祈 り



<35>






いつもの日常が戻ってくる。
パパの仕事は日に日にハードさを増したが、それはぼくにとってありがたいことだった。余計なことを考えなくてすむ。
最近、身体の調子がよくない。あれ以来、ずっと微熱が続いている。寝込むほどじゃないのが幸いして、まだ誰にも気づかれていない。だって、ほんの少しの熱でも、ママは寝てなきゃだめよと、世話を焼く。とんでもなく病人扱いをするんだ。
パパとママに心配をかけたくない。それに、今のぼくに忙しい生活は願ってもないことだったから。ベッドで寝ていることなんて、苦痛の何物でもないから。
身体がすっきりしないのは当たり前だと思う。





ぼくの心はニューヨークで壊れてしまったのだから。
あのオルゴールと共に。





それでも未練たらしいぼくは、次の日壊れていてもいいから持ち帰ろうと路地へと向かったが、立ち入り禁止の看板と金網に遮断されて、そのカケラさえも拾うことができなかった。指輪はその行方さえもわからなかった。
このまま生きていくことに何の価値もなくなった、そう思いながらも、ぼくはまだ生きている。
パパとママの温かさと優しさにつつまれて、のうのうと生きている・・・・・・
そして、こなごなに壊れた心の欠片が、まだ先輩を想っている。
壊れてもなお、先輩が好きだと輝いている。
オルゴールがなくても、クロスやリングがなくても、先輩に愛してもらったという事実は残っている。
だから、ぼくは、毎晩、祈る。祈り続ける。
永遠に・・・・・・・








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過ごしやすいはずのこの地方の夏も、今年はぼくにとっては苦痛だった。
何より、身体のだるさが抜けない。
すっかり食が細くなったぼくを、ママはとても心配する。
仕事がハードすぎるんじゃないのと、夫婦ゲンカに発展しかねない状況に、ぼくは努めて元気に振る舞った。
リフレッシュにとバカンスには湖のほとりの別荘へと連れて行ってくれた。
ぼくはふたりからほんとうにたくさんの愛情を受けていることに改めて感謝した。





夏は短く、冬が長い。それがこのあたりの気候の特徴。
日に日に冷たくなる外気に、ぼくは身体を震わせる。
だけど、こんな風に、季節の移り変わりを感じることも、もうぼくにはおとずれない。
色とりどりの花が色づき咲き乱れる、春の柔らかい日差しも。
優しく身体を包み込む五月の風も。
ぽつぽつとリズムを刻んで不思議な静寂さをもたらす日本の梅雨の雨音も。
ぼくはおそらく感じることができないだろう。








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街がクリスマス色に染まりつつある12月、パパとママがニューヨークへと旅立った。
ニューヨーク市内のホテルで催されるパパの知人の結婚記念パーティーに招待されたためだ。
招待状は、ご親切にも、同居人のぼくにも届いた。びっくりして尋ねると、『今さら何を言うんだい、きみはぼくの大事な息子なんだよ』そう言って、本当の子どものように頭をなでる。





ぼくは幸せだ。
そして、他人のぼくにこんな優しい時間を与えてくれたふたりに感謝する。
ぼくは、その招待を丁重に断った。ニューヨークには、つらい思い出が多すぎる。
それなら、私もいかない、優をひとり置いてはいけないわ、と、パパとぼくを困らせるママには苦労したけれど、何とか説得した。その方は、若い頃からのお付き合いだと言うし、それにパーティーは夫婦同伴が基本だし。
『家から出ちゃダメよ、あったかくして静かにしてるのよ、体調良くなかったらすぐにクリスに連絡して、それから――』
『わかってるよ、ママ』
くすくす笑いながら、ぼくが何度頷いても、あれやこれやと繰り返す。
『ジェミー、ユウだって子どもじゃないんだから大丈夫だよ。自分のことはいちばん自分が知ってるんだから、なっユウ』
パパが助け舟を出してくれた。








昨日から降り続いた雪が真っ白な世界を形成している。
ひとりで過ごすのは久しぶりのこと。
体調が戻らず、仕事もお休みしているぼくは、一日の大半を家で過ごしており、いつもママがそばにいた。その優しさを、時々わずらわしく思うこともあるけれど、静まり返った広い家に、たったひとり残されると、とても淋しく感じた。
そうだ・・・・・・
自室に戻り、一枚のMDを持ってリビングに戻る。
先輩に貰ったMD。先輩の曲がいっぱいつまったMD。
今まで、ウォークマンでしか聞いたことがなかったけど、今日なら・・・・・・
リビングに設置されているパパ自慢のオーディオにMDをセットした。
部屋全体に響き渡る音楽は、やっぱりウォークマンなんかで聴くのとは全く違った。
やっぱり先輩の曲は、一人でこっそりと聞くためのもんじゃなく、たくさんの人に聴いてもらうために作られた曲なんだ。この何でもない空間をも、ライブ会場に変える。
ソファに横になり瞼を閉じれば、全身を音楽がくるんでくれる。
そしてそれは、消えかかったぼくの生命力がよみがえってくる気がした。








――――――ッドンッ、ドンドンッ、ドンドンドンドンッ・・・・・・・








玄関のドアを叩く音。
眠っていたようだ。時計を見ると、もう6時。
さらにドアを叩く音。
ぼくは玄関ドアに向かった。
『どちらさまですか?』
『おれおれ、クリスだよ、ユウ』
クリス?なんだろ?ママに頼まれて様子うかがいにきたのかな?
ガチャリと鍵をはずすと、クリスが現れた。
『いるのならすぐに出てこいよ。心配するだろ?何かあったのかって・・・・・・』
『どうしたの?ママに頼まれて様子見に来た?』
『違う違う。ユウにお客様。手ぶらでぶらぶら歩いてるからさ、声かけて見たら、ここにユウと言う日本人が住んでませんかって聞くんだよ。日本人でユウって、ユウだろ?ほら、あんたの探してるユウはこいつかい?』
大きなクリスの背後から現れたのは・・・・・・





―――三上・・・先輩・・・・・・?





あまりの驚きに凍ったように身体が動かない。
もちろん声が出るはずもなかったが、クリスはそんなぼくに構うことなく満面の笑みを浮かべた。
『おっご名答だね。じゃあ、オレ帰るから。玄関開けっ放しなんだよ。じゃあな、ユウ』
先輩が頭を下げると、クリスはぼくにウィンクして家に戻っていった。
玄関に立ち竦むぼくに、「会いに来ちまったよ・・・・」と先輩の弱々しい声音。
「とにかく、中に入ってください」
「―――家の人は・・・・?」
「―――今日は泊まりで留守なんです。ぼくしかいませんから。寒いですからどうぞ」
先輩をリビングに通した。





どうして・・・・どうしてここに・・・・・・・





あっ!
そう思ったときは遅かった。先輩のMD、とぎれないようにリピート再生してたんだ。
あわててオーディオの電源を落とした。ちらっと様子をうかがったけど、何も気にしてる様子はなかった。ほっとしたような、残念なような・・・・・・
コートを脱いだ先輩は、セーター一枚だった。外は氷点下の気温。無謀すぎるよ。
「先輩、熱いシャワー浴びてきてください。身体あったまりますから」
「いいよ、そんなの・・・・・・平気平気」
手をすり合わせる先輩の手をとった。案の定氷のように冷たい。
「ほら。こんなに冷たいじゃないですか!さっこっちです!」
手を引いて、むりやりバスルームに閉じ込めた。
どさくさにまぎれて、手、握っちゃった・・・・・・
冷たくて、氷のようだったけれど、先輩の手だった。
どうしよう・・・・着替え・・・・・・
自室に戻り、先輩が着れそうな服を探すけれど、どうにもサイズが違いすぎる。
仕方なく、大きめのパジャマを持って、バスルームの脱衣かごに置いた。





先輩をここに呼び寄せたのはあなたですか?
あなたのもとにもうすぐ召されるぼくに
最後の喜びをお与えになるのでしょうか?
それとも苦しみをお与えになるのでしょうか?











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