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その18






今朝、啓人が発熱した。
休みの日でもそれなりの時間になったら起床し、家族で朝食を取ることになっているのに、今日に限って起きてこないから陽人が部屋へ呼びに行くと、ベッドの中でウンウン唸っていた。
驚いて母親を呼び、熱を計ると、体温計のデジタルは39度を表示した。
どうやらここ数日身体がだるかったようなのだが、我慢をしていたらしい。
その理由が今日のデート。
啓人の好きなアーティストのライブチケットを幸太郎がゲットしてくれたらしい。
発売と当時にソールドアウトしたというプレミアもののチケットだ。
いつもはアリーナ級のステージングだから、今回のような小さなキャパでのライブは非常に珍しいらしい。
少し前に啓人がとても嬉しそうに話してくれたのだ。
だからどうしても行きたいらしかった。
もちろんファンである啓人自身も楽しみだっただろうが、それ以上に幸太郎の気持ちが嬉しかっただろうし、苦労してチケットを取ってくれた幸太郎に悪いと思っているのだろう。
病院に行くための準備を手伝ってやっていると、啓介がだるそうな声で訴える。
「今日のライブに変わりに行って欲しい」と。
陽人は断った。
そして早く連絡するように、もし連絡するのが大変なら代わりに連絡してやると伝えた。
だいたいそんなことをしても幸太郎が喜ぶとは思わない。
幸太郎は啓人のために苦心したのだから。
それでも啓人は聞かなかった。
待ち合わせの場所と時間だけを陽人に告げ、母親に連れられて病院へと行ってしまった。
幸太郎の連絡先を知らない陽人に為すすべはなく、陽人は待ち合わせの場所に向かったのだった。








***   ***   ***








まさかこんな事態になるとは思ってもみなかった。
走ってギリギリセーフで会場に飛び込んだものの、開演時間が遅れるとのことだった。
ホールでドリンクを飲みながら、陽人はまだ戸惑ったままだ。
隣りにたつ幸太郎はスタンドに差し込んであるチラシを手に眺めている。
なぜ気付かないのだろう?
様子をうかがうと、視線に気付いたのか、幸太郎と目が合った。
慌てて目を伏せてから、きっと啓人はこんな振る舞いをしないだろうと思う。
「どうした?具合でも悪いのか?」
気遣う幸太郎の口調はとても優しい。
幸太郎が気遣っているのは陽人ではなく啓人だと頭では理解しているのに、どうしても気持ちが高鳴ってしまう。
ダメだと待ったをかける自分と、もう少しこの優しさに接していたいと思う自分。
そして後者の自分の方が勝っていて、陽人は誤解を解けないでいた。
いつも元気で明るい啓人と、おとなしくて口数の少ない陽人では明らかに雰囲気が違うだろうに、幸太郎は全く気付いていない。
それよりも啓人の体調が悪いのではと心配しているのだ。
啓人のことが羨ましかったあの頃。
啓人に自分を重ね、小さな幸せを味わっていたあの頃。
その時の一途な想いがよみがえり、幸太郎の隣りでもう少し夢を見ていたいという欲望を止められなくなっていた。
「全っ然元気だよ!あ、もうすぐ始まる!行こう、コウちゃん」
陽人は決めた。
今日の自分は啓人だ。
生まれてからずっと一緒にいる啓人のことは何でも知っている。
話し方、しぐさ、口癖、思考回路……
ずっと羨ましく思っていた啓人になって、憧れの幸太郎とのデートを楽しむこと。
甘い誘惑に、抱いていた欲望に、陽人は負けた。
次に啓人と幸太郎が会ったとき、いや今日の夜にメールを交わしたとき、全てバレることは決定している。
このままバレないなんてありえない。
理解しているけれども、そんな考えはどこか遠くに追いやった。
後のことなんて何も考えられなかった。
この瞬間を、陽人は選んだのだった。












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