Aqua Noise







その23






「な〜凛ってばぁ」
「おまえなぁ、年上を呼び捨てにすんな」
カップを拭いていたふきんで頭をはたかれ、大げさにカウンターに突っ伏した男を尻目に、凛はスイーツの並んだケースを確認する。
アフタヌーンティータイムまでもうすぐ。準備はオッケーだ。
「つうかさ、おまえ、こんなとこでサボってていいのかよ」
「いいんですぅ〜午後の診療までまだ1時間あるもんね」
誰も客がいないのをいいことに、カウンターにだらりと身体を預けて凛を上目づかいに見やる。
「もんねって、おまえいくつだっつうの」
「25歳のスタイル良し、ルックス良しの歯科医ですよ〜お買い得ですよ〜どうよ、凛?」
「いらねっつうの!新米歯科医なんて怖くて診てもらえないっつうの。ほらほら、お客様だ。邪魔すんなよ、希」
若い女性が来店したタイミングで凛は希をあしらい、仕事モードに切り替えた。
「凛く〜ん、アフタヌーンティーセット、お二人様ね」
オーダーに応えて、凛はティースタンドに盛り付けを始めた。
この店で働き始めてもう5年になる。
駅前通りから少し路地を入った場所にあるここ『オルガン』は、昼間はランチを、ランチタイム終了後はアフタヌーンティーを提供する店だ。
昭和初期に立てられた洋品店を改装したため、レトロ感溢れる外観とシックな内装がタウン誌でも紹介され、ほどよい人気店になっている。
凛が修行を始めたパン屋のオーナー夫人がブランチとランチを担当し、凛がスイーツとランチに出すパンを担当している。
スイーツメニューはアフタヌーンティーセットのみ。
アフタヌーンティーと銘打ってはいるが、内容は凛に一任されている。
熱々のスコーンと野菜たっぷりのサンドイッチ、そして色とりどりのスイーツ。スイーツは日替わりで凛の気の向くままに作らせてもらっているため、日によって違うものがお皿を彩ることになり、それがまたリピーターを増やしている。
「凛っていくつになったんだっけ?」
凛の流れるような盛り付けをカウンターから眺めながら、希が呟く。
さきほどまでのだらけた姿勢とは打って変わって、背筋をのばしカップを持つ希はなかなかのルックスだ。
さすがに自分でほめるだけある。
さきほどから女性客が希のほうを意識しているのも凛は感じていた。
希が来店したときはいつもこうである。
「おまえより5つ上じゃないか」
「つうことは、30???見えねぇ〜〜〜」
確かに若く見られるし、自分でも自覚しているが、人に言われると良い気分ではない。
(半人前だって思われてるみたいじゃないか)
「うるさい!邪魔すんなら帰れ!沙絵子さん、上がりました」
「確かに三十路男には見えないわよね〜」
凛の顔をニコニコ眺めながら、沙絵子も同意する。
「沙絵子さんもいいから。ほら、早く!」
「はいはい〜」といいながら黒のワンピースに白いエプロンといういわゆるメイド服を着た店のオーナーである沙絵子がテーブルへと運んでゆく。
「あの人こそいくつだっつうの!」
悪態をつく希を尻目に、凛は次の盛り付けへと急いだ。
希がいうように、凛は全く三十路男には見えない。
もともと若く見られがちだったけれども、それなりに年を重ねたのならば、その経験分だけは見た目に反映されてもいいのではないかと思っている。
若く見られると、何だか馬鹿にされているように思えるのだ。
(おれってかなり屈折してんのかな)
若い頃はもう少し素直だった気がする。
施設で生活していた頃は、ハリネズミのように刺を立てて自分を守っていたように思うのだが、オーナー夫妻に会ってから気持ちの持ち方が変わったように思うのだ。
(あの頃は青春してたなぁ)
高校を卒業して、独り立ちをしてからの数年間は、毎日一生懸命だった。
仕事にも、そして恋にも・・・
(もうすっかり枯れてるけどな)
密度の濃い数年を過ごしたからか、すっかり隠居老人みたいになってしまった。
特にこの店で働き始めたころは、任されるという責任感にいろいろ悩みもしたけれど、ある程度軌道に乗ってしまうと、欲がなくなってしまった。
早く一人前になりたいと願っていた頃が懐かしい。
好きな人に追いつきたくて、肩を並べたくて、がむしゃらに生きていたあの頃が。
幸い借金もないし、このまま好きなことをして、まったり過ごせたらいいなぁと思っている。
切り詰めて貯金はしない。
普通の生活をして、余剰分は貯金して、それでそこそこお金が貯まったら、小さな店を持つものいいかもしれないなぁとは思っているが。
(でもそれもいつになることやら、だな)
何が何でも店を持つ、という気概が凛にはない。
どんなに頑張ってもダメなものはダメになる。仕事も、恋愛も。
それは30年生きてきて凛が学んだことだ。
(沙絵子さんもメイド服を着たいだけにこの店をオープンしたようなものだし)
客にオーダーがいきわたると、しばしの休憩タイム。お客はおしゃべりしながらアフタヌーンティーをゆっくり楽しむため、回転率はかなり悪い。したがって新しくオーダーが入ることはほとんどない。
それでもやっていけるのは、セット値段がそれなりにすること、テイクアウトのスイーツの売れ行きが順調なためだ。
凛はよいしょとカウンター奥の丸イスに腰掛けると、ノートを開けて明日のスイーツメニューを考える。
鉛筆を走らせて、ふと見上げると、窓際のテーブル席のカップルが目に付いた。手振り身振りを交えて楽しげに話しながら、サンドイッチを摘んでいた。
「なに?羨ましくなった?」
希と目が合って、凛はばつが悪そうにノートに視線を落とした。
「別に?おまえこそ、彼女とかいないの?毎日毎日店に入り浸って、暇人か」
「おれは凛一筋だって言ってんだろ〜」
知り合った時に高校生だった希は凛より小さくて細くて頼りなげな風体だった。
一生懸命虚勢を張って、淋しい心を見せないように振舞う希を、凛はどうしても憎めなかった。
凛が希に怪我を負わせたあの日を凛は決して忘れることができない。
しばらく会わない日が続き、凛の勤める店に現れた希は、背がグンと伸びて、とても大人っぽくなっていた。
最後に会った日のことを思うと気まずくとあったけれど、そこで凛は希も小さい頃に施設で育ったことを告白された。
小学校に入ってすぐのころに、今の両親に縁あって引き取られたことを。
それだけで、希の凛に対する態度の理由が凛にはわかった気がした。
だから、もうそれ以上は何も聞かなかった。
それを知ったからといって、どうにもならないし、どうにかする気も凛には全くなかった。
希はそれ以後、凛に懐き、凛もそれを許した。
凛にとっては初めての近しい年齢の、いわゆる友人となった。
今では遠慮することも取り繕うこともない、楽な関係だ。
「十年一昔ってよく言うよね」
「なんだよ、突然」
希のこういう気まぐれなところは昔と全然変わらない。
「いや、もう10年も経つんだと思ってさ」
「おまえがおれに散々嫌味を言って悪態をついたあの頃から?いや、違うな、おれがおまえに怪我させたあれから、だな」
希の手には傷がある。
「若気の至りのなにものでもないよな」
普段の会話はここで終わる。
だが、希は続けた。
「あいつ、いくつになるんだっけな」
希の口から出た『あいつ』という言葉を久しぶりに聞いた。
いつから触れなくなっただろうか。
最初のころは希は会いにに来るたびに言っていた。
『早く仲直りしなよ』と。
だが、凛と隆弘はケンカしたわけではない。
凛が欲しい答えを隆弘がくれた、それだけだ。
「もう・・・40近くになるんじゃないの?」
努めて冷静に言葉を紡いだ。
もう10年も、隆弘に会っていない。
人と人が会わなくなることが、とても簡単なことなんだと身をもって経験し、継続中だ。
「どうしようか迷ったけど、やっぱり言っとく。あいつ、結婚するかも」
真剣な口調でもなく、カウンターに上半身を預けて、グラスについた水滴を拭いながら、他人事のように希はさらりと言った。
「そうか、そりゃよかったな。四十路にもなりゃ結婚もするだろうさ」
声が震えないように気をつけながら、まるで関心のないそぶりで凛は先ほどのカップルに視線を送った。
無意識に、カウンター下で、エプロンをギュッと握り締めていたことに気付かずに。

















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