Aqua Noise







その4






「はぁ〜うまかった」
久しぶりの凛の手料理は隆弘を大満足させた。
ここ数週間、凛とゆっくり過ごす時間が全くなかった。
決算期が近づき、営業職である隆弘には直接関係がないものの、報告書や売上実績書の作成整理など事務仕事が増える。
おまけに最後の追い込みとばかりに部長から檄が飛び、日中社内にいるとギロリと睨まれる。
必然的にデスクワークは帰社してからとなり、毎日残業続きだったのだ。
加えて実家の母親が倒れたという連絡が入った。
社会人になって一人暮らしを始めてから、隣町という近さではあれど年に数回しか実家には顔を出さない。
実家には兄夫婦が同居しているし、昔からべったり仲のよい家族でもなかった。
逆に一人暮らしの気楽さを知ってしまえば、家族のことなどあまり気にならなかった。
しかしさすがに母親が倒れたとあっては気にならないわけはなく、珍しく早く退社できたときには病院に顔をだすことにした。
過労が原因だということだったが、念のためじっくり検査をするらしく、少しばかり入院することになった。
兄と歳が離れているため、両親は同年代の親よりも少し高齢だ。
高校生の頃からなぜか突然父親とそりが合わなくなった隆弘を、母親はいつも庇い助けてくれた。
元気で笑顔の耐えない人だから、ベッドで眠っているのを見たとき、隆弘はショックを受けた。
思っていた以上にしわが増え、小さいように思え、寂しさを覚えた。
自分が歳を重ねる分だけ、親も歳を取る。
それは自然の摂理だけれども。
先のことを考えると、どうしようもない焦燥感に襲われた。
そんなとき浮かぶのは決まって凛の顔だ。
夜の9時10時なんて社会人にとっては宵の口だけれども、朝の早い凛にとっては就寝間近の時間だ。
それでも隆弘が会いたいなんて言い出せば、きっと凛は拒まない。
どんなに疲れていようとも隆弘の求めに応じるだろうことが予想される。
隆弘は出勤前に凛の勤めるベーカリーに寄って顔を見ることで自分を満足させていた。
凛に会いたい。触れたい。
仕事が忙しくなればなるほど凛を求めてしまう。
笑顔を見たい。癒されたい。
追い立てられギスギスした心も、疲れ切った身体も、抱きしめて溶かしてほしい。
凛はれっきとした男性であり、綺麗な顔立ちをしていて中性的な雰囲気を持ってはいるが、女性っぽいとは思わない。
出会った時から、名前のとおり凛とした少年だと思っていたが、最近はそれに少しばかり大人っぽさが加わって、ますます魅力的になったと思う。
身体つきも以前よりしっかりしてきたのは、隆弘と食事を共にするようになったからだろう。
施設で育った凛は、高校を卒業して現在のベーカリーで働き始めた。
正規での採用だがさほど給料は多くないようで、とても質素な生活を送っていた。
高卒での就職率は以前よりは低くなっているだろうが珍しいことではない。
しかし、天涯孤独の凛にとっては、自分自身だけが頼りだ。
少ない収入で慎ましやかに暮らし、いざという時のために、わずかながらも貯金しているようだった。
隆弘は凛から生い立ちについて一通り聞かされている。
それは、恋愛関係になる前のことで、隆弘は最初凛への気持ちは歳の離れた友人というスタンスで見ていた。
同性に恋心を抱くなんて、隆弘には考えられないことだったからだ。
しかし、自覚してしまえば、案外簡単に受け入れることができた。
一生懸命生きている姿は隆弘の胸を打ち、今では愛しくてたまらない存在だ。
隆弘は手帳に大事に挟んでいるしおりを思い出す。
小学生の頃、友達に誘われて通っていた日曜学校でもらったものだ。
そこには幼子を抱く聖母のイラストが描かれていて、隆弘はそれを聖書に挟んで大事にしていた。
当時、しおりをくれたボランティアの女子大生に、隆弘はほのかな恋心を抱いていた。
今思えば、それが隆弘の初恋の相手になる。
彼女に会うために早起きして教会に通っていたと言っても過言ではない。
みんなで礼拝に参加した後、クラスに分かれて工作をしたり、本を読んだり、いろいろな話をしたりした。
彼女は隆弘のクラスの担当で、物静かだけれどもいつもニコニコ笑顔を浮かべながら子どもたちの相手をしてくれた。
優しい眼差しは、元気で活発な母親と共通しているようでしていなくて、ドキドキしたものだ。
もらった栞に描かれている聖母に似ているとポロリともらしたとき、彼女は照れたような笑みを浮かべて「ありがとう」と言ってくれた。
その聖母が凛に似ているのだ。
性別は違えど、優しい顔立ちなのに芯のしっかりした雰囲気を纏い、心を癒してくれる。
それに気付いたのはごく最近のことで、自分が凛に惹かれたのがわかった気がした。
初恋の相手と凛を重ねているわけではない。
しかし、隆弘の求めているものをふたりが持っていることは確かなことだった。
「凛」
後片付けに立とうとする凛を引き止めて抱き寄せる。
素直に隆弘の腕の中に納まった凛は隆弘の首筋で小さく鼻を鳴らす。
まるで居場所を探すようなそのしぐさがたまらなく愛おしい。
「どうか・・・した?」
ダイニングチェアに座ったままの隆弘に抱き寄せられ、少し窮屈そうに身体を捻って隆弘を見上げる凛の眼差しは柔らかいけれども何かを探るような鋭さも合わせ持っているようだ。
「どうして?」
「だって、後片付けもまだなのに」
「凛に触れたかったんだよ」
頬にかかる髪を指先で梳き上げ、てのひらで頬を包むと、親指でくちびるをなぞる。
口紅やグロスの色のささないくちびるはまさしく同性のものだが、今までの誰よりも蠱惑的だ。
見上げる瞳にほんのり滲んだ艶っぽさに誘われて、首筋に顔を埋めると、凛のにおいに興奮した。
首筋から髪の生え際に舌を滑らせ、耳たぶを食む。
「隆弘さん、くすぐったいよ」
そういいながらも嫌がっている様子はなく、さらに強く隆弘に抱きつく様は小さなコドモのようだ。
女性に甘えられることはあんなに鬱陶しく思っていたのに、今の隆弘はデレデレ状態だ。
人間変われば変わるものだと隆弘は自分の変わりように結構驚いていた。
甘いささやきも、触れる指先の優しいタッチも、今では偽物ではない。
「そのうち気持ちよくなるから」
耳元でささやくと、首筋を真っ赤に染めて「隆弘さんのバカ」と耳と引っ張られた。
痛くもないのにイタイイタイと身体を離し、見つめあってクスクスと笑いあう。
そのまま凛を抱き上げて寝室へと向かったのだった。









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