Aqua Noise







その6






(仕方ないよね・・・)
凛は人通りもまばらな道をトボトボ歩いていた。
(楽しみにしていたんだけどな)
かなりがっかりしたが隆弘が悪いわけではない。
本当に仕方のないことなんだと自分に言い聞かせる。
すばやく身支度を整え、部屋を後にした隆弘の背中を見送った後、凛もベッド下に散らばっていた服をかき集め手早く着ると、シーツを剥がして洗濯機に放り込み、ベッドメイクを整えた。
隆弘が希を外に連れ出したのは、こういった時間を凛に与えるためだったのだろうとすぐに察したから、身体の奥に残る甘い痛みをこらえて後始末をした。
寝室だけでなく部屋中の窓を開けて空気を入れ替える。
少し冷たい空気があっという間に昨夜の甘い空気を消し去ってゆくのを、凛は淋しく感じた。
ダイニングテーブルの上には隆弘の好きなクロワッサン。
一緒に持ち込んだテーブルロールは凛が焼いたものだ。
冷蔵庫にはベーコンやら卵やら、そして凛と食事をしない日はほとんど外食だという隆弘のためにサラダを作ろうと買い込んだ野菜がたくさん詰め込まれている。
隆弘と一緒に過ごした翌朝は、凛が朝食をつくることにしているが、そのほとんどが和食だった。
お味噌汁に卵焼き、焼き魚に炊き立てご飯。
だけど昨日隆弘は久しぶりにパンが食べたいと言い出した。
ここのところ隆弘はかなり忙しいらしく、凛の勤めるベーカリーにも顔を出さなかった。
聞いてみると、営業の合間に適当に済ませたり、残業の時にはコンビニ弁当。朝はほとんど食べていないとのことだった。
凛は隆弘にたくさんのものをもらっている。
だけど凛が隆弘にあげられるものなんて何もない。
だからせめて一緒にいるときにはおいしいものを作ってあげたいし、隆弘に求められたら絶対に応えたい。
それくらいしか自分にできることはないと凛は思っていた。
冷蔵庫から野菜を取り出そうとして、手が止まる。
こんな朝早くに凛がここで朝食の準備をしていることを、希はどう思うだろうか。
希は隆弘と凛が恋人同士なんじゃないかと怪しんでいる。
初めて会ったあの日、凛にかなりキツイ口調で追求されたけれども、凛は決して肯定しなかった。
けれども希は自分の考えにほぼ間違いはないと思っているようだ。
あれ以来希にはあっていないし、隆弘から希について聞くこともない。
隆弘は凛のことを友達だと説明しているようだが、歳も離れているし生活スタイルも全く違うから不自然に思われても仕方がない。
それに希は明らかに凛のことを嫌っている。
嫌われるようなことをしたとは思えないが、態度や口調の端々に含まれる刺々しさは、思い出すと気が滅入る。
生い立ちから今までいろんな人に心無い言葉を浴びせられたが、あの時ほど胸が痛んだことはなかった。
おそらく希が隆弘の身内の人間だからだ。
隆弘との恋愛が世間に認められるものでないことは凛も理解している。
ふたりっきりでいる時にはそんなことを忘れてしまいそうなほど幸せな気分で満たされるし、知らない誰かにどう思われようと気にしないことにしている。
そうでないと隆弘と楽しく付き合っていけないと思っているから。
しかし、初めて出会った隆弘の身内に、凛は戸惑わずにはいられなかった。
あの日からずっと心の奥底で燻っている言い知れぬ感情が凛に焦燥感を駆り立てた。
そして、凛は隆弘の部屋を飛び出したのだ。
(隆弘さん、もう部屋に帰ったかなぁ)
30分ほどで戻るからと言っていた。
いなくなった凛に気付き隆弘はどう思うだろうか。
(でも隆弘さん、『ごめん』って言ってたから)
後始末をしながら、おそらく時間の猶予をくれたんだと思った。
だけど冷静になって考えると、凛に帰り支度をする時間をくれたんじゃないかと思えてきた。
だからきちんと時間を告げて出て行ったんじゃないかと。
あの『ごめん』はおそらくそういうことなのだ。
もし凛があの部屋にいてもいいのなら、隆弘なら『メシの支度して待ってろ』ぐらいいいそうだ。
今日は久しぶりの休日だ。
ここ数日、パートで働いている主婦が家庭の事情で時間の短縮を申し入れ、その分を凛が負担することになった。
ちょうど隆弘と忙しくて会えなかったし、これといった趣味もない凛は、オーナー夫妻の心配をよそに休日返上で働いた。
正社員として雇ってくれている夫妻への恩返しの意味も含めて。
働くことは好きだし、疲れもそれほど感じなかった。
今日の休みも、疲れを癒すことよりも、隆弘との時間を少しでも増やせることのほうが嬉しかったのだ。
希の訪問は凛の楽しみを奪ってしまったが、誰も悪くない。
ただタイミングが悪かっただけだ。
自分の気配をきちんと消してきたかどうか、凛は反芻する。
隆弘の部屋に私物はおかないようにしているし、昨夜使った食器類も全部棚に戻していた。
隆弘が希に『凛が泊まっている』と説明したとは思いもしない凛は、希に気付かれないようにと心から願っていた。
アパートが見えてきたころ、ケータイが鳴る。
この番号を知っているのは数人しかいない。
確かめると予想通り隆弘からだった。
どこにいるのだと尋ねる隆弘に、もうすぐアパートだと説明する。
『どうして勝手に帰ったりしたんだ?』
少し不機嫌な物言いの隆弘に凛はケータイをギュッと握る。
「ごめんなさい」
『怒っているわけじゃない。どうして帰ったんだと訳を聞いているだけだ』
何も言えずに黙り込んだ凛に隆弘がため息をつく。
『凛と朝メシ食うの、楽しみにしていたんだけどな』
その言葉に凛は息を飲んだ。
(隆弘さんも楽しみにしてくれてたんだ・・・)
凛は隆弘に黙って帰宅してしまったことを後悔し始めていた。
『待ってろ』とは言わなかったけれども『帰れ』とも隆弘には言われていない。
凛が勝手にいないほうがいいだろうと思っただけだ。
「うん、おれもすごく楽しみにしてた。あのね―――」
ロールパンはおれが焼いたんだ、といおうと思ったとき、背後で希の声がした。
『タカさ〜ん、できたよ、メシ。ほっけの一夜干し、タカさんの大好物だよね。冷めないうちに食おうよぉ〜』
希の楽しげな声が凛の言葉を遮る。
『・・・凛?』
「ううん、勝手に帰ってごめんなさい。希くん訳アリそうだったし、おれがいないほうが話もしやすいだろうと思って」
「おまえがあいつのこと気にすることはないんだ。割り込んできたのは向こうなんだから」
なんだかこれ以上隆弘と話していたくなかった。
そんな風に思ったのは初めてのことで、凛はまだ続けようとする隆弘を遮った。
「それにね、パートさんが急に休むことになったみたいで、オーナーから手伝ってほしいってメールが入ってたんです。昨日の夜気付かなくて。だから着替えてこれから出勤します。隆弘さんも遅刻しないようにしてくださいね。昨日は時間作ってくれてありがとうございました」
それだけいうと凛は通話を切った。
「いい天気になりそう」
空を見上げてひとりごちる。
「絶好の洗濯日和だ」
これはおそらく嫉妬だ。
どんなに隆弘が好きでも、凛には絶対に築くことのできない、血縁という関係を持つ少年への憧憬と妬みがないまぜになる。
凛には隆弘以上に大事なものはないけれど、隆弘には凛以外にも大切なものがたくさんある。
どんなに離れていても、連絡を取り合わなくても、どこかで繋がっている家族という存在。
隆弘だけではない。誰にだって当たり前のことだ。
天涯孤独の凛にはわからないだけ。
そんな自分がとても嫌だ。
隆弘の大切な甥の少年に嫉妬を覚えるこの気持ちを、凛は許せなかった。
そしてアパートへと足を速める。
凛が隆弘に初めて付いた嘘だった。










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