![]() ▲ Top page 「石の宝殿」、形如屋 『播磨国風土記』 ▼ 法道仙人 古法華 石造厨子屋蓋 |
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原南有作石、形如屋。 長二丈、廣一丈五尺、高亦如之。名號曰-大石。 傳云、聖徳王御世、□□、弓削大連、守屋、所造之石也。 原の南に作り石あり。形、屋の如し。 長さ二丈、広さ一丈五尺、高さもまたかくの如し。名号を大石という。 伝えていう、聖徳の王の御世、□□、弓削大連、守屋、造れる石なり。 587年、物部守屋は、蘇我馬子軍によって敗死。 その百数十年後(8世紀前半)編纂の『播磨国風土記』は、 守屋の死による未完の「作石」について、おぼろげに記載する。 立方体の形状は細部の正確な寸法取りのためであり、 かなり精巧な細工が予定されていたのであろう。 前半部の下をさらに掘り下げれば、巨石は自重で回転し、 後部の三角形の突起が屋根となる。 前方(拝殿側)は急斜面であり、軸線は飛鳥京に向く。 現在、拝殿側は切石で堰き止められ、水が湛えられている。 ■弓削の道鏡と物部守屋 蘇我馬子の崇仏に敵対した物部守屋は、道教を信仰していたのであろう。 福永光司(道教学)は、奈良時代の僧・道鏡が仏教僧でありながら道教も信仰し、 自らの先祖を弓削大連(物部守屋)であると主張したという。 道鏡と物部守屋は共に河内の弓削氏に因縁がある。 道教風の祝詞(延喜式)を唱える西漢氏(かわちのあやうじ)と物部氏との結託説は、 「石の宝殿」が道教の神殿として計画されていたことを裏付ける。 五木寛之・福永光司『混沌からの出発/道教に学ぶ人間学』(中公文庫) ■松本清張説への疑問 家形石棺説否定は首肯できるが、前後の対称形説は両側の山の斜面から判断して無理。 移動困難説も益田岩船石の事例に矛盾。 『松本清張全集55』(文藝春秋); 「私説風土記」、「ペルセポリスから飛鳥へ」 |
![]() 石の宝殿 「後部の突起」を眺む者あり。 ⇒ (後部の突起) 古法華・石造厨子屋蓋の形状。 ▲ |
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