Aqua Noise







その7






「タカさ〜ん、今日は何が食べたい?」
慌しい朝の食卓で、悠長な声を聞かせるのは甥の希だ。
「今日は接待で遅くなる」
「接待って、この不況でもちゃんとあるんだねぇ」
玉子焼きを頬張りながら希が暢気に応えるのに、隆弘は小さくため息をついた。
朝早く隆弘の部屋にやってきて以来、希はここに居ついてしまった。
制服や教科書、身の回りのものを一式持参していたことから、おそらく家出であろうことは予想がついた。
凛との久々の逢瀬を邪魔されてイライラしながら説明を乞う隆弘をのらりくらりと交わす希に呆れつつ、その日は希を置いて出社した。
仕事の合間に実家に電話してみると、どうやら隆弘の兄である父親と衝突したらしかった。
兄も希も頑固でどちらも引くことを知らないから、そう珍しいことではない。
義姉によると仲が悪いわけではないらしい。
そして父親に負けて希が逃げ込むのは決まって隆弘のところだった。
だから隆弘にとっては希の突然の訪問はそう驚くことではないはずだった。
ただ、ここのところは落ち着いているようだったし、隆弘の隣には凛がいた。
あの日以来、凛とゆっくり過ごせてはいない。話すことさえままならない状態だった。
「おまえ、そろそろ帰ったらどうだ?」
何度この言葉を言ったかしれない。
「義姉さんだって心配して、毎日おれのケータイに連絡してくるんだぞ?」
「つか、父さんからは何の連絡もないんだろ?」
ガチャンと音を立てて箸を置くと、食器を重ねて立ち上がる。
「おれからはぜ〜ったいに折れないから!」
希は食べ終えた食器をキッチンに運ぶと「いってきます」とカバンを持って出て行った。
隆弘はコーヒーが半分残ったままのマグカップをテーブルに置くと、大きなため息をつく。
聞いたケンカの原因はさもないことだった。
意地を張り合うのは勝手だが、人を巻き込むのは止めて欲しい。
さすがに希に当たることはないが、かなりストレスが溜まっているのは明らかだ。
(凛が足りない・・・・・・)
やっと決算が落ち着いたと思ったら、事務職の女性が突然退職した。しかもふたり一度に。
急遽穴埋めとしてやってきた派遣社員がこれまた使えない。
外回りの合間に事務仕事もこなし、営業先から直帰すらできない状態だ。
どうやら凛のほうも忙しいらしく、出勤前に店に寄ってみても、奥の厨房にいるのか姿すら拝めない。
メールを送れば返信はあるものの、そっけない短い文章ばかりだった。
声が聞きたいからと電話をしてみても、いつだって留守番電話に切り替わる。
声が聞きたい。抱きしめたい。
会いたいけれど会う時間が作れない。
今までだって毎日会っていたわけではない。何日も会えないことなんてざらにあるし、お互い生活サイクルが違うから仕方がないと割り切っている部分もある。
それでもこんな気持ちになったことはなかった。
凛との距離が遠い気がするのだ。
(変な別れ方をしたからだろうか)
ほんの一瞬垣間見た凛の曇った表情を思い出す。
会いたいと思うのなら無理にでもここに呼べばいい。
希に遠慮することはない。
だが、そう思うたびになぜか凛のあの表情が思い出され、凛を誘うことが出来なかった。
遅い時間にどこかに呼び出すのも気が引ける。
(おれってこんなヤツだったっけな)
以前は相手に遠慮することはなかった気がする。
相手を思いやる気持ちがなかったと言えば酷いだろうが、実際そうだった。
それ以上に相手に逢いたいと想いが募ることがなかったと言ったほうがいいかもしれない。
(それが今じゃこれだからな)
凛のことが愛しくてたまらないし、好きすぎて不安になることもある。
今のように。
(よし、凛の部屋を訪ねてみるか)
気を遣うばかりでは前に進めない。
たまには感情のままに行動してみるのもいいではないか。
顔を見てほんの少し抱きしめるだけできっと満たされるに違いない。
思い立ったら吉日というが、今晩は営業先の接待の予定がある。
隆弘の会社では頻繁に行われるものではないが、今回の相手は結構な大手企業で、もし取引先で組み込めればかなり大きな顧客となるから、上もかなり乗り気だ。
1年ほど前から担当として何度も足を運んだ隆弘にとっても、やっとここまできたというある種の達成感もある。
酒の席で大きな問題がなければ、ほぼ契約を取ることができるだろう。
今日の接待は最後の確認のようなものだった。
この勢いで、凛に会いに行こう。
凛は規則正しい生活を送っていて朝5時には起床している。
明日は何があっても早起きして凛のところに行こう。
決めたら心が軽くなった。
隆弘はいそいそと支度すると、いつもより軽い足取りで会社へと向かった。











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