祈 り



<36>






「どうぞ・・・・・・」
バスルームから出た先輩にカップを差し出す。一緒によく飲んだココア。
「優のつくったココア、何年ぶりかな」
ぼくのパジャマを着た先輩は、カップに口をつけた。
あの頃も、冬の寒い日、お風呂あがりに、リビングのソファに寄り添ってよくココアを飲んだ。
時間が逆流するように、鮮明に思い出す。





どうしてだろう?こんなに懐かしく思い出すのは・・・・・・
でも・・・・でも・・・・・





「先輩、どうしてここがわかったんですか?」
「―――悪い。友樹に聞いた。でもあいつが悪いんじゃない。あいつは頑として言わなかった。どうにかこうにか聞き出したんだ。ただ、先輩も知っている街です、とだけ友樹は言ったんだ。それで、ここかなぁって。優、よく、ここのこと話してたから・・・・・・会う人会う人に聞くんだけど、英語もよくわかんないし。そしたら、さっきの人に出会って、ここまで連れてきてくれたんだ」
そうか・・・・・やっぱり友樹が・・・・・だって友樹しか知らないんだ、ぼくの居場所。
友樹とは卒業式以来会っていない。何かあったときだけメールのやりとりをする。
そっけない関係だけど、いちばんの親友。たったひとりのぼくの理解者。
友樹はぼくと約束した。ぼくの居場所を絶対誰にも知らせないって。
だけど、友樹はぼくのことを知っている・・・・・・だから・・・先輩に言ったんだね・・・・・・
それが友樹の優しさなんだよね・・・・・・
「で、ぼくに何の用でしょうか?」
ココアの香りが幸せだった日々を覚醒させる。だがこの空気に流されてはいけない。
ぼくは関心のなさを装って先輩に聞いた。
先輩の口から発せられた言葉に、ぼくは自分の耳を疑った。








「今日だけ、優をおれのものにしたい・・・・・・」








真っ直ぐにぼくを捕らえる瞳が、その言葉が本気であることを語っている。
「―――なっ何を言い出すかと思えば・・・・・・」
先輩の瞳と思いがけない言葉に、動揺が隠せない。
「優とニューヨークで別れたあとも、おれは優のことが忘れられなかった。今度はおれがもう会わないと決めたのに、会いたくてどうしようもなかった。なぜだろう、おれは考えた。優に頑なに拒絶されても優が好きでたまらないのはなぜだろう・・・・・・」





ごめんなさい・・・・・・ぼくは先輩を悩ませてばかりだ・・・・・・





「そして、おれなりにその答えを出した。それは・・・・・・」
それは・・・・・・?





「きちんとけじめをつけて別れていないからだ」





「―――けじめ?」
「ああ。お台場での別れも一方的なものだった。ニューヨークでの別れもそう。どちらも中途半端なんだ。納得できていない。特におれが」
ぼくは返す言葉を見つけられないでいた。
先輩の言うとおり、いつもぼくが一方的に先輩の想いを拒否したんだ。
「おれは今でも優のあのメールの内容が信じられないんだ。最初に読んだ時はカッとなった。誰でもよかったなんて言われて、おれの気持ちを全部否定されて。おれの愛を疑われて。ついさっき、リングを受け取って、愛を誓ったのも全部嘘だったと、裏切られたと。一瞬優を恨んだ」





そう、ぼくは恨んでほしかった。憎んでほしかった。





「だけど、それはほんの一瞬のことで、やっぱりおれは優が好きで、忘れられなかった。優のことを思い出すたびに、あのメールには何か秘密があるとしか思えなくなった。優は、そんな残酷なことをする子じゃない。何か理由があって、おれの前から去ったんだ。おれが知ってる優は、名前の通り優しくて、素直でかわいくて・・・・・・おれを心から好きでいてくれた。なのにおれの前から消えたということは・・・きっと・・・・・・おれに会いたくない何かしらの理由があるはずだと思った。だからおまえを探すのもやめたんだ」
そう、あなたに会いたくなかった。一生会わなくても、想い続けて生きることに決めたんだ。
「そして、ニューヨークで再会し、おれが問いつめた時もおまえは黙秘を続けた。そこでおれはおまえの気持ちがわかった気がした。それならそれでいい。たぶんおれにはそれを聞く価値もないんだろ?」
その皮肉まじりの自嘲的な口調に、胸がキリッと痛む。





だけど・・・・・・言えないんだ・・・・・・






「ほらそうやって黙り込む。おまえはいつだって肝心なことはおれに話さない。お台場での別れを決めたときも、ニューヨークでおれが問い詰めたときも、いつだって・・・・・・」
荒くなる先輩の口調に、先輩の苦しみが混じっているのがわかる。
「おれは優にとって何の価値もない人間かもしれない。こんなとこまでやってきて迷惑だろうこともわかる。もうおれのことなんて何とも思ってないこともわかった」








・・・・・・苦しい・・・・・もう・・・やだ・・・・・・・








「別れを言い出したのは優だからな。おまえはそれで楽かもしれない。今までありがとう、もう結構です、はいさよなら、それだけだもんな。それで、おれの幸せを祈ってりゃ、罪悪感も薄らぐんだもんな。だけど、おれは・・・・・おれは苦しいんだよ!」
悲痛な叫びに身体がこわばり、一瞬身を引いた。
「優、おまえにもしおれを憐れむ気持ちがあるのなら・・・・・・今夜だけ、あの頃の優に戻ってくれ・・・・・・おれのことを好きだと言ってくれたあの頃に・・・・・・そしたら、おれは、たぶん優を忘れられる。きっちりけじめをつけられる」








け・・・じ・・・め・・・・・・?








先輩は大きく深呼吸した。そして、ぼくに懇願の色を携えた瞳を向けてゆっくり言った。








「優、もうおれを解放してくれ」





―――解・・・・・放・・・・・・・?





そうか、先輩はぼくに縛られていたんだ。ぼくは先輩を自由にしたつもりだったのに。
残されたものは、消えてしまったものの影に束縛される。
その思いが強ければ強いほどに。
そのことを、いちばんよくわかっているのはぼくだったはずなのに!
ぼくが先輩の幸せを思って起こす行動は、いつも先輩を苦しめる。





「―――先輩は、それで、楽になれますか?幸せになれますか?」





ぼくは重い口を開いた。
「・・・・そうだな。幸せになれるかはこれからの人生次第だけど、楽にはなれる。自由になれる」
これからの人生―――そう、先輩にはまだまだ先があるんだ。
消えゆこうとしているぼくの人生とは違って。
「―――ぼくのこと忘れることができますか?」
「―――約束する。もう何があっても優には会いに来ない」
「―――ぼくのことなんか忘れて、先輩の夢に向かって新たな人生を歩んでくれますか?」
「―――優のいない人生って、よくわからないけど・・・・・・おれはおれの思うままに生きるよ」





ぼくは、ひとりで逝かなければならない。

先輩の思いを束縛したまま、逝くことなんてできない。
それなら・・・・・・
先輩の最後の願いを聞き入れなければならない。
「わかりました。それで、先輩がぼく、麻野優という存在から解放されるなら」





いままでごめんなさい、先輩。
今日やっと、先輩のためにできることを見つけました。
あなたを苦しみから救うことができます。
そして・・・・・・
ぼくは最後に、幸せだったあの頃に戻って、あなたに愛されることができます。
ありがとう、先輩。





シャワーを使ったぼくは、先輩をベッドルームへと導く。
ドアを閉めた途端、抱きしめられた。
「優、これから、おれが帰るまで、優は現在の優ではなく、ふたりで、仲良く暮らしていた頃の、麻野優だ。おれを好きだと言ってくれていた・・・・・それが、約束。わかった?」
ぼくはうなずいた。
だけど、本心は違う。
ぼくは今現在の麻野優として抱かれたい。
高校一年の新歓で、初めて会ったときから何の変わりもない、先輩のことが大好きでたまらない、もうすぐ20歳になる麻野優。

先輩、ぼくは最後まであなたに嘘をつきます。約束を破ります。
だけど、ぼくは先輩の希望通り、18歳の麻野優を演じますから、許してください。











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