Aqua Noise







その25






希から結婚の話を聞かされた夜以後、凛は隆弘との思い出で慰めるのをやめた。
やめたというか、出来なくなってしまった。
罪悪感と同時に、隆弘は普通に女性を抱くのだろうなと考えると、性欲を満たすことを目的に自分の身体を触ることができなくなってしまったのだ。
凛と付き合う前、隆弘はいろんな女性と交際していたように思う。
経験はかなり豊富のようだったが、凛はそれも当たり前のことだと言い聞かせていた。
そんな隆弘が自分のような男のことを好きになってくれたことが嬉しかった。
凛に『愛し愛される』ことを教えてくれたのは隆弘だ。
だが、結局、凛は上手に『愛される』ことができなかった。
隆弘の結婚相手の女性はどんなひとなんだろう。
見えない相手を想像しかけると、ズキンと胸が痛む。
(バカだな、おれ)
恋愛経験豊富な隆弘が選んだ女性なのだから、素敵なひとに違いない。
やはり単なる交際と結婚はまったく次元の違うものなのだ。
(ちょうどよかった)
隆弘との思い出をこれ以上性欲処理に使うのはどうかと考えていたところだった。
(どうせほとんど枯れかけてたし)
希はあれ以来その話題を持ち出してこない。
ただ、凛は考えていた。
隆弘の結婚が決まったらこの街を出ようと。
(だって、もし偶然出会ってしまったら)
十年間一度も会うことがなかったのだから心配することではないかもしれないが、もし隆弘と再会したら・・・
隆弘と隆弘に寄り添う女性やふたりの血を引く子供を見てしまったら・・・
まだ見ぬその姿を想像して、凛はそれらを追い払うように頭をブンブン振った。
(きっとおれ、耐えられない)
無期限の別れを切り出したのは凛で、隆弘は了承した。
だから隆弘がどういう人生を歩もうと自由だし、凛はずっと隆弘の幸せを願っている。
勝手な考えだとわかっているけれど、やはり辛い。
はっきりと別れを明言したわけではないが、凛は隆弘のもとに戻るつもりはない。
あの頃は『隆弘さんに追いつけたら、その時は』なんて思っていたけれど、離れて冷静に考えてみれば、隆弘が同性愛を貫く必要は全くないのだ。
そもそも隆弘は凛に会うまでは移り気な性質だったようだから、問題ないだろう。
どうやら希は隆弘に凛のことをいろいろ話しているようだから、凛がどこで何をしているのか、隆弘は知っているはずだ。
しかし、、隆弘と一度も再会していないのがその証拠に思えてならない。
(会わないっていったのは、おれなのに・・・やっぱりおれってバカだ)
毛色の変わったもの珍しい小動物を見つけて、少し飼ってみようと思ったら、あらら思ったより深くハマってしまったというとこだろう。
そういうことにしておこう。
そういうことにしておきたいから、現実を認めたくないのだ。
希は相変わらず凛にアプローチをかけてくる。
心身ともに成長した希は俗に言うイケメンだ。
歯科医というステイタスも申し分ない。
恋愛対象は男女問わずというバイだが、かっこよさと可愛さをあわせもった結構な男だ。
だが、凛にとって希は希。恋愛対象にはなりえない。
希の不確かではあるが現実味のある情報に心を乱されつつ、凛は覚悟を決められずにいた。





*** *** *** *** ***





カウンター越しに希とたわいもない話をしていたある日、凛は来訪者を見て凍りついた。
「あ、タカさ〜ん」
小さく手を振る希に応える男は、10年経っても相変わらずいい男だった。
沙絵子は生憎外に買い物に出ていて、時間も中途半端なため客はひとりもいなかった。
「お好きな席にどうぞ」
やっと搾り出した声に反応して隆弘が入り口から移動すると、その影からひとりの女性が現れた。
「ほのかさんも一緒だったんだ」
希の呼びかけに、清楚で上品そうな女性は小さく手を振り、隆弘の後に続いてゆく。
少し奥まった窓際の席につくと、早速メニューを広げて、仲良さそうに話し始めた。
凛を見ても全く驚かないということは、隆弘は凛がここで働いていることを知っていて来店したのだろう。
目の前の男が教えたことは一目瞭然だ。
「あれが、タカさんのお相手、ほのかさん。美人さんだろ」
楽しげに囁く希を尻目に、凛はグラスにミネラルウォーターを注いだ。
カラカラと氷のぶつかる音が小気味良く響く。
トレーに乗せると、一歩一歩テーブルに近づく。
「いらっしゃいませ」
(冷静冷静に。大丈夫大丈夫)
凛はもしものときのためにと10年間幾度となくセルフシュミレーションしていた台詞を淀みなく口にした。
グラスを置く手が少し震えていることに気付かれないように注意を払って。
「おひさしぶりです。お元気でしたか」
いつものように、客にふるまう愛想笑いを浮かべれば、ほんの少しだけ平常心を取り戻すことができた。
「あら、お知り合いなの?」
ほのかという女性の問いかけに、隆弘が「昔のね」と答える。
その答えに、凛の心がチクリと痛む。
「きみも元気そうで嬉しい」
微笑むその笑顔は今の生活がとても充実している、男のものだった。
(そう・・・昔の知り合い・・・なんだよな・・・・・・)
隆弘にとっては10年なんて一昔前のことなのだろう。
(確かにおれだってもうすぐ三十路だしな)
隆弘の一言に落胆している自分がバカみたいで、そんな気持ちを絶対に悟られないようにと、10年経ってさすがに老けた気がすると冗談めかして言うと、隆弘は、きみは変わらないねと、笑って答える。
『凛』と名前を呼ばずに『きみ』と呼ぶ他人行儀なやりとりに10年という年月をひしと感じた。
ほのかはそんなやり取りをにこにこと聞いている、とても感じの良さそうな女性だった。
オーダーと取ると、凛はそそくさとテーブルを離れカウンターの奥で盛り付けを始めた。
希は近くの椅子を引っ張り、隆弘たちのテーブルで何やら話している。
動揺のあまり盛り付ける手は震え、ケーキを倒してしまった瞬間を、希に見られなくてよかったと思う。
ポットサービスのダージリンと一緒にテーブルに運ぶと、ほのかが嬉しそうな声を上げた。
女性の年齢はわからないが、おそらくそう若くもない。
落ち着いた大人の女性だが、スイーツに目を輝かせるその様はとても可愛らしい。
凛はにこやかに質問に答え、ふたりがお皿に手を伸ばしたのを見届けると、一礼してテーブルから離れた。
感想を言い合いながら、とても楽しそうにフォークを進めているのが視界に入る。
「どうよ?」
カウンター越しに希が凛の様子をうかがう。
「どうよって何が?」
「タカさんとほのかさんに決まってんだろ?」
意地悪そうに尋ねる希に昔の面影を見つつ、凛は「お似合いなんじゃないの?」と答える。
しばらくすると数組の客が来店し、バタバタと忙しくなり、隆弘たちにかまっていられなくなった。
案外気にしないでいられる自分に感心しつつ、凛は黙々と仕事をこなした。
すべてのオーダーが出て一息ついたとき、隆弘たちが席をたった。
彼女のピンクベージュのコートを小脇に抱える隆弘は何の違和感もない。
あの時、凛の着古したコートを抱えた隆弘には大きな違和感を感じたのに。
(やっぱり・・・そうだよな)
この男にはやはり自分ではダメなのだ。
実際に自分の目で確認して、凛は泣き笑いのような表情を浮かべた。
















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