懊悩
第3章
ケルアの家が視界に入らない場所まで移動したメルヴィーは、その場所で1番高い木の天辺にバランス良く立ち、何をするでもなくただ呆然と眼前に広がる景色を見詰めていた。時折、一瞬で体温を奪い去る冷たい風が腰まである藍色の髪やアーチブラウンの外套、更に足元の大木まで揺らして去るが、まるでその木からつくられた人形のように表情すら変えない。
メルヴィーの視線の先にあるものは豪華な建物や飾られた賑やかな街や珍しいものではなく、どこにでもある閑静とした、名前すらもらっていない山であった。特に目に留めるものがある訳ではないのに、もう随分と長い間この山を見詰めている。
夏には緑一色に染まっていた山にも赤や黄色、茶色などの鮮やかな色を見せ、しかもそれらは全て違和感がなく溶け合い1つの存在をつくりだしていた。それらはどんな高級品よりも豪華でどんなに着飾ったものよりも美しくメルヴィーの瞳に映る。
ふと、ポケットの中に突っ込んで温めていたはずの左手がいつの間にか左目を軽く押さえている事に気付く。ゆっくりと目から手を離して急激に体温が奪われていく手をしばらくの間見詰めた後、無意識のうちに左目を気にしている自分に思わず嘲笑を浮かべてしまった。
「俺なんかと比べられたら迷惑だな」
悩みを握り潰すように拳をつくる。
メルヴィーの右目は青く染まっていて藍色の髪に良く似合うのだが、左目はまるで暗闇に光る猫の瞳のように異様な黄金に輝いていて、ケルアにまで初対面のくせに近距離でまじまじと見られた事があったくらいだ――アイツはある意味子供だからな。興味を持つのは当たり前か――。
青の中で一際目立つ黄金の瞳が嫌いで、初めて鏡を覗いた時に自分を見詰め返してきた異端の瞳のあまりの冷たさに拳で割った事があった。鏡の破片で切れた手は痛いはずなのに恐怖で何も感じなかった。映っているのは確かに自分なはずなのに、左目だけがまるで自分の事をひどく恨んでいる奴が見るような目付きで、思い出しただけでも身の毛がよだつ。
そんな異様な黄金のせいか左目の視力は悪く、近付いて良く見なければ何が何だか認識できないほどであった。だがその分右目がカバーをしてくれているので、不便な事は何もない。異様な輝きを持つ黄金の瞳も、あれからなるべく自分の顔を見ないようにしているので、自分の中では“元からなかった存在”となっていたと思っていたのだが、自分の知らない奥深くで気にしていたなんて思いもしなかった。良い事はなかったが、それほど悪い事があった訳でもない。
「…………そんな事いちいち気にしたって疲れるだけだ」
小さく溜息をつき、自分に言い聞かせるように呟いた。
目の前で揺れる前髪に焦点を合わせ、先程からずっと視界の邪魔をしていたはずの髪をやっと整えて前髪を耳にかける。手櫛で乱れた髪を適当に整えている時、ふと何の前触れもなくケルアの顔が脳裏を横切り、思わず手を止めてしまった。
まだケルアが寝ている事を確認してから出てきたが、いくら何でももう起きているだろう。何も言わずに出かけるのは今日が初めてではないのでその事については遅いと文句をたれるだけだろうが、外に出た時に視界に入った地面を埋め尽くさんばかりの落ち葉の量から、潔癖だが面倒臭がりのケルアが自分に掃除をやらせようとするのは安易に予想ができた。
…………そろそろ帰った方が俺の為か? すっかりこの光景に見惚れていたのでどれくらいここにいたのかは分からないが、帰る時間を先延ばしにすればするほど八つ当たりはひどくなるだろう。そう考えると無意識のうちに溜息が出る。巻き込まれるのはごめんだが、その分嫌な気分を味わう結果となるのならば今すぐにでも帰った方が良さそうだ。
力を抜いて眼下に広がる、緑に赤や黄色などの雑木林へと倒れ込むように前へと体重を移動させた。最初はゆっくりと頭だけを引っ張っていた重力も次第に首や胴体、腕など順番に糸を絡めて引き寄せていく。そして、今までゆっくりと前へ倒れていくのが焦れったくて仕方がなかったのかいきなり最大の力で引っ張るものだから、まるで階段を踏み外した時のような焦りが一瞬全身を駆け巡った。それでもメルヴィーは、翼を広げようとしない。
体の中に居座っていた重たいものが逃げ出したかのように軽くなり、それと同時に力も失われていく。何となく確かめる為に手に力を入れてみた。手を握れる事は握れるのだが、一瞬でも何か他の事に気を取られてしまうとすぐにでも離してしまいそうな頼りなさがある。
さすがにこの状態で手にばかり集中していられないのですぐに視線を逸らし、真下へと向けた。先程まではっきりと見えていた鮮やかな色も、まるで炎が紙に燃え移っていくかのように端から真ん中へと向けて白色へと変色していく。
そろそろ、だな……。意味がないのは分かっているが、視界を戻そうと反射的に瞬きをしながら翼を出す。下から叩き付ける風のせいで思うように広げる事ができないが、呆然としてきた頭で翼全体に力を入れるイメージを強く浮かべて羽ばたき、地面と垂直になっていた体を起こして何とか落下を止める。
気持ちが落ち着いたところでまず大木を見詰め、それから何となく山の方へと視線を向けた。美しい色を持つ山は、しかし同時に寂然さを漂わせている。濃い色使いの為視覚がそう感じ取ったのか季節の為かは、残念ながら分からない。だが、その雰囲気までもがこの山の存在を際立たせているから不思議だ。
できればまだここに立って、夕日が沈む時に山を真っ赤に染め上げる様子をこの目でじっくりと見たかった。しかし、帰ってくるのが遅かったと怒りを通り越して拗ねられてしまったら、扱い辛くて困る。
顔だけ山の方を向いたまましばらくの間はケルアの家へとゆっくりと翼を広げて向かっていっていたが、いつまでも引きずっていても仕方がないと、小さく溜息をついて顔を背け、決心が揺らがないうちに逃げるようにその場を去った。
ケルアの家が視界に入らない場所といっても、雑木林の中にぽつんと立っている一軒家は、少し離れればすぐに屋根の色さえ分からなくなる。なのでしばらく飛んでいればすぐに閑散とした場所に建っている家を発見できた。ゆっくり地面に足をつけながら両ポケットに手を突っ込んだ時、ふと違和感を覚える。
玄関の前だけ綺麗に落ち葉が掃かれている。それだけ見ればケルアが掃除したという事は安易に予想できるのだが、いくら面倒臭がりな彼でも1度やり始めたら、少なくとも家の周りの落ち葉ぐらいは掃くだろう。ならば、掃除を続けられない理由ができたとしか考えられない。玄関の方に視線を向ければ、横に寂しそうに箒が立てかけられている。――って事は家の中か?
外で突っ立って考え事をしていても寒いだけし、メルヴィーには推理して楽しむなどという趣味はないのでさっさと家に入ってこの目で確かめる事にした。やけに重々しく感じる扉を少し開けてその隙間から中に入り、そして音が響かないようゆっくりと閉める。何気なく視線を下に向ければいつもケルアが履いている、黒ずんだ白いスニーカーの左隣に真っ黒なブーツが置いてあった。その存在はこの場に溶け込めていなく、異様なほど浮いている。
客人、か……アイツに? 失礼だが、ケルアに知人がいるというのはとても違和感があった。自分のような行き場も知り合いもいないのでここにいるしかない訳ありな奴ならともかく、あんな我儘の塊と一緒にいられるなんて只者ではない。今まで相当苦労したのだろう、そう考えると思わず同情してしまう。
しかし、それにしてはこの家は静か過ぎだ。メルヴィーがこの家に来てから誰かが訪ねてきた事はないので、久し振りに会った知人なら積もる話もあるはず。喜怒哀楽の激しいケルアが、こんな所に訪ねてきてくれるほど親しい相手に無反応でいられるはずがなかった。外にまで聞こえてしまうほど喋り続けているケルアの満面の笑みが思い浮かぶ。……まぁ、どっちにしろ俺には関係ない事だ。もっともな意見に心の中で頷いた。
最終的に無関係だと結論が出たので考えるのを止めたメルヴィーは、靴を脱いで冷たすぎる廊下をさっさと通り抜け、部屋が冷え切った体を温めるのには丁度良い温度に包まれている事を期待しながら襖を開ける。
襖を開けた向こうにある部屋にはコタツが置いてある。いつ見てもケルアが顎を乗せてくつろいでいて、メルヴィーが帰ってきても「おかえり〜」と顔もあげずに脱力しきった声でまるで独り言のようにそう呟くだけであり、今日もそういう反応を返すだろうと決め付けていたメルヴィーは、開けた瞬間に向けられた2つの警戒の視線に思わず体を強張らせてしまう。
メルヴィーから向かって左側――窓を背にして、驚きを隠せないエメラルドグリーンの瞳で見詰めてきたのは、一応この家の主でもあるケルア。思考が追いつけていないのかしばらくそんな眼差しで見詰めた後、右手に持っていたせんべいを口に持っていき、音を響かせながら噛み砕いて何か言葉を発した。せんべいが粉々になっていく音で邪魔されてもケルアが「おかえり」と言ったのはちゃんと耳に届く。わざわざ食べながら言うなと注意しようと思ったのだが、自分に向けられている瞳には未だに驚きと警戒が混じっていたので黙っておく事にした。
そして向かって右側――ケルアの真正面に座っているのは、水色の短髪に鋭い真紅な瞳、今の所自分の過去を唯一知っているフォルであったので、思わず目を見開く。フォルがここにいる事にも驚いたが、それ以上にケルアと一緒にいるという事に我が目を疑った。フォルは人間嫌いで、そんな態度を取らなくても良いのではないかと止めたくなってしまうほど、ケルアの事を嫌悪の瞳で見ていた。そして更に最悪な事に、第一印象が悪かった為かケルアはフォルに話しかける必要がある時以外はそこにはいない存在として扱っているのである。
「邪魔している」
ケルアとは違いすぐに警戒を解いたフォルがそう口にしたが、考え事をしていた為に返事をするのが一瞬遅れてしまった。「あ、あぁ……」
「……そんな格好でずっと外にいた訳? コタツの中に入れば?」
続いていつも通りのケルアの声が耳に入ってきたので、「そう、だな」頷きつつ後ろ手に襖を閉め、コタツに足を突っ込んで2人の足を蹴らないようにあぐらをかく。コタツの中は丁度良い温度で心地良く、外にいる時はあまり気にならなかった手も冷たく感じてきたので思わず突っ込んだ。
コタツの温かさに安堵の息を吐き、気持ちが落ち着いた所で改めて今の状況を確認する。ケルアとフォルは向かい合わせに座っていて、彼らの目の前にはマグカップが1つずつに、コタツの真ん中には1枚ずつ透明な袋に入ったせんべいが13枚乗っかっている籠が1つ。そして、甘党なケルアが使ったのであろうシュガーの袋が4つも転がっていた――どんな味覚をしているんだ? 信じられない――。甘いものが嫌いなメルヴィーにはとても凝視する事ができない。
そして最後に、フォルの前に置いてあるマグカップの横にちょこんと立っているコウモリの真っ黒な双眸と視線がぶつかった。普通コウモリというものは天井にぶら下がるものなのだが、何故かフォルの近くを飛び回っているコウモリ達は普通に地面に足をつけて立つ。一体どんな足をしているのだろうかと疑問を抱いた時に、まるでその答えから逃げるかのように目を逸らされてしまい、それと同時にケルアの仰々しい溜息が耳に入ってきたので無理矢理思考を中断させるしかなかった。
「まぁったく……メルヴィーって本っ当に肝心な時に限っていないよね。何で君のお客様の相手を僕がしなきゃいけないのさ? 別にずっと家にいろとは言わないけどさぁ、僕は沈黙に押し潰されるかと思ったんだからね」
八つ当たりするかのようにせんべいを噛み砕く音が響く。
例えその“お客様”の前だろうとその言葉を強調して悪態を吐くのは何ともケルアらしい。思わず横目でフォルの表情を窺えば、腕を組み少し俯いている彼の眉が一瞬だけだが動いたのがはっきりと見えた。その横では同じように表情の変化に気付いたコウモリが、どうなる事かとケルアとフォルの顔を交互に忙しく見ている。
何故彼らはこうもあえて相手の神経を逆なでするような言葉を選ぶのだろう。出かけた溜息を飲み込む。無駄に腹が立つだけで疲れるし、見ている側も良い気分ではない。しかし、だからと言って2人が仲良くしている所なんて、あまりにも違和感がありすぎて想像すらできなかった。
そこまで考えて、ふとケルアが強調したお客様の意味に気付く。こんなに仲が悪いのだから、ケルアに用があって来たとはまず考えられない。という事は必然的に自分に用があって来たという事に、何故もっと早く気付かなかったのだろうか。
しかし、そんなに一緒にいたくないのなら離れれば良いんじゃないか……? ケルアならむしろ家に入れなさそうだが、今はそんな事を呑気に考えている場合ではない。まずは2人を離す事が先だ。
「そうか、すまない」
簡単に謝った後で何と理由をつけてこの部屋から出させようかと考え始めて、すぐに良い案が思い浮かぶ。部屋の中でも自分の髪と同じ浅黄色のマフラーを首に巻きつけ、手をコタツの中に突っ込んで縮こまっているほどケルアは寒さに弱く――そして暑いのも嫌いだ――、冬になるとほとんどコタツの中に入っている。だから余程の事でない限り出ようとしない。本を読みたくなった時もメルヴィーを顎で使うくらいだった。
しかしケルアは億劫であったが、それと同時に本人が自覚するほど潔癖で完璧主義だった。しかもそれは時に億劫に勝つほどである。わざわざ掃除を始めたのだから、せっかくやり始めたのに結局部屋に戻るなら止めておけば良かったと後悔していると共に、外の事を気にしているはずだった。窓を背にしているのも、無意識のうちに外を見てしまい落ち葉の様子に苛立つのを防ぐ為だろう。ケルアが外に出れば静かになるし、後で自分がやる事がなくなるので一石二鳥である。
「掃き掃除がまだなんだろう? もう戻って良いからな」
いつもならば「嫌」の一言で終わるのだが、案の定、メルヴィーの言葉が終わるか終わらないかのところで、8枚目のせんべいに手を伸ばしていたケルアから不平の声があがった。しかし、ケルアに何か言われる前に言葉を続ける。「沈黙で押し潰されそうだったんだろ? だったら、外で背伸びでもしてきたらどうだ? それとも、俺の代わりにフォルの話を聞いて後で伝えてくれるのなら……俺が代わりに掃き掃除をしてやるが?」
ケルアは抗議をしようと口を開けるが、二者択一を迫られ言葉が詰まったようである。誰だって嫌悪を抱く相手の話を聞いて、それをわざわざ伝えなければいけないのであれば、掃き掃除を選ぶだろう。が、それ以上にケルアは今まで口論で負けた事がなかったので――これ以上ケルアの機嫌が損ねるのは扱い辛いから俺から折れていただけだが――、言い返す言葉がなかった事が相当悔しかったようだった。
まずフォルの方を見、そして再びこちらを向いたケルアは思いっ切り渋面をつくると、力任せに両手でコタツを叩きつけて立ち上がる。その短く、しかし大きく響き渡った音に、フォルの様子を窺っていたコウモリが驚いて体を強張らせた。
一斉に視線が集まった事にも気にせずポケットに手を突っ込んで歩き出したが、唐突にメルヴィーの横で両足をそろえて止まったケルアは、ゆっくりと顔を横に動かし視線だけ下を向ける。エメラルドグリーンの瞳から発する鋭い光が前髪から覗いていた。未だにそれと目があうと背筋に異物が這い上がるような、そんな悪寒が走る。
「覚えとけよ」
静寂に混じった声はそれだけ伝えると、まるで何事もなかったかのように襖の方へと歩き出す。襖を乱暴に開け、そしてその奥へと進み後ろ手で閉めるその背中を皆で見詰め、最後に玄関が大きな音を響かせて閉まり再び静寂が戻ってきた時に、「何故あれくらいで激怒しているんだ?」もっともな問いをフォルが口にする。
「いや、あれくらいならまだマシな方だ。アイツは気に入らない事があると実力行使に出る事があってな……ひどい時など次の日は年末でもないのに大掃除をしないといけない羽目になる」
ケルアがいなくなったので、話を聞くのにこの位置からだとフォルも首を横にして話し辛いだろうと思いフォルの前に移動するが、視界にシュガーの袋やらせんべいが入っていた袋やらが転がっているので、取り敢えずそれをなるべく見ないように握りつぶしてゴミ箱へと捨てに行く。
「…………大変だな」
戻ってきてコタツの中に入ったのを確認したフォルは、ケルアを扱う苦労に同情したのか、それともメルヴィーにまであんな態度をとる事に驚いたのか、顔をしかめてただそれだけ呟いた。そしてそのまま考えるように少し俯いて黙り込んでしまう。
別に急ぎの用事がある訳でもないのでフォルが喋りだすまで待っていようと思ったのだが、ふと視界に入ってきたマグカップの半分まで入っているコーヒーを見て疑問を抱く。自分は外出中だったので、他にこのコーヒーを入れられる人物といったら、ケルアかフォルしかいない――まさかコウモリが入れる訳ないだろう――。いつもフォルは人差し指を曲げてコーヒーを持ってきてくれるが、それは自分の家だから勝手が分かっているだけで、どこでもその方法が使えるとは思わない。それに、自分の知り合いでも例外なく冷淡な態度で接するフォルがわざわざ手間をかけてコーヒーを入れるとは思えなかった。そもそもケルアが使わしてくれないだろう。
ならば、他にはケルアしかいない。しかし、同じようにフォルを嫌っているケルアが今まで入れた事のないコーヒーをわざわざ入れるなど、それも考えられなかった。
「……なぁ、フォル」
フォルもケルアの心の中が読める訳ではないが――できてもしなさそうだしな――、取り敢えず最初の疑問の答えを尋ねる為に名を呼ぶ。「ん」俯いていた顔を上げて普段の瞳で見詰め返してくれた事に一先ず安堵した。どうやらケルアの態度について考えていた訳ではないらしい。
「このコーヒーは……やっぱりケルアが入れたんだよ、な?」
自分の目の前にあるケルアが使っていたマグカップを指差すと、それを目で追っていったフォルは軽く顔をしかめ、「あぁ、そうだ」下に視線を移動させ自分の前に置いてあるマグカップを見る。メルヴィーもフォルの前に置いてあるマグカップの中を覗いてみれば、もともとどれだけの量が入っていたか分からないが、そのマグカップの内側は飲んだ跡がなく綺麗だった。
「お前がいないのなら出直そうと思ったのだがアイツに止められて、家の中で待ったら良いと言われたから入ったらここに座らされてこれが置かれた」全く、訳が分からん……。そう呟くフォルの眉間には更にシワが深く刻まれる。多分その時の光景を思い出したのだろう。
フォルの簡単な説明を聞いて、きっかけは何か分からないがケルアは勝手に、自分がフォルを帰るように促すかフォルが自分から帰ると言い出すか、言わば我慢大会みたいなものをしていたのだろうと思った。それでアイツはあんなに不機嫌だったのか……。あれぐらいですんで良かったという安堵と、八つ当たりされる疲労が複雑に混じり合う。子供だとは思っていたがここまでひどいと、よく付き合っていられるなと自分で拍手を送りたくなる。
これ以上嘆息をもらしていても仕方がないのでその事については考えるのを止め、再びフォルの前に置かれたマグカップと、もうマグカップからは視線を外して俯いてしまっているフォルを交互に見詰める。飲み手のいないコーヒー、見向きもしないフォル。
「そんなに人間が嫌いか?」
気が付けばそんな疑問が口から出ていた。その言葉に最初に反応を見せたのは意外にもコウモリの方で、漆黒の双眸からは何も読み取れなかったが何となく、何故今更そんな事を聞くと胸中を疑っているような気がした。
疑問を向けられた本人はというとしばらくの間何の反応も示さなかったが、「そうだ」俯いたまま、はっきりとそう答えた。感情のこもっていないその声は、しかし逆にフォルの人間に対しての嫌悪感を充分に語っている。
確かにケルアは、性格はまるで子供で自分が良ければ他は何でもいいという勝手な思考の持ち主だが、だからと言って悪い所ばかりではない――残念ながらほんの少しだが――。人間だから嫌いという思考は間違っていると、フォルもちゃんと分かっているはずだ。
「変わったな」
何故嫌うと尋ねようと口を開いた瞬間、まるでその言葉を遮るかのように顔を上げて、だがメルヴィーを視界に入れずフォルから見て右側に視線を流し、独り言のように呟いた。その台詞に言葉が詰まる。
ケルアに出会う前の記憶は全て消えた。もしかしたらどこにしまったのか忘れてしまっただけかもしれないが、見つからなければ消えたのも同じだった。だからそんな事を言われても実感がなく、ただそうかとしか口にできない。それがフォルに対して大変申し訳なかった。フォルの知っているメルヴィーなら彼の期待に答えられるのだろうか。
「そう、か……」
いつまでも黙っている訳にはいかないので他に言葉もなく、ただそう答える。相変わらず視線をあわそうとしないフォルは「あぁ」小さく頷き、そしてまだ何か言おうと口を開いたが、その口から出たのは重々しく吐き出された溜息だけだった。
「私は人間など嫌いだ。たとえお前の知り合いであろうと、お前が人間にも良い奴はいると言っても、な……。その思いは今も、そしてこれからも変わりはしない」
もう1度、少し間を開けた後同じ言葉を口にする。考えても他に言える言葉なんて、何もなかった――いや、最初からそんな言葉など用意されていなかった。今の自分には、フォルを自分の過去を唯一知る人物としか認識していない。そんな自分が、フォルから見れば偽者のメルヴィーが、彼にあれこれ言う権利などあるはずがなかった。
このままだと重苦しい静寂が流れそうだったので、思い付いた言葉を口にする。
「そういえば、何か用があって来たんじゃなかったか?」
フォルもこれ以上この話を続けたくなかったようで「あぁ、そうだな」横に流していた視線をこちらに向けてくれたが、すぐに何か考え込むかのように逸らし、そしてコウモリの方へと辿り着いた。フォルの視線を追っていたメルヴィーの目も自然とコウモリの方に向くと、再び目があう。その双眸が語る感情は恐怖でも懐疑でもなく、困惑だった。答えを求めているようにも見えたが、残念ながら何に困っているのか分からないメルヴィーにはどうする事もできない。
そんなに言い辛い事なのだろうか。フォルの顔を窺ってみたが、そこから読み取れるのはやはり困惑。しかもそれは言いたい事の内容ではなく、言う事自体を口にするのを戸惑っているように見えた。
「いや、別に今すぐじゃなくても良いからな。言いたくなったらいつでも来て言ってくれれば良い」
フォルが何を言おうとしているのか分からないメルヴィーには、ただそう言うしかなかった。しかし、その言葉を聞いたフォルは逸らしていた視線を弾けるようにこちらに向ける。真紅の瞳が驚きに満ちていて、表情があまり変化しないフォルには珍しい事だったので自分は何か言い間違ったのではないかと思わず心配してしまった。だが、すぐにそれは無駄な心配だと知る。
一瞬で、それは心配するあまり自分が勝手につくった幻かもしれないが、フォルが小さく笑ったような気がした。瞳に飛び込んできたその表情を疑った時にはもういつもの顔つきに戻っている。しかし、その表情は吹っ切れたかのように清々しかった。
「大した事はない。たまには屋敷に遊びに来いと言いたかっただけだ」
そう言った後にフォルがとった行動は、更にメルヴィーを驚かす事になる。フォルの目の前に置いてあるケルアがつくったコーヒーが入っているマグカップ、それをしばらくの間見詰めた後に小さく溜息をつくと、流れる血のように真っ赤な長い爪をひっかけないように取っ手を握り、口をつけて少しだけマグカップを傾けて、一口だけだったが飲み込んだのだった。
驚きのあまり言葉も出ないメルヴィーの前でフォルは口をつけたところを親指の腹で軽く拭くとコタツの上に置き、そして口元に右手をあてながら何事もなかったかのように立ち上がった。
「アイツの機嫌を損なわしてすまなかった。これ以上長居をすると大掃除より大変な事になってしまいそうだからな……。勝手に来て大した話もせず帰るのもすまないと思うが、そろそろ失礼する」
その言葉を聞いてやっと止まっていた思考が動き出す。外まで見送ろうと慌ててコタツに両手をついて立ち上がろうとするが、何も言わずにフォルが出した手によってそれは止められる。律儀なフォルの事だから、そこまでしてもらったら悪いと思っているのだろう。
たとえ本人が止めてもせっかく来てもらったのにこんな所で見送るというのは失礼な事ではないかと思うが、だからと言って外まで見送りに行くのもフォルに悪いような気がして、そんな事を考えていると座り直すまで少し時間がかかった。
外まで行けないのならば、せめて何か言葉を言おうと思考を巡らす。沈黙を漂わせたままここでフォルを見送るのは、1番失礼な事だろう。
「フォルッ!」コウモリもフォルの横に並び襖の奥へ進んで、背を見せたまま襖を閉じようとした彼の手が止まる。「お前も、遠慮なんてしなくていいからな」
しばしの沈黙の後、振り向こうとした首を途中で止めて「あぁ」短く返事をしたフォルはゆっくりと後ろ手に襖を閉める。それから扉が閉まる音が響き渡るまでそんなに時間はかからなかった。
フォルと一緒にいた記憶が全て跡形もなく消えてしまった自分にそんな事を言う資格があるのかと少し悩むが、それを振り払うかのように首を振る。わざわざここまで来てフォルはそう伝えてくれた。自分を受け入れてくれる者が自分を拒否した時の恐怖に怯えている場合ではない。
随分と迷惑をかけていたようだ……。フォルが一口飲み込んだコーヒーを見詰めながら、心の中で今度彼の屋敷に行こうと決める。そんなに日をあけないで、フォルの気持ちを知る為に。
1番頑張ったわりには1番気に入らない章。最初の方は好きなんですがね…後から色々と人が加わると…;;
読み返すと、あーここで文章が思いつかなくて何回も打っては消してたなー…でももっと良い表現はなかったんかい、と思い出して溜息が出てくる…;
山を呆然と見詰めるメルヴィーを書きたくて思いつくままに打っている時、ふと、そういえばメルヴィーの瞳の色って違う色だったっけーと思い出した奴(酷)。最初は瞳の色が違う、という設定だけだったので、鏡をぶん殴ったとか視力が悪いとかは今の私の好みで付け足しました(…)。
鏡はともかく、違う色を持つ瞳って…何か力はあるんだけれど視力はすごく悪いっていうイメージが私の中にあります。
飛び降りた時のあの感覚を文字で表現するのは難しいと改めて痛感する…;
実際やってみようと思っても感じ取る前に足が前に出て止めてしまうので、良く分かりません;;この時は何を思い出して書いてたんだっけ?…………あぁ!ジェットコースターか。
フォルに、あれらいで何激怒しているんだと呆れられていますが、ケルアにとっては“あれくらい”ではないんです;もう自分に不都合な事があればすぐに目付きが鋭くなり声のトーンが落ちます。あー…誰に似たんだろうねぇー……(遠い目)。
06年2月11日