『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』(マルクス・エンゲルス研究者の会)6、1989年4月
マルクス機械論草稿の執筆時期をめぐる―論点1)
―ノートX・190,190ページにおける指示文言「第3章」は われわれに何を語っているのか―
松尾 純
T. はじめに―研究状況
『資本論』成立史をめぐる論争問題の一つに、1861−63年草稿2)ノートX・19
0-219およびノート]\・1159―1282記載の「γ 機械。自然諸力と科学と
の応用(蒸気、電気、機械的諸作用因と科学的諸作用因 ) 」( 以下機械論草稿と略記する)
が、いつ、どのようにして、執筆されたのか、という問題がある。この論争問題の焦点の
一つは、機械論草稿中に見られる指示文言「 第3章 」が何を意味しているのかという問題
である。
問題の指示文言とは次のようなものである。
@ノートX・190―「なぜ、機械の採用につれて、いたるところで、他人の 労働時間
の吸収にたいする渇望が増大するのか、 またなぜ、 労働日がー立法が介入することを余儀
なくされるまでは―、短縮される代りに、逆にそれの自然的限界を越えて延長されるのか、
したがって相対的剰余労働時間だけではなく、総労働時間も延長されるのか、― この現象
は、第3章(3.Capitel)で考察する。」(MEGA,292;草稿集C512-513)。
AノートX・198-199―「一般の経験からわかるように、機械が資本主義的に充
用されるようになれば…、機械が資本の一形態として労働者にたいして自立化されるよう
になれば、 絶対的労働時間 ― 総労働日―は短縮されないで、延長される。このケースに
ついての考察は第3章(CapitelV)に属する。 しかしここで、主要な点を挙げておかねばな
らない」(MEGA,303;草稿集C529)。
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ここに見られる「第3章」とは何か。
MEGA編集部の考えはこうである。「マルクスがここで『第3章 』と言っているのは、
『資本一般』の研究の第3の部分である『資本と利潤』のことである」3)
吉田文和氏の主張はこうである。「ここで第3章というのは、…『1862年12月〜
1863年1月のプラン』の第3章『絶対的剰余価値』…をさしている」4)。大村泉氏も
同様に主張される。「ノート][、 1140ページ…のプラン草案における、『3.絶対
的剰余価値。』…を念頭において記されていると理解したい。なんとなれば、…『γ 機
械。…』が…1863年1月に作成されたものと推定している以上、かかる『第3章』は、
…草稿同章よりも、むしろ、…プラン草案と対応させて理解するほうがはるかに合理的だ
からである」5)。
これに対して原伸子氏は次のように批判される。「この『第3章』を、…『第3章 資
本と利潤』を指示するものであると理解する。その第一の理由は、マルクスが、『186
1−63年草稿』の全体を通して、機械の導入が労働日の延長をもたらすということを、
利潤論とのかかわりで…重視していたからである。」6)。第2の理由は、「1863年1
月のプラン作成後、相対的剰余価値は、『3 相対的剰余価値』として執筆され始めたの
であるから、…この『3. 相対的剰余価値』のなかで『第3章』として、『3.絶対的
剰余価値』を指示するということ自体不自然なのである」7)。 「マルクスが、この『V
資本と利潤』という論題を取り扱う部分を『第3章』とよぶのは、厳密に、1863年1
月よりも前の時期に限定されている」8)。「マルクスは、『1861−63年草稿』全体
を通じて、機械採用のもとでの…労働日の延長を、不変資本充用上の節約という点におい
て、利潤論…の主要論題に設定していた」9)。
これに対して吉田氏は次のように反論する。 「マルクスは1863年1月プラン以降、
それまで『第3章 資本と利潤』と呼んでいたものを、利潤論などの別の呼び方をするよ
うになっている。したがって、1863年1月のプラン以降にその冒頭から『機械論草稿』
が執筆されたと理解する大村氏と筆者にとっては、…『機械論草稿』における第3章は、
…1863年1月プランの第3章をさすものである」10)。
以上が、「第3章」をめぐるの研究状況である。
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U. 指示文言「第3章」とは「第3章 資本と利潤」のことである
この問題に対する筆者の考えはこうである11)。すなわち、「第3章」とは、ノート][
・1140のプラン中の「第3章 絶対的剰余価値」のことではなく、いわゆる1859
年プランの色合いを濃厚に残した編成項目としての「第3章 資本と利潤」、あるいは、
ノート]Y記載の「第3章 資本と利潤」のことである12)、と。
このような筆者の推定は大村・吉田両氏の推定にたいする次のような疑問から発してい
る。すなわち、 両氏によれば、 指示文言「第3章」はノート][・1140のプラン中の
「第3章 絶対的剰余価値」を「念頭」においたものであるということであるが、しかし、
もしそうであるとすれば、次のような一連の疑問が生じてくる。すなわち、なぜ、ノート
][・1140プラン直後に書かれた機械論草稿のタイトルが、ノート][のプランに従
ってその上位項目が「3) 相対的剰余価値」から「4) 相対的剰余価値」へと変更さ
れていないのか、まだ同プランに従って当該項目が「(C)機械。等々」とはなっておら
ずに、いわゆる1859年プランに見られる「γ 機械。 等々」となっているのであろう
か、また、なぜ、ノート]\ およびノート]]の〔表紙第二面〕( MEGA,1891)に 、 「
4) 相対的剰余価値」「C)機械。等々」というノート][・1140のプランにおけるタイトル
ではなくて、「3) 相対的剰余価値」「γ)機械。等々 」というタイトルが書き込まれ
ているのであろうか、さらにこれに関連して、 なぜ、 ノート][・1140のプランでは
「剰余価値の資本への再転化。本源的蓄積。ウェーイクフィールドの植民理論」が「第6
章」とされているのに、ノート]]Uの〔 表紙第二面 〕(MEGA,1891)には「4)α)
剰余価値の資本への再転化。/ β)いわゆる本源的蓄積。/ γ)植民理論」、ノート]]
Uの本文(MEGA,2214)には 「4) 剰余価値の資本への再転化 」等々となっているの
であろうか、また、なぜ、ノート]]・1255で「このことは、資本主義的生産の特徴
から諸結果を導き出す次の δ)において総括すべきではないか、 それは問題だ」(MEG
A,2045;訳237)という指示文言が存在し、それは内容的にはおそらくノート][のプラ
ンの「7 生産過程の結果」(あるいは「6 剰余価値の資本への再転化。…」)のこと
であると思われるにもかかわらず、「γ)機械。 等々」を執筆中に「第7章」あるいは「
7 生産過程の結果」と指示されずに、意味不明の「次の δ)」13)と指示されているので
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あろうか、等々という疑問が生じてくる。これらすべての疑問に答えるためには、ノート
X・211以下でも、ノート]\でも、ノート]]でも、さらにノート]]Uでも、ある
いはさらに、ノート][のプランがすでに醸成されつつあると思われる「諸学説」後半部
分でも、草稿執筆中にマルクスが叙述プランの成る項目・個所を指示する場合、ノート]
[・1139・1140の新しいプランにまだ厳密に従ってはいなかった。あるいは、同
プランをそれほど「念頭」においていなかったと考えざるをえないのである。とすれば、
ノートX・190および199の「第3章」指示も、―たとえノートXがノート][のあ
とで執筆されたものであったものとしても―ノート][のプランを「念頭」においたもの、そ
れに厳密に従ったものではなく、むしろいわゆる1859年プラン(そこでは「3) 相
対的剰余価値」「γ)機械。… 」となっている)の色合いを多少とも残した篇別構成を事
実上「念頭」において行なったものであると考えなければならない。つまり、機械論草稿
執筆中マルクスは 、「4) 相対的剰余価値 」の下位項目としての「 C)機械。 等々」
ではなく、「3) 相対的剰余価値」の下位項目としての 「α) 機械。 等々」を書いているとい
るという意識をもっていたと推定されるのである。ノートV ・ 125には「3) 相対的剰
余価値」というタイトルが見られ、ノート]\およびノート]]の〔表紙第二面 〕には「
3 相対的剰余価値」というタイトルが見られることから判断すると、どうしても、これ
らのノートを執筆中マルクスの頭のなかでは「4 相対的剰余価値」ではなく「3 相対
的剰余価値」を執筆中であるという意識が存在していたと考えざるをえない。とすれば、
なにゆえに、マルクスは、「3 相対的剰余価値」を執筆中に、わざわざ突然ノート][
のプランに従って「3)絶対的剰余価値」を指示しなければならないのか、まったく不明
と言わざるをえない。この疑問に答えるためには、機械論草稿がいつ執筆されたにしても、
この「第3章」とは、「第3章 資本と利潤」のことであると理解せざるをえないのでは
なかろうか。かくて、ノートX・190および199における指示文言「第3章」とは「
第3章 資本と利潤」のことであることはもはや明白である。14)
ところで、大野氏は、今回、マルクスが指示文言によって「第3章」に属せしめようと
した理論内容を分析し、それを根拠として、「第3章」とは「第3章 資本と利潤」のこ
とであると推定している。筆者のみるところ、その推定は概ね妥当なものであると言えよ
う15)。
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そこで、以下、大野氏の推定を紹介しながら、筆者自身の推定と補足を加えておこう。
まず、引用文@について。大野氏は次のように言われる。すなわち、ここでは「機械の
導入を契機とする労働日の延長の問題の考察がとりあげられているのである。このことは、
…『第3章』が『3) 絶対的剰余価値」の下位項目の『d) 標準労働日のための闘争』で
はないことを明示している。なぜなら、『3) 絶対的剰余価値』での労働日の延長の展
開では『機械の導入』は直接的な契機ではないからである 」16)、と。大野氏の解釈は妥当
なものであり、これによって、草稿中の「第3章」が「3) 絶対的剰余価値」ではない
ことが明らかにされていると思われる。とはいえ、これだけでは、「第3章」とは「第3章
資本と利潤」のことであるという結論をまだ導きだすことができない。「第3章」とは
「第3章 資本と利潤」のことであると推断されるためには、さらに以下に引用するよう
な叙述を見なければならない。
A「機械が資本主義的に充用されるようになれば…、機械が資本の一形態として労働者
にたいして自立化されるようになれば、絶対的労働時間−総労働日−は短縮されないで、
延長される。このケースについての考察は第3章に属する。しかしここで、主要な典を挙
げておかねばならない」。まず第一に、機械充用に伴う労働時間延長の条件。−「あらゆ
る筋肉緊張を機械に移し、また熟練を機械に移す、労働の外観上の容易さ。延長は、前者
の理由から、さしあたり肉体的な不可能性にぶつからない。第二の理由で、労働者の反対
を挫ける。…さらにいまや、一つの規定的な要素…がはいってきて、作業場全体の性格を
伴う労働日延長の動機。−「他人の労働(剰余労働)にたいする渇望は、機械の充用者に
特有のものではなく、 資本主義的生産全体の推進的動機である。…/…/けれども、機械
の充用の場合には、このほかにも、この衝動にまったく特別の刺激を与える特殊な諸事情
がつけ加わる。 /…機械に投下された資本が総生産によって補填される…期間は、 労働時
間が標準労働日の限界を越えて延長されることによって、短縮される。…もし、【機械が
実際にこの期間内に−松尾】使いつくされていない…とすれば、不変資本にたいする可変
資本の割合が増大する。…そのために、…剰余価値の投下資本総額にたいする割合【=利
潤率−松尾】…が増大する。 さらに、 新しい機械が採用されるときには、 いろいろな改良
がつぎつぎに現われる、という事情がつけ加わる。それゆえ旧来の機械の大部分は、その
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流通期間が過ぎ去る以前に、あるいはその価値が諸商品の価値として再現し終える以前に、
たえず部分的に減価させられていくか、あるいはまったく役に立たないものになる。こう
した危険は、再生産の期間が短縮されればされるほど、【それ】だけ小さくなり、またそ
れだけ資本家は、機械の価値をより短期間に回収したのちに、新たな改良された機械を採
用して古い機械を安く売ることができるようになる。… /… とはいえ、資本家にとって
問題なのは、…【以上のこと−松尾】だけではけっしてなく、…この資本…を有利に充用
することである。総資本に比べて−とくにまた固定資本に比べて−労賃に投下された資本
部分が非常に小さくなっているので、…利潤率の減少【が生じる】。この減少を阻止する
ためには、最も簡単な手段は、もちろん、労働日の延長によって絶対的剰余労働をできる
だけ延長すること…である。」( 以上、MEGA, 303−305 ; 草稿集C529−533から引用・
要約。下線は、引用者のもの)。
引用文全体を見ると、われわれは、なにゆえにマルクスが「このケースについての考察
は第3章に属する」という指示を与えたかを理解することができる。というのは、機械の
充用に伴って労働日が延長される際の資本家の動機として、下線部に見られるような利潤
率に関連した論点を2度にわたって指摘しているからである。すなわち、一つは、「機械
に投下された資本が総生産によって補填される…期間は、労働時間が標準労働日の限界を
越えて延長されることによって、短縮される」→「不変資本にたいする可変資本の割合が
増大する」→「剰余価値の投下資本総額にたいする割合【=利潤率−松尾】…が増大する」
という指摘、もう一つは、「総資本に比べて−とくにまた固定資本に比べて−労賃に投下
された資本部分が非常に小さくなっているので、…利潤率の減少【が生じる】。この減少
を阻止するためには、最も簡単な手段は、もちろん、労働日の延長によって絶対的剰余労
働をできるだけ延長すること…である。」という指摘がそれである。この2つの指摘によっ
て、われわれは、容易に、機械の導入に伴う労働日の延長問題と利潤論との関連を理解す
ることができるのである。
大野氏も、引用文Aについて次のように言われる。「機械を直接的契機とする労働日の
延長のケースがここで『第V章』に属するとされている。…『第V章に属する』考察にた
いして、『主要な点』とはその考察の『主要な点』にほかならない…。…/…この『主要
な点』の考察において、…次の諸事情をあげている。/…/機械の固定資本としての減価
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償却、補填の期間を短縮することから生じる労働日の延長…/…/…/…利潤率の低下の
事情…/…/このような機械の導入にかかわる諸事情が労働日の延長をひきおこす。そし
てこれらの考察が…『このケースについての考察は第V章に属する。しかしここで、主要
な点をしめしておかなければならない』としていることの内容なのである。…/このよう
な『第3篇 『資本と利潤』 』…を意味している」17)、と。
このような解釈が妥当なものであることを明らかにするために、われわれは、大野氏とと
もに、さらに「第3章 資本と利潤」草稿中のつぎの文章を引用することができる。
Bノート・]Y、1006ページ―「この重要な問題にはっきりした決着をつけるため
には、あらかじめ次のことを研究しなければならない。/一、固定資本や機械などの発展
とともに、過度労働や標準労働日延長への渇望が、要するに一言でいえば、まさに相対的
剰余労働をつくりだす生産方法【の発展】につれて絶対的剰余労働への渇望が、増大する
ということは、なにに起因するのか?」( MEGA,1642; 草稿集G162 )。これについて、
大野氏は次のように解釈される。「この『重要な問題』とは利潤率の低下の問題であり、
そして、これとの関連でとりあげられている『過度労働や標準労働日延長への渇望』もま
た、『第3章 資本と利潤』で展開を予定されているものである。…このことに対応して、
…『γ 機械』項でその『主要な点』として、 『この【利潤率の】減少を阻止するために、
もっと簡単な手段は、もちろん、労働日の延長によって絶対的剰余労働をできるだけ延長
すること…』(ノート・X、200ページ)ということに言及されているのである」18)、
と。筆者自身の解説をもはや加える必要はないであろう。
Cノート]Y・999−「h。生産費に関連してなお検討してみなくてはならないのは、
なぜ資本主義的生産の発展に伴って、したがって固定資本の大きさやこの資本の発展に伴
って、標準労働日の延長熱が、いたるところでちょうどそのとき政府の介入が必要となる
ほどに起こってくるのかという現象である」( MEGA,1632 ; 草稿集G142−143)。ここ
でも、われわれは、草稿「第3章 資本と利潤」の主題の一つである「生産費に関連して
なお検討してみなくてはならない」問題として、マルクスが、固定資本の発展とともに標
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準労働日の延長熱が高まるという問題を指摘しているのを確認することができる。
Dノート Z・340―341―「今度はここでなお次のことが説明されうるであろう。
…利潤率は、剰余価値の特殊な形態によってどのように変化するか、ということ。その特
殊な形態とは、 標準労働日の限界を越える労働時間の延長のことである。これによって、
不変資本の比較配分的価値、あるいはまた不変資本が生産物の総価値のなかで形成してい
る比例配分的価値部分も、小さくなる。だが、われわれはこの点は第3章に譲ることにし
よう。 ここで説明したことの最大の部分は一般にその第3章に属する 」( MEGA, 496;
草稿集D267)。ここでも、われわれは、マルクスが「標準労働日の限界を越える労働時間
の延長」による「剰余価値の特殊な形態」によって利潤率がどのように変化するかという
問題を「第3章」に属せしめていることを確認することができる。
E ノートX・215―216―「工場制度…のもとでの絶対的労働時間の延長。/…(
中略)…/… 機械は、個々の労働者の剰余労働時間を増大させるが、一定の資本が同時に
搾取する労働者の数を減らす。…/ 機械にもとづく搾取のこの対立的傾向が絶対的労働時
間の増大へとかりたてるのである。… / …(中略)…/まず第一に、労働は12時間行な
われようと24時間行なわれようと、機械や建物に追加の支出は不要である。しかし、そ
れだけの増えた労働を同時的に吸収しようと思えば、建物や機械は、…増やさなければな
らない。この方法によっても商品は安くなる。… / … / 機械そのものの再生産時間は、そ
の活動的使役が延長されてもそれと同じ割合で短くはならない。しかし、その価値の再生
産時間は【同じ割合で短くなる】。/一定の流通期間内の利潤はそれだけ大きくなる。 …
/ その結果、総じて可変部分にたいする不変部分の割合が下がる。なぜなら、【機械と建
物は】不変資本の最大部分を【なしている】からである。それゆえ、最後に述べたこれら
の考察はすべて利潤論に属する 」( MEGA, 1903-1904 ; 訳、15-18 )。ここでも、われ
われは、マルクスが「工場制度のもとでの絶対的労働時間の延長」による利潤の増大とい
う問題を指摘し、この問題を「利潤論」に属せしめているのを確認することができる。し
かし、ここでは、もはや「第3章」という指示文言は存在せず、それに代って「利潤論に
属する」という指示がなされている。とはいえ、この引用文Dによって、われわれは、ノ
ートX・190および199においてマルクスが機械導入に伴う労働日の延長問題を「第
3章 資本と利潤」で考察すると指示した理由を理解することができる。
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Fノート]]・1256―「所与の資本によって動員される労働者の数の減少―機械を
導入した結果として―から、…一部は、絶対的な労働時間を延長するという、…まさに機
械制作業場を特徴づける傾向…が生れてくるということには疑いの余地はなく、そして、
上述の動機のほかに、なお新しい、もっとのちになって(利潤を考察するさいに…)展開
されるべき動機を帯びるのである」( MEGA, 2051 ; 訳、248)。ここでもまた、われわ
れは、機械の導入に伴う労働時間の延長問題が「もっとのちになって(利潤を考察するさ
いに…)」展開されるべきであると指示されているのを確認することができる。ここでも、
もはや「第3章」という指示文言は存在せず、それに代って「もっとのちになって(利潤
を考察するさいに…)展開される」という指示がなされているだけであるが、しかしノー
トX・190および199においてマルクスが機械導入に伴う労働日の延長問題を「第3
章 資本と利潤」で考察すると指示した理由を理解することだけはできよう。
Gノート]Z・1028―「不変資本がより安価にまたよりすぐれた性質をもって効率
的に再生産されうる新たな発明の結果としての不変資本の減価、したがって不変資本に含
まれる労働時間がもはや社会的に必要なものではなくなり―とりわけまた新たな機械がは
じめて採用されるさいには、いろいろな改良が次から次へと行なわれる―、【こうしたこ
とは、】機械の【の採用】につれて過度労働と剰余労働時間の延長−時間外労働-とがいっ
しょになって進むということの主要な理由なのである」( MEGA , 1681 ; 草稿集G219-
220)。Hノート]Z・1027―「機械と固定資本とによる絶対的剰余労働時間の増大」
―これは「雑録」中の「利潤率の低下」項と「蓄積」項との間に書かれ、後に消去された
見出し項である( MEGA, abtU, Bd. 3. Apparat ・ Teil 5, S.32;草稿集G218)。これ
ら2つの引用文には「第3章」とか「利潤論」とかいう指示はたしかに見られないが、し
かし「第3章 資本と利潤」にたいする補論ともいえる「雑録」中に、このように、新た
な機械の導入によって「絶対的剰余労働時間の延長」=「過度労働と剰余労働時間の延長
−時間外労働」が渇望されるという問題がとりあげられていることから判断して、これら
の問題が「第3章 資本と利潤」で展開されるべき問題であるとマルクスが考えられてい
たと見ることができよう。
以上から、機械論草稿中の指示文言「第3章」とは「第3章 資本と利潤」のことであ
ー18ー
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ることはもはや明白であろう。
ところで、最後に、大野氏の指定には次のような特徴があることを指摘しなければなら
ない。すなわち、大野氏は、たしかに、機械の導入を契機とする労働日の延長問題が取上
げられるべく指示された「第3章」が「第3章 資本と利潤」を意味していることを明ら
かにしているが、しかし、そのさい論拠として引用されている叙述はすべて機械論草稿の前
半部分か、あるいは「諸学説」部分以前に執筆された箇所からのものである。機械論草稿
の後半部分あるいはノート]\以降においてもマルクスが同じ問題を「第3章(篇) 資
本と利潤」で考察するという構想をもっていたと推定されるにもかかわらず、なぜかその
ことを大野氏は引用文を論拠にして明かにされていない。「『γ 機械 』草稿が起筆され
た時期は、ノート・][の執筆と同時期」19)であるとする大野氏の見解に従えば、 むしろ
明かにされるべきは、ノートXの211以降およびノート]\以降においてマルクスは機
械の導入を契機とする労働日の延長問題を「第3章(篇) 資本と利潤」で展開しようと
する構想をもっていたということである。このことが少しも明かにされないで、機械論草
稿の前半部分や草稿「第3章 資本と利潤」・「雑録」部分においてのみ機械の導入を契
機とする労働日の延長問題を「第3章」で展開しようとする構想をもっていたことが明か
にされているだけである。 ノートXの211以降およびノート]\以降においてマルクス
は機械の導入を契機とする労働日の延長問題を「第3章(篇) 資本と利潤」で展開しよ
うとする構想をもっていたということを大野氏が明かにされないのは、筆者の見るところ、
次節で考察する問題に関連する次のような事情に起因しているように思われる。すなわち、
引用文@ABCDGH では、 機械導入に伴う労働日の延長問題が取上げられ、 それを「第
3章 資本と利潤」で展開しようとしていることを確認することができるが、しかし、引
用文EFでは、機械導入に伴う労働日の延長問題と利潤論との関連は前者と同様に確認す
ることができるにしても、それが展開されるべき箇所としての利潤論が「第3章」である
ことが明示されていないという事情がそれである。
V.指示文言「第3章」によって機械論草稿の執筆時期を推定することは可能である
以上、われわれは、機械論草稿の執筆時期を推定するために、「第3章」とは「第3章
資本と利潤」のことであるということを明かにしたが、しかし、それだけでは不十分で
ー19ー
|
あって、さらに次のような事実に注目しなければならない。 すなわち、それは「諸学説」
以前および「諸学説」執筆中にマルクスが「資本と利潤 」に関する議論を指示する場合、
それが「第3章」あるいは「第3篇」であることをほとんどの場合明記しているが、「諸
学説」よりあと、 すなわちノートXの少なくとも211以下およびノート]\以下では、
マルクスは「資本と利潤」論に関する篇・章を「第3章(篇) 資本と利潤」と表現する
ことはけっしてなく、もっぱら「資本と利潤に関する篇」・「利潤論」・「利潤を考察す
るさいに」という表現を使用しているということである。
たとえば、ノートY・220では、「第3章で、剰余価値が利潤としてとる非常に変化
した形態を分析するところで… 」( MEGA,333; 草稿集D5)。ノートY・271では、
「…利潤に関する第3章で考察するべきことである」( MEGA,396; 草稿集D106 )。ノ
ート[・340-341では、「利潤率は、 剰余価値の特殊な形態によってどのように変
化するか、ということ。その特殊な形態とは、標準労働日を越える労働時間の延長のこと
である。…この点は第3章に譲ることにしよう。ここで説明したことの最大の部分は一般
にその第3章に属する」(MEGA, 496; 草稿集D267 )。 ノート\・398では、「ロー
ダデイルによる利潤の弁護論的な根拠づけは、あとになってから検討すればよい。第3篇
(AbschnittV)で。」(MEGA,585;草稿集D410)。ノート]・461では、「本来は利
潤に関する第3章に属するものである」( MEGA, 704; 草稿集E57)。ノート]T・52
6では、彼の利潤の理論。…これは、この章にではなく、第3篇(Abschnitt V)への歴史
的付録に属するものである」( MEGA, 820 ; 草稿集D240 )。ノート]V・716では、
「資本−直接的生産過程-を取り扱う第1篇」(dem ersten Abschnitt)では、恐慌の新しい
要素は少しも付け加わらない。…再生産された価値の実現だけでなく剰余価値の実現も問
題にならない…。/ その事柄は、それ自体同時に再生産過程であるところの流通過程にお
いてはじめて現われる。/ …再生産過程と、この再生産過程のなかでさらに発展した恐慌
の基礎とは、…『資本と利潤』の章でその補足を必要とする」20)( MEGA, 1134 ;草稿
集E719)。ノート][・1109では、「『資本と利潤』に関する第3部分(des 3t Th
eils)のうち、一般的利潤率の形成が取り扱われる第2章では、次の諸点を考察すべきであ
る」( MEGA,1816; 草稿集G450)。ノート][・1139では、「第3篇(Der dritte
Abschnitt )『資本と利潤』は次のように分けること」( MEGA, 1861 ; 草稿集G541)。
ー20ー
|
【最後の2つの使用例は、ノート][の3つのプラン中の2つであると考えられる。した
がって、「第3章(篇)」という表現の最後の使用例はノート]V・716のそれである
と言えよう。】
これらに対して、たとえば、ノートX・216では、「最後に述べたこれらの考察はす
べて利潤論に属する」( MEGA, 1904 , 訳, 18ページ)。ノート]\・1235では、「
われわれはこの事情を、資本と利潤に関する篇(Abschnitt)ではじめてより詳細に考察する」
( MEGA, 2013 , 訳, 187 )。 ノート]\・1236では、「資本と利潤に関する篇(Abs
chnitt)で扱われる問題は、剰余価値…の増大の問題でも。商品にはいってゆく過去の労働
と生きた労働との合計の減少の問題でもない。そこで扱われる問題は、資本主義的生産様
式のなかで労働が受けとるその社会的形態によってはじめて可能になる不変資本の節約―
が、 剰余価値の前貸総資本の価値にたいする割合に、 とくに充用される生きた労働と過去
の労働との量的割合に、どう影響するかという問題である 」( MEGA, 2015 , 訳 , 191-
192)。
見られるように、1861−63年草稿の前半期では、マルクスは、「資本と利潤」に
関する議論は「第3章」・「第3篇」に属すると指示しているが、しかし、「諸学説」よ
りあと、すなわちノートXの少なくとも211以下およびノート]\以下では、もはや「
資本と利潤」に関する議論は「第3章」・「第3篇」に属するという表現はまったく行な
われなくなり、単に「資本と利潤に関する篇」・「利潤論」・「利潤を考察するさいに」
という指示が見られるだけになる。21)
このような変化が1861−63年草稿に認められる以上22)、 われわれは、ノートX・
190および199に「資本と利潤」論を指示する「第3章」という文言が存在すること
を根拠として、ノートX・190―199を含む、いわゆる機械論草稿前半部分は1861
−63年草稿の前半期に-しかも種々の事情から考えておそらく「諸学説」よりも前に―
執筆されたものと推定することができるのはなかろうか。
ところで、ここで、以上の推定に関連して、大野氏の筆者に対する誤解を訂正しておこ
う。
「松尾純氏はこの『第3章』を『第3章 資本と利潤』と理解し、ノート・][に記載
されているプラン項目『第3篇(der dritte Abschnitt)資本と利潤』とことなることをも
ー21ー
|
って、『γ 機械』草稿がノート・][とはことなる時期に… 起筆されたと主張する根拠
の一つにしている。これにたいし、…大村泉氏は『第3章』をノート・][のプラン項目
…『3)絶対的剰余価値』とする理解をしめしている。…/両者は…次の認識においては
まったく共通する。それは、ノート・][のプランの時点では、『第3章』がもはや『資
本と利潤』の項目をしめしていないという認識である」23)。
大野氏のこの整理には誤解が含まれている。筆者は、「『第3章』を…ノート・][に
記載されているプラン項目『第3篇(der dritte Abschnitt)資本と利潤』とことなる」
ものであるという認識をもっているが、 しかしそのことだけを根拠にして「『γ 機械』
草稿がノート・][とはことなる時期に…起筆されたと主張」している訳ではない。また、
「ノート・][のプランの時点では、『第3章』がもはや『資本と利潤』の項目をしめし
ていない」と断言している訳ではない。
すでに指摘したように、ノート][のプラン作成以後マルクスが利潤論を展開するべき
箇所を指示する場合、 もはや「第3章(篇)資本と利潤 」という表現は使用せず、 「資
本と利潤に関する篇」・「利潤論」・「利潤を考察するさいに」等々という表現を使用す
るようになった訳であるが、しかし、筆者が考えるに、おそらく、マルクスの頭のなかで
はなお、「資本と利潤に関する篇」・「利潤論」・「利潤を考察するさいに」等々は「第
3章」・「第3篇」として位置づけられていたものと思われるのである。
筆者はかってこの問題に関して次のように述べた。「『第3章』はノート][・114
0の『第1篇 資本の生産過程』に関する編成構成プラン中の『第3章 絶対的剰余価値』
のことではなく、むしろいわゆる1859年プランの色合いを濃厚に残した編成項目とし
ての『第3章 資本と利潤』、あるいは…ノート]\所載の『第3章 資本と利潤』のこ
とである」24)。「ノートX・211以下でも、ノート]\でも、ノート]
]でも、さらに
ノート]]Uでも草稿執筆中にマルクスが自分の叙述プランの或る個所を指示する場合、
ノート][・1139・1140の新しいプランにまだ厳密に従ってはいなかった…。…
ノートX・190および199の『第3章』指示も、…ノートXの同所がたとえノート]
[のプランのあとで執筆されたものであるとしても、ノート][のプランを『念頭』にお
いたものではなく、…むしろいわゆる1859年プラン…の色合いを多少とも残した篇別
構成を事実上『念頭』において行なったものと考えなければならない」25)。「ノート][
ー22ー
|
・1139の『第3篇 資本と利潤』プラン作成以降…もはやマルクスが『資本と利潤』
に関する議論を『第3章』として指示することはありえない」26)。
筆者がこれらによって言わんとしていることは、「第3章」はノート][のプランを念
頭においたものであるというよりは、むしろいわゆる1859年プランの色合を濃厚に残
した篇別構成を念頭においたものだということだけであり、指示文言「第3章」が存在す
るノートX190および199がノート][のプラン作成以後に執筆されたものではない
とまでは結論づけてはいない。マルクスは、ノート][のプラン作成以前は勿論、それ以
後も、新たに作成されたプランに厳密にしたがった指示は与えておらず、草稿起筆当初の
プラン(いわゆる1859年プラン)の色合を多少とも残したプランにしたがった篇別構
成を保持していたのであり、したがって、指示文言「第3章」がノート][のプランに従
っていないというだけでは、少しも、機械論草稿前半部分が「諸学説」以前に執筆された
という推定を可能ならしめはしないのである。
以上要するに、 われわれは、 1861−63年草稿の前半期までは「資本と利潤 」に関
する議論は「第3章」・「第3篇」に属すると指示されているが、「諸学説」よりあとで
はもはやそのような文言はなく「資本と利潤に関する篇」・「利潤論」等々という文言だ
けが存在するようになるということを根拠として、機械論草稿前半部分の執筆時期を推定
した訳であるが、なぜか大野氏はこのような変化についてなに一つ言及されていない。こ
のことに関連して、すでに指摘したように、大野氏は、ノートXの211以降およびノー
ト]\以降マルクスは機械の導入を契機とする労働日の延長問題を「第3章(篇) 資本
と利潤」で展開しようとする構想をもっていたかどうかを不問にされて、もっぱら機械論
草稿の前半部分や草稿「第3章 資本と利潤」からの引用文を典拠にして機械の導入を契
機とする労働日の延長問題を「第3章」で展開しようとする構想をもっていたことを明か
にしている。大野氏はこのような指示文言の表現上の変化をどのように理解されているの
であろうか。
因みに、吉田氏は、 このような変化に言及し、明確な解釈を示されている。すなわち、
「マルクスは1863年1月プラン以降、それまで『第3章 資本と利潤』と呼んでいたも
のを、利潤論などの別の呼び方をするようになっている。したがって、1863年1月の
プラン以降にその冒頭から『機械論草稿』が執筆されたと理解する大村氏と筆者にとって
ー23ー
|
は、…『機械論草稿』における第3章は、…1863年1月プランの第3章をさすもので
ある」27)、と。見られるように、吉田氏は、1863年1月プラン以降「第3章 資本と
利潤」という表現が「資本と利潤に関する篇」・「利潤論」という表現へと変化したとい
う事実と、「1863年1月のプラン以降にその冒頭から『機械論草稿』が執筆されたと
理解する」立場とから、「第3章」とは、1863年1月プランの「第3章 絶対的剰余
価値」をさすものであるという解釈を導きだされる訳である。われわれとは対立する立場
にはあるが、首尾一貫した解釈を示されていると言えよう。
大野氏が言われるように、「篇と呼ぶか、章と呼ぶかはこの「γ 機械」草稿の執筆時
期を決定するものではない」28)し、また「ノート・][の近辺では、『第3篇 資本と利
潤』を前提にその下位区分を章と呼ぶことが通常であるにしても、このことは少しも『γ
機械』草稿で、『第3篇 資本と利潤』を『第3章 資本と利潤』と呼ぶことの妨げに
はならない」29)。しかし、「第3篇 資本と利潤」・「第3章 資本と利潤」という表現
が、ある時期を境にして、「第3篇」・「第3章」という部分が削除されて、「利潤論」
・「資本と利潤に関する篇」という表現に変化しているという問題はけっして無視するこ
とはできないはずである。このような表現上の変化は機械論草稿の執筆時期の推定にとっ
て決定的な根拠を与えていると筆者は考えるのである。大野氏はこの問題をどのように考
えられるのであろうか。
* * * * * * * * * * *
大野氏の今回の論稿の後半部分には、「『γ 機械』草稿での『第3章』はなにを指示
しているか」という本来のテーマから逸れた2つの論点が指摘されているが、それらは、
ここで答えるのは適当ではなく、別の機械に詳しく答えるべきであろう。しかし、「『γ
機械』草稿が起筆された時期は、ノート・][の執筆と同時期」であることはこの2点
により「いまや明白である」30)と断言されている以上、ここで全く無視する訳にもいかな
いので、次の2点だけは指摘しておこう。
まず第一に、大野氏は、拙稿の、「ノートX・196とノートV・124eとが同時期並
行的に書かれたことは確実であり、また、…ノート][・1142―1144とノートV
ー24ー
|
・124f-gとが同時期に連続してかかれたこともほぼ確かである。」31)という文章を引
用して次のように言われる。「これによれば、…ノートX・196は…ノートV・124
eと同時期に執筆され、…ノートV・124f-gが…ノート][・1142―1144と同
時期に執筆されたということになる。それゆえ、これらの部分はほとんど同時期に執筆さ
れた可能性をもっている」32)、と。
筆者は、たしかに、@「ノートX・196とノートV・124f-gとが同時期に連続して
書かれた」と述べているが、しかしそこからけっして、「これらの部分はほとんど同時期
に執筆された可能性をもっている」という結論を導き出してはいない。むしろ逆である。
「ノートV・124f―gと ノート][・1142―1144と が同時期に書かれ、しか
も、ノートV・124eと ノートX・196とが同時に書かれたとしても、これらすべて
…が同時期に書かれたということには直ちにならないのである。というのは、…ノートV
・124f―g は ノートV・124a―e よりも『あと 』に書かれたことが明らかである
からである」33)と主張しているのである。大野氏は、ノートV・124a-hの特異な作成
過程34)についてどのような認識をもっているのであろうか。
第二に、大野氏は、特別剰余価値の形成過程に関わる問題を、機械論草稿の執筆時期推
定のための「新たな根拠」35)。=「決定的な手がかり 」36)として挙げられている。すなわち、
「諸学説」からの引用文(ノート]\・778―779)と機械論草稿からの引用文(ノ
ートX・203)とを比較しながら、次のように言われる。「ノート・]\では、はじめ
『販売のなかでつくられる利潤というマルサス的な利潤学説』をしめす文章として取り上
げられ、あとで『労働者はそれゆえ事実上、資本家のためにより長く働き、自分自身のた
めにより短く働く』関係を、相対的剰余価値の一形態をしめすものとされているのである。
これにたいして、ノート・Xでははじめから『相対的剰余価値の一形態』をしめすものと
してこの文章は位置づけられ、『γ 機械』草稿に書き込まれている。これらのうち、『
γ 機械』草稿のほうが先に書かれ、『5 諸学説』項のほうが後に書かれたことを主張
する試みはあまりにも困難である」37)。
大野氏のこの理解に、筆者は同意することはできない。というのはこうである。すなわ
ち、まず、ノートX・203では次のように説明されている。「機械が工場主に、商品を
ー25ー
|
その個別的価値以上に売ることを可能にしているあいだは、次に引用することがあてはま
るのであって、それは、この場合でさえも剰余価値は必要労働時間の短縮から生じるので
あり、それ自身、 相対的剰余価値の一形態である、 ということを示すものである」(ME
GA,309; 草稿集C539)。ところが、ノート]\・778―779では次のように説明さ
れている。「同じことは、たとえば、新しい機械や科学的方法などの採用によって資本家
が商品をその従来の価値よりも安く生産し、それを従来の価値で売るか、または、いずれ
にしても、いまや下がっている個別的価値よりは高く売る、ということによって生ずる。
この場合には、確かに労働者が自分自身のために働く時間が、直接には、より短くなった
り、資本家のために働く時間が、より長くなったりするわけではない。しかし、再生産の
場合に、その労働を活動させるには、彼の生産物のうちよりわずかな部分で足りるのであ
る。したがって、実際には、労働者は、 前よりも大きな彼の直接的労働部分を、 彼自身
の実現された労働と交換するのである。…したがって、事実上、労働者が資本家のために
労働する時間は、より長くなり、自分自身のために労働する時間は、 より短くなる」(M
EGA, 1254 ; 草稿集D87-88 )。両者を比較して、大野氏は、「『γ 機械』草稿のほう
が先に書かれ、『5 諸学説』項のほうが後に書かれたことを主張する試みはあまりにも
困難である」として、両者を同一の理論のものと理解される。しかし、筆者にはそうは思
えない。前者では、特別剰余価値は直ちに「相対的剰余価値の一形態である」であるとさ
れている。これにたいして、後者では、「確かに労働者が自分自身のために働く時間が、
直接には、より短くなったり、資本家のために働く時間が、より長くなったりするわけで
はない」が、しかし「実際には(In der That)、労働者は、前よりも大きな彼の直接的労働
部分を、彼自身の実現された労働と交換するのである。…したがって、事実上(in fact)、
労働者が資本家のために労働する時間は、より長くなり、自分自身のために労働する時間
は、より短くなる」、とされている。要するに、特別剰余価値は、「直接には」相対的剰
余価値の一形態ではないが、しかし「実際」・「事実上」相対的剰余価値の一形態である、
とされているのである。特別剰余価値が直ちに「相対的剰余価値の一形態」と同一視され
ている前者の論理とはことなること明かであろう。『資本論』第1部にも類似した表現が
ある。「とはいえ、この場合にも剰余価値の生産の増大は必要労働時間の短縮とそれに対
応する剰余労働時間の延長とから生ずるのである」(Karl Marx, Das Kpital,Bd.1,Karl
ー26ー
|
Marx/Friedrich Engels Werke,Bd.23,Dietz Verlag,1962.S.336.)。これも、機械論草稿前
半部分の 、「この場合でさえも剰余価値は… 相対的剰余価値の一形態であるという表現
と直ちに同一視してはならないであろう。大野氏はこの問題をどのように考えられるので
あろうか。
【脚注】
1) 本稿は、大野節夫氏より『マルクス・エンゲルス、マルクス主義研究』 第6号の特集 企画のために筆者宛てに送付(1989・2・24)された論稿「機械論草稿での『第3章』
はなにを指示しているか」(以下 、大野論文と略記する)に答えようとしたものであ
る。
2) Karl Marx,Zur Kritik der polotischen Ökonomie(Manuskript1861-63),in:Karl Maー
rx/Friedrich Engels Gesamtausgabe,Abt.U,Bd.3.Teil 1,1976;Teil 2,1977;Teil 3,
1978 ; Teil 4 , 1979 ; Teil 6 , 1982 , Dietz Verlag. 以下この書を MEGAと
略記にする。引用に際しての訳文は、Teil 1〜5部分については、資本論草稿集翻訳委員
会訳『マルクス資本論草稿集』(以下草稿集と略記する)CDEFG、大月書店、1978
1980 1981 1982 1984年に従う。また、機械論草稿後半部分(ノートX・211―219
およびノート]\・1159―1282)については、マルクス著/中峯照悦・伊藤龍
太郎訳『1861-63年草稿抄 機械についての断章』、大月書店、1980年に従
う。幾つかの個所で訳文を変更したが、いちいち断らない。 以下この書からかの引用
に際しては、MEGA , Abt.U. Bd.3. Teil-5 については、引用箇所を、引用文直後にM
EGAの引用ページと草稿集のページを次のように略記して示す。例(MEGA,1974
; 草稿集C234 )。また、機械論草稿後半部分については、引用箇所を、(MEGA,
1974;訳、234)と略記して示す。
3) MEGA,Abt.U,Bd.3 Apparat・Teil 1,S.145.草稿集C、 513ページ。
4) 吉田文和「『剰余価値学説史』と「機械論草稿」」 『経済』234号、 1983年1
0月、192ページ。
5) 大村泉「生産価格と『資本論』第三部の基本論理(完)」 『経済』229号、 198
ー27ー
|
3年5月、323ページ。
6) 原伸子「『資本論』草稿としての 「1861-63年草稿」 について(1)― 最近の
作成時期をめぐる論争について― 」『経済志林』第51巻 第4号、1984年3月、
151-152ページ。
7) 同上、153ページ。
8) 同上、163ページ。
9) 同上、166ページ。
10) 吉田文和 「ふたたび『機械論草稿』について」 『経済』241号、 1984年5月、
277ページ。
11) 拙稿 「ふたたびマルクス機械論草稿の執筆時期について」 (上)、(下)『経済経営
論集』(桃山学院大学)第29巻4号、第30巻1号、1988年3月、6月。
12) 前掲拙稿(下)、38-39ページ。
13) 「γ)」という番号は、筆者が推測するに、 目下マルクスが執筆中の「 γ)機械。 等
々」の「 次のδ)」ということではなかろうか。 あるいは、「 δ)」という番号は、
α→β→γ の次の番号 「4)」を意味し「4)資本の蓄積」 を指しているのかもしれ
ない。
14) 以上は、前掲拙稿(下)、38-42ページの要旨である。
15) ほぼ同様の推定が、すでに原伸子氏によって行なわれている。 「マルクスが、『18
61-63年草稿 』の全体を通して、機械の導入が労働日の延長をもたらすというこ
とを、利潤論とのかかわりで、 すなわち利潤率減少を阻止する手段として重視してい
た(原、前掲論文、151―152ページ )。「マルクスは 、『1861―63年
草稿』全体を通じて、 機械採用のもとでの絶対的剰余労働の増大―労働日の延長を、
不変資本充用上の節約という点において、 利潤論したがって『第3章 資本と利潤』
の主要論題に設定していた」(同上、166ページ)。
16) 大野論文、1ページ。
17) 同上、1ページ。
18) 同上、2-3ページ。
19) 同上、4ページ。
ー28ー
|
20) 「第3章」 という文言が存在しないにもかかわらず、 ここに引用したのは、次のよう
な理由による。 すなわち、まず、「資本―直接的生産過程―取り扱う第1篇 」とい
う表現が存在し、 それに続くものとして 「それ自身同時に再生産過程であるところの
流通過程」という篇が存在するとされている。 したがって、 これは第2篇である。こ
の第2篇に続き、それを「補足」するものとして最後に 「『資本と利潤』の章 」が存
在するとされている。したがって、これは、 第3章あるいは第3篇「資本と利潤 」の
存在を示していると言えよう。
21)このような事情は、すでに見たように原氏によっても確認されており、 また、 吉田氏
によっても確認されている。 すなわち、 「マルクスは1863年1月プラン以降、そ
れまで『第3章 資本と利潤』と呼んでいたものを、 利潤論などの別の呼び方をする
ようになっている」(吉田、前掲論文、277ページ。
22) ノート][のプラン作成以後マルクスがこのプランに従って「第3篇」 ・ 「第3章」
という表現を使用しなかったと見られるだけではなく、 さらに、 ノート][のプラン
作成以前すでに、 マルクスはノート][のプランを想起させる、あるいは、 同プラン
を念頭においたプラン項目を指示しているが、その場合でもその項目番号 ( 第?篇・
第?章)を付した指示を与えてはいない。たとえば、こうである。ノート]\ ・ 77
7では、「この点は、『資本と賃労働との関係の弁護論的叙述』に関する部分 ( Abー
schnitt)で説くことにしよう」(MEGA,1251 ; 草稿集F81)。ノート]\・85
0aでは、「資本の把握におけるW〔 ウェイクフィールド 〕の独自な功績は、『剰余
価値の資本への転化』に関する前の部分 (Abschnitt) で明かにされている」 (MEG
A,1367 ; 草稿集F280)。ノート]X・935では、 「プライスの幻想には収入と
その諸源泉とに関する部分( Abschnitt )なかで立ち返ること 」 (MEGA、 1372 ;
草稿集F291)。 ノート]X ・ 935では、「われわれは俗流経済学者に関する部分
(Abschnitt)のなかでこの点に立ち返る」(MEGA,1522 ; 草稿集F515)。ノート
][・1086では、「俗流経済学者たちに関する章(ch.) のなかで言及すること」
(MEGA,1766 ; 草稿集F386)。ノート][・1136では、「この記述は『収
入とその諸源泉』という章に属する」(MEGA,1855 ; 草稿集F532)。ノート]
[・1346では、「このことすべては、 生産的労働と不生産的労働 〔を論ずる篇
ー29ー
|
所〕に属する」(MEGA, 2207)。ノート]]・1255では、「このことは、資
本主義的生産の特徴から諸結果を導き出す次の δ) において総括すべきではないか、
それは問題だ」(MEGA,2045; 訳237)。―ただし、ノート][・1109では、
「『資本と利潤』に関する第3部分のうち( des 3t Theils uber Capital und Proー
fit)、一般的利潤率の形成が取り扱われる第2章では(bei dem zweiten Capitel)、次
の論点を考察するべきである」(MEGA,1816; 草稿集G460)。見られるように、
マルクスは、ノート][のプランに従った、あるいはそれを連想させる項目を指示す
る場合、つねに篇・章の番号を付さずに指示を与えているのである。【最後のものが
例外であるように思われるが、これはノート][の3つのプランの一部あるいは同プ
ランの補足説明である。】
23) 大野論文、1ページ。
24) 前掲拙稿(下)、38-39ページ。
25) 同上、40-41ページ。
26) 同上、41-42ページ。
27) 吉田文和「ふたたび『機械論草稿』について」『経済』241号、1984年5月、
277ページ。
28) 大野論文、5ページ。
29) 同上、3ページ。
30) 同上、4ページ。
31) 前掲拙稿(下)、34ページ。
32) 大野論文、5ページ。
33) 拙稿(下)、36-37ページ。
34) ノートV・124a-hの特異な作成過程とは、次のような事情である。すなわち、「1
24a―124hページはあとから ノート第3冊にはさみこまれたものである。12
4aページには『124ページへ 』という覚え書きがある。 a―eページでは、マル
クスはあとから『124』という数字をそれらのまえに―a-d のまえではインクで
eのまえでは鉛筆で―書き加えた。124f―124h ページ のページ付けは鉛筆で
なされた」(MEGA, Abt.U, Bd. 3/1, Apparat Teil 1, S.79; 草稿集C357)。
ー30ー
|
「ノート第3冊では、124a―124h の諸ページが、あとから書き込まれたもの
である。それらは、 125ページですでに『3 相対的剰余価値』が書き始められた
あとで書かれた、 相対的剰余価値のへの補遺である。 書体から見て、それらはいちど
に通して書かれたものではない。 124dページと124eページは、1862年以前
には刊行されていなかった 『工場監督報告書。1861年10月31日にいたる半
年間』からの抜き書きを含んでいる。それに続いて、 アシュリの『10時間工場法案』
からの引用とジョン・フィールデンの『工場制度の呪咀』からの引用とがある。 この
二つの出典は、ノート第5冊の196-203ページでも詳細に引用されている。 1
24eページでは削られている。アシュリの著書からの一節が、 196ページでほと
んどそのまま繰り返されており、『ノート第5冊の190ページを見よ』、 という覚
え書きによって、この直接的な関連がじかに示されている。124a―124e ペー
ジは、ノート第5冊とほぼ同じころ、 196ページが書かれる直前に書かれたもので
ある。〔ノートU、V、W とが同じ種類の紙を用いており、それに対してノートXと
ノートV・124a―h(それにノート]\、ノート][ )もノートU、V、Wのそ
れとは異なる-松尾〕同じ種類の紙が用いられていることもまた、 これらが同じ時期
に書かれたものであることを証明している」(ibid.S.12; 草稿集C48*)。「あとから
挿入された124a―124h ページのうち、 最初の5ページははじめa―e とだけ
ページづけされ、あとから124というページ数がつけ加えられた。しかもa―d の
ページはインクで、eページは鉛筆でそれが書かれた。 最後の3ページのときには、
124という数字と f, g, h という字母とがいっしょに、鉛筆で書かれた。124
a ページには、ページ番号の下に『124ページへ』 という覚え書きがある」(iー
bid.S.24;草稿集C64* 65*)。
以上の証言から、次のことが言えよう。すなわち、まず、 最初の5ページが、a,
b, c, d, e とだけページづけされて作成された。 それと同時にか、 それとも、そ
のあとで、a ページのページ番号の下に「124ページへ」という覚え書きが書き込
まれた。その次に、 a, b, c, d ページに a―d という文字の前に「124」とい
う数字をインクで書き加えた。おそらくそのあとで、最後の 3ページ、124f、1
24g 、124h ページが作成された。「124」という 数字 と f, g, h という
ー31ー
|
文字が鉛筆で―おそらくマルクスによって―同時に書き込まれたものと思われる。そ
のとき同時に「124」という数字がeの前に鉛筆で書き加えられたのであろう、と。
35) 大野論文、5ページ。
36) 同上、5ページ。
37) 同上、6ページ。
ー32ー
|