祈 り



<13>




「麻野、今日のバイトの予定は?」
朝食のトーストにバターを塗りながら先輩はぼくに尋ねる。
「夕方には終わりますけど」
ぼくは持っていたカップを置きながら答えた。
「じゃあ、6時に駅で待ってるから」
それだけ言うと、もくもくと朝食を食べはじめた。








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4月に入った昨日、先輩がぼくの家にやってきた。
ぼくは知らなかったんだけど、先輩はずっとひとり暮らしをしていたらしい。
その理由を先輩はぼくに語ろうとしなかったし、ぼくも聞かなかった。
だけど、一番大切なこと、どうしてぼくと一緒に暮らそうと思ったのか、それだけは勇気を出して聞いてみた。





―――麻野をひとりにしておけないから―――





その言葉にぼくの心臓は跳ね上がった。
だけどそれは一瞬のことで。
続いた先輩の言葉は、叶うはずのない期待を抱いたぼくの心をあっさり切り捨てた。





―――おまえははるかの弟だし、ほっとけないだろ―――





卒業式の日の先輩の申し出を、ぼくは即座にOKした。
あまりの決断の早さに、申し出た先輩本人も面食らった顔をした。
先輩は、もちろん家賃は払うし家事も協力すると付け加え、ぼくはそれにも同意した。
ただし、家賃は今の先輩の家賃の半額で、家事は約束ごとを決めて分担することを条件に。
だって、大好きな人が一緒に住もうと言っているのを、断る理由なんてない。
先のことなんて考えはしなかった。
先輩とまだ一緒にいられる、その思いだけが、ぼくにそれを決断させた。
昨日の夜聞いた、ぼくとの同居の理由・・・・・・それを考えると少しつらいけれど、これから生活を共にするにあたっては、そのほうがいいかもしれない。





ぼくは、お姉ちゃんの弟―――それが先輩の中のぼくのステイタス。
先輩は、ぼくの好きな人―――それがぼくの中の先輩のステイタス。





そして、ぼくの気持ちだけは絶対に知られてはいけない。
この生活を守るためには。








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バイトを終え、駅に着くと、すでに先輩は待っていた。
手にギターケースを持っている。
遠くからでもとても目立つ先輩。
背が高くて、すらっとしていて、今日もシンプルなジーンズにパーカーといういでたちなんだけど、その飾り気のなさがかえって先輩を際立たせる。
女子高生たちが先輩を見てひそひそと話していた。
軽音でライブ活動をしていた先輩は、この街の高校生の間じゃ結構な有名人なんだ!
彼女たちが話しかける前に、ぼくは先輩に近づいた。
遅れたことに謝罪すると、先輩は「行くぞ」と行き先も告げず歩き出し、ぼくはひたすら後を追いかけた。








着いた場所は・・・・・・みどりの公園?こんなの家の近くじゃん!
先輩とのデートを期待していたぼくは、がっくり肩を落とした。
奥へ奥へと足をすすめる先輩。





あっブランコ・・・・・・





そうだ、先輩のことを好きになるきっかけになった場所。

さぁーっと風が頬をなでると、視界が白とピンクの水玉模様に染まった。
見上げると、ブランコの脇にどっしりと構える、薄ピンクの花びらが満開の桜。
先輩はブランコに腰掛け、呆然と桜の木を見上げるぼくに隣りで揺れるブランコに座るよううながした。
言われたとおりに腰掛ける。
「ほんとはみんなで見にきたかったんだけど・・・・・・」
お母さん、ぼくが帰国するころには桜が満開ねって言ってた・・・・・・
お姉ちゃん、みんなで桜を見に行こうって先輩と約束してたんだ・・・・・・
「麻野にはおれなんかとふたりで悪いんだけど、やっぱ約束は約束だし、かなり近場だけど」
「そんなっ、この公園の近く毎日通るけど、全然桜のことなんて気づかなかったし、それに・・・」





―――先輩と桜を見れるなんて・・・・とてもうれしいんです―――





しばらくぼくたちは桜を眺めていた。
空には腰かけることができそうなくらい理想の形をした、きれいな三日月。
少し青みがかった夜空と白っぽく光るピンクの桜とのコントラストが見事に決まっている。
風が吹くたびに散った花びらがぼくたちを包み込む。
すると先輩がギターを取り出した。
「じゃ、花見に付き合ってくれた麻野に、お礼」
先輩の指が弦を弾く。





この曲は――





ぼくの旅立ちの日にくれたMDに録音されていた、ぼくのために作ってくれた曲。
留学したものの、なかなか授業についていけず、言葉もわからず、なにもかも投げ出しそうになったときに、何回も繰り返し聞いた曲。
ぼくは目を閉じた。
優しく甘い声がとても心地よく耳に響く。
ハイスクールのみんな、元気かな?挨拶も言えずに別れちゃったよ・・・・・・
ジェミーママにハリーパパ。お手紙書かなくちゃ・・・・・・
短い期間だったけど、たくさんの思い出を残してくれた。
ただ、先輩を忘れることはできなかったけど・・・・・・





―――先輩、好きです。大好きです。あなたがどう思っていようとも―――





何度も何度も心の中で繰り返した。
たぶん、この曲を、ナマで聴くことはもうないだろうな。
ひらひらと舞い散る桜の中で、何の根拠もないのに、漠然とそう感じた。










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