懊悩(おうのう)

第1章

 まだ昼だというのにバルコニーへと続く窓を漆黒のカーテンで覆い日光を遮って、わざわざつけたスタンドの明かりだけが辺りをぼんやりと照らす。そんな薄暗い部屋でフォルは、柔らかい感触のソファーにゆったりと腰掛けながら頬杖をついて片手で赤褐色のブックカバーをつけた本を支え、眼鏡越しにそれを見詰めていた。しかしどうも集中できないのか、時々少し長めに切りそろえてある血のように真っ赤な爪に視線が移る。

 前まではもう少し長かったのだが、前に扉を出現させる為に爪が壁に軽く触れようとした時、動揺していて力を加えすぎたのか勢いあまってそのまま爪を折ってしまったのである。突き刺したのではなく引っ掻くように動かしていたのでその被害は大きかった。他の爪と同じ長さになるのを待つのは結構時間がかかるので折れてしまった爪の長さにあわせて切ったのだが――。

 スタンドを置いているテーブルに、今開けているページが閉じてしまわないよう本を伏せて置き、あいた手を広げて見比べてみた。切りそろえても、右手の人差し指の爪に走る白い線はどうしても隠す事ができない。

 人を呪わば穴2つ……か。ぱっと見はヒビが入っているだけで他の爪とそんなに変わらないが、切り口を反対の人差し指の腹でなでれば凹凸を感じる。それはどれだけ動揺していたのか静かに物語っていた。

 ある唐突に雨が降ってきた夜、フォルの唯一の友人である鳥人(ちょうじん)のメルヴィーが、何の連絡もなくいきなり降ってきた雨にも気にしないまま蒼白な表情を浮かべてやってきた。久し振りに会えた喜びもあったのだが、それ以上に嫉妬心でフォルの感情は乱れた。

 唐突に行方知らずになったメルヴィーは、何事もなかったかのように唐突に姿を現した、人間と共に。それだけで随分と衝撃を受けたのに、今のメルヴィーは自分の知っている彼とは別人かのように雰囲気までもが変わっていたのである。自分の知っているメルヴィーは感情もこの世の中への依存というのもなく、冷たく、ただここにいるからそうしているだけのような者であった。誰にも頼らずフォルにまで冷めた目を見せ、友人なんて自分が勝手にそう思い込んでいるのかもしれないと考えなかった日なんてなかった。

 ところが、あのどこにでも転がっているような人間のケルアが現れてからは非常に感情豊かで、冷たいところはあったがそれでもフォルから見れば随分と優しく柔らかい雰囲気を感じるようになった。何度かメルヴィーとケルアが一緒にいるところを見かけたが、よく口論をしていて――といってもケルアが一方的に理不尽な事を言っているだけだが――、だがそれはフォルから見ればじゃれ合いにしか見えない。

 見ていて気分が悪かった。いっその事全てを吐き出せば楽になるかと思ったぐらいである。たかが人間のくせに当たり前のように隣にいて我儘を平気で言うケルアも、それに顔をしかめつつもちゃんと答えるメルヴィーも――。この現実を全てこの爪で引き裂きたくなるほど苛立つものばかりであった。

「私と出会った事は意味がないという事か……!」

 両手で顔を覆い、苛立ち交じりに呟く。そう自分で言ってしまうとそれが本当の事のように思えてきて、ゆっくりと顔から手を離すと八つ当たりするように手を強く握る。痛みが全てを忘れさせてくれたら良かったのだが、それは逆効果で自分が情けない奴だとしか思えなくなってきて、自然と手に力が入っていった。

 どれくらいの時間、握り拳を見詰めていたのだろう。ふと窓から何かがぶつかるような音で我に返り、ふらふらと立ち上がってしばらくカーテンで覆われた窓を見詰めてから、カーテンをめくらず隙間から手を差し込んで少しだけ窓を開けてやる。すぐにその隙間からふわりとやってきた黒い塊はいつもここに遊びに来るコウモリ達の中の1匹だろうという事は、窓に体当たりをして開けて欲しいと主張しているところからなんとなく分かっていたが、その姿を見てもその中の誰かというのは分からなかった。しかしそれは皆同じような姿をしているのだから無理もない。コウモリ達もただ話し相手がいてくれればそれ以上は望まないらしく、その事については触れてこなかった。

「フォル様、お久し振りです」

 部屋に入ってきたコウモリは窓の近くの本棚の上を着陸地と決めているのか迷わずそこへ向かい、フォルと向かいあってから丁寧にそう言葉を発した。残念ながら姿だけでは区別できないフォルは、その言葉から最近来た奴以外だという事を頭に入れただけで、その挨拶には何も答えず「何か用か?」踵を返してソファーに座り直し、無意識のうちに額に手を当てながらそう尋ねる。

「あぁ……いえ、特にこれといった用はないのですが……」とても言い辛そうに言葉を濁しながらおどおどと言葉を続けていたが、しばしの沈黙の後意を決したように尋ねてきた。「迷惑でしたでしょうか?」

「迷惑だったら開けない。だから気にするな」

 先程まで苛立っていたので間違ってもこのコウモリには八つ当たりしないよう、取り敢えず気を落ち着かせる為に闇に向かって人差し指を軽く曲げた。注ぎ口から細く湯気が伸びているポットとカップをテーブルの上までもってきて、宙に漂わせたままポットに入っているコーヒーをカップになみなみと注ぎ、カップの持ち手に右手の人差し指を引っ掛けて、役目を終えたポットは闇の中へと消えていった。

 フォルの気持ちを知ったコウモリが安堵の息を吐いているのを耳で確認しながらコーヒーを一口飲み込む。コウモリがこうやって来る時は、大体は何かを知らせに来る時か話し相手が欲しい時である。さて相手が話し出すまでコーヒーを飲みながら待っていようとした時に、驚きに満ちた声がフォルの耳に飛び込んできた。

「フォル様、どうしたんですかその傷は!?」

 気が付けば目の前でコウモリが羽ばたいていて、何気に膝の上に置いている掌に視線を落としたら何本もの細く赤い線が走っているのが目に映り、改めて自分の感情が乱れていた事を悟る。カップを置いて右掌も見てみれば同じように同じ数だけ細く赤い線があり、特に握ると人差し指が突き刺さる位置に走る赤い線は太くしっかりと存在を主張していた。

 何があったのだろうかとフォルの目の前を右往左往に飛び回るコウモリを呼び止め、取り敢えず心配させない為にも大した事はないと口にするが、仕方ないとはいえ大した事ではないというものに自分で区別されて、思わず小さく溜息をつく。「大した事ない……か」気がつけばそんな事を呟いていた。

 しばらくの間そんないつもと違うフォルの事を見詰めていたコウモリは、「ちょっと膝を借りてもよろしいでしょうか?」唐突に真剣な響きの声でそう尋ねてきたので戸惑いながらも許可すると、それでは失礼しますと膝の上に小さな足を乗せ、羽をたたんだ。

 取り敢えずスタンドの明かりを一段落とし、予期せぬ行動を驚きの表情で見詰めていたので自然と、落ち着いたので顔をあげたコウモリの漆黒の双眸とぶつかりあう。大きな瞳にまるで吸い込まれるかのような錯覚を覚え、目を逸らす事ができなかった。

「何か……悩み事ですか?」

 その言葉を聞いた瞬間、言い当てられた驚きもあったが、それ以上にまるで気付いてくれる事を待っていたような自分が嫌になり、恥ずかしさのあまり頬が熱くなるのを感じる。反射的に俯く事で顔を隠す事しかできなかった。

 沈黙を肯定と判断したのか、「私なんかでよければ、話を伺いますが……」一歩前に出てフォルとの距離を縮めてきた。その何気ない行動だけで、このコウモリは本当に自分の事を心配している事が充分伝わってきたので、ゆっくり顔をあげる。

 そんなコウモリの優しさに思わず甘えてしまいたいと思う自分がいる事に気が付いて、戸惑いを隠せなかった。前まではこんなにも悩んだ事があっただろうか、そこまで考えて、ふと自分が今まで真剣に悩んだ事がなかった事に気付いてしまう。それはきっと、悩んでも仕方ないだろうと途中で放っておく自分がいたからに違いない。そんな事にたった今、しかもコウモリのおかげで気付いて、思わず自嘲の笑みをもらしてしまった。1度笑い出したら止まらなくなってしまい、口元に手を当てて後から後から込み上がってくる笑いを無理矢理抑える。断片的な笑いが薄暗い部屋に響き渡った。

「フォ、フォル様……?」

 心配しているのにいきなり笑われたりしたら、誰だって不安を抱くだろう。乱れた呼吸を整える為に深呼吸をし、そんなコウモリの心配をぬぐう為に口元を押さえる手と反対の手を頭の上に乗せる。「いや、すまない。考えたらあまりにも可笑しかったものでな」そう、それはあまりにも単純すぎて見落としていた。

 一通り笑ったらどうやら気持ちは落ち着いたらしく、複雑に絡まっていた糸がやっと解けた時のようなすっきりとした気持ちがあった。小さく息を吐き、見失っていた自分を見付ける手伝いをしてくれたコウモリに素直に礼も言える。「本当にすまなかったな。それと……ありがとう」

 全く予想をしていなかった言葉だったのだろう。何を言われたか理解できていないような表情でぽかんとフォルの事を見詰めていたコウモリは、唐突に勢い良く首を振って否定を表した。

「解決するお手伝いができて光栄です。ですが……あの、一体何があったのですか?」

 当然の問いに、思わず苦笑を浮かべる。今考えると全くバカらしい事に悩んでいたものだと笑い飛ばせる自分がいて、先程までここにいたのは別人のような感じがしてきた。

「あぁ……ちょっと、な。私の大切な奴が私の1番嫌いな奴に取られて嫉妬していたという……全く子供のような悩み事だ」

 再びカップの持ち手に人差し指を引っ掛け、生温くなってしまったコーヒーを飲み込む。言ってしまうと今までためすぎて重くなっていた忌々しい感情が簡単に抜けていって、残ったのは、抑えきれないほど心の底から込み上がってきた笑いのせいでできてしまった疲労だけであった。笑うという事は意外と疲れる事だという事を改めて思い知らされる。

 そういえば、アイツはいつも笑っているな。自分でも理由は分からないが、ケルアの笑顔が脳裏を横切った――といっても、ケルアはフォルの前ではまるで別人かと思ってしまうくらい冷たい瞳をしていてメルヴィーに向かってしか笑う事がないので、ちゃんと正面を向き合って見た事はないが。

 初めてケルアを見た時はメルヴィーと一緒にいたので、2人きりになった時の態度の変わりようは良く覚えている。

「それは、メルヴィー様ですか?」

 何か考え込んでいるかのように黙り込んでいたコウモリは、唐突にそんな事を尋ねてきた。まさかそんな事を聞かれるとは思いもしなかったので一瞬反応に遅れてしまうが、「あぁ、そうだが」別にはぐらかす理由もないし、メルヴィーやコウモリ達以外に気を許せる存在はいなかったので頷きつつ、それがどうしたのかと言葉を促す。

 返事を聞いたコウモリは、なるほどと頷きながら羽を伸ばすと目の高さまで羽ばたいてきた。

「それなら、会いに行ったらどうですか?」

 意外な言葉に思考が追いつかず、少しの間沈黙が漂った。その間ずっと羽ばたく音を響かせ沈黙を守っていたコウモリは、どうやらちゃんとフォルの口から答えが出るのを待っているようである。その為、そこから答えを導き出すには更に時間を必要とした。

 自分から会いに行くなどと、考えた事すらなかった。フォルにさえ気を許さなかったメルヴィーに、自分から会いに行くなんて事をすれば彼が迷惑にしか感じないのは実際にやらなくても分かり切っている事。だから、そんな選択肢は元からなかった。

「メルヴィーは、私の事など何とも思っていない。だから、たとえ会いに行ったとしても迷惑がられるだけ」

「そんな事ありませんっ!」

 少し視線を逸らし呟くように言っているそこへいきなりコウモリの叫び声が割り込んできて、反射的に顔を上げて目を見開く。その漂うオーラには、心なしか怒気が含まれているような気がしないでもない。

「私は昔のメルヴィー様を存じませんが、この前ここに来られたのはフォル様を頼っていたからじゃないですか? 滅多に来ないのは、きっとフォル様に遠慮しているんです。フォル様が迷惑かと心配するのと同じで、メルヴィー様も心配して行きたくても行けないんじゃないでしょうか? 会いに行けば、はっきりすると思いますよ」

 一息でそこまで言った為か、それともずっと同じ位置で羽ばたいていた為か、言下に力なく膝の上に戻ったコウモリは小さく息を吐いた。

 コウモリの言葉について考えようと何気なく視線を横に流した時、ふと自分の手がまだカップの持ち手を握っていた事に気付く。それは、持っていた事を忘れてしまうほど真剣に話を聞いていたという事を表していた。

 安心、か……。コーヒーはすっかり冷たくなってしまっていたので、勢い良く喉に流し込む。冷たくなった事で更に苦味を増したコーヒーの味が口の中に広がった。

 最初は、本当にあのメルヴィーが記憶を失ったからといって自分なんかに安心を求めているのだろうかと疑問に思った。それに、たとえ何かに安心を求めていたとしても、すでにケルアという存在がいる――認めたくはないが――。

 しかしよく考えてみれば、思い出せる記憶にはほとんどメルヴィーがいて、相変わらず無表情で表情を変えたとしても呆れや渋面など、そんなのばかりであったが、それでもその思い出達は楽しいという印象を残していた。一緒にいたという事は、お互い必要としている事に変わりはないのではないだろうか。

 全く、本当にバカげた話である。自分の事しか考えず、メルヴィーの気持ちを1つも理解しようとしていなかった。

「そう、だな……」

 口を当てた部分を左手の親指の腹でぬぐい、カップを闇へと返す。そしてもう1度人差し指を曲げ、闇に溶け込んでしまいそうなほど漆黒な外套が現れたと同時にコウモリが膝から離れていったので、眼鏡を外して立ち上がり、袖に腕に通した。外はまだ昼とはいえ、外套を羽織らなければすぐに体が冷えてしまうくらい寒い。

 指先しか見えないほど長い袖をめくり、掌にできた傷口を指先でなでる。自分から行動するなんて全くらしくないが、いつまでも悩んでぐずぐずしている方が気分も悪かった。

 窓の前まで行き、カーテンの隙間に両手を入れて軽く息を吐き覚悟を決めてから、思いっ切り左右に開きランナーを短く響かせる。薄暗い部屋に慣れていたので反射的に目を細めるが、太陽は雲に隠れてしまっている為フォルの予想に反して外は影に包まれていた。

「もちろん、お前も来るよな?」

 肩越しに振り向いて、スタンドに場所を変えたコウモリの姿を視界に入れる。尋ねる、ではなく確認する為の言葉がすぐに理解できなかったのかコウモリは少しの間呆然とフォルの事を見詰めていたが、しかしその静寂はすぐに羽ばたく音に破られた。

「もちろん、お供させていただきます」

 すぐに隣に移動してきたコウモリの姿を確認し、窓を開け放つ。思っていた以上に外は寒く、風もあり思わず身震いをして着る時に折れた襟を立たせる。だが、今更考えを変える気などさらさらなかった。いつまでも現実から逃げているだけでは何も変わらない事をたった今教えてもらったのだから、その意味を充分に冷静に理解できている今以外に適切な時などあるのだろうか。時の流れを視覚で分かる砂時計と同じで、止まる時などありはしない。ならば、結果を求めて進むしか自分のやれる事はない。

 少し足を前に進めると、部屋の中がどれだけ暖かかったのか思い知らされた。手先から体温が奪われていき、体を温める役割のはずの外套も冷たくなってきて思わず両腕をこする。

 予想以上の寒さだな……。無事メルヴィーと会える事を祈りつつ、背中から薄い漆黒の羽を出して広げる。その羽の大きさは背後にある窓よりも大きく、もう1人包み込んでもまだ余裕があるほどであった。その羽を軽く曲げて準備をした後に乾いた音を立てて軽く助走を付け、そして外気にさらされていたせいですっかり冷たくなってしまっている木製のバルコニーを強く蹴る。

 空気を強く叩きつけるような音と強い風を残して、まだ羽の形がくっきりと分かる黒と、その少し後ろに、すでに点としか視覚がとらえない黒がこの寒さには似合わないほど晴々とした空に浮かび上がり、そしてすぐに姿を消していった。

 

 

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…えーっと、確かフォルの設定に“冷静沈着に見えるがただ感情を表現できないだけ”って書いてあるんだけど…何でかなぁー?;

『雨時々――』の続きですが、相変わらず読まなくても分かります;触れるのは第1章だけですしねぇ…。
あのままではフォルがちょっとかわいそうだなーと思いつつ続きが思いつかなかったのでそこで終わっていたのですが、11月に入って唐突に内容が浮かび上がってきたので指の動くままに書いてみれば…キャラ違うしっ!;
…えー、どうやら私には冷たいキャラは無理なようです;
ぐっ…。
……彼だって生きているんだ、うん(結局そう逃げる奴)。

ところで…フォルが心の中で思っている“人を呪わば穴2つ”ということわざ。私小説で使う時はいつも、一応電子辞書で意味を調べてから書いているのですが…調べてみて驚きました。
ずっとこれの意味って、“人を呪うと倍になって返ってくる”っていう意味だと思っていたんです。しかし実際には、
“他人を呪って殺そうとすれば、自分もその報いで殺されるから、葬るべき穴は2つ必要な事になる”
という意味らしいですね!知らなかった…。
“情けは人の為ならず”ってことわざもあって、良い事をした時は単に良い報いがあるだけなのに、何で悪い事したら2倍になって返ってくるんだよとかぶつくさ言っていたのですが(笑)、へぇ、別にそういう事ではなかったんですねー…。

本を読む時眼鏡をかけているのって何か良いですよねv(…)漂うオーラが違う。
でも、本を読む時にだけ眼鏡をかけるって事は遠視って事で…つまり、ろ(以下略)。
…………ま、吸血鬼ですし、人間より長生きですから(おい)。

05年12月24日