Aqua Noise







その3






「悪かったな。本当に悪かった。ゴメン」
何度も謝られれば逆に申し訳なくなってしまう。
翌日、いつも通り出勤して、通学ラッシュが過ぎて一息ついた頃、店に隆弘が現れた。
5分だけ休憩をもらって店の裏路地で向かい合った凛に、隆弘はひたすら謝り続ける。
希を送っていた後すぐに帰宅しようとしたのだが、希の父親―隆弘の兄―に引き止められたらしい。
隆弘にとっては実家であり、両親もそこに住んでいるのだ。
ほとんど実家に帰らない隆弘にみんなが喜び、帰るに帰れなくなった。
しかも最近体調がすぐれないという母親が特に喜ぶものだから余計に言い出せない。
凛に連絡をとろうと思ったがタイミング悪くケータイの充電が切れてしまった。
そのうちさらに酒も入り、お開きになったころはすでに日付がかわっていた。
申し訳なさそうにことの顛末を話す隆弘も少し疲れているようだ。
「知らないヤツと会って凛も疲れてるだろうし、寝てしまってたら起こすのもかわいそうだと思ってな」
隆弘は夜遅くなると電話をしてこない。
朝早い凛を気遣ってのことなのだろう。
「いいよそんなに謝らなくっても。おれ全然気にしてないし」
「でも目が赤いのは、おれを待ってたからだろ?」
凛は慌てて否定する。
「違うよ。これは遅くまで本を読んでたから―――」
本当は隆弘を待っていてなかなか寝付けなかった。
日付が変わるころには諦めていたけれども、それでもやっぱり眠れなくて、本を読んでいたのだ。
嘘ではないけれども気に病んだのは事実だ。
でもそんなことを隆弘に正直に話してしまおうなんて少しも考えなかったし、隆弘を責めようとも全く思わない。
むしろ気を遣われると恐縮してしまう。
「凛」
隆弘の指が優しく凛の頬に触れ、そのまま顔が近づいてきた。
キスの予感に凛は目を閉じる。
触れたのはほんの一瞬。
だけど胸がいっぱいになる。
ゆっくり目を開けると、隆弘が微笑んでいた。
隆弘は無駄に笑わない人だ。
どちらかというと愛想のないクールな印象の大人の男性だ。
いつもビシッとスーツを着こなしていて、身のこなしも洗練されている。
凛の隆弘に対する第一印象も『近寄りがたい人』だった。
今では本当は優しくて温かい人だと知っている。
施設育ちで教養もお金もないちっぽけな人間でも一人前として接してくれる懐の大きい人。
いろんな人から散々押し付けられてきた同情ではなく、同性という垣根を越えて愛情を実感させてくれるとても大切な人。
「隆弘さん」
凛は隆弘の手をギュッと握った。
肌に触れるぬくもりが嬉しい。
「本当に謝らないで。おれの方から隆弘さんに電話で確認してもよかったのにそれをしなかったんだから」
隆弘はすごい。
こうして会って、キスをもらって、それだけでもやもやが吹き飛んでしまう。
「お母さん、大丈夫なの?」
実家に帰ることもほとんどなく、家族の話もほとんどしない隆弘から、母親の体調がよくないと聞いたのは数週間前のことだ。
いつになく弱気な隆弘に、かなり悪いのかと心配したのだが、それ以上詳しい話は聞けなかった。
もし大事ということなら、隆弘も生活パターンも変わり、凛と会う時間も減るだろうと思っていたから、なんら変わりない隆弘に少し安心していた。
同時に、隆弘の弱い部分をみせてくれたことが、不謹慎ながらも嬉しかったのだ。
「少し痩せたかなって思ったけど、思った以上に元気で驚いた」
「そか、よかった・・・」
会ったこともない隆弘の母親のことを心から心配していた凛もその言葉に笑みがこぼれる。
両親のいない凛にとって、隆弘の両親を全くの他人だと思えなかった。
「今日はおれも定時で終わりそうだから、一緒にメシ食おう」
「じゃあ、おれ、駅まで迎えに行ってもいい?」
「外で食うか?それとも」
「隆弘さんの部屋で。一緒に買い物して帰ろう」
どんどん心が浮上していく。
会社へ向かう隆弘に手を振って、凛は店に戻った。








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