩んでみたけれど、その思いはどんどん強くなる一方で、最後には陽人の心を動かしたのだ。
昨夜、ヴァイオリン教室への挨拶などで遅くなった帰宅の後、啓人の部屋をノックしたけれど返事はなかった。
もう寝てるのかと諦めて、今朝も訪れたが返事はなかった。
幸太郎のことにふれるつもりはない。
陽人が抱える恋情について話したところでどうなるものでもないから。
たとえ啓人が気付いていたとしても。
ただ一言、『ありがとう』と言いたかったのだ。
「啓人どうしたのかしらねぇ。昨日から部屋に閉じこもっちゃって。呼んでくるわね」
「いいよ。寝てるなら起こしちゃかわいそうだから」
2階へ上がろうとする母親を引き止めて、陽人は慌てた素振りで時計を見る。
「じゃ、バスの時間あるから」
陽人はわかってしまった。
きっと啓人は自分に会いたくないのだ。
今まで避けてきたのは自分のほうなのだから仕方がない。
会いたくなかったり会いたかったり、なんて自分勝手なのだろうと、陽人は恥ずかしくなった。
すべて自分が楽なほうに逃げているだけで、迷惑ばかりをかけている。
最後の最後までどうしようもない自分は、さっさと出て行ったほうがいいのだ。
バス停まで送るという母親を説き伏せ、陽人はひとり家を出た。
視線を感じて振りかえると、2階の啓人の部屋のカーテンが揺れた気がした。
―――啓人、ありがとう。
陽人は窓に向かって一礼すると、バス停へと向かった。
*** *** ***
母親にはああ言ったけれど、バスの時間までまだ時間があった。
どうしようかと考えて、最寄駅まで歩くことにした。
バス停にして5つだから、そう遠くはない。
新幹線のチケットはまだ買っていないから、実は何時になろうとよかったのだ。
最後にこの街を歩いてみるのもいいかもしれない。
陽人はバス通りを駅に向かって歩き始めたその時だった。
「アキッ!」
呼ばれて反射的に振りかえれば、そこには少し息を乱した啓人が立っていた。
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