christmas serenade






<side RIN>
その6








凛の勤める店はさほど大きくなく、大きなパン屋から独立したばかりのオーナー夫妻が経営していて、アルバイトでなくきちんとした従業員として雇ってくれたのを、凛は今でも不思議に思っている。
優しいけれどパンにかける情熱は計り知れないオーナーは仕事に対しては厳しく、勤め始めて半年以上が経った今でも凛の主な仕事はレジなどの商品管理で、まだ一度もパンの種にふれたことはない。
5時に出勤すると、オーナーはすでに仕込みに入っていて、凛は焼きあがったパンをトレーに並べたり、調理器具を洗ったり、ほとんどが雑用まがいの仕事だ。
それでも12月に入ってから、オーブンに入れる前の薄いクリーム色の生地に艶出しの卵黄を塗ったり、焼きあがったパンにフルーツを乗せたりと、少しだけ製造過程に関われるようになったことがとても嬉しい。
それに、凛は仕事に満足していた。
最初の数年は雑用は当たり前、それよりも施設出身で身よりもいない凛を雇ってくれたオーナー夫妻には感謝の気持ちでいっぱいだ。

身元保証人には学園長がなってくれたけれど、施設出身というだけでいくつかのベーカリーに断られた経緯を思えば、希望の仕事に就けたことは奇蹟に近いことなのだ。
施設では規則正しい生活をしているし、身につけるものも清潔を保っていたが、支給されるものにも数が限られるから、洗濯のしすぎで見栄えがよくない。凛が面接を受けた時も、シャツにはきちんとアイロンをかけたけれどくたびれた感はぬぐえなかった。ジロリと不躾な視線を投げかれられたことを、凛は一生忘れないだろう。
凛はすべての人に理解してもらうことなど、とうの昔に諦めていた。
施設育ちだから、親に捨てられたからと、偏見の目で見るなら見ればいい。
どうせ一生背負っていかなくてはならない、決して逃れることができない事実なのだ。
だから凛は、そういう目に屈したくなかったし、卑屈になりたくもなかった。
ひとりで生きていくためには、そういう強さが必要だと思っていた。
雇ってくれたオーナーのために、そして何より自分のために、凛は与えられた仕事を頑張った。
特に接客はいちばん大事な仕事だ。
店員の態度ひとつでおいしいパンがさらにおいしくなる。特に朝から不機嫌で愛想のない接客をされれば気分の良いものじゃないだろう。

最初はぎこちなかった『いらっしゃいませ』のひとことも、慣れれば自然にでるようになったし、いろんな客とのふれあいは文句なしに楽しく、凛も心から仕事を楽しんだ。





隆弘に出会ったのは出勤初日のことだった。
オーナー夫人にレジ打ちからの一連の処理を教わり、緊張でドキドキしながら最初に接客したのが隆弘だった。
店に入ってきたときから目をひく男性だった。
おそらく出勤前のサラリーマンであろう、スーツの上にベージュのスプリングコートを羽織って、ビジネスケースを手に持ちながらも、器用にトレイにパンを取ってゆくその男を、凛はポーッと眺めていた。
背が高くてロングコートがとても似合っていた。その下のスーツとネクタイも、ウィンドウに飾られているみたいにお洒落っぽくて、それがまた整った顔立ちにぴったりだった。
歳は20代の後半だろうか。かっこいい人だと漠然と思った。
ただ、均整のとれたルックスのせいか、端正な顔立ちのせいか、、朝早いせいか、もともとなのか、少し不機嫌そうに口をキュッと結んで難しい表情をしているから、冷たく近寄りがたい印象がにじみ出ていた。
パンを選び終わった男が凛の前にトレイを差し出し、小銭入れを取り出している間に、就職が決まってから事前に渡されていたパンの写真とカンニング用に準備しておいたパンの名前と値段表を、記億を辿りながら結び付けてはレジを打つ。
パック詰めのサンドウィッチは簡単に袋に入れることができるが、彼の買ったクリームパンが曲者だった。焼きたてのそれはふわふわで力を入れすぎるとへしゃげてしまう。
どうせ紙袋に入れてしまえば、他の商品と当たって形は崩れてしまうのだろうが、できるだけ売られているままの形で味わってもらいたいから、凛は慎重にトングを扱った。おかげでもたついてしまって、数人の列ができてしまった。
それを認めると余計に焦ってしまって、せっかくの商品を落としそうになる。
きっとイライラしているのだろう、先ほどから感じる痛いほどの視線の持ち主に「おまたせいたしました」と袋を差し出すと、意外にも目の前の男は「ありがとう」とクスリと笑ったのだ。
凛はその笑顔にドキリとした。
凛にとっては初仕事だが、そんなことは店にやってくる客には関係のないことだ。
朝っぱらからのろまな店員に当たってしまって、きっとしかめっ面で無愛想な態度を取られるだろうと思っていたから、そのギャップに驚いた。
そして何よりも、口元を弛めただけの微かな笑みだったけれど、その笑顔はあまりに爽やかでかっこよかった。
緊張ではないドキドキを抑えて、つり銭を渡すと指先が手のひらに触れ、ますます鼓動が早くなる。
ありがとうございましたと頭を下げると、最後にもう一度、今度はフッとさりげなく笑って、店を出て行った。
ポーッと見惚れていた凛を現実世界に引き戻したのは、接客を見守っていたオーナーの大きな声だった。
それからも、その男性は毎朝やってきてはパンを買って行った。
どうやら常連客らしく、どんな職種の仕事をしているのか知らないが、おそらくランチのための買い物なのだろうと推測された。
豊富な種類のサンドウィッチの中でも彼の好みがチキン照り焼きサンドであり、意外に甘いものが好きらしくクリームパンやチョココルネなどのクリーム系を必ず買ってゆく、そんな些細な発見が心をくすぐる。
凛は彼がやってくるのを楽しみにするようになった。今日はどれを買っていくのだろうと心めぐらせては、予想が当たると密かに喜んだ。
凛が出勤している日は欠かさず来店しているから、向こうも凛のことを覚えてくれているはずだ。そう思って、何度か声をかけようとしたのだが、近くの学校が始まると学生たちのピークと彼の来店が重なり、そんな暇はなかった。
接客をしながらも、彼のことが気になって仕方がなくなる。
ヘマしているところを見られたくないから一生懸命商品と値段を覚え、手際よく接客できるように努力した。
彼がやってくる8時前になると、気持ちが落ち着かなくなり、顔を見るとホッとする、そんな日が続いた。
そして一ヶ月が経ったころ、彼が珍しく私服で店に現れたのだ。







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