Aqua Noise







その20






凛はあてもなく街をさまよっていた。
いつもは家路を急ぐ人たちばかりの駅前通りも、今夜はカップルや家族連れが目立つ。
駅前広場の時計は9時を示していた。
ファーストフード店もカフェも、まだまだ賑わう時間だ。
そんな中をセーター一枚で、しかも手ぶらでうろついている自分は、人々にどう映っているのだろう。
(って誰もおれのことなんて気にしてやしないか)
家のカギもケータイも財布もコートも、全部隆弘の家に置いてきてしまった。
冷たい空気が身体にまとわりつき、凛は小さくクシャミをした。
透明なガラスの向こうで談笑しているカップルも、仕事帰りのサラリーマンも、プレゼントなのか大きなぬいぐるみを抱く少女とその両親も、イブの残りの時間をどう過ごすのだろう。
そんなことを考えていると、イブの色に彩られたこの場所が、自分には不釣り合いに思えてきて、凛は大通りを南に進んだ。
その先には大きな公園がある。
駅前から5分程度しか離れていないのに、公園はシンと静まり返っていた。
冬の夜を公園で過ごそうとなんていう物好きはそういないのだろう。
昼間はギャルママに占領されている屋根のある休憩スペースに腰をおろす。
石でできたベンチは冷たいけれど、風を遮ることはできるだろう。
ぼんやりと砂場を眺めていると、先ほどの光景が蘇る。
手首をおさえて痛みに顔を顰める希。
希を安心させるために、大丈夫だからと希の頭を優しく撫でる隆弘。
倒れた椅子と割れた食器。
グシャリと潰れたクリスマスケーキはまるで凛の心のようだった。
凛が持ち込んだケーキを見て喜んだ隆弘は、あのグシャリと潰れた悲惨なケーキをゴミ箱に捨てるのだ。
当たり前だ。
あんなもの、捨てる以外にないだろう。
寒さでかじかんだ手を広げてみる。
(痛かったろうな、希くん)
酷く出血していたように思う。
凛にたとえ悪気はなかったとしても、希を突き飛ばしてしまったのは事実だ。
確かに希の行動には凛に対する嫌がらせの感情が混じっていた。
希は凛が隆弘へのプレゼントを購入していたことを知っていたのだから。
希が凛に好意的でないことも感じていた。
(でも手を出しちゃだめだ。それに・・・おれがもう少し機転の利く性格だったらどうとでも立ち回れたはずだ・・・)
あんな風に誰かに怪我をさせたのは初めてだ。
出生が原因で嫌な思いもたくさんした。いじめられたこともある。
でも、人に手を出すことだけは絶対にしなかった。
悲しみや怒りの感情をコントロールすることを覚えると、何を言われても、何をされても、我慢することができた。
むしろ、相手が感情的になればなるほど冷静でいられた。
人に負の感情を抱くより、笑顔を忘れずにいよう。
そうすれば、きっと、いいこともある。
凛はそれを支えに生きてきたのに。
この世で一番大切な人が、とても可愛がっている人を傷つけてしまった。
(悪いのはおれなのに・・・)
隆弘の趣味じゃないと希から聞いた時に捨ててしまえばよかったのだ。
隆弘が使ってくれないのなら、どんなに高価なプレゼントも全く意味がない。
それなのに捨てることもできず、未練がましく今日もカバンに詰め込んだ。
睡眠時間を削ってまで頑張った自分をかわいそうに思ってしまったのだ。
(バカだおれ)
少し無理をしたのは事実だけれど、そんなことは隆弘の知ったこっちゃない。
(希くんなんてもっと関係ないのに)
勝手にバッグを探った行為は良いとは思えないけれど、怪我を負わせるほど酷いことではないと、冷静になった今では思う。
それに希はまだ高校生だ。
隆弘への接し方を見ていても、歳より少し子供っぽいように思う。
逆に凛はれっきとした社会人だ。
生い立ちのせいもあり、同年代の青年よりも大人である自覚もあった。
だが、あの瞬間、感情を抑えることができなかった。
希を気遣いながら、凛を見上げた隆弘の表情。
(初めて見た、あんな隆弘さん)
凛の前で隆弘はいつも穏やかだ。
些細なことが原因でケンカをした時も、仕事のことでイライラしているときも。
人間なのだから不機嫌になることもあるだろうにと、不思議に思ったこともある。
もっといろんな顔を、表情を見せて欲しいと密かに願ったこともあるし、口に出して言ったこともある。
『凛といるとね、心がほんわかするんだ』
隆弘はそう言った。
『おれだって会社では勝手なことばかり言う上司や顧客にナニクソって思うことあるよ。その辺のゴミ箱を蹴飛ばしたくなる時だってある。イライラしたりムカムカしたり。でもどうしてだか凛の顔をみるとそういうことすっかり忘れちゃうんだ。スーッとあったかくなって、とても優しい気持ちになれる。ちょっとした意見の相違でケンカしたってそれすらも楽しくなってしまう。ほんと不思議だよ』
びっくりしたけれども嬉しかった。
幸せという言葉に縁遠かった自分が誰かを幸せな気分にできるなんて思ってもみなかった。
そのとき凛は誓ったのだ。
隆弘がずっとずっと笑ってくれればいい。
少なくとも自分の前では。
(なのに、あんな顔、させちゃった・・・)
怒ったような、悲しい顔。
怒りの感情だけのほうがまだよかった。
おれの大事な甥っこに何してくれるんだ、と声を荒げてくれたほうがよかった。
顔をしかめる希を優しくいたわりながら、凛に対しても冷静だった。
その冷静さが、凛を居たたまれなくさせた。
(おれは隆弘さんの信頼を裏切ったんだ)
決して良いとは言えない環境で育った凛を、隆弘は一度も蔑まなかった。
同じように施設で育った人間が、周りから受ける負の感情を弾き返せずに、社会から脱落していくことの多さを知っている。
どんなに頑張っても、認めてもらえない悔しさや絶望を、凛も経験したことがある。
凛をバイトに雇ってくれた友人の中野が言っていた。
勤務先で何かよからぬことがあったとき、真っ先に疑われるのは自分たちのような人間だと。
そのたびに職を転々として、屈辱と怒りと生きていく力に変えて、やっとここまで来たのだと。
水商売だけれど、雇われ店長だけれど、世間一般からすると大した仕事でも地位でもないけれど、自分は普通の倍以上の汗と涙を流していると。
そして彼は少し悲しそうに言った。
『残念だけど、どんなに隠しても、わかるらしいよ、おれら。やっぱり両親に愛されて育った人間とはどこか違うんだろうな〜』
寒さのあまり合わせた手をさらにギュッと握る。
清潔に切りそろえられた爪を、手の甲にグッと押さえつけた。
血がにじんだ手の甲をじっと見つめる。
やっぱり自分はどこかが欠けているのだ。
さっき大通りで見かけた、楽しそうな家族連れ。
穏やかそうな父親は、子供が人を傷つけたなら、思いっきり子供を叱るのだろう。
人を傷つけることの愚かさを教えるために。
優しそうな母親は、子供が誰かに傷つけられたなら、身を盾にして子供を守るのだろう。
愛されることで傷が癒されることを教えるために。
(そんなこと、おれにはわからない)
何も知らないし、わからない。
どんなにわがままを言っても、許される希。許す隆弘。
そこには確かな揺るぎない何かがある。
しかし、凛には何もない。
愛されている実感はあっても、それは確かなものではない。
隆弘が凛に愛想が尽きたら、それで終わり。それだけのものだ。
(そっか・・・だからだ・・・・・・)
凛は隆弘に知らぬうちに気を遣っていたのだ。
自分の感情は二の次に、いつだって隆弘のことを一番に考えていた。
それが隆弘への愛情だと思っていたけれども、それはきっと違ったのだ。
希なら、隆弘に遠慮はしないだろう。
それは、希と隆弘には絶対的な結びつきが存在するからだ。
でも、凛は違う。
もし、隆弘に嫌われたら、やっぱり育ちの悪い、下品な子だと思われたら。
隆弘と出会って、思いがけず幸せを手に入れて、臆病になっていたのだ。
施設育ちであることを受け入れ、前を向いて強く生きていくつもりだったのに、隆弘との時間はそれを恥じる気持ちを少しずつ増長させていった。
隆弘が恥ずかしくないように、持ち物や服装にも気を遣っていたつもりだったのに、希にいろいろと指摘されて、追いつめられた。
すべて隆弘に嫌われたくなかったから。
愛されずに育った凛は、愛され方もわからない。
「ハハッ」
知らずに笑いが漏れた。
隆弘にはいいところを見せたかった。
凛のいい部分だけを見ていて欲しかった。
『頑張ってるな、凛』
『ありがとう、凛』
隆弘がそういう度に、嬉しくて・・・安心した。
だけどダメだった。
脳裏に甦る、隆弘の表情と口調は、凛の知らない隆弘だった。
漆黒の夜空を見上げる。
目を閉じて、大きく深呼吸した。
二度、三度、冷たい空気が凛の身体を通り抜けてゆく。
隆弘と出会ってから、とても充実した毎日だった。
仕事も遣り甲斐があるし、責任感も出てきた。
ぼんやりとしか見えていなかった夢も、全く叶わないわけじゃないと、この夜空の星くらいには見えるようになった。
(うん、なんとかなるはず)
少し淋しいかもしれないけれど、すべてを失くしてしまうわけじゃない。
「だってしょうがないよ」
言い聞かせるように言葉にする。
「うん、しょうがない」















戻る 次へ ノベルズ TOP TOP