Aqua Noise







その22






救急病院で簡単な処置を受けた後、隆弘は希を実家に送っていた。
義姉は怪我に驚いていたけれど、適当な理由をつけて、実家を後にした。
とりあえず、凛を探さないと。
帰宅してケータイを鳴らしてみると、案のトートバッグの中から着信音が聞こえた。
希も含めて最近の若者はケータイを尻ポケットに入れたりして肌身離さないらしいが、凛はその必要性を感じていないようでいつもカバンの中だ。
凛のコートを手に、家を飛び出す。
帰宅しているかもと自宅を訪ねたが、部屋は真っ暗で人のいる気配もなかった。
そのまま駅の大通りへと歩を早める。
手当ての済んだ希を送り届ける車内で、隆弘は希の行き過ぎた凛への言動を聞かされた。
凛が爆発するまで気付かなかった自分の無神経さに腹が立つ。
希が隆弘と凛との関係に最初から気付いていたらしいことも告白され、ひとりあたふたとしていた自分にますます腹立たしさが募る。
希はかなりしょげ返っていた。
さきほどの勢いはこれっぽっちもない。
どうやら隆弘の言葉がかなり効いたようだった。
今にも泣き出しそうに俯いたまま顔を上げない甥っこを責める気持ちも失せてしまった。
凛を傷つけたことは許せない。
だが、傷つけた張本人である希を憎めないのは、やはり隆弘が甘いからだろうか。
いや、いちばん許せないのは、希ではなく隆弘自身だからだ。
(凛・・・凛・・・・・・)
早く会いたい。
会って許しを請いたい。
そして、もし許してもらえたら、思いっきり抱きしめたい。
昼間はにぎわっていただろう駅前通りもすでに人影はまばらだ。
24時間営業のチェーン店のカフェに視線を走らせるが、凛らしき人影は見当たらない。
ふとこの先に公園があるのを思い出した。
(もしかして)
隆弘は半ば確信を得て、公園へと走った。
そこは隆弘と凛の思い出の場所だから。





*** *** ***





「で、なにがしょうがないって?」
驚きを隠さない凛に、もう一度隆弘は問う。
隆弘が笑いかけると、凛は一瞬くしゃりと顔を歪ませたあと、にっこりと笑った。
「いろいろ、とね」
笑ってくれたことに安堵して隆弘が手を伸ばすと、凛は反射的に身体を引いた。
「凛・・・?」
くしゅんとかわいらしいくしゃみが人気のない公園に響く。
隆弘は慌てて持っていた凛のコートを肩にかけてやろうとしたが、凛は「ありがとう」とそれを受け取った。
袖を通してきっちりボタンをかけるその様は、戦いを挑むために戦闘服を着込んでいるように思うのは隆弘の思い過ごしか。
隆弘が凛に近づくと、凛はその分だけ隆弘から遠ざかる。
わざとらしさが全くないのは、無意識の行動だからか、それならそれで余計に悲しい。
「このコートもかなり着込んでるよね。ここのワープが切れ掛かってる」
ダッフルコートのトングを掛ける紐を摘んで凛は笑った。
「こんなんじゃまた希くんに笑われるね」
「凛・・・それは・・・・・・」
やはり怒っているのだ。
当たり前だ。
凛は希とのことを一切言わなかったけれども、隆弘が希から聞いただけでも、かなり酷い言われようだった。
どんなに凛が温厚でも、真っ直ぐに向かい合ってきた凛が傷ついたのは当然で、怒りを覚えるのも無理はない。
むしろ希と出会ってから今日までよく我慢していたと褒めてやりたいくらいだ。
しかし、その前に隆弘にはやらなくてはならないことがある。
「凛、希のことではお前にとんでもない―――」
「希くん、大丈夫だった?怪我させたおれが言うのもおかしいけど・・・神経がどうとか、変なことになってない?」
「あ、あぁそれはたいしたことない。切れた場所のせいで出血が多かっただけだから。傷自体はすぐに治るらしい」
「そう・・・よかった・・・・」
心底ホッとしたような表情を浮かべて、凛は手を胸の前で合わせた。
「隆弘さん、ごめんなさい。希くん、怪我させちゃって。おれ、カッとなっちゃって抑えがきかなくて自分を見失った。なんかさ、希くんのプレゼント、すごく趣味が良かったじゃないですか。隆弘さんもすごく喜んでたし、それに比べておれのはいまいちだし。ほら、おれってばファッションとか疎いから。だからね、希くんに嫉妬しちゃったんです」
「希に嫉妬?」
「はい。隆弘さんが希くんを可愛がっているのはわかってたし、いいなぁ、羨ましいなぁ、ってずっと思ってたんです。何でも言い合えるというか、気兼ねがないというか。なんかこう、上手く言えないんですけど」
とても穏やかに凛は話し続ける。怒っているのかと思っていたけれど、笑顔だし、そうでもないらしい。
ホッとした隆弘は油断した。
「身内だからな。小さい頃から希のことは知ってるし、あいつもおれに懐いてたから。父親よりもおれに甘えるし、あいつまた甘え上手なんだよ。だからか、趣味も似てるっつうか、よくわかってるつうか・・・凛?」
凛が変な顔をしたように見えて隆弘は表情をうかがう様に凛に近づいたけれども、くるりと凛は背を向けた。
大きく息を吸うと、背を向けたままウーンと伸びをする。
ハァーとゆっくり息を吐くとくるりと隆弘に向き直った。
「そうですよね。叔父さんと甥っこさんですもんね。趣味が一緒だと素敵ですよね。よかったですね、隆弘さん」
うんうんと楽しそうに頷いた後、凛は続けた。
「でも、おれも頑張ったんですから、気が向いたら使ってやってください。結構高かったんですから」
「もちろん。むしろ凛からのを使わせてもらうよ」
隆弘は本気で言ったのに「無理しないでくださいよ」と軽く流されてしまった。
隆弘が捕まえようとすると凛はするりと逃げてしまう。
「なんか、ずーっと前にもこんなことありましたよね。おれが部屋を飛び出して、隆弘さんが追っかけてきて」
「初めてのバレンタインの夜だろ?もちろん覚えているよ」
あれは凛と付き合い始めて最初のバレンタインデーだった。
女性から贈られたチョコが誤解を生み凛を責めてしまった。
すぐに後悔して、飛び出した凛を追いかけて、掴まえたのが、この公園だった。
あの時、隆弘の心無い言葉に凛がどれだけ傷ついたか。
優しい凛は許してくれたけれど、酷いことをしたと、今でも悔やんでいる。
あれから月日は流れ、ふたりの距離はグンと近づいた。
甘い時間を過ごし、愛を育んできた。
もちろんケンカもしたけれど、傍から見れば痴話げんかのようなものだ。
(でも、おれ、同じ過ち繰り返してないか?)
凛のことが一番大切なのに、とっさに出たのは凛を咎める言葉だった。
(『いくらなんでも手を出すのは』、なんてな)
凛が人様に手を上げるわけがない。
人を傷つけることを恐れ、どんなことでもひとりで抱え込み、ひとりで消化してしまう。
凛の強さであり、弱さだと、隆弘はわかっているはずだった。
おそらく、凛は希のことを心から心配しているのだろう。
希に酷いことを言われ、傷ついても、きっと許すのだろう。
そんな希を甘やかし、自分を傷つけた隆弘のことも。
「なんか、おれ、いっつも隆弘さんに甘えてばっかりだ。あのころから全然成長してない」
声が震えているのは寒さのせいだろうか。
「違うよ凛。成長していないのはおれのほうだ。あの時と同じようにおまえを傷つけて」
凛をギュッと抱きしめたい。
温もりを分かち合えば、誤解なんて一瞬で消えゆくに違いない。
それから凛の気が済むまで何度でも謝って、もう一度イブの夜をやり直すのだ。
大晦日もお正月もずっと一緒に過ごして、凛のことをとことん甘やかすのだ。
(同じ失敗はもう二度としないから)
そう誓いながら、隆弘が凛のほうに手を伸ばすと、やっぱり凛はするりと交わしてしまう。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
何かを振り払うように。
なんだか胸騒ぎがする。
胸の奥でざわざわと何かが音を立てている。
こんな気持ちは、初めてだった。
「ねぇ隆弘さん、綺麗な月ですね。月明かりが眩しいくらい」
つられて見上げると、本当に輝いていた。数個の街灯よりもよっぽど光源になっている。
「あ、そうだ。隆弘さん、おれにプレゼント用意してくれてた?」
少し明るい凛の口調に、少しだけホッとする。
胸の奥のざわざわは鳴り止まなかったが、隆弘は無理やりそれを抑えつけた。
「もちろん。ちゃんと用意してあるよ。だから帰ろ―――」
「今、欲しいものがあるんだ。今ここで。そういうの、わがままかな?」
キスでもハグでも何でもいいよ、と能天気に答えた隆弘に凛が求めたのは、隆弘のイエスという答えだけだった。















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