Aqua Noise







その27






「やっぱきっついなぁ」
近くの砂浜で、凛は夜空を見上げていた。
心地よい風が身体を撫でてゆく。
明日の仕込をする気にもなれず、早々と臨時休業と決め込んだ。
(今日だけ。今日だけだ)
サンダルを脱ぎ捨て、足先で砂を掻く。
寝そべると満天の星空。遮るものは何もない。
ゆっくり目を閉じた。
すっかり諦めたはずだった。
婚約者と仲睦まじく話す隆弘を見て、10年分のモヤモヤはすっきりしたはずだった。
好きになったのは隆弘だけ。
あれほど強い思いを抱ける相手に出会うことはできなかった。
けれども、その気持ちは自分の勝手な思いで、隆弘とあの綺麗な女性の結婚を心から祝福しているつもりだった。
それなのに。
現実を目の当たりにすると、やっぱり胸が痛む。
どうしてこんなに好きなんだろう。
隆弘は完ぺきな男じゃない。
あのころはわからなかったけれど、歳を重ねた今では理解できることもある。
誰にでも優しく接することができるのは、そこには優越感が存在するからだ。
本人は自分のそういう部分に全く気付いていないようで、隆弘の何気ない言葉に凛とて傷ついたこともある。
だけど嫌いにはなれなかった。
そこに同情が混じっていたとしても、隆弘は凛を大切にしてくれた。
凛のすべてを受け入れてくれた。
(ううん・・・違う)
同情でもよかったのだ。
好きになったのは凛のほうで、凛はそんな隆弘の性格に付け込んで、気をひいた。
告白をしたクリスマスイブの夜、確かに凛は同情でもいいと隆弘に告げた。
隆弘は同情ではなく、凛のことが好きだと言ってくれた。
(愛されたかったんだ、おれは)
施設の園長やスタッフからの愛情は、施設内のすべての子供に向けられるものだった。
とても良くしてくれるパン屋のオーナー夫妻だって、凛のことを一番に思ってくれているわけじゃない。
人にはそれぞれ家族があり、他人は他人なのだ。
強がっていても、ひとりで生きていくと誓っても、無意識に愛されることを求めていたのだろう。
誰かの、たったひとり、愛する人になりたいと。
凛が初めて望んだ愛する人が隆弘であり、奇跡的に手に入れることができたのだ。
だが、凛は欲をかいた。
同情ではなく、対等に扱ってほしくて、隆弘の愛を勝手に重く感じて、卑屈になった。
自分にはない『家族』というものを隆弘の背後に感じ、戸惑い、どうしていいかわからなくなった。
隆弘の一番でありたいと願う強い気持ちが、凛をますます混乱させた。





どうして隆弘のそばで頑張ることができなかったのだろう。
希を傷つけた凛を、隆弘は追いかけてきてくれた。
そして許そうとしてくれた。
だけど、当時の凛はいっぱいいっぱいだった。
隆弘からの愛情を当然のように受ける希への対抗心。
隆弘や希とはあまりにも違う生い立ちや生活レベルに対する羞恥心。
同情と愛情が交錯しているのではないかという隆弘への猜疑心。
確固たるものがなにひとつない関係への恐怖心。
それらを隠すことに凛は酷く疲れていた。
すべてを放り出すことで楽になりたかった。
隆弘のためなんだと、逃げることを正義にして。





(もしも・・・・・・)
自分にとって都合の良い空想が頭をよぎり、凛は言い聞かせるように大きく深呼吸した。
世の中に『もしも』なんてない。
過ぎた時間を元に戻すのは不可能だ。
タイムマシーンレベルのだ。
それに隆弘は結婚して、とても素敵な伴侶を得たのだ。
何をどう後悔しても、もうどうしようもない。
凛の得意な『しようがない』ことなのだ。
冷たいものが目尻から頬を伝う。
「今日だけ。今日だけだ」
声に出してみる。
悲しみはすべてこの光る海に流してしまおう。
そして隆弘の幸せを喜び、祈るのだ。
泣いてばかりはいられない。
隆弘は凛にたくさんのものを与えてくれた。
ギリギリだった生活に潤いを与え、心に余裕を持たせてくれた。
人肌の温もりを教えてくれた。
心から笑うこと、喜びや悲しみを分け合うこと、そうすれば心が温かくなることを教えてくれた。
そしてなによりも、愛し愛されることの大切さを、教えてくれた。
それらを無駄にしないためにも、前を向いて生きていかなければならない。
明日はゆっくり休んで、明後日からは真剣に取り組もう。
(まずはメニューを改良して、フレーバーを増やして、ワゴン車のペイントも変えてみよう)
いつか隆弘に再会したときに、『頑張ってるな』と言ってもらえるように。
隆弘が笑ってくれるように。
「明日は明日の風が吹く・・・だよな」

















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