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その19
「すっごい迫力だった!」
ライブは最高だった。
啓人にCDを聴かされた影響で陽人もファンのアーティストだったが、ナマで見るのは初めてだ。
啓人は何度かライブに行ったことがあるのだが。
陽人は気に入った音楽ならジャンルを問わず何でも聴くが、生演奏はクラシックしか経験がなかった。
未経験の陽人には比較対象がないのだが、身体の芯まで響くサウンドと観客の熱気に圧倒されて、夢中になっている間に終わってしまったという感じだ。
隣りにいる幸太郎のことも少しばかり忘れてしまっていた。
アンコールが終わり客電が灯ってからもしばらく放心状態だった。
ハッと気がつけば幸太郎が隣りで笑っていて恥ずかしさを感じたと同時に、自分が今日は啓人であることを再認したのだ。
「ほんっとありがとね。これも全部コウちゃんのおかげだよ」
恥ずかしさを隠してあくまで啓人になりきって礼を言うと、幸太郎は自慢げに腕を組んだ。
「そうだろうそうだろう。チケット取るのどんなに苦労したかっつうの。じゃあメシはヒロのおごりだな」
「エッ……」
突然の外出だったからあまり持ち合わせのなかった陽人は心底驚いてしまった。
「ウソだよ。美味い鉄板焼き食べさせてくれる店友達に教わったから、そこ連れてってやる。少し歩くけどいいよな?」
冗談を言う幸太郎も、少し強引な幸太郎も、陽人にとってはとても新鮮で、ずっとドキドキしっぱなしだ。
今のこの状況をすっかり忘れて、陽人は幸太郎の隣りで幸せをかみしめていた。
*** *** ***
ふたりでアツアツのお好み焼きと焼きそばをお腹いっぱい食べた後、少し歩こうかと近くにある市立公園に向かった。
図書館や市民ホールなどが立っている公園は、夕方の散歩連れでそれなりに賑わっていた。
桜の季節には花見客でごったがえす、この街の憩いの場所だ。
夕方になるとさすがに風も冷たくなり、陽人はコートの襟を合わせる。
空いている木のベンチを見つけると、幸太郎は陽人を座らせ、どこかに行ってしまった。
はぁっと息を吐いて天を仰げば、綺麗な赤紫の空が視界いっぱいに広がり、今日の終わりが近いことを示していた。
ひとり風に当たっていると、だんだん現実に引き戻されてゆくようだ。
それに比例して、だんだんと今日を振り返る冷静さが戻ってきた。
本当に楽しかった。
夢のような1日だった。
幸太郎と過ごした時間は甘く、どっぷりその中に浸かってしまっていた。
体温を感じるくらいそばにいて、向けられる眼差しも笑顔も、全て陽人の独り占めだった。
だけど、それらは陽人のものであって陽人のものではない。
幸太郎のすべては啓人のものなのだ。
終わりは必ずやってくる。
こんなこと隠しとおせるわけもなく、すぐに幸太郎にバレるだろう。
そして幸太郎の勘違いを利用して啓人になりすました陽人を軽蔑するだろう。
それが揶揄でも何でもなく、陽人の恋心の表れだとしても。
その恋情は幸太郎に伝わるはずがないのだから。
「何考えてんだ?」
優しく響く声に顔を上げると、幸太郎が微笑んでいた。
「はい」
渡されたのは暖かい缶コーヒー。
微糖ブラックは啓人の好みであり、基本的に甘糖の陽人は苦手だ。
どんなに真似をしても啓人にはなれないのだ。
改めて現実を付きつけられ、陽人の胸がキリキリと痛む。
何度繰り返せば気が済むのか。
啓人に自分を重ね合わせて幸せな気分になった後には切ない想いが待っていることを、陽人は身をもって知っているはずなのに、愚かしい行動を繰り返すばかりだ。
今だって自分にできるのはもらった缶コーヒーを握り締めることだけ。
苦いのはこのコーヒーだけではなく、陽人の恋情も同じだ。
「やっぱりまだ冷えるな、この時間は」
コーヒーをすすりながら幸太郎が呟く。
「桜はもう少し先かな?桜咲いたら見に来ような」
優しい言葉もはナイフと化して陽人の胸をえぐる。
桜が満開の頃、陽人はこの街にはいないのだから。
陽人はさらに強く手の中の缶をギュッと握ってうつむいた。
もうどうすればいいのかわからなかった。
―――ぼくは陽人なんです。
告白してしまえば楽になれるのか。
違う。楽になんてなれない。
この罪悪感は陽人の中で一生消えないだろう。
それに、告白してもしなくても、幸太郎に軽蔑されることだけは確実だ。
「おまえ、やっぱり調子悪いのか?」
気遣われると泣きそうになる。
こんな自分を気にかけてくれる幸太郎に申し訳ない。
いっそのこと消えてしまいたかった。
幸太郎に嫌われていない今ならまだ、微かに残る幸せ気分だけを抽出して、抱きしめて眠ることができるかもしれないから。
「手、貸してみな」
缶コーヒーを握る右手に暖かく大きな手が触れたかと思うと、そのまま幸太郎のジャケットのポケットへと導かれた。
「こうするとおれもあったかい」
そういって笑う幸太郎の手がビクリと震えたことに、陽人は気付かなかった。
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