過去ログ―2007年5月5日~6月1日

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なぜ「新あつい壁」か。  投稿者:北風  投稿日:2007年 6月 1日(金)18時21分3秒   返信・引用  編集済
  ハンセン病問題を考える突破口なら制作費60万円の『熊笹の遺言』のほうがずっとすぐれているというところに問題の一端はあるね。

本来この映画はハンセン病問題の突破口ではなく、冤罪事件の冤を雪ぐということだった。多くの人がそれに期待した。それが、出来なくなったのなら中止するか、きちんと説明した上で全く違う映画として作るべきだった。
 
    (リベル) >

>それが、出来なくなったのなら中止するか、きちんと説明した上で全く違う映画として作るべきだった。

先日も書いたかと思いますが、全く同感です。

しかし、石炭を沢山仕入れて積み込んでボイラーを一杯に焚いて、そこへ文化庁から助成を得て、ピーッと蒸気笛を鳴らして滑り出してしまった。そういうことなのでしょう。中止はもう出来ない。ですから、一番いけなかったのは、観客予備軍を全く無視して、説明責任を果たさなかったことだと、そう思います。(6.2 00:58)
 


よく見ていないね。 Re: 谺雄二さんの詩 Re: 新あつい壁  投稿者:北風  投稿日:2007年 6月 1日(金)18時12分46秒   返信・引用  編集済
  > No.2271[元記事へ]

> 最終的には、編集長はこれを取り上げなかったですね。それはじっくり胸の中で熟成するようにということではないかしら。主人公と同じにく、見ている私たちも。

最後にルポライターの若者が原稿や資料写真をまとめてカバンに入れようとしたとき、編集長の手が原稿をしっかりと抑える。採用の予感で終わっている。
 
    (リベル) うーん、北風さんご自身の日常を彷彿させるような、そんなシーンですね。(6.2 00:48)  


Re: 突破口として  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 6月 1日(金)06時15分0秒   返信・引用
  > No.2268[元記事へ]

しゅうさんへのお返事です。

> 「新あつい壁」、この映画は、見て欲しい対象を一般の人、ハンセン病について余りよく知らない人を対象にしていると思います。

ハンセン病問題の入り口に立つ方を対象とは知りませんでした・・・。制作費!つまり、映画鑑賞券の多くはハンセン病問題に関心を越えたものを持ち合わせている方々だからです。もし仮に入り口に立つ方々が対象だとするなら、冤罪なのか定かでない題材を起用するとは益々もって理解できません!

> 若い駆け出しのライターとともに、観衆は、ハンセン病であるが故に起きたいろいろなことを知って、そして考えてもらおうという映画です。

ハンセン病の啓発映画を主張しているのだと思われますが、ここも疑問です。老い先短い高齢者集団という現実を危惧しての強引だが制作実行しかない!また、今後のハンセン病問題の智略の為なのだから冤罪の可能性もある「藤本事件」は欠かせない題材である!
果たして現実は死刑囚というレッテルのままで、世に問うということが、遺族の側から覗かせていただくと果たして耐えられるのか?が、私には付いて回ります。この事件を題材・テーマにするのであれば、先にすること、事前にしなければ為らないことがあった様に思っています。「父ちゃん何処いくと」で提示された映画企画案ではその機微なる「信頼」が気づけていけたのでしょうか?

> 「ハンセン病」に関しては、みんな誤りを犯してきたのです。

北風さんの感想と同じく、責任の転嫁で冤罪は解決など出来るものか?です。「考える」情報提供如何で人は変容していきます。ただし、そこにはしっかりとした問題提起が成される必要性があってこその、情報で無ければならないと思っています。

> 映画では、ホームレスの人に始まって、教誨師も、裁判の事務官も、そして、未感染児童だったお母さんも、みんな誤りを犯してきた、そういうコンセプトで作られています。その誤りはどこから来ているのかそれは各自で考えてもらおうという映画です。

今回の映画制作をシナリオもない状態から、すんなりと後押しされた市民性で、果たして今後のありとあらゆる「被差別化対策」が講じられ、行動に移せるのか・・・、疑問です!

> 見方によって感想が違うのは、それぞれその人の見方に違いがあるのですから仕方のないことですが、この映画のねらいを見誤ってはいけないと思います。

ここに私の大きな難題が深まれております!
「この映画のねらいを見誤ってはいけないと思います」・・・、しゅうさんの言う映画のねらいを、今一度、教えて欲しいと思います。見誤っているとしたら、それこそ大罪の域に入りかねませんし、その恐れがあるのならぜひともここで改心しておきたいと思っています・・・。土下座も厭いません!!

> 藤本事件では、「藤本松夫を救う会」も、昭和30数年に、全患協や法曹界で立ち上がりますが、それほど、社会に広がってゆきませんでした。

しゅうさん、「広がろうとしていた」とは、とれませんか?

> ハンセン病図書館に埋もれている、患者さんたちが命を削って書いてきたすばらしいものが沢山あります。ほんとうに療養所の中から広がらなかったんだなあと痛感して、それをいつまで埋もれさせておくのか、資料に関しては、隔離の時代と何ら変わっていないと悲しく思っています。
>
> 私は、この映画にささやかに期待したいと思います。何か突破口がなければ、この状況を変えられません。

私は映画には期待していませんが、この映画の是非を論ずる仲間に入れたことが、「突破口」という位置づけで日々を・・・、不謹慎かも知れませんが、「楽しく」過ごさせて頂いています!?楽しくとは?、同じ仲間、同じ香りを感ずることが出来る歓びに出会えるからです。
 
    (リベル) 私も、皆さんのお話をうかがっている内に、この映画を観たくなってしまいました・・・(>_<)(6.2 01:17)  


通りすがりさんへ Re: 突破口として  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月31日(木)23時59分50秒   返信・引用
  下に、レスを書いておきました。  


しゅうさんの感じ方、その想い・・・  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月31日(木)22時16分40秒   返信・引用
   しゅうさんのHP “東風吹かば” で、
[3557] 「新・あつい壁」 投稿者:しゅう 投稿日:2007/05/24(Thu) 10:44

 を読み終えて、私にはしゅうさんの感想が以外ではありましたが、素直に感じたままを活字にしてくださったことに 敬意 は持ちました。と、同時に、私に出来ることはないか?・・・と、悩んだあげくリベルさんの大事な提起(「聖書のらい」か「聖書の中の『らい』」か? )中も省みず、しゅうさんと深い間柄の風見治さんの手紙を、貼り付けさせていただくことで、提起したつもりでいました。

>>警官や検事や裁判官は、罪の「作成人」ではないでしょうし、また客観性をもった罪を消し去ってしまおうとするだけが弁護人の立場でもないでしょう。刑は執行されてしまったら、刑そのものの重みによって正当化され、刑は自己の正当性を主張します。それだけにこのたびの再審請求が一日も早く再審開始の運びになり、彼の無実が証明されるよう、私なりの努力もしたいと考えるのです。無実を叫ぶF・M夫氏だけが真実を知り得る唯一人の人間であり、真実は同時に二つも三つもの軌跡は描かないはずだからです。


 このBBS内の“ある「手紙」潤・R  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月25日(金)06時22分1秒 ”
に書かれている風見さんの 言霊 です!
 この言霊に触れるとき、藤本事件を題材に啓発映画を作るという行為が、私にはどうしても理解できませんでしたし、その思いは深まるばかりです!!

 風見さんの手紙文、“ある「手紙」潤・S  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月25日(金)06時19分46秒”内を読むと、当時の世論の動きが垣間見れます、し、[菊池野12巻4号、1962(昭和37)年8月] F・M夫さんの近況――K君への手紙ーー 田中健吾 さんの文責内からも、当時の裾野を広げだした世論の動きが読み取れます!

 「通りすがり」さんの、
> 広がりを持たなかったとすれば、それは国家側の突然の処刑によるものです。
それこそそれを見誤ると大変ですよ。

と、いう見方、捉え方も事実なのでしょう!一方私は、
「広がりを持ちそうだった、からこそ、それは国家側の突然の処刑を招いてしまった」。藤本松夫さんという人物の存在が権能側(司法・厚生省・財界)にとっては、非常に不都合な存在であったと感じさせられます。
が、ゆえに、現実「通りすがり」さんがいう、種火からの火熾しに水が撒かれたかの如く消沈させられた・・・、ようです。

 しゅうさんと私の認識の差異を表す文責を、もうひとつ紹介しておきますね。凄い長文ですが、そのさわりを貼り付けさせていただきます。


         F事件現地調査記録


 昭和三十七年八月二十五日、F・M夫氏を救う会によって、F事件現地調査が行われた。前日、八月二十四日、東京から救う会幹事を代表して、清水忠助氏(元東京都東村山町長、八十二才)がいちはやく熊本に到着、ただちに恵楓園において、患者自治会役員との懇談会をもち、つづいて一般入園者との懇談会に出席され、現地調査を前にF事件への関心を集めた。

 八月二十五日午前、福岡、熊本市及びその周辺からの参加者が揃って菊池医療刑務所にF・M夫氏を訪問し、F氏を激励した。

 調査団の現地への出発は午後一時半、大型バスの中で調査団を結成。

 清水忠助(F・M夫を救う会幹事)
 茂田明孝(全医労福岡地協副議長)
 佐藤義郎(日本共産党熊本県委員)
 渡辺実信(松川を守る会)
 中村重法(全医労熊本支部)
 村上昭子(全医労熊地協)
 石井俊郎(全医労熊地協書記長)
 平田宗男(民医連、熊本保養院々長) 坂本久夫(国救福岡県本部事務局長)
 横山茂樹(弁護士)
 原口保良(全医労熊地協議長)
 久永末広(全医労熊地協書記長)
 牛島春子(作家)
 牛尾公子(事務員、福岡)
 恵楓園患者自治会員二十名(氏名省略)

以上、全員の拍手をもって、茂田明孝氏を団長に推し、バスは午後一時半雨もようの天候を衝いて恵楓園を出発した。同乗者の中に、かつてF事件を担当した元西日本新聞記者田中友喜氏の顔も見えた。途中、K市で、
 牛島恵(K市役所職員)
 外村公成(〃   )
 小代孝幸(日本社会党菊池支部長)
の三氏が乗り込んだ。そこで、バスは時間の都合で予定のコースを変更、近道である尾根のコースをとり、坂道に躍り入った。懸命に岨路をのぼりきると、バスの屋根は薮穂をふりかぶり、烏瓜の蔓をひきずる狭い道に出た。そこらからは水源らしい灌漑が見られ、部落がそこここに点在していた。農夫が鍬を手にしたままバスの通過をながめていた。

 HRという部落の入口でしばらくバスが停った。先に来ていたNHKの車が道を除けるまで待つ。薄暗い雑貨店の中から店の者と、客らしい二、三の人が珍しげにバスを見ていた。紅い日傘の少女が三人バスに近づいて来た。こういうところに大型のバスがくるのはめずらしいことなのであろう。うしろに新聞社の車が二、三台つづいて・・・・・・・以下省略。
[菊池野12巻5号、1962(昭和37)年9月]に掲載。

 「F事件資料集」では、P132よりP143内に記載。
 


谺雄二さんの詩 Re: 新あつい壁  投稿者:しゅう  投稿日:2007年 5月31日(木)20時26分10秒   返信・引用
  > No.2265[元記事へ]

> また、死刑判決は主文を後回しにして先に判決理由の朗読がなされるのは、誰でもといわなくても、知っている人は多い。しかし、この映画は主文が先に朗読された。ここでしらける。

冒頭に流れた朗読は、谺雄二さんが、この映画のために書かれた「詩」だそうです。
重々しい、谺さんらしい、詩でしたね。突然流れたので、心の準備が出来てなかったので、しっかり聞き取れなかったのですが。

>
> また、セットも農家のくぐり戸の障子が今日張り替えたかのように真っ白で破れ一つない。小学校にいけなかったくらいの貧農のうちが立派な床の間を備えた結構な構えだった。監禁所の屋根瓦も昨日葺き替えたようだ。こうした細部は農家の出のおいらとしては見過ごしに出来ない。


事件のあった頃は、藤本松夫が身を粉にして働いたそのお陰で、村でも中位の農家になっていたと何かに書いてありましたが。


>
> 事前取材で分るようなことを入所者から聞いていちいち驚いていた主人公はたった一回の取材でルポを書き上げる。


最終的には、編集長はこれを取り上げなかったですね。それはじっくり胸の中で熟成するようにということではないかしら。主人公と同じにく、見ている私たちも。
 


推測で言ってしまいました  投稿者:しゅう  投稿日:2007年 5月31日(木)12時07分55秒   返信・引用
  > 藤本事件では、「藤本松夫を救う会」も、昭和30数年に、全患協や法曹界で立ち上がりますが、それほど、社会に広がってゆきませんでした。


これは、わたくしの推測、「広がらなかったのではないかと」思ったにすぎません。言いたかったのは、「ハンセン病」のことを、いろいろ、もっと社会に広く知られて行って欲しいと思ったので、引き合いに出しました。
木々高太郎著「熊笹にかくれて」と言う本を今読んでいますが、こんな本が、昭和35年に出ているのですから、この裁判に、注目する人はかなりいたのでしょう。
 


Re: 突破口として  投稿者:通りすがり  投稿日:2007年 5月31日(木)11時51分24秒   返信・引用
  > No.2268[元記事へ]

> 「ハンセン病」に関しては、みんな誤りを犯してきたのです。

みんな、みんな、みんな。
はいはい。みんな悪いですよ。

> 藤本事件では、「藤本松夫を救う会」も、昭和30数年に、全患協や法曹界で立ち上がりますが、それほど、社会に広がってゆきませんでした。

これは大きな「侮辱」ですね。
映画を推進する(したい)人たちの浅ましさがかいま見えます。

広がりを持たなかったとすれば、それは国家側の突然の処刑によるものです。
それこそそれを見誤ると大変ですよ。
 
    (リベル) >> 藤本事件では、「藤本松夫を救う会」も、昭和30数年に、全患協や法曹界で立ち上がりますが、それほど、社会に広がってゆきませんでした。

>これは大きな「侮辱」ですね。
>映画を推進する(したい)人たちの浅ましさがかいま見えます。

>広がりを持たなかったとすれば、それは国家側の突然の処刑によるものです。


「社会に広がって」いかなかったのは、事実です。それを述べることが、何故、誰に対する「侮辱」になるのか、私には分かりません。

「映画を推進する(したい)人たち」は何故浅ましいのですか。私は決して推進派ではありませんが、しかし推進する人を「浅ましい」とは思いません。

「広がりを持たなかったとすれば、それは国家側の突然の処刑によるものです。」と断定は出来ません。他の原因も沢山有ったことと思います。それから、しゅうさんの、仰有っていることは、患者さんたちの書き物が療養所の外へ広がって行かないことへの歯がゆさも含まれているのです。

冷静に、徒に刺激的な言葉を発せずに、暖かい眼差しで、その辺も読み取って頂きたかった、と思っています。(5.31 23:57)
 


突破口として  投稿者:しゅう  投稿日:2007年 5月31日(木)10時15分25秒   返信・引用  編集済
  「新あつい壁」、この映画は、見て欲しい対象を一般の人、ハンセン病について余りよく知らない人を対象にしていると思います。
若い駆け出しのライターとともに、観衆は、ハンセン病であるが故に起きたいろいろなことを知って、そして考えてもらおうという映画です。
「ハンセン病」に関しては、みんな誤りを犯してきたのです。
映画では、ホームレスの人に始まって、教誨師も、裁判の事務官も、そして、未感染児童だったお母さんも、みんな誤りを犯してきた、そういうコンセプトで作られています。その誤りはどこから来ているのかそれは各自で考えてもらおうという映画です。

見方によって感想が違うのは、それぞれその人の見方に違いがあるのですから仕方のないことですが、この映画のねらいを見誤ってはいけないと思います。
藤本事件では、「藤本松夫を救う会」も、昭和30数年に、全患協や法曹界で立ち上がりますが、それほど、社会に広がってゆきませんでした。

ハンセン病図書館に埋もれている、患者さんたちが命を削って書いてきたすばらしいものが沢山あります。ほんとうに療養所の中から広がらなかったんだなあと痛感して、それをいつまで埋もれさせておくのか、資料に関しては、隔離の時代と何ら変わっていないと悲しく思っています。

私は、この映画にささやかに期待したいと思います。何か突破口がなければ、この状況を変えられません。
 


“何回かのカットでほろりとしたものの”  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月31日(木)07時00分48秒   返信・引用
  >というようなわけで、何回かのカットでほろりとしたものの、それは映画全体から来る感動とは無縁なものでした。

 昨年私に、豪語された方がいました。

「シナリオという平面的なものから、撮影・ロケという監督ならではのその手腕による立体化された作品に、期待は出来ないのか。作品が出来もしないうちから“批評・批判”することはいかがなものか!?」
でした。

 北風さんの感想を読み、>何回かのカットでほろりとしたものの・・・

 この部分で、鑑賞とは違った観賞された方々が、「良い映画に仕上がっていました」と、異口同音に発信されていた要因が理解できました。

 私は、映画が持つプロパガンダを考えた時、上手く伝えられませんが、訴える力というのか?重く、そして深く覆うことが出来るチ・カ・ラも内在している媒体と捉えていました。

 だからこそ、「中々良い映画に仕上がっていたようです!」という観賞者の感想には力の抜ける思いがしていたところです。

 映画制作者側・支援者の大半が、まずは映画を作ること!つまり、「映画が目的化」されていることに私は危機を持ち得ていました。

 先日も投稿しました、『2005・3・19』西南学院大学で同じ空気を吸うことができた仲間内の中に、この映画 「新・あつい壁 」の制作者・支援者がいました。その制作の核となる方々は、私たちとは違った「映画の目的」をお持ちであることも承知しました。

 あの西南学院大のシンポをお聞きし、なぜこのような拙速・稚拙と思える行為ができるのか?は、今も私の重いテーマとなっていますが、「ハンセン病市民学会」の昨年度の活動方針に、「映画製作・上映への協力」が盛りこまれたこと!全国ハンセン病療養所入所者協議会の支援を得たこと!などを考察していけば、「映画の目的」は、制作者側にも間違いなく内包していたのでしょう。

 問題は、その「目的」ですね。

 「藤本事件」をなぜ?題材として映画化したのか? この思いをこれからも考えていきたいと思いますが、「利用」「道具」が目的の域であったとされるのであれば・・・、「藤本事件」が残して下さった、多くの記録(資料)達は、今の現状を理解してくださるのでしょうか!?
 資料群に触れれば、ふれるほど「事件と向き合って」という声が聞こえてきそうです・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


[菊池野12巻4号、1962(昭和37)年8月]

     F・M夫さんの近況――K君への手紙――
                       田中健吾

K君、先日はお手紙ありがとう。君に依頼されていたFさんの近況、最近の考え方など早く知らせようと考えておりながらも、なかなかに実現せず、今日までおそくなって大変申訳なく思っております。本当のところ、私も不勉強で大した力にもなれず、Fさんとも主に文通であり、面会のことも昨年から考えては居りながらもなかなか機会に恵まれてなかったわけでありますが、今春三月に四年ぶりに会うことが出来ました。その後六月九日に渉外部長と他一名で面会できる機会を得たものの、先回通り面会時間が一時間であることに変わりなく三人とも大した話もできぬ有様です。この時間の件は、本事件に限って面会時間が延長されるよう、本園の救う会が園側とも相談して裁判所と交渉されればと考えております。延長が出来ない場合、休憩時間をおいて改めて一時間の面会を許可されればそれも良いと思うし、正直に云って、日を改めて出直すなどはなかなかに容易ではないわけです。その他、面会を定期的にやれるようにでもなればFさんも好都合でしようし、運動の上にも何らかの発展も生じると考えますし、これは今後の課題として考えてほしいものです。

 今回は事件の内容より、最近のFさんの健康、そして最近の印象などを伝え、それに対する私の考えなど話していこうと思います。先にも話したように、本年になって二回会うことができ、その間のFさんの話などをきき、最も大きな変化として印象づけられたことは、Fさんが非常に話上手になられたということです。この事から問題を考えることにします。話上手になった―この事は、今からのFさんにかなりのプラスになってゆく大きい要素だと考えます。なんとしても裁判はその物的証拠に依存するものでありますが、まず、裁判官、弁護士、検事の話すこと、質問を十分にきく、そして解する能力が大きな比重を占める事、それにより、Fさんが自分の主張なり反論を正しくなしうる力であろうと思うから。このように、第一義的な意味をもつ会話の能力(文字を覚えた事も含めて)はFさんの語る激励への内容、住所、氏名など実に正しく記憶されている事であり無駄なく話されている流暢さが、大きくその成長を物語っていると云えよう。そしてその事は、君のように比較的若い人とも、否どんな人々とも文通をもちたいと願う心に変わって来たことです。どんな人にでも自分の真心を伝えたい。正しい主張をして理解を求める心、この気持ちは死刑囚としての心のアセリではなく、私には極く自然に受取ることができます。

 このように、積極的で、しかも人間的にも明るくなって来たと思われる印象は、囲りの力もさることながら、本人にとっては並大抵の努力ではなかったはずだ。文盲に等しい状態で、そこから生まれ変わる事ができたとすれば、それは自分の生命をかけての、ドン底でなされた価値であると云えよう。死刑囚であれば誰でもできるとは云いきれない何かが、Fさんをそこまで作り上げたものと確信できる。

 Fさんは一〇年以上も刑務所で生きて来た。普通の考えからすれば、誰とでも文通したいと思い、誰とでも会ってシャバの事を知りたいと願う心は、死刑囚ならずとも当然すぎる現象である。その事も私は否定しない。しかし、普通の死刑囚と大きく異なることはその発生因であり、Fさん自身の生いたちである。そこに単なる欲望としてだけ映らないFさんの叫びがあることを私は見逃せないのである。

 Fさんは山村の、善良な一農夫であった。文字など知らなくとも、結構幸福を感じて毎日を生きていたと云える。文字を知らぬこと―それ自体は時と場合によっては恥ずかしくもあろう。しかし世の中には文字など知らなくとも結構幸福を思い、一生をそこで過せる人も場所もあるものです。ところが本事件の主人公となってからの前半は、その文字を知らないことと善良なるが故に愈々不幸になっている。いやFさん自身がなったのではなく、文盲と善良さを利用されて、ダイナマイトを仕掛けて人を殺す男にされ、最後には本当に人を殺してしまった人間にされてしまった。それは悪政と官憲であり、ハンセン氏病者に偏見をもつもの全ての人間がそうしてしまったと云えよう。この事はもう誰でもが知っている事だが、更に一段と飛躍して考えなければならないことは、Fさんが文盲であり善良であった事も含めてハンセン氏病者に対する偏見である。私たちに対する非人間扱い、政治も、集団も個人も、Fさんがハンセン氏病であると云う理由だけでどのように扱われ、待遇されて来たか。そのことを知るとき、やはりFさんの状態を一段と深く考えざるをえない。F事件を知って私たちは悲しいまでに憤りを覚えた。ハンセン氏病なるが故の扱い―予断による逮捕―取調べ―裁判、そして文盲を加味されて死刑。君も知っているように、一応順序は追っているが、取調べも裁判も、全て物的証拠を無視し、公正なる証人を威し、全てがデッチ上げられている事だ。何度も云うように、これはハンセン氏病者なるが故の実に無茶な裁判でありそのままハンセン氏病者への圧迫と偏見を暴露したものである。Fさん自身が、このような威しやデッチ上げを暴露し、自分の無罪を叫び、そのために総ゆる手をつくして裁判のやり直しを叫び訴えることは、私たちハンセン氏病者全ての基本的人権と裁判の平等をさけび、社会のアクを訴えている姿だと思う。これは大きな問題です。人権を無視されること、あるいは社会から排除されると云う状態、この事は君にはどうひびいて伝わるだろうか。当然の事をいつも躍起になって叫ぶ私たちのことを、正直云って実感として受取られないと思う。

 村八分と云う言葉がある。
 このことは、大ゲサに云えば外交断絶であり経済封鎖である。社会生活の自由を奪われ、一家は破滅に追いやられる。ところが、私たちハンセン氏病者の歴史には自由、平等と云う基本的なものまで剥奪されていた暗黒時代があったし、今に及んで、なお予防法と云う事実上の大きな壁がある。病原菌そのものの正体さえ判明しない。しかも極めてマレなる伝染性の病気である事が明瞭なるに至った今日でさえ伝染病と云う漠然たる理由で、私たちの自由、社会的平等性は鎖につながれている。一方暗黒時代の置土産として、意味のない病気に対する恐怖、そして偏見があり、そのために私たち同胞、私たちの家族の身上には、常にそのための悲しい障害もおこっている。

 話題がいく分飛躍したが、Fさんの今日までの苦しい過程の中で生きて、そしてなお自分の主張を叫び続ける事は、このような、人間同志が争ってはならないこと、侵してはならない誤りに対する叫びであり闘いである事には何の疑もない。事ある度に云われる言葉、それはF事件の背後にあるもの、この事を見極める事なくしてF事件を正しく理解する事はできない。

 今日のFさんは、その意味でかなりの飛躍をとげていると云える。又、Fさんの個人に対する理解も含めて、F事件にまつわる出来事、その発祥、今日に至る過程は、全て私たち一人一人がFさんと同様に扱われて来たものと考えてよかろう。この事を知って、私たちが何の手も下さぬと云うことは、自分の手で自分の首をしめる事であり、それはまた、Fさんを、無罪か有罪かの二つの中、その一つを取ることでもない。もしも、Fさんが死刑囚として刑死(処刑される場合)するような不幸な事態を生じた場合、私たちの真の人間性も、同時に暗黒時代にかえることを意味する―私はそう思う。

 K君、今回まで三度、同じような事でしめくくりをするわけだが、君がFさんに差しのべる手、救援の手、その手はそのまま私やその同胞に、そして同胞の家族にさしのべた手であり、私たちを人間らしいものに導く尊い手であることを信じます。そして、その手はどんなにでも広がってゆく力もあります。

 今日、Fさん個人は誠に不幸な人ですが、一方Fさんを死刑にまで追いやった憎むべき人間、そしてハンセン氏病者なるが故の死刑と云う実に無茶な判決を知る時ある意味では、現在の自分の訴え、立場と云うものに生甲斐を見出していられることは疑えない事です。この事を私たちは忘れてはいけないと思う。Fさんの救援会は中央では岩波の玉井先生、本事件主任弁護人の関原先生をはじめ、多くの文化人、知名士の賛同を得て救援の中核となって活動されておりますが、また、地元では自治会渉外部が中心となり、救援会の人々も多く御苦労されておりますが、地元の救援会としてはいま少し考える点もあると考えます。

 F事件の再審請求は、只今熊本地裁に出されているとききますし、再審理由の新事実も期待されている時でもありますので何にしても地元の救援会が、一段と具体化された活動を展開されるよう念じてもいるものです。

 K君、君の期待に十分応える事は出来なかったとも思いますが、今回はこれまでに止めます。君と私の友情が一段と強くなる事を信じて――。
                         1962・6・25
 


Re: 新あつい壁  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月31日(木)00時53分14秒   返信・引用  編集済
  > No.2265[元記事へ]

> まあ、有料試写会を見に行ったんだけれど、ミーハー的にはナマ夏八木勲を見たのが収穫。夏八木もふけましたね。
>
> 映画は、平板でした。
> 若いルポライターが、入所者から話を聞く。それだけの映画でした。
> 「冤罪、冤罪」と入所者役のケーシー高峰と高橋長英が力説するのだが、それを聞くだけ。独自の取材もしない。これでは入所者が冤罪の主張をしているということだけになってしまう。「冤罪」の実証が為されたとはいえない。(これをしていただきたかった)


冤罪の立証は、再審を通じてしか、法律的には出来ないのではないかと思います。先日書いて居られたように、「冤罪」を実証するための映画(「死刑台のメロディー」みたいな)を作ることは出来ても。

この映画に、シナリオの段階から、もうそれを求めることはしないで、私は諦めて、放り出したわけです。「有罪」は国が決めたので、国(文化庁)から助成金を貰って、国に逆らう映画は、当然作れなかったのでしょうね。


> 一夜明けてストーリーは、よく覚えているのだが、印象がない。「冤罪」への怒りも、被害者の無念も伝わってこない。彼を殺した「権力」や「司法」への批判も怒りもない。
> 彼を殺したのは「われわれの差別意識だ」という、「一億総懺悔」では、問題が拡散してしまう。


名言ですね。本当にそうですね。先に書いたように「批判」は無理でも、「怒り」や「無念」は描けたはずです。そこまで腑抜けなのですか。呆れました。


> それに裁判やハンセン病への基本的な認識不足がリアリティを損なっている。
> たとえば、「裁判」当時の入所者の会議で「ハンセン病」という発言が出てくる。その当時はふつうに「らい」または「ハンセン氏病」といっていたはずだ。
> また、死刑判決は主文を後回しにして先に判決理由の朗読がなされるのは、誰でもといわなくても、知っている人は多い。しかし、この映画は主文が先に朗読された。ここでしらける。
>
> また、セットも農家のくぐり戸の障子が今日張り替えたかのように真っ白で破れ一つない。小学校にいけなかったくらいの貧農のうちが立派な床の間を備えた結構な構えだった。監禁所の屋根瓦も昨日葺き替えたようだ。こうした細部は農家の出のおいらとしては見過ごしに出来ない。
>事前取材で分るようなことを入所者から聞いていちいち驚いていた主人公はたった一回の取材でルポを書き上げる。


流石に北風さん、厳しいチェックですね。恐れ入りました。要するに「お粗末」な出来具合なのでしょう、万事。まあ、中山監督に、多くを求めてはいけませんが。


> 最後の左時枝は熱演だったけれど、今に残る差別意識、偏見差別による家族の被害を言いながら、自分の恋人の母親がハンセン病患者の子どもだったことを知った若いルポライターは動揺もしない。映画はその内面を描こうともしない。
> このルポライターは、「今に残る偏見差別」から無縁の異星人かい?
> むしろ「偏見差別啓発」の映画なら、ここから話が始まる方がいい内容になろう。
>
> というようなわけで、何回かのカットでほろりとしたものの、それは映画全体から来る感動とは無縁なものでした。


簡にして要を得た、見事なレポートを有り難うございました。映画の仕上がりも長所短所も、良く分かりました。これで貴重な1000円だか、1200円だかを無駄遣いせずに、済みます。
 


新あつい壁  投稿者:北風  投稿日:2007年 5月30日(水)09時45分41秒   返信・引用
  まあ、有料試写会を見に行ったんだけれど、ミーハー的にはナマ夏八木勲を見たのが収穫。夏八木もふけましたね。

映画は、平板でした。
若いルポライターが、入所者から話を聞く。それだけの映画でした。
「冤罪、冤罪」と入所者役のケーシー高峰と高橋長英が力説するのだが、それを聞くだけ。独自の取材もしない。これでは入所者が冤罪の主張をしているということだけになってしまう。「冤罪」の実証が為されたとはいえない。(これをしていただきたかった)

一夜明けてストーリーは、よく覚えているのだが、印象がない。「冤罪」への怒りも、被害者の無念も伝わってこない。彼を殺した「権力」や「司法」への批判も怒りもない。
彼を殺したのは「われわれの差別意識だ」という、「一億層懺悔」では、問題が拡散してしまう。

それに裁判やハンセン病への基本的な認識不足がリアリティを損なっている。
たとえば、「裁判」当時の入所者の会議で「ハンセン病」という発言が出てくる。その当時はふつうに「らい」または「ハンセン氏病」といっていたはずだ。
また、死刑判決は主文を後回しにして先に判決理由の朗読がなされるのは、誰でもといわなくても、知っている人は多い。しかし、この映画は主文が先に朗読された。ここでしらける。

また、セットも農家のくぐり戸の障子が今日張り替えたかのように真っ白で破れ一つない。小学校にいけなかったくらいの貧農のうちが立派な床の間を備えた結構な構えだった。監禁所の屋根瓦も昨日葺き替えたようだ。こうした細部は農家の出のおいらとしては見過ごしに出来ない。

事前取材で分るようなことを入所者から聞いていちいち驚いていた主人公はたった一回の取材でルポを書き上げる。

最後の左時枝は熱演だったけれど、今に残る差別意識、偏見差別による家族の被害を言いながら、自分の恋人の母親がハンセン病患者の子どもだったことを知った若いルポライターは動揺もしない。映画はその内面を描こうともしない。
このルポライターは、「今に残る偏見差別」から無縁の異星人かい?
むしろ「偏見差別啓発」の映画なら、ここから話が始まる方がいい内容になろう。

というようなわけで、何回かのカットでほろりとしたものの、それは映画全体から来る感動とは無縁なものでした。
 
    (リベル) 拝読しました。有り難うございました。一杯機嫌なので、あらためて、お伺いします、も変ですが・・・。(5.30 17:41)  


増補版について  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 5月30日(水)03時03分32秒   返信・引用  編集済
  ルリカケスさん こんばんは

 基本的なことは、初版でいいと思います。引用などは、一つ一つ増補がどうとかいうことは書きません。しかし4年間で、あまり色々なことがあったので、著者が増補されたのでしょう。
 教科書の方は東海大学でしょう。分担執筆の本で、いい本ですが、自分の専門の所だけ、せっせと書き、いままでの日本人の業績を無視している面もあり、私には不満の残る教科書です。
 


4年後増補まえがき  投稿者:ルリカケス  投稿日:2007年 5月29日(火)19時00分41秒   返信・引用
  Ichiro 先生「日本らい史」山本俊一先生の増版があったのですか?
初版「日本らい史」は手元にありますが。

過日「総説・ハンセン病医学」を購入致しましたが?(東京大学出版会)から、それで
「日本らい史」の増版知りませんでした。何故でしょうか?自分でも首かしげています。
 


4年後 増補まえがき  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 5月29日(火)09時16分11秒   返信・引用
  贅沢かもしれないが、必要で増補の方も持っています。

 あとで、入れましょうか。

 いまはちょっと忙しいので。

 Ichiro
 
    (リベル) あ、お心遣い有り難うございます。私が借りたのも、1997年の増補版なのです。その「初版 まえがき」を転載しました。今、先の投稿のタイトルを訂正しました。誤解を招くタイトルだったので・・・。

「日本のハンセン病の歴史」とカブルところが、面白いと思ったので。有り難うございました・・・m(_ _)m(5.29 11:38)
 


「日本らい史」の「初版 まえがき」です  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月29日(火)08時07分8秒   返信・引用  編集済
  宝塚市立図書館になく、兵庫県立図書館から借りて貰いました。

全部転載させて頂きました。廃止法の三年前に書かれたものです。その後を、少し付け加えれば、「日本のハンセン病の歴史」一巻の完成です。私の仕事が無くなりました。ま、と言うわけには行きませんが、これをなぞって、少し補強すれば、出来上がる、と言うほど、完璧に書かれた「まえがき」には、いやはや恐れ入りました。ご一読下さい・・・。

 『わが国では、らいは有史前より存在していたと考えられるが、今日まで、患者が多発して流行状態になったという記録はない。
 飛鳥時代から奈良時代にかけては、仏教の影響を受けて、病者および貧者に対する公的な慈善事業が盛んであったが、らい患者も当然のこととして救済の対象であった。
 しかし、その後朝廷や寺院の勢力が衰退するとともに、このような慈善事業は低調となり、その後鎌倉時代に二、三の僧侶が個人的にらい患者救済活動を熱心に行なった以外、制度としてはみるべきものはなかった。
 一六世紀になると、わが国に渡来したキリシタン宣教師の中にらい患者救済に熱心な人がおり、その影響を受けてキリシタン信仰をもつ大名や豪商たちによって、収容施設の設立など、患者援護活動が行なわれた。
 しかし、江戸幕府のキリシタン禁制とともにその動きは止まった。また、江戸時代の厳しい封建制度の下で固定化した社会体制の中で、一部の患者たちは特定の居住地区にとじ込められ、不良な衛生環境の中での生活を強いられ、歴代にわたって家族内感染を繰り返していった。そのため、当時の一般の人たちは、らいは遺伝病であると誤認し、らい家系があるなどと誤信するに至った。
 明治時代に入って、国内の移動が自由になったので、窮屈な地域的束縛から解放され、患者たちは、全国に散らばっていったが、らいに対する社会の差別はなお根強く、正業に就くことができなかったので、止むを得ず有名な神社、仏閣などの盛り場に集り、浮浪生活を送るを余儀なくされた。
 この状況を目のあたりにして、最初に救済の手を差し延べたのが外国人宣教師たちで、国内数カ所に私立療養所が設立された。ただし、これらは小規模なものばかりであった。
 日露戦争に勝って世界一流国の仲間入りをしたわが国にとって、らい患者が街の中を徘徊して外国人の目に触れるのは国辱であるとの主張が強まり、明治四〇年に浮浪患者を対象としたらい予防法、法律第十一号が公布され、二年後には全国五ヵ所の公立療養所が設立された。
 しかし、大多数を占める有資産患者はこの法律の適用対象外であったので、引き続き家庭内にあって社会的、経済的圧迫の下に生きていかなければならなかった。
 その後、公立療善所の収容能力は漸次拡大されていったが、昭和六年には全国患者を対象とするらい予防法が公布され、政府は予防活動を漸進的に強化し、国立療養所の設立、公立療養所の国営化などの施策を推進するとともに、在宅患者の強制収容に乗り出した。
 特に戦時中は、行き過ぎたらい予防政策の強行による患者人権の蹂躙および療養所予算の窮乏による収容患者の生活困窮により、患者は身心両面において大きな被害を受けた。
 敗戦とともに、らい療善所には二つの大きな改革がもたらされた。
 一つは、治療薬プロミンの導入である。戦時中米国で開発されたこの特効薬のお蔭で、らいは不治の病気から治療可能の病気に一変し、少なからぬ患者が全治して社会に復帰した。しかし、彼らの行く手を妨げたのは全治患者に対するいわれのない偏見で、いったん社会復帰したものの再び療養所に逆戻りしなければならなかったり、あるいはその状況を見て、無菌状態になったにもかかわらず、社会復帰をあきらめた人が多かった。
 これとは別に、戦後療養所にも押し寄せた民主化の波に乗って患者たちも人権に目覚め、所内の自治活動が活発化し、遂に全国療養所を結ぶ全国患者協議会(全患協)の結成にまで漕ぎつけ、一つの運動体としての活動が始まった。
 このような時代背景の中で、昭和ニ八年にらい予防法改正が国会で議せられることとなった。患者たちは、従来の患者人権無視の予防法が、抜本的に改正されるものと期待したが、それが裏切られたので全患協による患者運動が急速に盛り上った。しかし、それにもかかわらず、患者に対する厳重な隔離と消毒、入所患者に対する懲戒などの旧法の条文はそのまま残り、小幅な改正に留った。全患協はこれを不満とし、その後今日まで四〇年間にわたりらい予防法の再改正を要求しているが、まだ実現には至っていない。
 なお統計によると、国内における患者の新発生はほとんどなくなり、全般的な患者数の減少と患者年齢の高齢化が緩やかに進み、近い将来、この病気の根絶が達成されるものと期待される。
 本書は、このような画期的ならい終焉の時期において過去一五〇〇年にわたる目本のらいの歴史をまとめたものであるが、これが、らいと多くの共通点をもちつつ、これに代って登場したエイズの時代に対する戒めとなれば幸いである。』
 


「死」について  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月29日(火)07時04分11秒   返信・引用
   「松岡利勝農相」の自殺とされる“死” と  「藤本松夫」さんの絞首刑とされる“死”を、今朝は考えています・・・・・・。
 死の相違点と類似点を考えずには、いられない気がしたのです。

 このニュースを耳にした時、なぜか?藤本さんを思い出してしまった私です。

 多くの遺書を残しながら、死と対峙する時間もあったはずなのに、正装するわけでもなくパジャマ姿(?)での・・・自殺。

 代筆による遺書を残し、地団駄の痕跡も無く(暴れた痕跡)・・・絞首刑。

 果たして、無理からの類似考なのでしょうか?


 「藤本事件」・・・、【1962・9・14】の大いなる疑念は深まりをましていきますし、その事実(なぜ?早急・・・喫緊とされる刑の執行が行なわれなければならなかったのか)は、無作為・不作為または、作為の中に包まれた状況下で、民主主義が語れるのか?が、付いて回っていますし・・・・・・、
 今回の大臣の死も深めていく努力が「藤本事件」の真意を探っていくものには、けっして無縁ではないと感じた朝です!!
 


削除の報告  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月29日(火)04時10分58秒   返信・引用
  みなさまほんとですか?  投稿者:ポリシー (IPアドレス:59x158x108x217.ap59.ftth.ucom.ne.jp) 投稿日:2007年 5月29日(火)02時42分16秒

この投稿は、書いてあることの意味が不明であり、悪意のみに発するものと判断して、削除しました。
 


重箱の隅  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 5月29日(火)01時25分44秒   返信・引用
  l(エル)が二つで思い出しました。

 あちこちにJoyfullというレストランがあるが 英語は joyful

  です。皆様間違わないように(私がまちがいそうであった)
 


お読みになりましたでしょうか?  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月28日(月)00時53分59秒   返信・引用  編集済
  一時間ほど前、「志村康さんとキャッチボール」に、志村さんがこう書いて居られます。

「金・土と2日続けての葬儀でした。二人とも70歳代の男性でしたので平均年齢が跳ね上がりそうです、二人共に良く知っている方でしたので残念ですご冥福を祈ります。

今日の友人との会話です、元気でしたかでは怒られるし、ご飯食べたかでは返事が疑わしく、ご飯おいしく食べているか?ではないかという話になりました。

ハンセン病問題基本法についてでありますが、誰しも考えることは最後の一人になりたくないと言う落ちになりますが、最後の一人でもいいから生きていたいと言う言葉が出るには何が必要なのでしょうかと考える事しきりであります。」


この数行の痛切な言葉は、骨にまで響いてきます。


現在の療養所を、国立医療機関のまま市民に開放する、市民と共同の福祉施設にする、そういう方向がこれまでも示唆されています。それが一番良い方法だし、それ以外の方法は考えられないと、私は思っています。「ハンセン病問題基本法」が唱えられてから、もう半年が過ぎ、その間にも何名もの方々が先立たれています。

私は、それを十二分に、身近に知りながら、何もしていません。何をして良いか分からないと言うのも、正しい言い方かも知れませんが。

今取り組んでいること、「ハンセン病の歴史」の纏めに黙々と打ち込むことは、「逃げている」ような気もして、落ち着きません。実際、逃げているのでしょう。 でしょうか? ウーム。
 


Re:隅田寛論文では  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月26日(土)23時40分35秒   返信・引用  編集済
  ドン・キショトさん、有り難うございました。こうしてチェックして頂いていることを知るだけで、本当に心強く、また、迂闊なことは書けないぞと言う戒めにもなります。

隅田寛氏のこの論文は、「セプタギュンタ」とか「ウルガタ」という言葉を初めて教えてくれたもので、私も「70人訳聖書」の注のところで、引用しています。今もう一度プリント(最近はこの言葉、使いませんか?ですね。でも言い得て妙。便利ですね)を引っ張り出して、読み返しました。


ついでにここに書かして頂きますが、実はブラウン、犀川両氏の間違い(誤訳)ではないか?と言う事態が発生しました。両氏ともエジプトのミイラのクリステンセンの調査対象を、B.C.6,000年から600年のものと書かれていますが、昨日発見したMichel Lechatというベルギーの学者の論文(これはIchiroさんにお願いして調べて頂いた結果、「お墨付き」です)では「B.C.600年から」となっているのです。そもそもエジプト文明はB.C.3000年頃から、とされているのに、変だなあと思っていたら、これです。何か、最近これはと思っているものが間違っていたりするので、信じられなくなってきたりして、疑心暗鬼に陥って悩んでいます。

重箱の隅をつつくのも良いけど、他にやるべきことが有るんじゃないの?という自省も覚えるのですが、「紀元前五世紀か、後五世紀か?」、「B.C.6,000年か、B.C.600年か?」は、重箱の隅とは言って居られないだろうという、と言う気持ちも強くて。クリステンセンの原典探しは、もう嫌!です、しかし  ... o_ _)o パタッ

と言いつつ、原典を調べていて、またまた、両氏の間違いを発見。梅毒の英語「Syphilis」が「Syphillis」と「l」が二つになっていて、これこそ本当に重箱の隅ですね・・・(;´ρ`)ダメジャ コリャア

それにしてもドン・キショットさん、恥ずかしいことに「衍字」という言葉、生まれて初めて目にしました・・・(恥)
 


隅田寛論文では  投稿者:ドン・キショット  投稿日:2007年 5月26日(土)19時23分45秒   返信・引用
  http://square.umin.ac.jp/co-medsf/newpage/Journal/3-1-21.pdf

広島国際大学保健医療学部・隅田寛の2004年の論文「旧約聖書にみる皮膚疾患とハンセン病」
を見ると、クリステンセンのミイラの骨変化の研究は、紀元前760年~紀元600年頃となっていて、
犀川氏の文献にふれたその部分は、当然のことながら“前5世紀”となっている。
(上記pdf中のp.22-23参照)

先行研究のこのような衍字や誤植などが、誤情報であってもそのまま引用されていく、むむむー、ですね。
 


藤本松夫氏の救援運動  投稿者:ルリカケス  投稿日:2007年 5月26日(土)16時57分54秒   返信・引用
  和光  (秋季号)  1959年(昭和34年)

藤本松夫氏の救援活動   (大賀末志・自治会長)

 療友藤本松夫氏救援について此の度の恩赦にもれたと云う事は周囲の事情から推して致し方ないとしても、私等は自らのいわゆるハンゼン氏病者の人権を獲得する意味に於いても一人一人がよくその真相に対して究明し積極的に救う会の運動に協力しなければなりません。又斯かる社会的不遇者の所以で尊い人権が無視されると云う事は、今後一般社会の居られる身体障害者の如き不遇な人々の人権へも類を及ぼして行かないと誰が断言できるでせうか。この事からしても救う会の運動は全国的運動として推し進めて行かなければならないと希望するものです。私達奄美和光園に於いても救う会の意向をマイク放送して全入園者に訴え又全医労奄美支部へ支部長を通じて協力方を依頼し多数の御賛同を得る事が出来ました。我々は力の続く限り、最後の最後迄藤本氏救援に併せて予断と偏見打破の為に社会の蒙を啓くために協力一致して力強くこの運動に立上らなければならないと思います。

 幸いにして全国に有識者多数の御賛同を得、救う会事務局長玉井乾介氏の並々ならぬ御尽力御卒先によって日を追って延び行く事を心から感謝いたし居ります。私等は仮令微力であっても一歩一歩と目的に近づいて行く事を念願し、一人でも多くの理解者、協力者が得られます様祈りたい。最後に救う会の運動に日夜御卒先下されて居ります事務局長玉井乾介氏対し深甚の感謝を捧げると共に今後の御健斗を切望いたします。


私見ですが、(新・あつい壁)映画上映が近い内奄美市でも上映される予定ですが?映画上映の前に映画の現実を観覧者に伝えたい。
 


Re: 「聖書のらい」か「聖書の中の『らい』」か?  投稿者:tama  投稿日:2007年 5月26日(土)00時48分33秒   返信・引用
  > No.2251[元記事へ]

> 犀川一夫氏とBrowne氏の訳が同じでないことを発見しました。短いからここに書きます。

Aussatz, Lepra, Hansen-Krankheit. Ein Menschheitsproblem im Wandel. Ausstellung im Deutschen Museum München Ausstellungspavillon. 5. November 1982-9.Januar 1983.
『癩・レプラ・ハンセン病 変転する人類の問題』という題名の、1982年11月5日から1983年1月9日までミュンヒェンのドイツ博物館で開催された展覧会の図録に、
Kamal Sabri Kolta, Die Lepra im Alten Ägypten in der koptischen Zeit. S.58-63
「古代エジプト・コプト期のレプラ」という一節があります。
その冒頭にこう書かれています。
Zeugnisse für das Vorkommen der Lepra auf ägyptischen Boden während der koptisch-christlichen Periode (68-642 n.Chr.) bilden Schriften der Wüsten-Väter, von denen über Lepraerkrankungen berichtet wird.
「コプト・キリスト教時代(紀元後68~642年)にエジプトの大地にレプラが存在したことの証拠は、レプラ罹患についての報告がある荒野の教父の著作にある。」等々。
ここでもEliot G. SmithとJones Woodの発掘が挙げられ、ミイラの両手・両足・頭蓋骨の写真が掲載されています。

紀元前か紀元後かという点のみについて言えば、「後」のようです。
 
    (リベル) tamaさん、これは凄いですね、有り難うございました。なるほど、どうやら「後」のようですね。後は原典のご到着を待つと致します。

有り難うございました・・・m(_ _)m(5.26 04:48)
 


「聖書のらい」か「聖書の中の『らい』」か?  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月25日(金)07時15分51秒   返信・引用  編集済
  犀川一夫氏とBrowne氏の訳が同じでないことを発見しました。短いからここに書きます。

「聖書のらい」p.67

「西暦のミイラの調査で、ハンセン病の存在が確認できたのは、エリオット・スミス(注)(1924年)のエジプトの調査である。この調査は、ヌビア収集に収められているコプト人(五世紀頃のもの)のミイラ二体に確認されたもので、この症例は、古代のハンセン病の存在を科学的に立証し得た最古のものと言われている。(注)Eliot Smith,G. and Dawson : Egyptian Mummies. London.(1924)」


「聖書の中の『らい』」p.30

「最古のらい患者のミイラは二体あり、ヌビア収集品に収められたコプトのミイラで五世紀頃のものです(Eliot Smith & Dawson,1924 ; Rowling,1961 ; Thorwald,1962)。」


こうあるのです。さあ、どちらが正しいのでしょう。お二人ともこの記述の直前に、言い合わせたように、モオェラー(メーラー)・クリステンセンの骨化石の調査(1969年)を取り上げて居られます。それによれば「古代エジプトのミイラ(前六千年から紀元六百年までのもの)の頭蓋骨一、八百四十四個」から「ライ腫型らいによる変形のあとを一つとして見いださなかった」のです。

もう一つ、Browne氏は出典を三つ挙げて居られます。


では、犀川氏の方が間違いの可能性が高い、と言うことになるのですが・・・。どちらにしろ、「ハンセン病の歴史」のページ、先に進めなくなってしまいました。

webcatで調べると、「Egyptian Mummies(エジプトのミイラ)」は関西では京大にしか有りません。丸善で検索すると、何と21,000円! amazonで中古で2,220円を発見。注文してしまいました。京大まで行くと交通費がそれくらい掛かってしまうし、学生証がどうのこうのと書いてあるしと言うことで。さあ、どなたが間違っているのか?

我が家にある原書といえば、酔っぱらった友人がくれた「ブードゥー」かなんかの本だけですから、たとえば50年後、曾孫がこれを見たら、「曾爺さんは、変なものを研究していたんだなあ」と首を傾げるかも知れません。ざまあ見ろ・・・(哄笑)
 


追記  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月25日(金)06時43分35秒   返信・引用
  昨年、私の友人からのメールに、この「風見治」さんの手紙文が入っていました。

 私に考える力を下さった文責です。

 友人に感謝すると共に、この事件を語り継ぐ一人に成りたいと、強く感じさせられましたことを、思い出しましたので迷惑を顧みず、投稿させて頂きました・・・・・・
 


ある「手紙」潤・P  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月25日(金)06時33分6秒   返信・引用
   菊池野12巻5号、1962(昭和37)年9月に掲載された“あじさいの花「花」”。

 「F事件資料集」ではP126に掲載。



 拝復、残暑も朝夕は次第に涼しさを感じさせるようになって参りました。

 その後元気のことと存じます。お手紙頂きながら永らく失礼したことをお許し下さい。あなたのお手紙について、決して忘れさっていたのではありません。ただ、あなたが××放送の録音構成の放送をきかれて関心をもたれたという「F事件」について、どのようにお伝えしようか、と私なりに考えていたようなわけです。そして返事が遅くなったのは私が身辺の雑務にとりまぎれ、昼間は太陽の強烈な陽差しにいぶされたような恰好で、室のなかにごろごろしていたことに第一の原因があります。私の怠惰性については、あなたの寛容な御理解を頂き度――。

 私は最近また医療刑務所に友人二人と面会に行く機会を得ました。

 東グランド附近の壕をこえますと、両脇にアカシヤの並木が鬱然と繁っている白い道があります。戦時中は軍用道路であり、現在は自衛隊の戦車や装甲車やジープが埃をまきあげてこの道を通っています。道を少し行くと右手の草原の一角に高い塀と、塀にかこまれた建物がみえます。この建物がハンセン氏病患者の医療刑務所ということになっております。この日も塀の内側はひっそりとしていました。

 私が訪れたのは夏の陽差が激しく照る午後でした。刑務所への道をしばらく入ると、誰でもあの高い塀に歩行を阻まれねばなりません。その眩しく太陽をはじきかえしている白い塀に歩行をとめた時、私はふと風が止んでしまったような感覚を覚え、ふりむいたその目に真紅のカンナを見つけました。

 私の視界に映るかぎりではその風景は平和でした。すべてが静寂につつまれ、その静寂な昼間にも、身に覚えのない罪状をもって死刑の宣告をされ、独房の中でただひたすらに斗っている人のいることを、誰が想像できるでしょうか。私は桃の葉陰に身をみそめて面会時間がくるまで暑さを避けていました。真紅のカンナと、燃えたつような葉鶏頭の色彩、とび交う黄蝶、ひろい草原と、つきぬけるような青い空が私にどんな自由を感じさせていたでしょうか。

 やがて一時になると吹鳴されるサイレンが空高く駈け上って行き、燕達を驚かせます。そしてまもなく地上では、塀にはめこまれた鉄の門扉が内側からゴトゴトと鳴るのです。私は面会に訪れるたびにこの音に胸を塞がれるような思いをしなければなりません。それから、門扉が軋んでひらくとき、私はその塀のなかに人間が存在していることにはじめて気づき、カッと目を瞠くような気持になる
のです。

 扉がひらくと、どうぞ、と白い予防着をつけた看守に招じ入れられ、そのとたんに背後でふたたび扉が閉められます。その音が一瞬私の足をすくませます。目のまえにはコンクリート造りのずんぐりした建物があるのでした。医療刑務所の特設法廷兼面会室です。

 室内は床も壁もコンクリで固められ、その床に法廷らしく席がしつらえられています。きっとここは裁判がひらかれ、面会室として使用されるとき以外は廃屋も同然なのでしょう。いきものの匂いすらない小屋みたいな印象なのです。勿論一輪の花すらありません。この乾ききった室にF・M夫氏は、洗濯して色褪めた青い囚衣を着て、にこやかに微笑をうかべていました。どちらかというとまるみをもった顔立ちですが、その顔にうっすら伸びた、頬から顎へかけての髯、そこから微笑がうまれるのです。そのときの人なつっこさは童顔といった感じです。がっしりとした体躯にいつも囚衣は少し窮屈なものを感じさせます。

 私はこの廃屋のような面会室で彼と向きあったとき、その優和な眼差しに自分がやわらかくつつまれるのを感じました。まるであじさいのあの豊かな花に頬をすりよせたときの感じなのです。少女らしい形容かもしれませんが、私は彼のなかから溢れる確信と信念の足どりが、彼の寛容な態度にあらわれるのだということも感じておりました。
 


ある「手紙」潤・Q  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月25日(金)06時23分52秒   返信・引用
  彼は御承知のように昭和二十六年八月四日からこんにちまで十一年間余日の刑務所生活を送っているのです。彼は最初殺人未遂並びに火薬類取締法違反の罪で懲役十年の判決をうけ、その後熊本刑務所代用拘置所をぬけだし、逃走罪で指名手配をうけていたのです。それから三週間後、先きに彼がダイナマイトを投込んだと疑われた被害者F・H氏が惨殺されたのです。この事件によって彼は単純逃走殺人の容疑者として逮捕され、裁判の結果、死刑、控訴は棄却され、最高裁への上告も棄却されてこんにちに至っております。しかし彼はこの十一年間余日、自分の無実を叫びつづけてきました。そしてF・M夫氏を救う会が組織され、有名、無名を問わず、全国あらゆるところからの人々が一万病友とともに、彼の無罪を確信し、公明な裁判を要求して運動をつづけているのです。

 死刑の判決と、F・M夫氏の無罪の叫びとの間には、事実上死と生の断層がひらいております。なぜこの断層がひらくのでしょうか。あなたはまさか、犯人はいつの場合でも自分の無罪を主張するものだ、ということによってこの疑問に解答を与えられないことを信じます。裁判はあくまでも事件の事実に基づいて審理がなされ、事件から逮捕、逮捕から判決までの過程に曖昧さや虚偽や主観やが片鱗でも介入してはならないことは衆知のことです。つまり罪は客観的なものでなければなりません。私はいまここに、「被告人F・M夫単純逃走殺人事件公判調書」と最近の、「再審申立に関する意見書」昭和三十七年五月二日付と、「再審請求補充書」昭和三十七年四月四日付、いずれも写しをもっております。そしてこの再審請求に関する理由を読み進むうち、公判調書類の根拠のなさを、益々つよく確信せざるを得なくなりました。私はこんな言葉を使いたくありませんが、デッチあげということを再審申立に関する意見書、それに再審請求補充書は、私が目を閉じて瞑黙しないではいられないほど暴露するのです。証人の供述にしても、場所と人間とは具体的実在的なものでなければならないのです。それなのに警察作成の証人供述書のなかには、その場所に不在の人間が登場し、非実在の小屋が設定されて、事件を形成するのに一役を買っているのはどうしたことでしょうか。このことをF・M夫氏は手紙でこう書いています。(前略)警察調書にある。K子が「HO(地名)のM・Yがへん小屋に包丁が置いてある」とことこまかに聞いた云々・・・と述べたようになって居りますが、Yと云う人間はHOにもS村にも居りません。小屋もありませんよ・・・(後略)原文のまま――。

 私はこれを読むうちに雨月物語のあの亡霊が出てくる場面を理由もなく思いだしました。私は罪の裁きに幻想や幽霊がでてきて、一定の役割を果たしたことをきいたこともありません。推理小説や怪談などでは被害者が幽霊になって出てくることはあるかもしれませんが・・・。

 彼はなぜこうした逆境に追いこまれねばいけなかったのでしょうか。彼は昭和二十五年十二月二十六日頃突然役場を通じて、癩疾患のため恵楓園に収容するとの通知を受けております。彼はそして二十六年一月に北九州方面の皮膚科医の診断をうけてまわり、癩疾患ではないという証明書等三通をもらっております。しかしその後ふたたび村役場を通じ、五月迄に恵楓園に入園せよという通知がきております。ここにひとつの疑惑が生れます。つまり恵楓園からも保健所も、あるいは街医者も誰も彼の検診をした者がないのに、県衛生課は何を根拠に彼を癩として入園勧告をしたのでしょうか。

 第二回の通知をうけたとき、彼はその頃村役場の衛生係をしていたF・H氏が職務に乗じて県衛生部に通告したためであるかの如く聞込み・・・云々と判決文は述べ、性来気が荒く執念ぶかい性格なため、痛憤と怨嗟によって彼はF・H氏宅にダイナマイトを差入れ殺害を計ったが、未遂に終ったというのです。

 これが殺人未遂並びに火薬類取締法違反の内容の概略です。癩患者として突然収容を通告された彼が、その通知をしたのがF・H氏だと聞込んだとしたら、そこには不穏なものが予感されるかもしれません。それに母と娘との主柱になって彼が貧困に喘ぎ、自分が入園すれば母や娘の生活は危機にひんするという事情と、癩病になって生きてくれているより、むしろ死んでくれたがいいという肉親、世間の偏見や排斥や差別を背景にすればです。ここに癩に対する不治とか天刑病とかいう通念が頭をもたげているのです。癩がその人間にもたらしている絶望感と、人間の凶悪性が正比例するかのような観念です。貧困の上に癩病とまでいわれたF・M夫氏は、家が貧しかったため小学二年中退という学歴しかありませんでした。こんな彼を判決文はむしろ野蛮で自暴自棄の状態であったように述べるのです。悲運をいたくなげく。死んでしまおうと覚悟。悲境に陥ったのは同人の隠密の仕打ちによるものであると邪推し、深く恨み、性来気が荒く執念深い性格なため。痛憤は。怨嗟の情は。怨嗟を晴らさんと・・・などなど、彼がいかにも本能的にでも凶暴であるかのような言葉が使われています。貧困で、無学な、教養のない、癩病だから、そんな奴なら殺人ぐらいやりかねないという推測があって、これに癩を忌み嫌う肉親までが世人と一緒になって、彼を犯人とするための虚偽の供述を行い、罪を成立さしていたとしたらどうでしょうか。

 彼はいわゆるダイナマイト事件で十年の懲役の判決をうけます。その後彼は代用拘置所を逃走しますが、その逃走中に、先のダイナマイトで殺されようとしたF・H氏が、山中で惨殺死体となって発見され、その犯人としても逃走中のF・M夫氏はふたたび逮捕されるのです。いかにもこの殺人事件は犯人に一貫した殺人の意志があっての所業のようにみられ、貧困で、無学で、それに癩であるF・M夫氏がある予断と、差別と、排他性と、嫌悪をもってのぞめば犯人であるような推測がなされそうです。しかし、ここでF・M夫氏が拘置されている期間にも、F・H氏宅に放火事件があっていることをも見逃してはならないでしょう。ここにはF・H氏が多くの村民に恨みを抱かれなかった人間であるかどうかの疑惑もうまれて参ります。

 私はここまで書いてきて、つぎのようなイメージを想像するのです。あなたは自分で経験されたことはないでしょうが、よく貧しい家庭の子を主題にした映画などで、学校の教室でなくなった学用品やお金の嫌疑を、貧しい家庭の子どもが何のためらいもなくかけられてしまうということがよくありますね。嫌疑をかけられた子がほんとうにやっていた場合は、ある意味では救いもあるでしょう。しかし、こうした泥棒事件はいつも貧乏人の子に疑いがかけられることを知っていてそれを計算に入れて盗んだり、ときにはわざわざ貧しい家庭の子を罪に陥入れるために品物を隠したりして、その子が責められるのをみている悪意に充ちた子もいます。前者は貧しい家庭の子同志の排他性と巧利とみていいでしょうし、後者は主に金持の家庭の子どもがやるのが定石のようです。つまりこの子はそうすることによっていよいよ自分の富裕な家庭を鼻にかけ、貧乏を軽蔑し、いつも貧乏の上に自分を置こうとしているのです。こんな子にはまた貧しい子が側近のように弱々しい目をしてついていることがあります。

 このようなとき嫌疑をかけられた子が信頼するのは先生しかないでしょう。ところがこの先生までが金持の子の、真実の犯人の味方をする結果になったらどうでしょうか。それが意識的なものにしろ、判断の誤りによるにしろです。

 私はこの事件の白黒をあなたにおしつけようとしているのではありません。ただ、死刑の判決と、被告の無罪の叫びとの間にはあまりにも広い断層がひらきすぎるのです。それで私はここに判決理由と再審請求の理由のなかから簡単に問題点を記してあなたの正しい判断を仰ぎたいと思うのです。
 


ある「手紙」潤・R  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月25日(金)06時22分1秒   返信・引用
   凶器について

 熊本地裁の一審判決は「・・・所携の短刀(領第十一号)を以って同人の頸部その他を突刺し、或いは切付け、因って同人の頸部に頸動脈の大分を切り、頸動脈を切断し、或いは左肺上下葉を穿通する刺創二個を負わせた外頸部、顔面、胸部上肢に大小二十数ヶ所の切刺創を負わせた。刺創に基く出血により同人を死に到らしめ以って殺害の目的を遂げたものである」と認定しています。この全身二十数ヶ所に切刺傷を負わせた刃物は鋭利な刃物を感じさせますが、実際に証拠として出されているものは切れ味のおとる出刃包丁で、それにこの刃物からは血痕附着の科学的反応がまったくあらわれておりません。検査にあたった教授は四十日もかけたその結果を、「交附せられた右検査物短刀について血痕附着せりとの証明が得られない」をまとめています。

 しかしこの短刀が事件のキメ手として、第二審の福岡高裁は、「短刀に附着していたと見るべき血痕は、該短刀の押収前被告人が押収現場の傍にある池において洗い除き去ったものと認め得ないことはない」と説明します。ところがここには洗い落としたと裏付けるものもなければ、どういう条件のときに落ち、どういう条件では落ちないという科学的な説明もありません。それが、「洗い除き去ったものと認め得ないことはない」という曖昧な、憶測による判決文となってあらわれるのです。この血痕のない凶器が、二十数ヶ所の切刺創を負わせて出血死に至らしめた凶器なのです。

 私は被害者が木か竹でつくった人間でないかぎり、現代科学が二十数ヶ所の切刺創を負わせた刃物から血痕附着の反応を出し得ないのがむしろおかしいと思うのですが・・・。

 この背景にこんなことがあります。教授は警察が発見してきた「短刀」を見ると「これだ」と瞬間感じたと鑑定書で述べ、さらに鑑定の結論として「右短刀は本年七月八日解剖したF・Hの体にある各創傷を生ぜしめるに最も恰当した刃器であり明らかに右短刀によって生じたものと推定し得られるものである」と述べていますが、これが含む内容は「これだ」と短刀をみた瞬間に思った教授の「勘」が前提となり、それが科学的な証明かどうかを疑わせます。

 つまりこうした「勘」を前提にして短刀の血痕附着の検査をした教授は、そこから血痕附着せりとの証明を得ることが出来ず、それでも自分の「勘」を正当化するため、あるいは何らかの心理的圧迫によって水で洗ったから血痕附着の反応があらわれないのだというようなことをいったのではないでしょうか。それに凶器は最初鎌とされていて、鎌が証拠として出されていたのですが、鑑定人が鎌でなく短刀のようだといったことからそれが短刀にかわり、短刀の入手経路についても全く不明で、証人供述もこれに関してまちまちで曖昧であり、ただ警察が作成した捜査報告書に物置小屋(証人供述とは別の小屋)の竹壁にさしてあったということがあるのみです。この小屋というのは殺害現場から徒歩で十分ほどの熊笹の繁った山中です。勿論被告人は短刀は自分のものではないといっていますし、指紋が検出された形跡もありません。

 衣類などの血液について

 私はあなたに、私たちが観る時代劇の殺人の現場で、返り血を浴びた姿をよく観ることがあります。現代でも血のついた衣類を犯人が隠し、それを警察がみつけて犯人逮捕の唯一のキメ手とすることがあります。

 さてF・H氏の殺人事件についてですが、被害者は全身二十数ヶ所の切刺創を負って殺されているのですから、被害者と加害者との間には相当格斗もあり、犯人は被害者の血でまみれていなければなりません。この証拠として脚絆、白シャツ、帽子、タオル、国防色冬上衣、ズボン、白木綿シャツ、スプリングシャツがありますが、血液検査の対象となっているのはタオルとズボンです。そしてその鑑定の結論は「タオルはB型、O型、AB型とは思えませんが、A型ではなかろうかと思われる程度でズボンはO型かAB型らしく思われてA型とかB型とかは考え難いようです」とあります。F・H氏もF・M夫氏も血液型は同じA型です。

 ここで疑問になるのはなぜタオルとズボンだけが検査の対象になったのだろうということです。というのは、F・M夫氏は逮捕される時警察の拳銃で射撃され右腕にその弾丸は当っています。その血はズボンに流れ、家族は応急手当としてタオルで腕を吊ってやっていますし、ズボンがタオルにF・M夫氏自身の血液が附着したことには間違いがあろうとも思われないからです。

 そして裁判記録の上で三枚あるべきタオルが一枚しか出されていません。

 問題点はもっとあります。私はそれを出来るだけ具体的に正確にお伝えすべきですが、あまりに紙数が長くなりますので、別にパンフなどの資料をお送りします。私は判決と再審請求に関する意見書、あるいは再審請求補充書との具体的相違が、死刑と無罪の相違であり、私ども第三者ですら判決に納得しない多くのものを感じるのは、この事件が求刑に至るまでの過程に、罪を客観的にとらえていない誤りがどこかに介入しているのではないかという疑惑と、裁判への不信をもつからにほかなりません。

 警官や検事や裁判官は、罪の「作成人」ではないでしょうし、また客観性をもった罪を消し去ってしまおうとするだけが弁護人の立場でもないでしょう。刑は執行されてしまったら、刑そのものの重みによって正当化され、刑は自己の正当性を主張します。それだけにこのたびの再審請求が一日も早く再審開始の運びになり、彼の無実が証明されるよう、私なりの努力もしたいと考えるのです。無実を叫ぶF・M夫氏だけが真実を知り得る唯一人の人間であり、真実は同時に二つも三つもの軌跡は描かないはずだからです。

 今日は朝から驟雨がこの高原を馳け去っていました。驟雨に交って散る桜の黄葉が、蝉の声とともに、一層ふかまる初秋の気配を感じさせております。F・M夫氏に面会に訪れてから旬日、私はもう一度あの日の強烈な太陽の光を想い浮かべています。

 あの日、時間です、という看守の声で私たちは三十分間の面会を終りました。別れの時彼の差しだす大きな手に私の曲った手はつつまれていました。私は病気のせいで曲ってしまった手で彼の手を握りかえしてやれないのをひどく残念に思いました。しかし、癩になったばかりに肉親からは死んでくれといわれ、はたまた身に憶えのない罪によって死刑を求刑されている彼のどうにもならない苦しみにくらべたら、そんなことなど何ともありますまい。彼はそして手紙でこう綴るのです。
(前略)・・毎日うなるように暑い獄中に拘禁されているので本当に苦しい思いをして居ります時に、御貴殿がわざわざ面会に御出で下さったので三十分でも解放され、御貴殿に親しくお話の出来ましたことは本当に有難く思いました。現在の私は死刑囚という刑名であるので、他の囚人達とは全然処遇も違いますし、運動の一時間許されたとしても、受刑者と一緒になる事はありませんし、只一人で毎日が淋しい生活であり、運動をするにも相手がないと出来ないし、この様に無実な罪で十一年数十日も拘束される事は本当に残念に思います。私がライという病名をもっている為に身に覚えのない罪を背負わされ、それに加えて病名の為に一般刑務所へ行く事は出来ないし、ただ一人の生活を送らねばならないのです。竹内死刑囚も無実を主張して斗っているのですが、彼達は同じ死刑囚達と運動や映画等には出て楽しい一刻を過すという新聞記事を読みましたが、私には年がら年中のただ一人で十一年の永い生活です。だから御貴殿方にお会いするのが一番嬉しいのであり、金銭的に買えない尊さを感じるのです。二十六年八月四日から、本日でまる十一年十日になりますが、この永い間の苦しい体験は言葉にもペンにもつくせません。風見さん、人間にとって一番尊いものは自分の自由ではないでしょうか。カゴの中の生活で一歩の足も自由に動すことは出来ません。(中略)・・・用紙一枚でも自分の手許にはなく、皆貴園の皆様から御恵み下さるので手紙を書いたり、勉強したりして暮すことを唯一の楽しみと思って居ります。今回の再審請求には各新聞やラジオなどが大々的に報道してくれましたし、私の真実のアリバイも主張したし、有力な新事実の証拠を提出して下さったので、必ず今回の再審要求には勝利を得るものと思い居ります。(後略)
 


ある「手紙」潤・S  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月25日(金)06時19分46秒   返信・引用
  こうした手紙を書く彼は、一人娘の父でもあるのです。近近に上京するという娘のことを案じて、東京に着くのが夜になるといけないので、そういって××さんの方にでもよく頼んで下さい、と依頼する彼の顔に、父としての愛情以外に何があるでしょうか。そして父としてのこの様な愛の発露は、彼が無罪という確信の上にたっているからこそ、自分の娘に対して卑屈にもならずに、心の底から溢れるのだと私は感じました。

 午後から空は曇って、小雨が降りだしました。私は一時頃、売店前を発車した一台のバスを見送っていました。バスにはF事件現地調査団が、東京から、福岡から、熊本市からの人々、共産党、社会党、全医労関係、患者自治会の人々四十名が乗って出発したのです。私は小雨の中を、グレイや白や青やのシャツを着たこれらの人をみながら、ふたたびあのあじさいの花を想っていました。花のひとつひとつがひとつの大きな花となっているあじさいの花なのです。

 出来れば私もこの一行に加わって、F事件をその現地からもとらえたい、この事件の真実をますます癩への偏見と差別のヴェールによって掩いかくした土壌から、癩という病気がつくり出した事件を、もっとうかびあがらせることが出来ればと考えました。しかし現実の私にはそれは叶わぬ希望であり、それにかえて私は机に向って私なりの努力をしているわけです。現地調査については後で報告がなされ、ルポでも書く人もいるでしょうから、私はあなたと共にそれを読む機会を待つことにします。そして私はただ、今日の現地調査がひとつでも多くの事実を収め、その目的が最大限に果されることを祈るのみです。それが癩患者である私どもにとってのみならず、公正な裁判の要求は人間すべての問題であり、要求であるからです。ひとつひとつの花が集って大きな花の形となって、予断と偏見に満ちた裁判の是正が叫ばれるとき、彼もまた無罪となり、私たちもまたひとつの幸福を勝ちとることができるのを信じます。

 これからは益々気候もよくなります。御自愛の上、日々の生活と取組まれますよう――。

 あなたが私のこの手紙によって「F事件」について尚一層関心をもたれ、この事件を日本人の問題として、自分のこととして把握され、まわりの人に一人でも多く訴えて下さるよう心から望んでおります。

                一九六二、八、二四、

                           風見 治
 


田村史朗  投稿者:北風  投稿日:2007年 5月24日(木)15時32分3秒   返信・引用
  死刑より救わんと欄外にまで署名して国鉄機関区労働者たち  田村史朗
藤本松夫の死刑は止めよと大臣に打電し止めどなく涙こぼれつ  田村史朗

一九一八年十月五日福岡県大川市生まれ。旧制佐賀高校、京都帝大経済学部を繰り上げ卒業し陸軍燃料廠本部勤務主計軍曹で敗戦を迎える。
一九四七年駿河療養所入所。一九四九年駿河療養所所歌作詞。失明。一九五〇年駿河会会長。一九五一年復生病院に「追放」十二月再入所。
一九五二年作歌をはじめ「アララギ」入会。一九五三年点字を習得。「檜の影」「静岡アララギ」入会。らい予防法闘争に参加。一九五四年新日本歌人協会入会。一九五五年駿河会評議員議長、所内留置場設置反対闘争、ハンセン病盲人に身体障害者手帳交付の運動を起こし成功。一九五六年日本共産党入党。
一九五七年藤本松夫救援活動に全力を尽くす。
一九五九年身障者福祉年金獲得のため点字投書を提唱し獲得に成功。一九五九年十二月二十二日肝臓がんのため逝去。享年四十二。
駿河会最初の自治会葬をもって葬られた。
 


療養所はいま・・・  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月24日(木)03時30分41秒   返信・引用
  「しんぶん赤旗・日曜版」からです。「Kazutaka Moriyama 掲示板」から頂いてきました。

「ハンセン病療養所はいま」

「廃園恐れる元患者」

クリックすると拡大されて、読み易くなります。
 


2005・3・19  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月23日(水)06時55分23秒   返信・引用
  3月19日の西南学院大学で同じ空気を吸わせて頂いたものにとっては、「嘆き」を越えた「あきらめ」を伴っても仕方ないものと考えます。

 啓発を促進する為の映画制作であれば、何も「藤本事件」に触れずとも題材には事欠かなかったと思っています!

 今回の映画「新・あつい壁」をビデオで観た方から、「どうして、「藤本事件」でなければならなかったのか?」と、電話口で耳にしました。
 引き続き、「今回の映画を鑑賞された方々は、“藤本事件”は私たち市民の問題として受け止めることが出来る映画だったのか?」と、呟かれました・・・・・・

 私は応えることが出来ませんし、この映画の後方にはご家族・身内の方々の存在があることを、私は決して疎かに出来るものではない!?と、強く感じています。


 <<母は訴える>>
 私はF・M夫の母親でございます。
 最高裁の口頭弁論には五人もの弁護士さんが弁論をして下さり、また立派な方々が多く傍聴に行って下さったとのこと、そして公正裁判要求の歎願書、陳情書を出して下さったM夫と同じ病気で悩む方々、私は泣きつつ感謝いたしております。恥かしい話ですが、貧しい家にM夫は生れ、九才の折父に死別しましたので、その後は学校にも行かず、私と共に農業に従事し、やっと家が立つようになりましたところ、こんな事になってしまいました。母親としまして三十年も一緒に居りましたので、我子がけっして、けっして罪を犯しているとは信じられません。罪を犯しているとすれば、文字も知らなかったM夫はこんなに勉強して皆々様にお礼状を差上げる気持にならないと信じます。

 無実は信じておりますが、裁判官検事のみなさまも神様でない人間である以上、真犯人が出ない限りどのような判決があるか、その時を待つのみでございます。多くの関係者、お情を戴いた方、M夫と同じ病気の方々のおかげで、遠からず無罪の判決が下るものと思いつつペンをおきます。今後共M夫をお見すてなく御援助下さいますようお願い申し上げます。

[全患協ニュース62号、1956(昭和31)年5月]

 関原弁護士の心中・・・
 私は、昨年、関原さんが自主出版された「F事件資料集」を、どのようなお気持ちで編纂されたのか?を、考えていました。

 資料集を読ませて頂ければいただくほど、「病と家族」 「事件と家族」当事者の心理に機微なる心遣いがあって、解決への僅かな光が見えると、学ばされているようです!
 その観点からも、今回、推し進めた映画制作者・その片棒を担いだ方々には、
「映画が目的」 「映画の目的」の差異をしっかり感じて頂きたいと思っていますし、

 映画制作への大いなる疑問も、活字として残していく作業も、今の日本社会には不可欠な行為なのかも知れません!!

     あいまい化された社会ほど、権能側の思う壺と心得ます。

 あの西南学院大学で、同じ空気を吸った同志がなぜ?こんな心乾いた日々をおくらねばならないのか?悔しくてしょうがありません!?


http://www.eonet.ne.jp/~libell/hujimotojiken.htm
 


ひょんなことから  投稿者:北風  投稿日:2007年 5月22日(火)15時32分12秒   返信・引用  編集済
  このサイト↓を見つけたのですが、知ってました?

http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/ugo/act2-6.htm

http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/kinkyo0703

↑ここの3月22日も見てください。

【追記】いやー、参った。
大江希望氏は大江賢次の長男で、大江賢次は、かつて武者小路実篤の秘書をしていて、同郷の大先輩である生田長江を鎌倉にたづねてその印象を書き残していたらしい。
その未発表の文章が上記に引用されている。
 
    (リベル) 「大江賢次 ハンセン病」で検索して、トップに出るのをクリックすると、上のサイトへ行きます。これは、面白そうなサイトです。話が合いそうなお方です。

「皓星社の明治・大正・昭和前期雑誌記事索引集成」に興味を抱くところも、私に似ていますし・・・。(5.22 17:29)

ちょっと仕事「ハンセン病の歴史」が、今日の分、一段落付いたのでもう一度上のサイトへ行ってきました。『「癩」ノート』、「田中一村と小笠原登」の二つに目が止まりました。この大江希望という人、気が合いそうなので、ゆっくり読みます。有り難うございました。(5.23 03:15)
 


夕焼け様  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 5月22日(火)12時18分55秒   返信・引用
   夕焼け様

 宗教に関しては 意見もありますが、長くなりそうです。

 いずれにせよ、中近東情勢の宗教対立は、望ましくなく、何かしないといけないかとも思います。

 Ichiroの研究メモのほうにもたまには覗いてください。
 
    (リベル) IchiroさんのBBSは、こちらです。面白い話題が色々出て来て楽しいですよ。(5.22 17:08)  


 Ichiro 先生  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月22日(火)07時28分11秒   返信・引用
   W@イチロウ・・・、感性豊かな友人にめぐり会えたようですね!

 コラボレーションが、これからの啓発という言葉に繫がる可能性を感じていますし、

 宗教という「組織の持つ恐さ」を、改めて感じ入っています!

 今年3月の私の文責の一部です

>今、私の危惧すことのひとつに宗教団体の存在が大きく私に
警鐘を鳴らしているように思えているのです。与党であり続け
る為、つまり、互いの 利の追究の為 としか思えない!そして、
国益論が後回しとしか思えない!その両党(与党)への不信感は
募るばかりなのです。
 特に宗教団体に後押しされた政党のありようには閉口感も
持ち合わせています。
 先に触れました、「人が組織を作り、動かす」。
 宗教団体、これもまた同じ理であると思えるのです。しかし、そ
の実体や、手法の事実を知らされた時、人が作っていくとされる物
の中にも、到底納得の出来ない組織論を創り上げている事に気が付
かされます。
 その組織の一義的な私の見方なのでしょうが、触れさせていただけ
るなら、「偶像崇拝的」な構図が私には見え隠れします。

 野党での、自主自立とされるあり様からの発信には、さほど関心も
なかったのですが、何か大きな野望も含んでいると思える、与党へ
の擦り寄り方は異常さと、そもそも本来の政党理念さえも曲げてし
まっているのではないかという有り様には、何か得体の知れないもの
を感じさせられます。党員(学会員)たちの啓蒙活動に見られる説きよ
う(いずれ、私たちの宗教団体が、この国を動かしていくのです)は、怖さ
を隠せませんし、事実、会員の拡大への道を私は今、感じています。

 昨年の、2月に皇室の存在が我が国に語りかけるもの!と、いった文責を
我々の会の皆様に配らせていただきました。大きな波紋がなかったこと
を喜ぶべきなのか?定かでは有りませんが、気落ちしたことは事実
です。私たちの会のほとんどが、学校や行政の退職者が、大半である
現実がいっそう私を落胆させたようです。

 宗教団体と政治・・・、日本国憲法には、「政教分離」あるいはこれ
に類した言葉が用いられている条項は存在してないようですが、一般
には、次の三つの条項が政教分離を規定したものだといわれているそうです。
 1「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない」(20条1項後段)

 2「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」(20条3項)

 3「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、……これを支出し、またはその利用に供してはならない」(89条)



 政教分離の原則を詰めて行けば、私は与党である一方の党へは、こ

の原則論がなぜ適用されないのかが、不思議でなりません!!


 Ichiro 先生は、この私の文責をどのようにお考えですか?
 


半世紀・・・  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月22日(火)06時33分45秒   返信・引用
  日本国憲法に学び、この憲法を活用できてきたのか?我々主権者は!?

早野さん然り、加藤さん然り、そして島田さんの言霊より、上記のことばが生じました。

 リベルさんに、「今発言されたものと言っても、何も不思議がない、新鮮な言葉ですね」と、言わしめた島田等さんの言霊を、今朝!新たに感じ入っています・・・

 このような言霊を自分のものに出来ていれば、現代社会の特徴の一つ、価値観の多様化や、さらには価値基準の変革にも、流されずに済むのかもしれません!?

 再掲させて頂きます!

>30年以上前に島田等は「偏見は、らいの福祉の実現にとって解決されなければならない大きな問題であることはいうまでもない。しかしその大きさにもかかわらず、その社会的事実や歴史的形成についての厳密な把握、科学的認識の努力はなされていない。“言葉としての乱用と、実証的理解の貧困”である。/いったい現在の偏見といわれる社会的認識は、どのようにして形成され、どのような機会にどのような形で影響し、差別として働くのか。そうした具体的な事実認識や科学的分析なしに、その解消の声を大きくしても効果的な結果を期待できるものかどうか

この再掲載にはわけありです・・・。

 あるコラムニストが、以前、このような発信をしていました。

>真理そのものが相対化し、複数の真理が見いだされるようなことになると、あまりに一途な姿勢では、世の中がうまく渡れず、良好な人間関係を全うすることができなくなるのではないでしょうか。
 とくに、過度の正確さや緻密さは美徳というよりも、かえって、人との交わりを円滑にしずらくする要因になっていることが多くみられるようです。時代が複雑になってきますと、大人の対応も是非とも身に付けなければならない訳です。

 この文責に、大人の対応も是非とも身につけなければと、いう提起に・・・、私は大きなわだかまりを持ち得ていましたが、島田さんの言霊を支持し、その言霊の実現に汗を掻きたい想いを、新たにさせてくださったからの再掲載でした!

「藤本事件」の藤本松夫さんに惹かれるかのごとく集まった、当時の有識者や同じ病の同志の発言を目にし、心揺さぶられれば「半世紀」の積み上げをしてきたのだろうか?と、考えさせられます。
 特に今回の映画制作の賛否!から、映画制作の功罪!?に、無い頭を振り絞ってきたものは、あきらめて逃げ出すことより・・・島田等さんの、

「花について」

を、読み込み、我々は ことば を持つことが出来た、「考える葦」であることを再認識したいと・・・、強く感じた・・・清々しい朝を迎えております。
 


Re:早野孝義...  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 5月21日(月)23時24分19秒   返信・引用
  夕焼けさん こんばんは

 この文章は早野孝義 人になりたい 早野孝義遺稿集 11-17p 2005年
  に全文でていますね。
 書かれた前から出ていますので、ご参考までに。

 早野さんは 本当に真摯な人と この遺稿集を読むとわかります。以前いろいろピックアップして出したことを思い出しました。早野さんの名前をみつけたので びっくりしました。
 Ichiro
 


早野孝義@恵楓園の雄  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月21日(月)22時36分45秒   返信・引用
  昨年の秋、友人から送られてきたメールに、

人権の危機 ―ハンセン氏病患者に死刑の判決―
       1954(昭和29)年2月20日  早野孝義

の、文責が送られてきました。

 関原弁護士、編集兼発行の『F事件資料集』の冒頭(P15)にも長文ではありますが、記載されています。

 その文責の後半の部分になりますが、貼り付けさせていただきます。北風さんの『加藤三郎』氏、ドンさんの『島田等』氏と同じ香りのする 雄 だと、感じてしまいました!


「・・・・・・、尚、何故Aさんが死刑が下されたか、そのことを論ずるのは少し軽率かも知れぬが、私がここまで拙文を述べてきた中で、日本の現情勢の中でライ患者はどんな立場に立たされているか、読者の皆様も少しは理解して戴くことが出来ると思い、私は憶面もなく申すことにする。

 政府のライ政策が隔離收容を最善の措置としてやっているとき、患者收容に当る役人に患者が恨みを持った結果このような惨虐な復讐をしたことを、普通刑に取扱うならばそれは被害者の被害だけでなく今後の患者收容に重大な支障を来すので、そのことはとりもなおさず国民の福祉を破壊するもので国民全体の被害である。それで国のライ政策を遂行して行く上に担当役人を保障する観点から、死刑の厳罰を課したものではないかととも思われる。そのことが患者にとって、いやあまねく国民にみせしめとなるだろう。ところが判決と同時に高等裁判所に上告、事件の解明に当った弁護士の報告によると、もとより本人は終始犯行を否認している。しかもAさんがやったに違いないという証拠は何一つない。ただやったんだろうといういろいろの証拠をあちこちから集めて、そういう憶測通りAさんがやったんだろうということになっている。又、判決の基礎づけは、前記の七月十五日熊本日日新聞の掲載記事にある「嘘の自供」と例のダイナマイト事件で「Aがあれほどの恨みをもっていたから、Aが被害者を殺害したんだ。Aが被害者に一番恨みをもっていたからA以外の者がやる筈がない」ということである。ところが、警察での自供について、Aさんはその時の模様を次のように云っている。
「私が逮捕されたときピストルで右腕の大骨を折られたため、病院で麻酔薬をかけられ治療を受けた。それから暫くすると、ひどい嘔吐で体が疲れてしまっていた。その時警察が調書をとるというので私は何もものを言いたくなかったので、どんなにでもあなたがたのいいように書いて下さいと言った。それだけでその後調べはなかった」と云っている。尚ダイナマイト事件についても犯行を否認している。この判決もAさんがやったに違いないと言う証拠は一つもなく十年の判決が下されている。

 一月二十八日第二審第一回公判で原審の証拠調べの不備を発見、控訴審で証拠調べすることになった。それは至極当然なことではあるが、これも熱心な弁護士の努力の賜である。

 この第一回公判の結果を冷静に見詰めて究明するとき、これまで絶対に近い信頼をもってきた日本の裁判に対する信頼はだんだんにくずれ「法のもとに平等であると言う理念」も最早危っかしさを感じるようになった。

 現在国民にとっては、何よりも生きる権利のある者が生きられないという「基本的人権の喪失」ということこそが、一番重要な問題である。又Aさんの事件もそのこと、つまり「証拠の疑わしいにもかかわらず罰せられる」ということが、最大の問題点である。このように考えれば考えるほど裁判の複雑さと微妙な関係の中に不正判決が公正判決にすりかえられ多くの無実の罪をおわなければならない人々をなくするため、常に正義の冠を戴く裁判所と裁判官にもっともっと貴方は法の精神に忠実に服務して下さいと言いたくなる。Aさんに対する死刑の判決は、これまでライ者などといまわしい特種な人間として扱われてきたわれわれ患者に及ぼしてくる可能性をもっているだけに、おろそかに出来ぬ重大事である。そのことは殆んどの人々が理解していて、Aさん救援運動には、全患協組織或は友好団体によって公正判決の陳情活動が活発になってきているが、もっと多くの人達がこの問題に理解を深めてもらい、生存をおびやかすものへの斗いへ積極的な協力を希うものである。(二月二十日)
筆者は療友、文書係 」

菊池野4巻1号に記載。
 


情理  投稿者:北風  投稿日:2007年 5月21日(月)16時52分30秒   返信・引用
  情においてこれらの短歌と、理において「夕焼けさん」の問題提起と、少なくとも、この映画の製作過程はかけ離れているといわざるを得ないですね。  
    (リベル) 貴重な歌を、教えてくださいました。何度も読み返しました。有り難うございました。(5.22 01:52)  


関原弁護士  投稿者:北風  投稿日:2007年 5月21日(月)15時25分11秒   返信・引用
  刑死せし藤本松夫その遺族を今に見守る弁護士君は  入江章子

けもののごと癩病む友を処刑せしと声怒りいふ関原弁護士  鈴木和夫
 


沢田五郎@草津の歌  投稿者:北風  投稿日:2007年 5月21日(月)15時13分52秒   返信・引用  編集済
  事件より一度も証言の変わらざるは藤本松夫の生みの母のみ
絞首台へ無実の君が上るさま夜どおし浮びきて床に座し居つ
罪なきに罪ある如く在るらいを文に嘆きし囚徒なりけり
くびりたる生命へ怨め癩われら胸にきざまん九月十四日
 


この事件の真相に触れるということは?  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月21日(月)07時53分54秒   返信・引用
   現政権下でも、藤本さんを絞首刑・死刑囚にした事実には触れられたくないという現実が、当然の如くあることが今回の映画制作に触れさせていただき確信しました。

 映画が果たした役割を、冷静に考察していくと、結果的な現実としては、仲間との分断・溝からの乖離・・・、『恐れ・怖れ』を感じた者達の思惑に翻弄されているのかも知れません!?
 


当時の「絶対隔離」「事実上の強制隔離」を揺らがす・・・  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月21日(月)07時30分52秒   返信・引用
  「紐解く存在」

 藤本さんが冤罪であることを追究していくことで、病気の実態が吐露されていく・・・としたら、その不利益を被るものは?しかも、権能・権力を手中にしていたものであれば如何様な手段を講じても、阻止するでしょうね・・・!?

 冤罪を暴くことが、司法への提起に留まることなく深化されていく真実は大きく国家の問題を問われる事件内容であることには違いないものと思えます。
 
    (リベル) そうだと思います。国家権力の横暴、専断。昨日の夕刊にも富山県の男性の冤罪事件で再審の動きが報道されています。

検察の裏金を暴こうとして緊急逮捕された三井環氏、鈴木宗男・佐藤優両氏への国策捜査、村岡兼造氏に対する逆転有罪判決、数え上げればキリがありません。

「藤本事件」も紛う方なき「国家権力の専断」です。(5.22 01:44)
 


国の政策の誤りとの融合・・・  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月21日(月)06時32分57秒   返信・引用
  「ハンセン病関係者」でない人の目。  投稿者:いい商売  投稿日:2007年 5月20日(日)12時22分33秒

 紹介して下さった文責に、
>国の政策の誤りとの融合で起こった事件だったようです。
と、事件の判決確定に及ぶ鋭い指摘がありました・・・

 私は、国の政策の誤りを紐解く存在だからこそ、誰もが予期せぬ「9・14」を迎えてしまったものと確信しています!

 藤本事件の「冤罪」を追究していけば、当時より引き継がれている司法の負の遺産・・・「判検交流」「人質裁判」の実態にも触れらる可能性!検察・警察側の人権侵害が、自白強要・・・、闇の密室の中、平然とされてきた事実などを暴き出し・・・、司法改革が国民世論の波と共に本気で動き出すことに、『恐れ・怖れ』を危惧するもの達がいることを今回の映画制作の流れより強く感じてしまいました。この事件の真相を葬り去ろうする片棒を担ぐことだけはしてはいけなかった・・・、と、日ごとにその想いは嘆きを伴い、募ってきますし、人権を尊ぶという行為、その仲間がこれで良いのか?という大きな不安は拭えません!?
 


小箱さんのご忠告にさからって・・・  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月21日(月)04時46分0秒   返信・引用
  5月14日(月)01時34分41秒の小箱さんのご忠告にも拘わらず、やってしまいました。「歴史」ページを作っていて、たまたま日蓮宗のこんなページを見つけました。この第三章で、誠に興味津々たる研究発表が為されています。

法華経の中の「得白癩病」という漢訳(サンスクリット語からの)は間違いだという検証結果なのです。これは、「日本らい史」の山本俊一氏の研究を、真っ向から否定するものではありませんか!

テキスト版では表せない漢字などが、符号に変わっています。これを読むためには、こちらのPDF版の158ページからをご覧下さい。もの凄く、面倒で根気の要る作業ですが、誠に興味深く、面白い事実です。どうです?この見事な「オタク」ぶりは・・・(笑)

ここで、基本的に、誤解しないように気を付けなければならないのは、「法華経」が書かれたのは、インドであって、この「病気」の話は当然インドのお話だ、と言うことです。それが中国で漢語に訳され(これは鳩摩羅什訳でしたか?)、その注釈が聖徳太子の「法華経義疏」である、ということなのですから。

さらに「オタク」を一歩進めると、「梵本法華経と妙法蓮華経の違いについて」調べたくなって、やはり誤訳だぞ、と納得できるのですが・・・もういい加減にしておきます。それにしても、「日本らい史」に間違いが有るとは・・・。

「99.9%の仮説」の竹内薫さんが言うように、「宇宙の誕生」も「生命の誕生」も、未だ仮説なのだそうですから。おいそれと、ものを信じ込んではいけませんね。「新・あつい壁」は「藤本事件」の冤罪をあばく映画だと、信じた私もいけなかった。関係ないか・・・。
 


Re:制作費を「製作・上映協力券」で集め、上映に当たっては・・・  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月20日(日)17時58分14秒   返信・引用  編集済
  ここに紹介されている「映画『新・あつい壁』上映会開催に関する申し合わせ」を読んで先ず、思ったのが、そうです「金を集めることが目的でなく、映画を作ることが目的ならば 」こんな「申し合わせ」の文章は、無かっただろうということです。何一つ「藤本事件」に触れていません。

映画作りの作法は全く知りませんから、これまでの色々な名画がどのように”販売”されていたのか、知る由もありませんが、それにしても、こんな事なのかなあ?と思わせる内容です。


下に「いい商売」さんが紹介された文章の主も「この映画は文化庁の助成を受けており、国に対して批判的なことは描けないという制約があったのではないでしょうか? 」と書いて居られますが、これも正しい見方の一つでしょう。ゼニを貰っちゃっちゃあ、何も言えません。「冤罪」なんて、口が腐っても言えないのです。

いわば部外者の、その目にも、何かおかしいのでは?と感じさせていることは、とても重要なことだと思います。私の思いを集約しますと…

1)藤本事件に正面から取り組んだ映画ではない。そのことに、異議を申し立てる筋合いは、しかし、私には有りません。別に協賛金も払っていませんし。

2)商業主義ばかり目について、「これは中山監督の生涯最後のゼニ稼ぎなのではなかろうか?」と訝るのは、私の勝手ですから、それは、言わせて頂きます。

ポイントによって切り替えられた、レールの上を走り終えた列車(というのが私の見方でした)は、やはり、かようなものでしたか、仕方がありません。怒りの拳を振り回すのみです... o_ _)o パタッ 。
 


金を集めることが目的でなく、映画を作ることが目的ならば。  投稿者:   投稿日:2007年 5月20日(日)12時56分23秒   返信・引用
  http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20040123207.html

 「映画はいつの日か、文章と同じくらい身近で安価なものになると考えられてきたが、ついにその夢が実現した。タイプライターを買うのと同じくらいの費用があれば、音付きの映画を作り、DVDに記録できる……。映画制作者たちは今や制作費をまかなえるようになった。もう言い訳はできないし、立ちはだかる障害も、映画作りを先延ばしにする理由もない。選択肢は、すぐに撮影を始めるか、自費制作のスタッフが集まるのを待つか、映画制作者をやめるかのいずれかだ」とバン・サント氏は語った。
 


何か違うのではないかな?  投稿者:いい商売  投稿日:2007年 5月20日(日)12時29分26秒   返信・引用
  http://manga.cocolog-nifty.com/konnamono/2007/02/index.html

2007/02/10 映画・テレビ | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/02/08
何か違うのではないかな?「新・あつい壁」やつしろ上映実行委員会
 中山節夫監督の「新・あつい壁」製作発表があり、やつしろにも上映実行委員会が発足しました。今日たまたま第2回の委員会があったので、ちょっとお邪魔しました。上映する人たちって映画が好きな人たちとばかり思っていたのに、「新・あつい壁」の主役は誰か?監督さんは誰か?よく知らないで集まっておられて私にはえらく違和感がありました。映画の内容の紹介なんてほとんどありません。1枚千円の製作協力券販売をお手伝いしてくれる人を探す会議でした。

 「あつい壁」は昭和45年作。昭和29年に起きた黒髪校事件をモチーフにしてありました。3年ほど前に私は見させてもらって、昨年亡くなられたばってん荒川さんがPTAの役員の役で出ておられて、うわ~、荒川さん若いな~って思いました。今度の「新・あつい壁」はF事件をモチーフにしてあるようです。どちらも横田与志脚本・中山節夫監督の作品でハンセン病問題に取り組んでいます。義理でチケットを買っても見に行かない人も多いはずです。本当にこの映画を見て欲しいと思うなら、監督がこの映画に込めた意義なんかを皆で共有しあって皆でこの映画を見て欲しいと思わなければ良くないんじゃないかな?!と思って全くの部外者なのに私は意見を言ってしまいました。
 
    (リベル) >義理でチケットを買っても見に行かない人も多いはずです。本当にこの映画を見て欲しいと思うなら、監督がこの映画に込めた意義なんかを皆で共有しあって皆でこの映画を見て欲しいと思わなければ良くないんじゃないかな?!と思って全くの部外者なのに私は意見を言ってしまいました。

この人って、めちゃくちゃ、正しいのじゃないですか!(5.20 23:09)
 


「ハンセン病関係者」でない人の目。  投稿者:いい商売  投稿日:2007年 5月20日(日)12時22分33秒   返信・引用
  http://manga.cocolog-nifty.com/konnamono/2007/04/index.html


私は「あつい壁」を見ています。「黒髪校事件」という偏見と差別事件があったことはこの映画で初めて知りました。昨年お亡くなりになったばってん荒川さんの若き姿を見ることもでき、偏見と差別をなくさないといけないな~って私も思いました。「あつい壁」はそれなりに傑作だと思います。しかし、今回の「新・あつい壁」は、前作と比較して、また最近上映された「それでもボクはやってない」とも比較して、何か今ひとつ乗れない部分がありました。

 今回のは藤本事件をモチーフにしてあり、主人公は若きルポライターです。ホームレスの話から熊本の殺人事件に興味を持ち、ハンセン病の偏見と差別の現実を知るというような内容だったです。全編、若きルポライターが、吉村事件(実際は藤本事件)の関係者から話を聞く展開で話は進んでいきます。ハンセン病の差別の根っ子は深いとはわかるのですが、何か違うと思ったのは、実際の藤本事件は差別の話だけでなく、国の政策の誤りとの融合で起こった事件だったようです。この映画は文化庁の助成を受けており、国に対して批判的なことは描けないという制約があったのではないでしょうか?
 
    (リベル) こちらだと探さずに済みます。(5.20 12:33)  


制作費を「製作・上映協力券」で集め、上映に当たっては売り上げの60%を上納させる  投稿者:いい商売  投稿日:2007年 5月20日(日)12時01分3秒   返信・引用  編集済
  映画「新・あつい壁」
上映会開催に関する申し合わせ
*ご相談をはじめるたたき台として

http://kumamoto.cool.ne.jp/nakayama2005827/joueikaimousiawase.html

これは、各地で実際の上映会開催に関するご相談を始めていくための「たたき台」としての「申し合わせ」です。
内容として記載しています数字などは、「確定条件」という性質のものではありませんので、ご注意ください。
実際に上映会を希望される場合は、先ず末尾の製作・上映実行委員会にお申し込みください。
その上で、各地の取り組み経緯や状況なども勘案し、この「申し合わせ」をもとに個別にご相談しながら、上映会の実現と成功に向けて具体的に調整を進めていきたいと考えています。
何卒よろしくお願い申しあげます。


1. 製作・上映実行委員会(全国)主催で上映する場合

  (ア)「製作・上映協力券」での入場が可能です。

  (イ) 鑑賞券については、以下を基準にご相談いたします。

   ・ 一般前売  1300円程度~
   ・ 小・中・高  800円程度~

  (ウ) 会場や宣伝物(チラシ等)は、製作・上映実行委員会が準備します。



2. 地域の上映実行委員会主催で上映する場合


(A)「鑑賞券」による上映会の場合

上映可能な会場は、主催団体においてご準備ください。

一人でも多くの方への願いを実現するために、来場者の目標を300人とします。

鑑賞券の設定は1の(イ)を基準にご相談いたします。

フィルム借用料は、鑑賞券売り上げの60%を基本とし、残りの40%が、実行委員会運営費、会場費、映写経費、チラシ・チケットなどの経費に充てられます。

「製作上映協力券」の入場者数は、上記の「売り上げ」に入れません。


(B)「製作・上映協力券」による上映会の場合


上映可能な会場は、主催団体においてご準備ください。

映写は、製作・上映実行委員会が各地の映画配給社と連携し、責任をもって行います。

「製作・上映協力券」500枚につき1回の映写を目途と致します。

一人でも多くの方への願いを実現するために、来場者への積極的な働きかけをお願いいたします。

鑑賞券による入場も可能です。


3. 団体等で上映する場合

  (ア) 上映可能な会場は、主催団体においてご準備ください。

  (イ) 映写は、製作・上映実行委員会が各地の映画配給社と連携し、責任をもって行います。

  (ウ) 「製作・上映協力券」500枚、鑑賞券300枚につき1回の映写を目途と致します。

  (エ) 可能な限り団体以外の一般の方の入場が可能な形にご配慮ください。
    この場合、製作・上映協力券での上映会を基本とし、一般入場者料金は原則1人1000円です。



4. 学校鑑賞会として上映する場合

  以下を料金設定の基本とし、各地の実情に即してご相談のうえ設定いたします。

   ・ 小・中学生   1人 500円
   ・ 高校生     1人 600円
   ・ 大学・専門学校 1人 800円

以上




付記
上映会は、各地・各団体主催の自主上映型実行委員会による開催を基本の形として考えています。
実際に上映会を開催したいとお考えの場合、次の手順を念頭に置いていただければ幸いです。

 1)全国実行委員会(末尾)への連絡 ・・・ 最寄りの映画配給センターをご紹介します。
 2)映画配給センターとの連絡 ・・・・・・ 上映会に関する具体的なご相談に応じます。
 3)実行委員会の立ちあげ ・・・・・・・・ 一人でも多くの方に上映会を伝えていくために。

実際にはさらに、協力券と一般鑑賞券の取扱いの整理や開催規模などの細かな点についても、主催実行委員会(みなさん)・全国実行委員会(わたしたち)・映画配給センターとの連絡を密にしながら、具体的にご相談しながら進めていくことになります。

先ずは私たち(連絡先は下記)に、ぜひ一度、お気軽にご連絡・ご相談ください。

ぜひ一人でも多くの方に観ていただきたいと願っています。また、自信をもってお薦めできる作品ができあがりました。今後とも何卒よろしくお願い申しあげます。


【映画配給センターに関する情報】
 今回のフィルム配給や映写を担当する映画配給センターに関する情報は、こちらをご覧ください。



映画「新・あつい壁」製作・上映実行委員会事務局
〒862-0950 熊本市水前寺1丁目22-18丸山ビル104号
  Tel.096-381-1214  Fax.096-381-1293
e-mail:こちらまで
 
    (リベル) これは、これは・・・(絶句)(5.20 12:13)  


確かに、  投稿者:ドン・キショット  投稿日:2007年 5月19日(土)14時46分35秒   返信・引用
  手許の国語辞典を引いてみましたら、【速疾】は出ていませんでした。
けれども、私にとってはいまだ死語になっていなくて、例えば、
「三密加持すれば速疾に顕はる」(空海『即身成仏義』)

それはさておき、島田等が「らいにおける福祉の意味―杉村春三」で、“レプロサリアリズム(療養所中心主義)の反福祉性”と“患者自身の中に内在化されたレプロサリアリズム”を杉村春三を引用しつつ批判したのが1974年。30年以上前に島田等は「偏見は、らいの福祉の実現にとって解決されなければならない大きな問題であることはいうまでもない。しかしその大きさにもかかわらず、その社会的事実や歴史的形成についての厳密な把握、科学的認識の努力はなされていない。“言葉としての乱用と、実証的理解の貧困”である。/いったい現在の偏見といわれる社会的認識は、どのようにして形成され、どのような機会にどのような形で影響し、差別として働くのか。そうした具体的な事実認識や科学的分析なしに、その解消の声を大きくしても効果的な結果を期待できるものかどうか」と言っている。
 
    (リベル) 参りました。ググってはいなかったのです。決して死語ではないのですね。角川の「大字源」にはありませんが「字通」にはガッチリ出ています。駄目ですね、ネット上の国語辞典だけに頼っていては、反省!

「例えば『弘法大師空海全集/第二巻』(筑摩書房)の「即身成仏義」の現代語訳(松本照敬訳)は、有名な「三密加持すれば速疾に顕わる」を「ほとけとわれわれとの三密が、不思議なはたらきによって、応じ合うとき、すみやかにさとりの世界が現われる」となっている。加持が「不思議なはたらきによって応じ合う」と訳されているのである。」


>いったい現在の偏見といわれる社会的認識は、どのようにして形成され、どのような機会にどのような形で影響し、差別として働くのか。そうした具体的な事実認識や科学的分析なしに、その解消の声を大きくしても効果的な結果を期待できるものかどうか

今発言されたものと言っても、何も不思議がない、新鮮な言葉ですね。有り難うございました。(5.19 23:15)
 


誤解を招く恐れ・・・  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月19日(土)08時46分41秒   返信・引用
  http://www.janjan.jp/culture/0703/0703040014/1.php

http://blog.so-net.ne.jp/pegasus/2007-05-04


 私は、製作手法・シナリオの技法に“世の中狭い”を、感じたに過ぎません!

 主題・題材とされる製作の核には、大きな違いが・・・あり過ぎます・・・・・・

 「憲法改正」の是非!を多数派の付託者(与党)の論に惑わされて、刷り込まされることへの懸念が主軸でもある劇映画!

 一方、北風さん発信の
>ありきたりに「今も残る差別に気付く」のではなく「藤本事件が冤罪であったことを明らかにする」映画であるはずであったのがいつの間にか、すり替わってしまった。

 私も、すり替わるざるを得ない道を歩みだした真意に早く触れたいと思うし、歩みだしたという現実に自然発生の濃い霧の中為らぬ、人為的な煙の中・・・、煙に撒かれてしまったという 感 は否めません!?
 


同じ匂いを感じた映画の紹介・・・です!  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月19日(土)07時13分10秒   返信・引用
  http://www.cinema-indies.co.jp/aozora/index.html

       蛇足・・・世の中広い様で、狭い!


 上記貼り付けの真意は、作為あってのものではありません!偶然が偶然を呼んだのだと思います。ただそれだけのことだと、信じたい 朝 を迎えた・・・に、過ぎません!?

 実は、上記貼り付けの映画制作にも、水面下で論議を醸しだしているのです。

 「製作・協力券」? 何か無理があるように思えます。
 


余談:再考「全思考」  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月19日(土)01時10分59秒   返信・引用
  『 去年だったか、志村のケンちゃんと飲んだときは面白かった。
若いコメディアンが一緒にいて、会話に困ったのか、「師匠、ちょっと太りましたね」
なんて言ったから、俺はぱっと酒をやめて言った。
 「なに? コノヤロウ、今なんつった? デブって言ったか?」
  ケンちゃんと2人でさんざん絡んでやった。
 「てめえらみたいな貧乏と違うんだ、ヘコヘコの腹しやがって。この腹作るのに何十億
使ったと思ってるんだ。肝臓悪くてしょうがねえ」
 威張りながら笑わせてやって、「しょうがないな、この師匠たちは」って思わせてやる。
それでもう、若いヤツの緊張が少しとけているのがわかる。それが気遣いであって、相手
を好い心持ちにさせてやる目上の者の作法だ。
 いきなり「おい、俺の酒が飲めないのか」ってやっても駄目なのだ。平気な顔をしてい
ても、俺とケンちゃんに挟まれて、その若いコメディアンは居心地悪かったに決まってる
んだから。
 そこまでやってようやく「ま、いいから飲め」「ああどうも」って飲めるようになる。


私は実は、30年以上、広告代理店の営業をやっていました。ですから、気まずい雰囲気を察知して、自らサット、ピエロ役を買って出て、場を和ますくらいのことは、やってきました。営業マンの心得を実践していただけかも知れませんが。

そんな自分が、背中に達する程のボディーブローを受けたという、その理由を二つ見つけたので、書きます。

1)相手の置かれている立場だけでなく、武道で言えば「気の動き」というようなものまで鋭敏に嗅ぎ取る、心の余裕に恐れ入ります。大抵の場合、自分のこと(自分の会社での立場、次の発言内容等はもち論、家族のこと、恋人のことなど)で精一杯で、そんな目配り、気配りなんぞ、している暇がないのが、まあ普通でしょう。

2)たとえ嗅ぎ取っても、その場、そのケースに最も適切なシナリオを、当意即妙にパット書いて、巧みに演じ切るのが、また至難の業でしょう。そのあたりを、ピツと把握してたけし氏と呼吸を合わせられる志村氏もまた凄いと思います。こういうことは、やはり何度も修羅場を経験して、積み重ねていくものだろうから、私が今から付け焼き刃でやろうったって、そうは問屋が卸さない。

こんなことを考えて、こりゃ大変だ、どこまで出来るか、やるっきゃねえ・・・。
 


余談:数学の天才、ラマヌジャン  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月19日(土)00時19分38秒   返信・引用  編集済
  私は、寡聞にしてこの名前は「国家の品格」で藤原正彦氏が感動的に取り上げるまで、聞いたことが無く、その上、また忘れてしまっていました。

それから竹内薫氏の「99.9%は仮説」、北野武氏の「全思考」と読んで、面白くて昔買ったビートたけし氏の「裸の王様」(この本は、新潮新書が発刊された日、本屋の店頭で「バカの壁」と争って、私の頭の中では、競り勝った本なのです。その後遂に「バカの壁」は読まないままです)を引っ張り出してきて読んで、昨日また、ビートたけし氏・竹内薫氏共著の「コマ大数学科特別集中講座」を見つけて読み始めました。

読書量を自慢している訳ではありません。実際そんなに多くないのは、分かる人には歴然としていましょうから。

その「コマ大・・・」に初っぱなから出て来たのが「ラマヌジャン」だったので驚きました。北野氏が異常に興味を持っているそうです。72年間、聞いたことが無かった人に、今年に入ってから、それも全然違うところで、二度も会うことの不思議さに、奇妙な感動を覚えて、どなたさまにも全く面白くもないことを、長々と、書いてしまいました。

ご免なさい。謝るようなら書くな、投稿するな。ですね... o_ _)o パタッ


そうそう、たけし氏は本の中で、自分のことを「おいら」と書きます(「全思考」ではなぜか「俺」ですが)。そういえばご自分のことを「おいら」と言うのが口癖の方を他にも知っているような記憶が、うっすらと有るのですが、思い出せません・・・〆(。。 )メモメモ
 


藤本事件と真っ直ぐ向き合うこと  投稿者:北風  投稿日:2007年 5月18日(金)10時09分17秒   返信・引用  編集済
  「藤本事件」を通して、偏見差別や命の尊さを学ぶ(中山監督)ではなく、藤本事件そのものを見据えることが、ハンセン病問題の本質に迫ることになる。

かつて草津の加藤三郎さんは、以下のように書いています。

「 私達は、このように藤本事件を考えるとき藤本個人の問題としてでなく、「ライ」 の私達の問題として、深く考えなければならないと思うのです。
 藤本事件の中には、いたるところに私達の訴えつづけてきた「社会の偏見の問題」 があるのです。私は、さきに 「自分達とその家族にも一つの偏見とそれによる弱さがある」と書きましたが、どちらにしても、それをいろいろに外側から利用され、悩んできたことに間違いない。それは、つかみどころがないが、今日も霧の如く、私たちの身辺につきまとっているものなのです。
 これを払うことが 「ライ」 の啓蒙運動であったし、これからもそうだろうと思う。この霧のカタマリが藤本事件なのです。そして藤本事件の 「本質」 なのです。」
 
    (リベル) そうです。何故、真っ直ぐに向き合わないのか?「菊池事件」や「F事件」でなければいけないのか?

「冤罪」という言葉も避けられているのではないでしょうか、確信はありませんが。

大人というものは、ご遺族や、官憲に、そういう形での気の使い方をしなければいけないのでしょうか?

そこまで「過敏」でなければ、いけないのでしょうか?

日本版「死刑台のメロディー」を作るにはさらに日月が必要なのでしょうか?

そこが、分かりません。(5.18 23:51)
 


Re: 疾走にでも。  投稿者:ドン・キショット  投稿日:2007年 5月18日(金)09時44分18秒   返信・引用
  > No.2214[元記事へ]

> >(リベル) 私もそう思います。藤本事件のドキュメンタリーを別に作るべきなのでしょうね。(5.17 23:02)
>
> 本気で何とか考えたくなりました。証言者もいるうちに。
> http://docudocu.jp/shisso.php

“速疾にでも”の間違いか? とおもいきや、
「ゆきゆきて、神軍」「追跡731部隊」の原一男+小林佐智子の「疾走プロダクション」だったのね。
 
    (リベル) 「速疾にでも」という言葉には、馴染みがないのですが・・・?(5.18 23:30)  


冤罪(えんざい)だ・っ・た「藤本事件」が題材  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月18日(金)07時03分46秒   返信・引用
   投稿を後押ししてくださったのが、「しゅう」さんの“東風吹かば”で島田等さんの『花について』に触れることが出来たからなのです。

 人がことばを失う危機(とき)・・・、この愚かさをとても上手な表現で文章化していると、私は・・・考えさせられました。

 報道に携わる方が使命(事実確認)を忘れ、新聞記事の影響力を自覚することもなく、「冤罪だった事件」などという言葉を不特定多数の一般大衆に伝えたことに、まさにことばを失う危機(とき)と、感じてしまいました。

 ハンセン病市民学会、第3回総会・交流集会の前夜祭で封切り前の映画「新・あつい壁」(中山節夫監督)を無料上映することを以前から知っていましたので、上映後どのような“評”が、多くの皆さま・報道陣より「ことば」として出されるのか?、固唾を呑んで待ちわびていました。
 リベルさんが仰る様に「形式的」になりつつある、ジャーナリズムの有り様が事実なら、私は危機を感じます。


 被差別化された方々には、この言葉の恐さを嫌というほど体感、体験されているからこその、発信力(文学)をお持ちだと感じていました。その方々の発信を聞き入れる、感じ取れる“永久(とわ)の努力”は、私たちに求められていることなのかもしれません!


 「冤罪だったのかも知れない・・・」で済まされていたこの「藤本事件」を、「冤罪だった」に、真摯に愚直に汗を掻くべきと、唱えて来たものには・・・、ある意味衝撃です・・・。
 もし、藤本さんの身内の方がこの記事をすんなりと読めるのかは?、私の大きな疑問となっています。

 当事者抜きに前に進めない今ある現実(司法)は、今回の映画制作が、そのことを置き去りにしてきた事実・・・、多くの疑問の中のひとつです。

 今ある現実は、「当事者起ちて我有り」は否めないようです!だからこそ、今回、題材としてこの事件を映画化したのであれば、記者の「冤罪だった」などという言葉にはある意味機微為る心遣いも映画制作者側にあって然りだと思えます。
 
    (リベル) 「東風吹かば」はご存じの方が多いと思いますが、夕焼けさんの背中を押した、島田等さんの「花について」をご紹介します。


花について
                                                    島田等

数万年前の中東の洞窟では、死者の埋葬に多くの花が使われていた。
同じように一万年前の縄文人たちも埋葬に花を使った。
使われた花の名もあきらかにされている。

考古学の新技法の採用によって発見されたこれらの事実は、
人間の花にたいする選択的な関係のはるかな始源性をしめすものである。

おそらく、文字をもたなかったであろうかれらが、
花にこめようとしたものを考えるとき、
それはのちの人間にとっての宗教であり、哲学・思想であった。

花は人間にとって始源の宗教であり、始源の哲学であった。
人間は言葉を失うとき、その始源性へ引き戻される。

地上に花は溢れ、栽培花は妍を競っている。
人々は花に囲まれて豊かさをさらに実感する。
しかし花にこめられる想いが豊かさに偏っていくのは本来ではない。

一度も言葉を失う危機(とき)を持たなかった人は、
花は自分を美しいと思ったことはない、
ということを知らずに過ごしてしまうのではないか。

(5.18 23:25)
 


「医学的説明」完成?  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月18日(金)02時23分58秒   返信・引用  編集済
  「医学的説明」判決文から頂戴する理由が、実は有りました。Wikipediaに対する”敵対心”っていうか、”批判的心情”というか。なにか大勢が寄ってたかって、しかも、自己顕示も有ったりして、内容に一本背骨が通っていない、そういう感じが否めないのです。変な位置に「療養所」の項目が立っていたり。これ、「フリー百科事典」の宿命ではあるのですが。

そこへ行くと、少なくとも背骨の点では、判決文の方が優れています。それを頂戴したは良いが、やはり参ったのは「難しい」ということです。取っつき難いだけでなく、「上の説明」は「右」、「日本」は「我が国」などと、この世界特有の言い回しが有って。

裁判官になろうというような人は、やはり頭が良いから、医学専門用語でもスイスイ理解して、平気で当たり前のようにお使いになる。前にもぼやきましたが、「らい菌由来の抗原と抗体、補体とが結合してできた免疫複合体が」なんて、敵いません。そういうのには、一々辞書を引いて解説を付けました。

と、まあ、いうような苦労はしたのですが、果たしてどうか?数日置いて、又読んでみて、どうしても納得いかなければ、「判決文」の使用は止めます。「感染症センター」の「医療従事者向け」の方が未だましかもしれないなんて、迷っています。

気が向いたら、ご意見をくださいな。
 


疾走にでも。  投稿者:北風  投稿日:2007年 5月17日(木)23時30分25秒   返信・引用  編集済
  >(リベル) 私もそう思います。藤本事件のドキュメンタリーを別に作るべきなのでしょうね。(5.17 23:02)

本気で何とか考えたくなりました。証言者もいるうちに。
http://docudocu.jp/shisso.php
 
    (リベル) 進んで協力させて頂きます、こいつは。でも、ね、業界は二番煎じは嫌だと言って、乗って来ないのでしょうね、多分。

「疾走にでも」という言葉には、馴染みがないのですが・・・?(5.18 01:34)

知りませんでした。有り難うございました。(5.18 12:13)
 


余談  投稿者:ルリカケス  投稿日:2007年 5月17日(木)10時19分30秒   返信・引用  編集済
  >兎に角、6月に、期待しましょう。ほかにも期待したいところは幾つか有りますが。2年後に「始まり」などと仰有らないでください。私はあの世に行っているかも知れませんし・・・(>_<)

リベル様兎に角6月ですか?2年後はこの世にいない。そんな寂しい事言わないで、
ちゃんと「ハンセン病基本法」伝えて下さい。最後まで、それが「ハンセン病リンク集」ではないですか?



>私には、この記事の現実が重く圧し掛かっています。
この事件を、死刑囚であったのか、どうか?を、持ち続けていこうとするものには・・・、些細なことなのかも知れませんが、重く複雑な記事内容でした・・・・・


夕焼けさん気持ち解ります。
私は今回の「あつい壁」の実行委員降りています。前回の映画の件は私のHPで記載済みですが?中山監督&S氏とも現在切れています。
今後各地で映画が行われますが、他の人には進めません。Y氏より長文を頂いていますが!
私個人として、この映画に取り組むスタッフの気持ちが理解出来ないです。
夕焼けさん今の気持ちを大事にして下さい。陰ながら支援します。
 
    (リベル) なにか、この映画はそれこそ「物議を醸す」為に、この世に現れたのかと言いたくなります。

藤本事件を、私達に再認識させるというそういう意味での「功績」は有ったと言うべきなのでしょうけど。(5.17 23:07)
 


「熊笹の遺言」は60万円。  投稿者:北風  投稿日:2007年 5月17日(木)09時22分44秒   返信・引用
  「藤本事件」が「題材」ではありませんね。

シナリオを読むかぎり、強いて言えばルポライターの「成長物語」に過ぎません。
ありきたりに「今も残る差別に気付く」のではなく「藤本事件が冤罪であったことを明らかにする」映画であるはずであったのがいつの間にか、すり替わってしまった。

こうなったら、別に「映画」を作りたくなりますね。
事実を淡々と追う、ドキュメンタリーなら工夫の余地はないだろうか?
「熊笹の遺言」が60万円で出来たように。
 
    (リベル) 私もそう思います。藤本事件のドキュメンタリーを別に作るべきなのでしょうね。(5.17 23:02)  


見過ごしか?あきらめか?  投稿者:夕焼け  投稿日:2007年 5月17日(木)07時32分4秒   返信・引用
  > 映画は、殺人事件で死刑判決を受けたハンセン病患者が冤罪(えんざい)だった「藤本事件」が題材。主人公のルポライターが事件の取材を進め、今も残る元患者への差別に気付くという内容だ。中山監督は約40年前にも元患者の差別をテーマにした「あつい壁」を撮っている。

毎日新聞 2007年5月12日【伊澤拓也】
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/gunma/news/20070512ddlk10040218000c.html


 私には、この記事の現実が重く圧し掛かっています。
 この事件を、死刑囚であったのか、どうか?を、持ち続けていこうとするものには・・・、些細なことなのかも知れませんが、重く複雑な記事内容でした・・・・・・
 
    (リベル) 夕焼けさん、ご無沙汰しました。お元気でしたか、安心しました。

>上映後、中山監督は壇上で「ハンセン病の理解は進んだが、差別はどうか。むしろ根深くなっている。映画を通して、差別とは、命とは何かを考えてほしい」とあいさつした。

果たしてそうでしょうか?理解が進んだ、差別は根深くなった。簡単に断定されては困りますね。記者の取材も、形式的でいけませんし・・・。(5.17 22:58)
 


余談:「全思考」から  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月17日(木)03時58分49秒   返信・引用  編集済
  『 去年だったか、志村のケンちゃんと飲んだときは面白かった。
若いコメディアンが一緒にいて、会話に困ったのか、「師匠、ちょっと太りましたね」
なんて言ったから、俺はぱっと酒をやめて言った。
 「なに? コノヤロウ、今なんつった? デブって言ったか?」
  ケンちゃんと2人でさんざん絡んでやった。
 「てめえらみたいな貧乏と違うんだ、ヘコヘコの腹しやがって。この腹作るのに何十億
使ったと思ってるんだ。肝臓悪くてしょうがねえ」
 威張りながら笑わせてやって、「しょうがないな、この師匠たちは」って思わせてやる。
それでもう、若いヤツの緊張が少しとけているのがわかる。それが気遣いであって、相手
を好い心持ちにさせてやる目上の者の作法だ。
 いきなり「おい、俺の酒が飲めないのか」ってやっても駄目なのだ。平気な顔をしてい
ても、俺とケンちゃんに挟まれて、その若いコメディアンは居心地悪かったに決まってる
んだから。
 そこまでやってようやく「ま、いいから飲め」「ああどうも」って飲めるようになる。


これには、心底参りました。何度も読み返しました。魂の奥まで突き刺さるボディーブローを喰らった、と言う感じです。「人の身になって」とか、「相手の気持ちになって」とよく言います。その言葉を知らない訳じゃない。しかし私は、72年間、本当にこういうスタンスで、ものを感じたことがあったか?目下の者を思いやったことがあったか。俺が出世できなかったのも、当然だなあ。

あと何年生きるか分かりませんが、少しでも良い、今日叩き込まれた教訓を、実践して行こうと思います。なにか、思考方式を根底から変えて行かないと、余程根性を入れ替えないと、出来そうにありませんが、やってみます。思考方式と言うのもチョット違うんでしょうね。生き方というか、人生観というか、何かそういう基本部分を正さないと駄目なのでしょうね。やってみます。

いま、ぽっ、ぽっ、ぽっと妙な音の拍手が湧き起こってきました。やがて少なくなり、今はポツ、ポツ、と、そうです、雨漏りの音です。築後31年と78日、初めての雨漏りです。しかし大工さんが良心的だったのでしょう、阪神大震災にも耐え、今日まで、よく頑張りました。こちらは、パチパチパチと拍手を贈らなければ・・・。
 


余談:石川五右衛門  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月17日(木)01時22分24秒   返信・引用  編集済
  学生時代、ボート部に所属していたときのことです。漕ぎ手が8人とコックス(舵手)の計9人がクルーを編成して、後藤先輩(ニックネーム「ごえもんさん」)という鬼コーチの厳しいしごきを受けていました。

ある日何かミスがあって、その名も蜂須賀という(これは実名です。ちなみに蜂須賀小六の死の8年後に石川五右衛門が釜茹でにされています。全くの脱線ですが。)コックスが言い訳をするとき、普段は「ごえもんさん」で良いのですが、さてかしこまって、丁寧に呼ばなければいけません。で、後藤先輩に向かって「でもですね、実はですね石川さん」と言ってしまったのです。一瞬、訳が分からなかったのが、たちまち大爆笑の渦となってしまいました。

ごえもん鬼コーチは、実に優しい心根の人でした。超一流企業に就職されたのですが、あっけなく夭折されました。

トイレにしゃがんだまま、ふと気が付くと、そんなことを思い出しながら本の表紙を無意識に撫で続けていました。「全思考」(北野武)というのは、そうさせるようなところのある本です。

幻冬社というところは、時々ポツリと良い本を出します。北風さんのセンスとエネルギーを以ってすれば、これくらいのことは朝飯前だと、ふと思うのです。
 


Re: とりあえず、「報告」にかえて  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月17日(木)01時01分6秒   返信・引用
  > No.2206[元記事へ]

> リベルさん、これからの運動に期待しましょう。肝心の「ハンセン病問題基本法」が、
> 何処へですかね?
> 6月の臨時支部長会議ですか?私は未だ各園の意見は纏まっていないと思います。
> 後2年後に全療協の方針が出ることでしょう。それから始まりですかね。

兎に角、6月に、期待しましょう。ほかにも期待したいところは幾つか有りますが。2年後に「始まり」などと仰有らないでください。私はあの世に行っているかも知れませんし・・・(>_<)
 


Re: ふたみさん旧稿  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月17日(木)00時57分7秒   返信・引用
  > No.2202[元記事へ]

> □市民学会の報告をしたいのですが、力が入らなくて。
> 代わりに双見さんを追悼して、昔双見さんが書いてくれた「神谷書庫」についての旧稿を再録します。
(中略)
>  編集部では 「海人はどうなったろ」とまたまた話が出て、空家になった分館に入ってみました。
>  ガランドゥになった分館の床の上に見おぼえのリンゴ箱一つ。ボソンと……。
>  早速持ちかえりました。
> 「空巣かな」
> 「いやいや、資料移管だぞ」と……。
>  今それらは、分類整理して書庫に保管されています。

「神谷書庫」のような資料保存は、各療養所にも有るのでしょう。数十年後を考えると、そういう貴重な資料が散逸する恐れがあります。そうでなくても厚労省は、さっさと処分するでしょう。犯罪の証拠を残したくはないのが人情ですから。

数十年後には、我々(少なくとも私)は、居なくなります。何とかするなら今の内でしょうね。
 


とりあえず、「報告」にかえて  投稿者:ルリカケス  投稿日:2007年 5月16日(水)18時22分21秒   返信・引用
  北風さんご苦労様でした。

何か本当にしらけますね!これまでと差異があるのでしょうか?

リベルさん、これからの運動に期待しましょう。肝心の「ハンセン病問題基本法」が、
何処へですかね?
6月の臨時支部長会議ですか?私は未だ各園の意見は纏まっていないと思います。
後2年後に全療協の方針が出ることでしょう。それから始まりですかね。
 


とりあえず、「報告」にかえて  投稿者:北風  投稿日:2007年 5月16日(水)14時02分20秒   返信・引用  編集済
  【ハンセン病問題基本法要綱案】
「第三回市民学会総会資料から」


第1部 基本方針

1.基本理念
過去のハンセン病策による被害の原状回復(国の責務として)
(1)ハンセン病に対する差別・偏見の除去並びにハンセン病患者であった者及びその家族の名誉の回復。
(2)入所者等がその居住するハンセン病療養所でたとえ一人になっても社会の中で生活するのと遜色のない生活及び医療の水準で安心して暮らせるようにすると共に、地域社会においてハンセン病療養所が開かれた役割を果たすこと。
(3)ハンセン病患者であった者が社会に復帰することを支摸し、かつ、社会内で生活することを終生にわたって援助すること。

2.廃止法の廃止
「らい予防法の廃止に関する法律」(平成8年3月31日法律第28号。以下「廃止法」という。)の問題点(廃止法2条等)を克服するため廃止法を廃止。



第2部 総則関係

1.趣旨・目的
  ・ハンンセン病問題に関する施策の基本理念を定める。
  ・国及び地方公共団体の責務を明らかにする。
  ・ハンンセン病問題に関する施策の基本的事項を定める。
  ・ハンセン病の患者であった者等の名誉の回復及び福祉の増進。
  ・死没者に対する追悼の意を表する。

2.定義
(1) ハンセン病患者であった者
   「らい予防法」(昭和28年法律第214号。以下「らい予防法」という。)廃止までの国内のハンセン病罹患者。
(2) 国立ハンセン病療養所等
   国内の13の国立ハンセン病療養所と私立療養所を含める。
  (注)各療養所の具体的な名称として「国立ハンセン病療養所」の語を使用すべきとする趣旨ではない。
(3) 入所者等
   「らい予防法」廃止までの間に国立ハンセン病療養所等に入所したことがある者。
  (注)国立ハンセン病療養所等の現在の入所者と退所者を含む定義としている。
(4) 退所者
   (3)に定義した「入所者等」のうち、現在、国立ハンセン病療養所を退所している国内居住者。
(5) 非入所者
   (1)の「ハンセン病患者であった者」のうち、「らい予防法」廃止までの間に、国立ハンセン病療養所等に入所したことがない国内居住者。

3.基本理念
(1) ハンセン病問題に関する施策について、誤った政策による被害の原状回復を可能な限り回復することを旨として行う国の責務。
(2) 誤った政策こよって作出、助長された差別・偏見を除去するため、ハンセン病及びハンセン病対策の歴史に関する正しい知識の普及・啓発に努めるとともに、ハンセン病患者であった者及びその家族の名誉の回復に努める国の責務。
(3) 誤った隔離政策の下で療養所に入所することとなった入所者等が、現在居住するハンセン病療養所で、たとえ一人になっても社会の中で生活するのと遜色のない生活及び医療の水準で安心して暮らせるよう確保する国の責務。
く4) 社会内生活を困難とする誤ったハンセン病政策の下でハンセン病患者であった者が、社会に復帰することを支援し、また、社会内で生活することを終生にわたって援助する国の責務。
(5) 上記(1)乃至(4)の基本理念に照らし、13の国立ハンセン病療養所等が地域社会において開かれた施設となるよう配慮する座の責務。
(6) ハンセン病問題に関する施策を実施するにあたって、上記(1)ないし(5)の基本理念 に従って行う地方公共団体の責務。

4.当事者の意思の尊重
国がハンセン病患者であった者らの意見を施策に反映させるための措置を講ずること。



第3部 国立ハンセン病療養所等における生活及び療養の保障

1.国立ハンセン病療養所における療養
 国は、国立ハンセン病療養所において、入所者等に対して、必要な療養を行うこと。

2.国立ハンセン病療養所への再入所及び新規入所
(1)退所者は、希望すれば原則として国立ハンセン病療養所に入所できること。
(2)非入所者は、希望すれば原則として国立ハンセン病療養所に入所できること。
(3)国は、上記(1)ないし(2)により入所した者に必要な療養を行うこと。

3.在園及び生活水準等の保障
(1)国は、入所者等(上記2・による再入所者及び新規入所者を含む。)の意思に反して、国立ハンセン病療養所から退所、転園させてはならないこと。
(2)国は、入所者等に対し、社会の中で生活するのと遜色のない生活及び医療の水準を保障するため、財政上の措置を講ずるとともに、13の国立ハンセン病療養所の生活環境及び医療体制の整備を行うよう最大限努めること。
(3)国は、(2)に定めた国立ハンセン病療養所の生活環境及び医療体制の整備にあたって、入所者等がその居住する国立ハンセン病療養所でたとえ一人になっても安心して暮らせるようにすると共に、その生活が地域社会から孤立したものにならないよう配慮しなければならないこと。
(4)国は、上記(2)及び(3)の目的を達成するため、国立ハンセン病療養所の土地及び設備(新たに放置する施設を含む。また第6部第1項に定める施設を含む。)を地域住民等の利用に供する等、必要な措置を講ずることができること。
 地域住民等が利用する施設の事業執行者を認可する手続などは、別途厚生労働省令で定めること。
 (注)(3)の「入所者等がその居住する国立ハンセン病療養所でたとえ一人となっても安心して暮らせるようにする」という目的を達成する方法の中には、ハンセン病患者であった者以外の者が利用居住できる施設を国立ハンセン病療養所の敷地内に併設する方法も含まれる。そこで、(4)のとおり、そのような利用が可能なことを明らかにする根拠条文を置くと共に、障害となっている廃止法は廃止する(第7部第2項)。

4.国立ハンセン病療養所以外のハンセン病療養所に対する措置
国は、私立療養所の入所者に対しても、必要な療養を保障するための財政上の措置を講じること。



第4部 社会復帰の促進及び社会内生活の援助

1.退所準備金等社会復帰の支援
国は、国立ハンセン病療養所等からの退所を希望する入所者に退所準備金の支給等必要な措置を講ずること。

2.退所者及び非入所者給与金
(1) 国は、退所者にハンセン病療養所退所看給与金を支給すること。
(2) 園は、非入所者にハンセン病療養所非入所者給与金を支給すること。

3.ハンセン病等に対する社会内医療体制の整備
国及び地方公共団体は、退所者及び非入所者が、国立ハンセン病療養所以外の医療機関においても、安心してハンセン病及びその後遺症等関連疾患の治療を受けるための医療体制の整備に努めなければならないこと。

4.相談窓口の設置等
国及び地方公共団体は、退所者及び非入所者の社会内での生活を援助するため、相談窓口の設置等、必要な措置を講ずること。



第5部 親族等の援護
1.廃止法第6条ないし第11条に定められた親族の援護こ関連する規定を本法律中に引き継ぐなど親族等の援護を行うこと。



第6部 啓発及び名誉回復並びに死没者の名誉回復追悼

1.啓発及び名誉回復
国は、ハンセン病及びハンセン病対策の歴史に関する正しい知識の普及啓発並びにハンセン病患者であった者及びその家族の名誉回復を図るために、資料の保存、ハンセン病資料館及びハンセン病療養所の歴史的建造物の管理運営その他本項の目的のために必要な措置を講ずること。

2.死没者の名誉回復追悼
国は、ハンセン病の患者であった者で死没した者に対する追悼の意を表するとともに、その名誉の回復を図るために必要な措置を講ずること。

第7部 その他
1.この法律の目的を達成するために必要なその他の事項は、厚生労働省令で定めること。

2.廃止法は廃止すること。(附則関係)
 
    (リベル) ルリカケスさんには、申し訳ないのですが、私は北風さんに「報告」をお願いしようとは、思っていません。

「しらけてしまって」とか「力が入らなくて」と仰有るのが、全てを物語っている、まあ、「市民学会」にそんなに多くを求めることは、私はしない、そう思っていますので。次回の年報で詳細を見ようと思って、私は、居ます。

ただ一つ、基本法の策定についての議論に絞って言えば、何かがあったのか、それが6月の支部長会議への橋渡しの役割を果たしていたかどうか、その点だけは知りたいと思っていましたが、上の基本要項案を拝見する限り、言及が無かったかに感じられて、ああ、やはりなあ、と感じていますが・・・。

まあ、ずばっと言えば、学者や、官僚が整理する様な事項は置いといて、回復者、退所者の方々のサイドに身を置いた、親身な討議が欠けていたのではないかと、感じさせてしまう、それが残念です。参加をしていないで、想像だけで、余り大きな口はきいてはいけませんでした。(5.16:17:32)
 


市民学会の報告  投稿者:ルリカケス  投稿日:2007年 5月16日(水)12時37分47秒   返信・引用  編集済
  北風さんご苦労様でした。

ところで市民学会の報告を楽しみに待っていたのですが?
力が入らないと言う事ですか?残念です。
それに今回の市民学会にて「ハンセン病問題基本法」の説明されなかったみたいですね!

でも一旦口に出したら、それなりの説明ないし、資料は、配布されたのでしょう?
まずは今回の「議員立法」ですが、与野党のハンセン懇議員の先生方で多分「議員立法」を提出すると思いますが?
だすると「議員立法を提案しやすい環境の整備」等々は弁護士又は市民学会の共同代表から、説明なかったのですか?

私には新聞記者他数名からメール来ていますが?報告はまちまちです。
北風さん、後日で構いませんが、「市民学会」のご報告をお願いします。
 


いちゃもん  Re: 余談:悲惨・銀婚式の記念樹が・・・  投稿者:北風  投稿日:2007年 5月16日(水)11時01分25秒   返信・引用
  > No.2201[元記事へ]

リベルさんへのお返事です。

> しかも弓の弦そのもののように、見事に反った苗木しか手に入りませんでした。

弓の「弦」は、引き絞らない状態では真っ直ぐだべや。
弓の「弓本体」部分の名称を調べたけれど「弓」以外は分りませんでした。
 
    (リベル) いけねえ、大変、これには慌てました。

早速、修正、修正。有り難うございました・・・(恥)(5.16:1210)
 


ふたみさん旧稿  投稿者:北風  投稿日:2007年 5月16日(水)10時17分23秒   返信・引用  編集済
  □市民学会の報告をしたいのですが、力が入らなくて。
代わりに双見さんを追悼して、昔双見さんが書いてくれた「神谷書庫」についての旧稿を再録します。


 愛生園には、神谷書庫と名づけられた小さな建物があります。ここは私達の資料庫なのです。そこには、編集部の先人、秋山(信義)老人が誰かの死亡か転宅があれば、早速フゴ (藁製のモッコ) を持って出かけて、捨てられた紙屑の中から、らいに関わる資料を執念に近い収集のおかげで、書庫の基礎になっている蔵書が、茶箱に十数杯も集められていたのです(全国療養所の機関誌、らいの文献、論文の抜き刷等々)。

 加えて、後に入部した私達がまた同類で、園が書類を整理したと聞けば、早速小型トラックを動員して、ゴミ捨て場へ急行、目はしいものを拾い集めてきました。入所者でなければ意義を見出せない紙屑のもろもろです。書庫には、それらをすべて、分類整理して収められています。

 書庫の中には、明石海人が、視力の衰えを予想して、その時に読もうと筆太に書き残した万葉集の写しも、推敲のあとのある詩稿も歌稿も、スケッチ風な素描もほとんど完全な形で残されています。それは、海人の最後を看取った者が、彼の遺品を整理したあと、それら海人の所産を長島短歌会に移管したからです。

 昔は恩賜道場と呼んだ修練道場をらい参考館と改称、園の文化遺産の陳列所として、管理することになり、短歌会の棚には海人遺稿も並べられて、自由に見ることができました。 が、建物の雨漏りなどによる補修のためにと、いつのまにか棚からはずされていました。

 ある日、編集部で、あれはどうなったのかと話題になって、記念館にまで出かけてみたのです。館の東の入口の土間に、リンゴ箱に入れられて、俳句会や詩話会の蔵書とともに積み上げられてありました。同じ場所には、入所者の焼いた愛生焼なども数多くあったはずなのですけれど、それらは四散してしまっていて、遺稿は紙屑なみに人の注意を引くこともなく、ひっそりと箱に入って、そこにあったのです。

 そのあと 「海人のリンゴ箱は事務分館に持って行ったよ」と人づてに聞いたのですが、その分館のある丘が住宅に変わることになり、分館は水星病棟あとに引っ越してしまいました。

 編集部では 「海人はどうなったろ」とまたまた話が出て、空家になった分館に入ってみました。
 ガランドゥになった分館の床の上に見おぼえのリンゴ箱一つ。ボソンと……。
 早速持ちかえりました。
「空巣かな」
「いやいや、資料移管だぞ」と……。
 今それらは、分類整理して書庫に保管されています。
 


余談:悲惨・銀婚式の記念樹が・・・  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月16日(水)01時20分45秒   返信・引用  編集済
  19年前になります。金が無くて、さて、銀婚式に何か記念になることはないかと、考えて、このあたりは植木の産地なので、女房の好きな白梅を植えようと言うことに。ところがシーズンオフでロクなのが無く、一メートル程の、しかも弓そのもののように、見事に反った苗木しか手に入りませんでした。

しかし、自然の素晴らしさを、それから数年の内に見せつけられることになります。弓が、土に刺してあるとご想像下さい。それに、まことに巧みに画家が筆を加えるように、必要な部分に、必要な方向に、枝が伸びて来るのです。3~4年ほどだったでしょうか、見事にバランスの取れた「梅の木」の形になっていました。

昨日切るときに、涙が出そうになったのは、しかし、やはり、小枝を払っていくと、残って来る主幹が、昔の侭の弓状だと分かった時でした。いえそうではなく、潜在意識が、そのように枝を払わせたのかも知れません(落涙)。

そうなのです、「枯れる」という気配を感じたのは、二ヶ月ほど前だったでしょうか、ボツボツ万物が芽吹き始める時期になっても、動きが無いと。それからが、実は苦しかったのです。女房の気持ちを思うと、何をどう話せばよいか、分からなくて。それは彼女の方も同じだろうと思うと、余計に困難が度を加えて。

「仕方がないから、もう、切る?」と彼女の口からポロッと出たのが、数日前です。お互いに、重おい肩の荷を下ろしたように、ホットしました。

先に書いたようにここらあたりは植木の産地です。31年前の3月28日に越してきたとき、登りにさしかかる所に(私の家は山の中腹に有るので)実に見事な枝垂れ桜が咲いていました。満開の頃には、アマチュア・カメラマンや画家で賑わい、臨時の茶店が出るほどだったのですが。その桜に、2~3年前から異常が見られるようになりました。枯れ枝が、目立ち始め、素人目にも大手術がなされ始めたのです。直径20センチもあろうかという太い枝も、切らざるを得ないという。

プロが管理している、名物がああなるのだから、異常気象かなにかに違いない。という原因説で、私達夫婦は、自らをなんとか納得させたようです。


これが枝垂れ桜の、惨状です。
もう、カメラマンも画家も居ません。
モデルは居合わせたご家族です。
奥さんがピース・サインをソットなさったので
吹き出して、カメラを落として、大変でした。
 


Ichiroさんへ  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月15日(火)11時56分5秒   返信・引用  編集済
  私は、小箱さんのお話は、正しいご指摘だと思っています。日本で本当に「ハンセン病」であると同定されるものを、確認しようとする作業は、そもそも”無理”ではないか、とも思いますし。それに恐らく”無駄”でしょうね(笑)

それから、本当の「ハンセン病」を特定することから起きる、「非らい」や「らい部落」に関する問題も、なおざりには出来ません。だから仰有るように「ファジー」で良いと、私奴も思い、自分の行為は「オタク」だと、自嘲しているところなのであります・・・(・_・;)
 


Re:余談:それにしても・・・  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 5月15日(火)05時09分35秒   返信・引用  編集済
  小箱さん こんにちは

 ハンセン病だけを抽出することを問題にされているという鋭い指摘ですね。他の病気については、あまり検討されていません。

 皮膚疾患については、外見からわかる場合、差別されていたという、個々の指摘はあります。アトピー性皮膚炎が アトピッコといわれ差別されたこととか、尋常性乾癬という皮膚病のプロレスラーがリング上で、恐れられたとかいう話などあります。同じ皮膚病でも、ハンセン病と梅毒の場合も、大きな違いがあるのも指摘されています。ハンセン病は特別差別がひどかったと思います。

 療養所の中の「非らい」の問題ですが、施設内で、また差別ともなり、片身が狭い思いをされたと思います。
 家族的に面倒みてもらえず、やむを得ず、病人として入所された方と(カルテには nonと書かれていた療養所もあります。色々な統計でどうしようかと頭をひねったこともあります)、別の病気で、誤診でなく、社会的に入所された方がいます。また、積極的に、療養所を利用しようという目的で、入られた方もいます。後者の場合、診断時になにがなんでも痛くないといえ、ということで医師を騙して入った?らしいですが、医師が騙されたのかどうかは、今となってはよくわかりません。
 誤診で入所に到るかという問題ですが、可能性はあると思います。先天性無痛症という先天性の疾患は、手足の潰瘍、欠損は ハンセン病そっくりですし、また、皮膚病のなかにも、四肢、手や足の指に切断に到る疾患があります。患者様本人も、ハンセン病でないという自覚はありましたが、また療養所以外では生活できないだろうという自覚もあった方を知っています。一度、ハンセン病療養所に入れば、社会に帰れば差別されるということもありましょう。

 この様な例外的なことを調べるのは、大事なことはないという指摘もあると思いますが、私は病気の場合、その周辺的なことも調べるのも大事ではないかと思います。ファジーというのはどういう意味でいわれたのでしょうか。
 


Re: 余談:それにしても・・・  投稿者:小箱  投稿日:2007年 5月14日(月)01時34分41秒   返信・引用
  > No.2195[元記事へ]

リベルさんへのお返事です。

あのー おずおずと・・・。
最近思っていることは、歴史の上で医学的にハンセン病だけを厳密に抽出することがそんなに大切なのだろうかということです。
 例えば 療養所の中では「非らい」という問題があります。また一度「らい」というレッテルを貼られてしまったら差別を受けたという事実もあるわけで、ハンセン病という病気だけにとらわれると「らい部落」なんかも全然説明が出来なくなると思うのです。
 だから歴史部門はもと大ざっぱというはファジーでも良いと思うのですが、どうでしょう。
 
    (リベル) 有り難うございます。気持ちが軽くなります、そう仰有って頂くと。

今実は、お分かりのように、「ツアラアト」と「ハンセン病」と「レプラ」のことを確かめています。世界の歴史で、何時「ハンセン病」が特定されたかと言うことです。これは分かりました(「聖書のらい」p.53~)。いずれ「起源と歴史」のページでキッチリ書きます。

それで、日本のことが、気になり始めたのです。先ほど書きましたとおり「日本らい史」を盲信する方向で行こうとしていますが、もうしばらく「オタク」で居るかもしれません。お許し下さい・・・(笑)(5.14 02:05)

いま、読み返してみたら、答えになっていませんでした。それは、仰有るとおりだと思います。「歴史の上で医学的にハンセン病だけを厳密に抽出すること」そこからは何も生まれませんから。それが分かったからと言って、何かが変わる訳でもありませんし。だから、「オタク」なのでしょうね(笑)。ただ、そうして、調べていく過程から、派生的に色々な事実を学ぶことが”楽しい”からやっているに過ぎない、だから”オタク”なのでしょうね・・・(反省)(5.14 02:15)
 


Re: 余談  投稿者:小箱  投稿日:2007年 5月14日(月)01時21分13秒   返信・引用
  > No.2196[元記事へ]

Ichiroさんへのお返事です。

>  ”此の人は現世に白癩の病を得ん。”の説明の中の白癩は鼻が平たいなど、ハンセン病を疑わせる記載はあるものの、よくわかりません。白とは何でしょうか。

素人の横入れです。ご容赦を。
「此の人は現世に白癩の病を得ん」というのは、令義解ではなく法華経ではないでしょうか。
白癩の白というのは、皮膚の一部が白くからだと、どなたの本たったか忘れましたが、発症の初期に皮膚の一部に白い斑点のようなものが出来て、ああこれが白癩なんだなぁと思った。というような記述があったと記憶しています。

書き込んだついでに、双見さんの想い出をもう少し書きます。

プロミン以前の薬というと、大風子の話ばかりで、虹波やセファランチンはすこぶる評判が悪いですが。双見さんは私には虹波は効いたんじゃないかと言っておられました。当時はみんな適当に注射してたけど、私は先生の言われるとおり量を注射してから効いたんだと思うと言っておられました。戦前にことですし当時はカルテなんかもいい加減だったと思うので、もはや検証のしようもないと思いますが、どうなんでしょうね。
 そもそも虹波ってのは、どんな薬だったのでしょう。

都合が悪くて草津に行けず自宅からです。
 
    (リベル) 小箱さんの仰有るとおり法華経です。令義解は「悪疾いわゆる白癩なり。」となっています。

Ichiroさんの「白とは何でしょうか。」と言うのは、実はズット気になっている鋭い突っ込みなのです。先に私が書いた「これらは本当に”ハンセン病”なのだろうか?」という疑問の出発点でもあります。犀川さんは「聖書とらい」の中で「皮膚の白変」に2頁を費やして、「ハンセン病の症状とは直接関係はない」(p.22~)と言って居られます。悩んでいるのは実はここ。もう忘れようとしていたのですが・・・(笑)(5.14 01:50)
 


Re:余談  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 5月13日(日)14時53分50秒   返信・引用
  リベルさん こんにちは

 昔の文献の解釈は、小生は素人ですが、以前学生にたいする講義では、令義解の説明からはじめました。この表現はハンセン病と思われます。また、伝染するという表現は当時やそれ以前の中国の医書にもない、鋭い観察の結果かと思います。
 ”此の人は現世に白癩の病を得ん。”の説明の中の白癩は鼻が平たいなど、ハンセン病を疑わせる記載はあるものの、よくわかりません。白とは何でしょうか。鞍鼻(平たい鼻)は、梅毒とハンセン病に特徴的で、(他の疾患にないわけではないが、稀)勿論、当時は梅毒はありませんでした。ですから、ハンセン病の可能性はあります。
 日本のハンセン病は、韓国の歴史から考えて、大陸経由でなく、恐らく琉球経由であろうと思われます。(文献は柳博士の英文の著書です)
 
    (リベル) 有り難うございます。「年表 日本のハンセン病」にも書いていますが、「令義解」は年代的には「日本霊異記」の後となります。

いずれにしても、このあたりの、書籍の記述で、犀川氏の提示された与件を満たすかどうかを、考え始めると、もう検証の手段が無くて、参ってしまいます。

私としては「日本らい史」を盲信するという、卑怯な手段を取ることに決めましたが・・・(笑)(5.13 23:22)
 


余談:それにしても・・・  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月13日(日)02時30分10秒   返信・引用  編集済
  最近の口癖になっているのが、これです。つい「それにしても・・・」と出て来てしまうのです。「それにしても残り時間が少ない」に始まって、「親学」だなんて、に至るまで、何か実に不満に満ちた日常生活を・・・いや、送っているわけではないのですが、それにしても・・・と、こうなるのです。

「医学的説明」は、もう出来上がった、と言いながら、印刷して読み返してみると未だ不満が残って。次の「歴史」、「裁判」、「人権」、「世界のハンセン病」へと、気は逸るのですが、っと、踏み出せないのです。

「歴史」はテーマが重すぎる。これが全ての元凶のようです。「聖書の中のらい」、「聖書のらい」、荒井さんの本の第四章、この三つは、著者以上に中身を自分の物にしないと、前へ進めない、と錯覚しているのでしょう。一つ、例を書きます。犀川さんの「聖書のらい」から。

『ハンセン病の特徴的な症状は、末梢神経の症状、即ち、知覚麻痺や、運動神経麻痺症状、さらにそれらに起因する二次的症状なのである。
 その二次的症状とは、手指・足趾の屈曲・切断・短縮、更に顔面に見られる変容(眉毛脱落・鼻柱の陥没・顔面神経麻痺・顔面腫脹)などで、これらの症状の記述がない限り、それをハンセン病と断定することは難しい。』

最近、この部分を「医学的説明」に、引用しました。そこで、立ち止まったのがいけなかった。日本最古のハンセン病の記述は、聖徳太子が撰じた経典の注釈書、「三経義疏」の一つ「法華経義疏」(615年)だと、思いこんでいるのですが、果たしてそれで良いか?と悩み始めたのです。それに続く「西山御採用願」「日本書紀」「施薬伝説」「日本霊異記」などなどの記述は、犀川氏の指摘する条件を果たして満たしているのか?これは確かにハンセン病についての記述だと言えるのは?どれだ?てな具合です。

そうです。仰有るとおり「病膏肓に入る」状態、ズバリ言えば「オタク」状態なのでしょう。いや自覚しているから大丈夫です。それにしても「時間と馬力が欲しい」。それにしても「後十歳若ければ」。それにしても、「今更『親学』だなどと愚劣極まり無い」。それにしても「
 


梁山泊 大宴会  投稿者:北風  投稿日:2007年 5月11日(金)17時28分29秒   返信・引用  編集済
  だんべえ荘の宿泊は、まだ空きがあります。

「ヒイラギの檻」の著者瓜谷修治さん、多磨自治会の佐川さん、某資料館の学芸員の稲葉さんも宿泊します。

上記の方々に横山秀夫さんの奥さんのリンさんも交えて、「梁山泊」交流会をします。
時間はレセプションの後ですが、レセプションに参加しない人もいますので12日8時頃からはじめています。
当日でも結構ですからご参加おまちします。(宿泊しなくても、「交流会」参加OKです。狭い町なので交流会のはねた後、宿舎に帰るのも問題ありません)

だんべえ荘 0279-88-4625
北風 090-3816-7844
 
    (リベル) 今頃は、皆さん白河夜船でしょうね。いろいろ貴重なお話や、面白いお話が有っただろうと、本当に羨ましくなります。

グッスリ、お休み下さい・・・。

こちらは、「医学的説明」、ようやく、完成、一応完成しました。未だ手を加えなければならないかも知れませんが、やれやれです。
ふー~~  ... o_ _)o パタッ (5.12 03:43)
 


6年前の今日・・・  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月11日(金)01時36分9秒   返信・引用  編集済
  熊本地裁1階101号法廷で、杉山正士裁判官に代わって、渡部市郎裁判官が判決を読み上げました。その日の興奮をそのまま伝える、読売新聞の紙面を、ご覧下さい。

只今私は、その判決文の一部を印刷して、散歩の途中、トイレの中(馬上、厠上ですね)で耽読しています。

というのも、今取り組んでいる自称「大改訂」の「医学的説明」の中心を判決文から転載しようと決めたからなのです。医学の専門家が書いたものを避けよう。それから「Wikipedia」より信頼性の純度を高めよう(複雑な言い回しをするな!)。ということで白羽の矢を立てたのですが、これは果たして正解だったかどうか???

やはり、難しい表現が出てきます。「皮膚病巣は一か所に限局傾向を示して播種傾向に乏しく、境界鮮明でしばしば中心性治癒所見を見る。排菌量はLL型よりはるかに少なく、菌指数は、0ないし1+程度である。」「らい菌由来の抗原と抗体、補体とが結合してできた免疫複合体が」「一峰性分布」などと、専門家より専門的な所(?)が有って・・・難渋しています。

なるべく表や図や、注や色付けなどで、読み易くしようと、只今奮闘中。

しかし、あれだけの判決を書く、というか、考える為には、裁判官はこれだけの基礎勉強から、叩き込まなければならないのですから、大変なお仕事ではあるなあ、とつくづく思います。それがあって初めて、人権の問題に深く踏み込んで判断し、国を断罪することが可能になったのでしょうから、やはり、凄いことだと・・・。まあ、同じ「裁判官」でも、村岡さんに逆転有罪を押しつける、不届きな輩も居るのですが・・・。

それにしても、怨めしい。けど頑張らなければ・・・、ではでは、取り掛かります。自信を持って「仕上げをご覧じろ」・・・とは・・・言葉を濁す・・・。
 


Re: 双見さんのこと  投稿者:小箱  投稿日:2007年 5月11日(金)00時33分16秒   返信・引用
  > No.2188[元記事へ]

 ちなみに 以前お送りした、資料も双見さんの所でコピーをさせてもらったものです。
すごいのはコピー用と保存用に分けておられたことです。旧満州の同康院の園誌「慈光」なんてあそこぐらいしか無いんじゃないかなぁ。園内を閲覧したようで、光田・林・宮川なんていう判子が押してあって、それだけでも歴史を感じました。

 園のどこかで職員が書類を燃やしているとか捨てているという話しが入ると、一輪車で取りに行った。で持って帰って整理分類。
 長島事件については、職員・入所者・報道と三者の資料を見ることによって客観的にみれるのではと、三者の資料を集めておられました。

愛生園では、資料は双見さんが管理していた愛生誌資料室・神谷書庫と宇佐美さんの恩賜記念館(記念館の一部は歴史館に移っていますが、それでも全てではありません。盗難とかもあったようです。そんな本盗んでも、価値を見出す人間はそんなに居ないだろうに。)

あとは愛生図書館、これは園の管理でどこかにしまってあるようで(ほったらかし?)、今後資料が離散する可能性なんてないのかなぁ。心配です。
 
    (リベル) 流石に、小箱さんは、凄い!良くご存じですね。これらの資料の一括保存はどなたが後を引き継がれるのでしょう。歴史的資料ですから、「友の会」も動くべきなのでしょうか?

ひょっとして、荒井英子さんの「ハンセン病とキリスト教」に引用されている「「癩の歴史」(『愛生』別刷)岩下壮一・安田忠次郎著」と呟くと、小箱さんの仰有るように「というと一瞬にして資料が出てきて」と言うことになりそうですね。(5.11 01:03)
 


草津水滸伝  投稿者:北風  投稿日:2007年 5月10日(木)19時41分46秒   返信・引用
  だんべえ荘に『ヒイラギの森』著者Uさんが宿泊することに。
だんだん、梁山泊になってきました。

楽しみになってきました。はははは。

まだ空いていますよ。
 
    (リベル) 『ヒイラギの森』著者Uさん、が分かりません。教えてくださいな。

「草津水滸伝」ですか。良いですね、羨ましいですね・・・。(5.10 23:59)

なるほど、『ヒイラギの檻』ですね。オ と モ が違う。これがほんとの「オモイ違い」。おお、「サブイ」ですね。今日から気温も下がるとの予報です。標高も高いです。一枚多めに用意してお出かけ下さいね。(5.11 00.06)
 


園葬  投稿者:ルリカケス  投稿日:2007年 5月10日(木)14時08分13秒   返信・引用
  >双見さん、園葬でした。

北風さん、ご苦労様でした。
今思えばあの時何故神谷文庫を観ていなかったことを後悔しています。

今年は「長島愛生園」の資料館を今一度見学に行く積りです。幸い知人のともさんの案内でハンセン病の原点を勉強したいと思います。

でもこれまで世話になった、研究者の姿がないのは何故か??
その辺の所・・団体と似ていますね?ようは使い棄てですか??私も経験あります。
 
    (リベル) なるほど。そうです、ね・・・。
何か、退っ引きならないご用がお有りだったのかと思います、が、やはりこのようにみんなに思わせるのは、上だけ向いて歩いているという、普段の振る舞いが、いけないのかな、と思います・・・(>_<)(5.10 17:15)
 


園葬  投稿者:北風  投稿日:2007年 5月10日(木)09時25分24秒   返信・引用
  双見さん、園葬でした。
親族の席に高校の卒業生数人の姿があったのと、いつも表に出たがらない喜多さんが謝辞を述べられていたのを、Uさんがしきりに珍しい珍しいと言っていたのが印象的でした。

双見さんも多磨全生園の山下さんも、研究者に惜しげもなく資料を提供し自分は表に出ることを欲しなかったけれど、葬儀にその恩恵に浴した研究者の姿のないのが残念でした。
 
    (リベル) >Uさんがしきりに珍しい珍しいと言っていたのが印象的でした

これは、上手い表現だと感服しました。なにも、「宇佐美さん」で良いのでは・・・?

>葬儀にその恩恵に浴した研究者の姿のないのが残念でした

これは、書くとしたら、Fさんで良いのでしょうね・・・〆(。。 )メモメモ (5.10 17:07)
 


双見さんのこと  投稿者:小箱  投稿日:2007年 5月10日(木)09時04分24秒   返信・引用
  知りませんでした。長らく入院をされていましたので心配はしていたのですが。
凛としてと言う言葉の当てはまる方でした。
自らを引き出しババァと喚んでおられました。愛生園に行くまで、色々な論文を読む度にどうしてこんな文献の引用が出来るのか不思議に思っていたのですが、双見さんに出会って氷塊しました、○○のこと知りたいのですが、というと一瞬にして資料が出てきて、こんなのもありますよって、色々と見せてもらっことがあります。
どちらかというと裁判には反対の立場をとっておられましたが、愛生誌の資料室と神谷書庫が裁判を支えたのだと思います。

想い出はつきません。合掌
 
    (リベル) なるほど、自称「引き出しババァ」ですか。

>○○のこと知りたいのですが、というと一瞬にして資料が出てきて、こんなのもありますよって、色々と見せてもらったことがあります

状景が目に浮かぶようです。合掌。(5.10 16:58)
 


双見美智子さんの思い出  投稿者:Ichiro  投稿日:2007年 5月10日(木)01時56分18秒   返信・引用
  図書館を訪問したら、こんな先生がおられるのよ、と韓国の資料を一杯みせて頂きました。

 その資料の主が、滝尾英二先生です。思い出を語っておられました。

 http://8503.teacup.com/takio/bbs

 ご冥福を祈ります。
 


ルリカケスさんのBBSから  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月 9日(水)00時13分5秒   返信・引用  編集済
  朝潮太郎さんの投稿を読んで、早速ビデオを見て、涙で顔がくしゃくしゃになって、今日お葬式です。これも、供養の一つかと、転載させて頂きます。

「あなたと会う日のために/~長島愛生園での半世紀~」

知人から教えてもらった双見美智子さんのドキュメンタリービデオ。
天木リウというアマチュア監督の作品で、ネット配信されています。

テーマからは訃報が入ってのタイミングでご紹介するのが最適かどうか、
ちょっと迷いもしましたが、ありし日の双見さんのお姿、お人柄を。

冒頭、「愛生」編集部で赤ペンを握られる双見さんの仕事ぶり、
生涯をかけてこられた資料整備についても触れられています。


ここの左側のメニューの上から2番目「Planet-Eyes」(オリジナル番組)
    ↓
■2005年度のビデオ作品はこちら というところをクリックしてください。上から4番目にあります。


どうしても見つからないという時は、失礼して 直リンク


双見美智子さん
 


台湾ハンセン病回復者の人権と楽生院取り壊し反対運動  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月 8日(火)12時19分33秒   返信・引用  編集済
   植民地時代に「台湾総督府癩療養所楽生院」として開設された楽生院は、台湾唯一のハンセン病療養所であり、今なお三百名ほどのハンセン病回復者がここに生活している。台湾におけるハンセン病隔離政策の起源は日本の植民地支配にある。日本におけるハンセン病絶対隔離政策は、日清・日露戦争を経て帝国主義国家としての道を本格的に歩み始めた日本が、「一等国」としての体面を保つため、ハンセン病者の存在を抹殺しようとして遂行された、世界にも例を見ない非人道的なものである。後の十五年戦争期には、優勢思想に基づいた「民族浄化政策」として、ハンセン病の「根絶」を名目としつつ、その患者の「絶滅」を目指す政策として徹底されていった。しかも、戦後も長い間この政策に対する反省はなく、1996年まで患者の強制隔離を規定する法律が存続し続けたのである。

 ハンセン病はそもそも伝染力のきわめて弱い病気であり、治療上隔離の必要は全くない。しかし、政府は隔離政策を推進するためにハンセン病が恐ろしい伝染病であると宣伝し、「無癩県運動」を通じて相互監視体制を作り上げ、患者のあぶり出し・強制収容を行った。また、「絶滅」を前提とされ「死ぬこと期待された」入所患者たちには有効な治療が施されなかったばかりか、強制労働や断種・堕胎の強制が行われた。

 植民地・占領地においても、1916年に朝鮮総督府によって設立された「小鹿島病院(のちの小鹿島更生園、現在の韓国国立ソロクト病院)を皮切りとして、1930年の台湾楽生院、1939年には「満洲同康院」が設立された。また、南洋群島の療養所では太平洋戦争期に入所者の虐殺さえあった。台湾における植民地支配下でのハンセン病隔離政策は、強制収容によって取り返しのつかない人権被害をもたらしたばかりか、ハンセン病に対する偏見と差別を作り出した。

 戦後、国民政府も植民地時代の政策をそのまま引き継ぐ形で、集団収容等の政策を続け、台湾全島ばかりか中国大陸から渡来した将兵のハンセン病者も含め強制的に隔離したのだった。こうした歴史的経緯から台湾社会には現在でもハンセン病に対する偏見と差別が根強い。1962年まで行政命令によって強制隔離が続けられたが、その後も隔離を主軸をする誤ったハンセン病政策が続けられ、今日に至っている。回復者の社会復帰に対する支援や社会的偏見を除去するための施策は一切なされていないため、ハンセン病者・回復者の多くは、生まれ故郷に帰ることができずにいる。そのため入所者たちの多くは、現在に至るまで、この楽生院を「第二の故郷」として暮らし続けてきた。

 しかし、現在台湾政府は地下鉄建設工事のため、楽生院を取り壊し全入所者を2005年に新しく建設された病院棟に移す計画を進めている。300名余りの入所者の内、寝たきりの者をはじめ、半数余りがすでに新病棟に移転したが、100名弱が療養所内旧地区に留まって抵抗運動を組織しているほか、一時的に園外に生活の拠点を移して病棟への入居を拒否・或いは状況の推移を見守っている者もいる。

 この問題の発端は、地下鉄車庫・整備工場の建設用地として療養所の広大な敷地に白羽の矢が立てられたためであるが、この背景にはハンセン病問題に対する無理解と偏見が横たわっている。療養所当局は甘言を呈して新病棟における設備の充実や表面的な待遇の改善を強調し、入所者に移転を強制しようとしてきた。しかし、如何に先進の設備を備えていようと、入所者たちにとって長年住み慣れた「我が家」を奪われることは到底受け容れ難いことである。これはいうなれば「二度目の隔離」にも等しい。

 取り壊し計画が持ち上がった十数年前、入所者の間からは立ち退き反対の声を上がったが、政府・療養所当局からはここの「住民」とはみなされず、全く無視されたのだった。二年前の一期工事の開始の際には工事区域に住む入所者たちは、事前の通知もなしに着の身着のままで仮設住宅に強制移転されられた。将来についての不安が療養所全体に広まる中で、この問題の重大さに気付いた学生ボランティアらによって「楽生院取り壊し反対」の運動を始められた。台湾社会におけるハンセン病問題への認識不足もあって、当初は楽生院の文化財としての保存を訴えるという戦略が採られた。多くの専門家・知識人がこの趣旨に賛同した。幾度にわたる政府への陳情を経て、計画の一部変更を検討させることに成功した。しかし、地下鉄の工期の遅れは地元の利権に直結することから、政府は計画変更に難色を示し続け、その間も地下鉄と新病棟の建設工事が着々と進められてきた。

 その後、入所者自身によって「楽生保留自救会」という抵抗組織が立ち上げられ、居住権の保障を要求する闘いが始められた。

 新病棟への医療設備やスタッフの移転により、療養所当局からは半ば「遺棄」された元の楽生院における入所者の生活や安全を守るため、支援者が常駐するようになった。また、入所者の中には植民地時代に収容された「ソロクト・楽生院補償請求訴訟」の原告もいる。自救会はこの訴訟を全面的にサポートする中で、日本の弁護団・支援団体との間に連帯の絆を作り上げてきた。2005年10月の東京地裁において台湾原告勝訴の判決が出され、各メディアが、この判決を大々的に報道する中で、自救会や支援団体は台湾におけるハンセン病問題の現状を直視するよう訴えた。台湾社会の中でハンセン病問題が俄に注目を集め始めた。こうした中、これまでの運動の成果が徐々に実り始めた。

 2005年12月、政府は楽生院を「暫定古跡」に指定した。同時に、立法院においては自救会の手によって起草された「台湾ハンセン病回復者人権保障法」の審議が着手された。この法案では、政府による謝罪と名誉回復・国家賠償・療養所で生活する権利の保障・ケアの充実・社会的差別や偏見の除去に向けての努力などを当事者の立場から求めている。しかし、これらの段階的な成果もむなしく、2006年6月には中央政府と地方自治体との間で責任逃れのたらい回しにあって何ら実質的な行政手続の行われないまま、「暫定古跡」は期限切れを迎えた。

 その後、楽生の現状保存と地下鉄車庫の両立を可能とする代替建設案が、国の文化管轄省庁(文化建設委員会)の依頼により英国の地下鉄建設コンサルタント会社によって作成され、2月に内閣に送られた。しかし、旧正月の休暇を挟んで、内閣は適切な検討作業を経ずに地方自治体に対し、取り壊しのゴーサインを出したのである。2007年の3月、政府は地下鉄工事を強行するための強制退去の告示を行い、情勢が急展開し始めた。

 その後、与党の大統領選候補者選びに出馬を表明している游民進党主席・前行政院長謝長廷氏が楽生院保存への支持を表明し、その後、陳水扁総統がこの問題に強い関心を示すをと共に遺憾の意を表明し、内閣に対して適切な処理を指示した。
結果、首相はこの手続きに一部落ち度があったことを認め、3月末より内閣が両案の再検討の余地がないかについて調査を始めた。しかし、正式に工事の一時中断を指示は出されず、地方自治体も4月16日に予定通り取り壊すという強硬な態度を崩さなかった。

 また、こうした政府の態度軟化に対し、地方自治体、また地下鉄開通による開発利権に絡む地元国会議員・地方議会議員らは強く反発し、「地下鉄の早期開通のために楽生院を取り壊せ」というスローガンを打ち立てて、一万人の市民を動員して楽生院を包囲するというデモを行なった。デモの動員にあたっては新荘市長が発起人となり、新荘市役所が積極的に支援した。

 このデモによって未だ地元で根強いハンセン病への差別が増長され、入所者たちは「経済発展の邪魔者」という汚名を着せられた。こうした、差別・偏見の助長は到底許されるものではない。また、入所者たちの心にも再び深い傷を残す結果となった。

 結局、蘇貞昌首相は、4月11日楽生院入所者代表・専門家・NGO・学生代表らと会見し、9日に行われた公共工程委員会主任委員呉沢成によるヒアリングに基づき、楽生院保存を支持する専門家・学識経験者の意見を聞いた結果、90%保存案が技術的には大きな問題がないという立場を理解し、「地下鉄の工期に影響がない範囲」で「90%保存案の実現に向けて最大限の努力をする」と表明しました。しかし、台北市捷運工程局・台北県政府は未だ積極的な対応を行っていません。

 また、去る4月4日には、台湾国会にて「ハンセン病人権保障法案」の与野党協議が行われたが、入所者の在園保障・居住権などを謳ったこの法案に不満を持つ地元新荘市選出の国会議員らは、この協議が行われている会議室に乱入し会議の妨害を行った挙句、協議を中止させるという、民主主義を踏みにじる蛮行に及んだ。

 今回は、当面の危機を回避したものの、状況の推移を見守ってゆく必要があることから、4月15日に取り壊し・強制移転反対の大規模デモは予定通り開催された。この間の楽生院支援闘争の盛り上がりは、左右統独の政治的立場の違いを超えて、多くの市民運動団体・環境保護団体・労働組合等の広範な支持を集めている。こうしたことから、政府与党も最大野党も、これまでのようにこの問題を無視し続けることができなくなり、何らかの対応を迫られるに至ったのである。現在、内閣によって工事の計画変更についての協議が行われているが、実際に入所者の希望が叶えられるか否かについては未知数である。

 台湾におけるハンセン病問題の全面解決に向けての長い道のりはまだまだこれからであり、今後の動向への注目をお願いしたい。また、日本からも是非楽生院に足を運び、そこで入所者の声に耳を傾けるとともに、より多くの人びとに入所者の声を届けていただきたい。


2007年5月7日 楽生保留自救会
楽生院を救え!国際連帯から。「これまでの状況を背景説明も含めてまとめたものです」と書き添えてあります)
 


全療協ニュース第919号から  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月 8日(火)03時20分6秒   返信・引用  編集済
  宣 言 文

 紺碧の海の輝く南の島、宮古南静園において私たち全療協は、第65回定期支部長会議を開催し、平成19・20年度の運動方針を決定しました。
 全療協は半世紀以上にわたって、ハンセン物療養所入所者の人間としての尊厳を取り戻し、差別・偏見に対する闘いを続けてきました。
 また、療養所の医療・福祉など生活の向上、安定のため、諸々の要求を掲げた闘いを続けてきました。
 昨年5月、私たちは「らい予防法」廃止10周年・「熊本判決」5周年記念集会を開催しました。予防法廃止は積年の悲願でありました。
「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」に対し、全療協は当初、組織内の意志統一ができず、出遅れの感を免れませんでしたが、最終的には全支部が一致団結してこの裁判を勝利に向け闘い抜いたのでした。
 私たち全療協は、平成17年4月に邑久光明園において第61回定期支部長会議を開催し、2年間の運動方針を決定、その方針に従って運動を進めて参りました。
 この間、国家公務員の削減計画に基づく職員の定員削減が容赦なくハンセン病療養所に対しても強行されるなど、私たちをめぐる情況は予想を超える厳しさです。
 全国の療養所入所者が3000人を割り、高齢化と不自由度が年毎に進む中で、残された人生を如何に生きるか、どう将来像を描くかが、緊急且つ最大の課題になっております。今回会議においては、最重点討議事項と位置づけ多くの時間を費やして討議を行いました。また、昨年11月の全療協が主催したシンポジウムの後、弁護団からは「ハンセン病問題基本法」の制定が必要であるとして「要綱案」が提示されております。基本法の制定は私たちの将来にとって有効であることは間違いなく、今後は各支部において更に討議を重ね、運動の方法についても議論を尽くすことを確認しました。私たちの将来を決めるのは、私たち自身であり、私たちが主体性を持って考え、結論を出さなければなりません。現在、各支部において委員会を設置して検討するなど、それぞれの将来構想を策定中であり、明年6月までに構想をまとめるという、平成18年7月の臨時支部長会議の決定も再確認しました。
 会員の高齢化と不自由度の増進に伴う慢性的な支部役員および本部役職員の選出離は、年々深刻になっています。来年5月末日をもって会長以下全役員がその任期を満了するため、その後の選任対策について真剣に討議をしました。
 会議の決定にもとづいて、本部役職員推薦委員会を設置し、鋭意努力をした結果、療養所の将来構想問題に直面している事態を重視し、会長以下全員が万難を排し留任することになりました,全療協は、いまこそ統一と連帯を一層強固にし、組織結成以来の最大の困難を乗り越えなければなりません。
 私たちは、向こう2年間の闘う方針を決定しましたが、私たちを取り巻く情勢は益々厳しさを増してくることが必定です。運動の停滞は一刻も許されません。
 昭和26年の組織結成の基本理念とその目的を今一度思い起こし本部、支部が一体となって文字通り正念場を迎えているこの難局を乗り越えなければなりません。
 今後も、国会議員の諸先生をはじめ、弁護団等、関係する各団体や多くの国民の理解と支援を得ながら、諸問題解決のため統一と団結のもとに一層、闘いを強めることを第65回定期支部長会議の名において宣言します。

平成19年4月12日
  全療協第65回定期支部長会議


ハンセン病問題の中での位置づけは、こちらをご参照ください。
 


双見美智子さんが逝去されました  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月 7日(月)12時14分39秒   返信・引用
  >>長島愛生園では、双見美智子さんという八十過ぎの素敵なおばあさんが「神谷書庫」を守っている。

>双見美智子さんが逝去されました。今日9時20分。
>合掌。

>葬儀、9日10時から。

心から、ご冥福をお祈り致します。
 


訃報  投稿者:ルリカケス  投稿日:2007年 5月 7日(月)12時10分20秒   返信・引用
  >双見美智子さんが逝去されました。今日9時20分。
合掌。

また歴史的な人が他界されましたね。実に惜しい人が。
私は個人的には、知らないが?長島愛生園にて行われました。「検証会議」の折に紹介され
た方です。確か医師のO先生に紹介された記憶があります。「神谷文庫」を。

北風さん、ご苦労様ですが、皆を代表して行かれて下さい。
双見美智子様の逝去を心からお悔やみ申し上げます。(合掌)
 


ハンセン病市民学会  『差別で社会復帰できない』  投稿者:ルリカケス  投稿日:2007年 5月 7日(月)11時58分16秒   返信・引用
  >全国の療養所にいる約三千人の元患者が社会復帰できないでいるという。

*今回草津で開催されます。「市民学会」を前に、未だ全国の療養所内にて、世論の「差別で社会復帰」できない事を、原告団協議会会長谺雄二氏は言われている。

今後施設にいながらの社会復帰の道ですが?これて「ハンセン病問題対策基本法」なら、施設毎社会復帰の道が、開かれるのか?市民学会の各代表他委員の皆様の活躍に期待する者である。
 


Re: 市民学会 図書資料部会  投稿者:北風  投稿日:2007年 5月 7日(月)11時43分25秒   返信・引用
  > No.2176[元記事へ]

>
> 長島愛生園では、双見美智子さんという八十過ぎの素敵なおばあさんが「神谷書庫」を守っている。


双見美智子さんが逝去されました。今日9時20分。
合掌。

葬儀、9日10時から。

おいらはあす長島愛生園にいきます。
 


本気で  投稿者:北風  投稿日:2007年 5月 6日(日)10時12分2秒   返信・引用
  〉(リベル) 私も参加しようか、と思うのですが、妻の実家へも日帰りにしていますので。

いかがですか。よろしければ、おいらがお取替えしますが。
 
    (リベル) 本気で考えましたが、やはり、無理ですので・・・。

だいたい、北風さんに○○○の取り替えなど、お願いできるわけが無いではないですか・・・(笑)(5.6 12:04)
 


Re: 海の音絶えてなし  投稿者:リベル  投稿日:2007年 5月 6日(日)00時10分45秒   返信・引用
  > No.2177[元記事へ]

> このほかのいかなる形を愛となさむ抱けば海の音絶えてなし  横山石鳥

古民芸の宿 だんべい荘 はこちらです。
 


海の音絶えてなし  投稿者:ドン・キショット  投稿日:2007年 5月 5日(土)23時20分2秒   返信・引用
  このほかのいかなる形を愛となさむ抱けば海の音絶えてなし  横山石鳥  


市民学会 図書資料部会  投稿者:北風  投稿日:2007年 5月 5日(土)09時44分36秒   返信・引用  編集済
  [宣伝再掲]

表記について、早くに呼びかけを行いましたが生来の怠け者で、昨年の富山の集会では立ち上げることが出来ませんでした。呼びかけにこたえてくださった方たちごめんなさい。
今年は、なんとしても立ち上げたいと思います。

かつて小生はあるところで、このように書きました。

長島愛生園では、双見美智子さんという八十過ぎの素敵なおばあさんが「神谷書庫」を守っている。宇佐美治さんは、ハンセン病資料の収集と保存に命を懸けている。多磨全生園ではハンセン病資料館などが出来るはるか以前から、山下道輔さんが「ハンセン病図書館」を運営し資料の保存してきた。
 多くの「学者」が「新資料を発見」したと称して、マスコミに登場するが、それはそうした人たちが苦労して保存してきた資料の中から「発見した」に過ぎない。それも多とするけれど、そうした発表の中で、無名性に徹して惜しげもなく資料提供した彼らに言及する「学者」は少ない。

この人たちの志の継承、これら資料の行方。こうしたことも、重要な「将来構想」ではないかと考えます。ぜひ、ご参加をお願いいたします。

また、予防法反対闘争の闘士、歌人、社会復帰して「草津公論」編集長、草津のライオンズクラブ・メンバーだった故・横山石鳥(秀夫)さんのご家族の経営する「だんべい荘」はまだ空いています。夜には、横山さんの奥さんも交えて(意外なゲストもあり)交流会を持ちたいと思います。
ご参加ください。

5月13日 13時から  栗生楽泉園福祉会館

12日夜の「だんべい荘交流会」は、全療協・全原協・弁護団主催の「レセプション」が18時30分からありますので、少し重なりますが19時30分頃から始めます。
 


(無題)  投稿者:ルリカケス  投稿日:2007年 5月 5日(土)08時29分3秒   返信・引用
   若い力を結集し、ハンセン病問題に取り組もうと、県内の大学生らが四日、活動グループを結成した。中国の ...(熊日速報)

>透徹した厳しいまなこも不可欠ですし、一歩下がって、暖かいまなこもまた、保ち続けたい、と私は思っています。

リベル様 ルリカケスです。

私も「言う者は知らず」のことわざにあるように、暫く「市民学会」&「臨時支部長会議」の様子を観てみます。
これで暫く「ハンセン病基本法」の書きこみは、終わります。
後日北風さんの「市民学会」の話に期待します。私自信「市民学会員」ですが?未だ一度も
学会に出席していません。いずれは参加する時が来るでしょう。
 
    (リベル) 私も参加しようか、と思うのですが、妻の実家へも日帰りにしていますので。なにしろ大人用○○○持参という状態は、他人様に迷惑を掛けかねませんので・・・(嘘??)  


以上は、新着順1701番目から1800番目までの記事です。 11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  |  《前のページ |  次のページ》 
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