Aqua Noise







その8






まだ少し薄暗い道を凛の住むアパートへと向かう。
昨夜の接待は途中で抜けることができず、結局のところ最後までつき合わされ、帰宅したのは日付が変わってからだ。
それから数時間。
酒が入っているから眠れるかと思いきや、なかなか寝付けず、そうこうしているうちに夜が明け始めた。
だが隆弘の顔には疲れた表情は浮かんではいない。
むしろ鼻歌でも飛び出しそうな状態だ。
早朝、スキップでもする勢いのサラリーマンなんて気味悪がられるだろうが、こんな朝早くにすれ違う人もなかった。
手には凛が一度食べたいといっていた、地方の小さなパティストリーのチーズケーキ。
凛と一緒に食べようと取り寄せて冷凍庫にしまっておいたものだ。
(買っておいてよかった)
袋を目の高さに掲げるとひとりニンマリと笑う。
嬉しそうな凛を想像しただけで顔がにやけるのはいつものことだ。
朝の冷たい風がぴゅうっと隆弘にぶつかってきても、隆弘はそれを感じることはない。
ただただ凛に会いたかった。
遠くにアパートを確認して、自然と歩が早まる。
凛の住んでいるアパートは決して綺麗だとはいいがたい。
築年数も相当であろう、マンガに出てくるようなアパートだ。
グレーの壁面には無数のひび。
高齢者が多いようで、1階の部屋の前にはたくさんの植木が並べられている。
扉の横にところどころ設置された洗濯機なんていまどき2槽式のものまである。
それでもそれなりの家賃なのは便利な立地条件にあるのだろう。
凛はこのアパートに住んでいることを恥ずかしく思っているようだが、隆弘は結構気に入っている。
さすがに最初は驚いたが、それはこのようなレトロ感あふれるアパートがまだ存在していたことに驚いたのだ。
それに凛の部屋はとても居心地がいい。
最低限の家財道具しか置いていない部屋はすっきりしていて心が落ち着く。
まるで住人を映しているかのように暖かい空間だ。
裏が空地になっているから日当たりも良かった。
アパートの前で凛の部屋を見上げる。
2階の奥が凛の部屋だ。
隆弘は赤く錆びた階段をリズム良く駆け上がったが、カンカンと相当な音を立てたことに驚いて、慌てて歩を緩めた。
ゆっくり階段を上がり、いちばん奥の部屋へと向かう。
(もう起きてるだろうか)
腕時計を確認すると、5時少し前。
ドアの横にある小さな窓から中の様子をうかがってみると、シンと静まり返っている。
(予定が変わってまだ寝てるのか?)
今日のシフトが早番であることは店に確認済みだったが、確かパートの主婦が休んでいるとかどうとか言っていたのを思い出した。
最後に会ったときも、夜中にメールが入っていたと言っていた。
もし眠っているのなら起こすのは可哀相だ。
凛は真面目で働き者だから、手を抜くことを知らない。毎日が全力投球だ。
休めるときにはゆっくり休んでほしい。
(残念だけど仕方ない・・・か)
せめて手土産だけでも置いておこうかと思ったが、もし隆弘が訪ねてきたことを知ったら、凛はおそらく恐縮するに違いない。
近くのカフェで時間をつぶして、出勤前にもう一度訪ねてみよう。
隆弘が踵を返そうとしたときだった。
遠慮がちに階段を上がってくる足音に、階段の方向に顔を向けた。
「凛!」
諦めていたところに現れた恋人に、思わず大きな声で呼んでしまう。
「隆弘さん・・・?」
驚いた表情で隆弘を見上げた凛は少し疲れているように見えた。
それでもすぐに笑顔を向けてくれる。
「どうしたの?こんなに朝早くに」
ポケットから鍵を取り出し、ドアを開錠すると隆弘を室内に招きいれてくれた。
相変わらず物は少ないけれども、清潔感に溢れている。
すでに布団も片付けられていて、凛は小さな折りたたみテーブルを中央に置くと、隆弘のために座布団を出してくれた。
凛の年齢には似合わない渋い藍染の座布団は、ひとり暮らしを始めた時に園の先生方からもらったものらしい。
しっかりしたつくりのそれは、とても座り心地がよく隆弘は気に入っていた。
小さなキッチンでお湯を沸かし始めた凛に声をかける。
「おまえこそ早朝からどこに行っていたんだ?」
「うん、ちょっとコンビニ・・・」
(コンビニ・・・?)
節約家の凛はコンビニをほとんど使わない。
不思議に思ったが、トレーにマグカップを乗せて戻ってきた凛の顔を見ると、そんな考えもどこかに行ってしまった。
贅沢を好まない凛だけれど、コーヒーの豆と紅茶の茶葉はそれなりのものを使用している。
ベーカリーショップに勤めているが、店の意向で最近ではスイーツの勉強もしていることが影響しているのだろう。
「ありがとう」
カップを受け取ると、芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
「凛の淹れてくれるコーヒーは美味いな」
「そんなことないよ。豆だってそんなにいいもんじゃないし」
「じゃあ愛情がたっぷり入っているからかな」
こんな些細な戯言にも頬を赤く染める凛が可愛くて溜まらなくて、隆弘は凛の腕を掴むと胸に引き寄せた。












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