Aqua Noise







その13






アルバイトの給料が振り込まれた当日、凛はアルバイト料全額を引き出すと、そのまま電車に乗り込んだ。
アルバイトが終了して5日。日常に戻ったものの無理がたたったのか、少し身体が重い。
しかしこの日のために無理をしたのだと思うと、休日とはいえ家でゆっくりしていられなかった。
困っている友人のためとはいえ、臨時収入を見込んでのアルバイト。
勤務先で副業を禁じられているわけではないが、オーナー夫妻には内緒のアルバイトだ。
だから早くお金を使ってしまいたいという気持ちが多少なりとも凛の中にはあった。
大金を手にすることに慣れていないためか、電車の中でも妙にそわそわしてしまう。
凛にとっては毎月振り込む家賃が一番の大金で、それさえも自分の口座から引き出して指定口座に振り込む時には変に緊張する。
だが、今日はそれ以上の金額がカバンの中にある。
凛は斜めがけしたカバンの中にそろりと手を入れ、封筒があることを確かめた。
(うん、大丈夫)
指先で封筒を確認すると、凛はカバンを身体の前でギュッと握り締めた。
必要最低限のものしか購入しない凛が地元を出ることはほとんどない。
日用雑貨や食料品は近所のスーパーで十分だし、たまに出かけるとしても地元のショッピングモールくらいだ。
そこでさえ隆弘と一緒でないと訪れることはない。
特にデパートなんて高価なものしか売っていないという固定観念が凛にはある。
一度隆弘の用事につきそって出かけたとき、地下の食料品売り場でコロッケがひとつ200円で売られていて驚いた。
近所のスーパーでは3つ100円で売られているのに。
隆弘にそのことを話すと、隆弘は凛らしいと笑っていたけれども、凛は酷く恥ずかしかったのを覚えている。
なんだか自分がとても安っぽい人間に思えたからだ。
自分の生活レベルからすればそういう思考は当たり前なのだが、隆弘はやっぱり違うんだなぁと寂しくも感じた。
無口になってしまった凛をどう思ったのかわからないが、それ以降隆弘は凛をそういった場所に誘うことはなくなった。
それはありがたくもあり、少しショックでもあった。
(自分勝手な考えだってわかってるんだけどな)
そんなことを考えながら電車に揺られること数十分。
大きなターミナルで下車すると、人波に流されながら、凛は目的地のデパートへと向かう。
ここに来るのは2度目だ。
最初の給料を得た時に、施設で世話になった先生たちに何かプレゼントを贈りたくて出かけたのが初めてだ。
地元で済ませなかったのは、凛の僅かばかりの見栄だ。
デパートの包装紙に憧れていたのもあった。
しかし凛が手にした初任給ではデパートで買えるものは限られていて、結局タオルハンカチを数枚と、クッキーの詰め合わせしか買えなかった。
それだけでもかなりの出費だった。
人の多さとその購買パワーに圧倒されて、目的を達成するとそそくさと帰路についた。
だが、施設の職員が『このブランド好きなの』と言ってくれたこと、子供たちが喜んでクッキーを摘んでくれたことはとても大きな喜びだった。
当時のことを思い出すと、少し元気が出てくる。
みんなの笑顔は独り立ちした凛にパワーを注ぎ、もっと頑張って今度はもっと素敵なものをプレゼントしようという希望を与えてくれた。
頑張りが認められて、仕事も少しずつ任されるようになって、ほんの少しだけれども給料も上がった。
質素な暮らしを心がけ、最近では僅かだが貯金をする余裕も出てきた。
(たぶん・・・ううん、絶対隆弘さんのおかげなんだけど)
外食はもちろんのこと、ウチゴハンするときでも材料費の大半は隆弘の財布から出されている。
それだけではない。
会社の同僚の実家が農家だから安く分けてもらえるとお米を持ってきてくれたり、サイズが合わなかったからと洋服をくれたりする。
果たしてそれが本当なのか凛にはわからないけれども。
隆弘は申し訳なく思う凛の気持ちにしっかり気付いていて、はっきりと『受け取る受け取らないは凛が決めればいいけれど、おれは凛に受け取ってほしい』と言われればどうしようもなかった。
隆弘の行為には凛を憐れむ気持ちは感じられず、単なる好意であることは凛にもわかる。
その証拠として、凛が素直にありがとうと受け取ると、とても嬉しそうに笑うのだ。
だから、最近ではこの好意に素直に甘えることにした。
その分、凛も折りを見て、隆弘にささやかなお返しをしている。
焼きたてのクロワッサンを届けたり、忙しそうな時には保存の効く惣菜を作り置きしておいたり。
隆弘の許しを得て、掃除や洗濯などの家事を引き受けたり。
凛にできることはそれくらいだけれども、隆弘はいつだって笑顔でありがとうと言ってくれた。
与えられるものと与えるものに多少の差があっても、凛は幸せだったし、隆弘も同じ気持ちだと思い込んでいた。
しかし、それがただの思い込みなんじゃないか、凛の都合のいい解釈なんじゃないかと思い始めた。
そう、隆弘の甥の希に出会ってからだ。














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