『経済経営論集』(桃山学院大学)第30巻第1号、1988年6月発行

  

ふたたびマルクス機械論草稿の執筆時期について(下)
――機械論草稿連続執筆説の批判――

 

松尾 純

 

   T.は じ め に
 本稿(上)1)において、 われわれは、まず[T]、筆者旧稿2)にいたるまで
のマルクス機械論草稿の執筆時期をめぐる論争を概観し、対立する2つの所
説、すなわちMEGA編集部の機械論草稿執筆中断説3)の5つの根拠および
大村泉・吉田文和両氏の機械論草稿連続執筆説4)の5つの根拠をそれぞれ検


1)拙稿「ふたたびマルクス機械論草稿の執筆時期について(上)――機械論草稿連
続執筆説の批判――」桃山学院大学『経済経営論集』第29巻第4号、1988年3月。
2)拙稿「マルクス機械論草稿の執筆時期をめぐって――執筆中断説と連続執筆説の
対立――」桃山学院大学『経済経営論集』第27巻第2号、1985年10月。
3)MEGA編集部の機械論草稿執筆中断説は、次の諸文献に見ることができる。す
なわち、К.Мaркc и Ф.Энгельc Сочинения,издaние втoрoe,тoм 47, 1973,
стр. 624. 中峯照悦・伊藤龍太郎訳『1861-63年草稿抄  機械についての断章』
大月書店、1980年、5-6ページ。Karl Marx / Friedrich Engels Gesamtausgabe,
Abt. U, Bd.3,Apparat・Teil 1, S. 11. 資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス
資本論草稿集』C、大月書店、1987年、46*ー47*ページ。ibid., S. 12. 同上、
48*-49*ページ。ibid., S. 149. 同上、557-558ページ。吉田文和「ふたたび『機
械論草稿』について」『経済』241号、1984年5月、269-270ページ。
4)大村和泉・吉田文和両氏の機械論草稿連続執筆説は、前稿でも掲げた次の諸文献に
見ることができる。吉田@前掲論文。吉田A「J.H.M.ポッペ『テヒノロギー
の歴史』とマルクス」『経済学研究』第33巻第1号、1983年6月。吉田B「『剰
余価値学説史』と「機械論草稿」」『経済』234号、1983年10月。 Yoshida, F.
C、Wurden Marx', "Theorien über den Mehrwert" nach der Unterbreー
chung seiner Arbeit andem "Maschinerie - Manuskript" geschrieben?,
Beiträge zur Marx-Engels-Forschung, Bd. 16, 1984. 吉田D「マルクス『テヒ
ノロギー史抜粋ノート』を調査して」『経済学研究』第35巻第2号、1985年9月。
吉田E「新MEGA編集者をたずねて 」『経済』258号、 1985年10月。 吉田F
「マルクスの『機械論草稿』の執筆時期について――内田弘氏の拙稿批判への回
答――」『経済学研究』第35巻第3号、1986年1月。吉田G『マルクス機械論の
形成』北海道大学図書刊行会、1987年。大村・吉田「『剰余価値学説史』執筆直→

ー25ー

討した。その結果、それらはどれ一つとして自説を立証しうる「決定的な論
拠」を提示しえていないということを明らかにした。次いで[U]、われわ
れは、大野節夫氏による新たな根拠の提示を伴なう機械論草稿連続執筆説5)
を検討した。大野氏が提示した根拠は5つである。うち第2根拠〜第5根拠
は、本稿(上)において検討したが、それらはけっして機械論草稿連続執筆
説の「決定的な論拠」にはなりえていないということを明らかにした。残る
は、第1根拠の検討である。これについては、大野説が表明されて以来、大
村・吉田両氏によって論叢の「新たな展開」6)=「『b.分業』項末尾の執筆時
期」7)問題として検討・批判されている。以下、この「『b.分業』項末尾の執
筆時期」問題をめぐる論争を検討することにする。

V.「b.分業」項末尾の執筆時期をめぐる論争の新たな展開
問題の大野氏の所説とは、次のようなものである。すなわち、@ノートX
・176ー189、 ノートX・190ー211、 ノートU・89ー93、ノートV・124aー
124h は「ほぼ同一の時期に執筆されたことは、 これらの諸部分に引用・利
用されたいくつかの共通な文献の存在からもうらずけられる」8)。A「ノート・
V、124f〜gページ と ノート・V、1142〜1144ページとは、 どんなにはな
れているようにみえようとも、あいついで書かれたものであろう。・・・・執筆
時期は、ノート・][のこの部分が執筆された1862年の12月以外ではありえな
い」9)。Bしたがって、ノートX・176ー189、ノートX・190ー211、ノートU
・89ー93もまた「諸学説 」以後、1862年12月 以後に執筆されたと考えられ


→後の理論的諸問題――『機械論草稿』作成過程の論争をふまえて――」『北海学
園大学経済学論集』第33巻第4号、1986年3月(以下、大村・吉田共同論文と略
記する)。
5)大野節夫氏の新たな根拠にもとづく機械論草稿連続執筆説は、 本稿(上)でも掲げ
た次の諸文献に見ることができる。大野@「『1861-63年草稿』と経済学批判体系
プラン」 (上) (下)『経済』243号、244号、1984年7月、8月。大野A「『経済学
批判』から『資本論』へ」(上) (下) 『経済』256号、257号、1985年8月、9月。
6)大村・吉田共同論文、40ページ。
7)同上、40ページ。
8)大野論文A(上)、215ページ。
9)同上、218-219ページ。

ー26ー
10)、と。
これらの@ A Bの推定からなる大野説のうち、分業論末尾(ノートX・
176ー189)は1862年12月に執筆されたとする点に対して大村・吉田両氏の批
判が集中する。両氏の批判は次のようなものである。
すなわち、ノートX・ 188における記述――「プラトンが分業をよしとす
る主な論拠は、・・・・ ということであったが、最近、漂白業者と染色業者が、
工場法{ 漂白・染色作業場法は1861年8月1日に施行された }にしたがうこ
とに抵抗して、同じことを主張している。すなわち、工場法――この問題に
関連する同法の諸条項は漂白云々にもそのまま用いられている― によれば、
・・・」(MEGA、290:C509)という記述――を引用したのち、両氏は次の
ように主張する。「マルクスはこのように述べたのち、『工場監督官報告書、
1861年10月31日にいたる半年間』の引用を行なっている。・・・・この引用文に
は『最近(neuerdings)』という言葉がみられる。この『最近』という言葉
は如何なる時期を指すのであろうか。/・・・・当該の『工場監督官報告書』を
読んだ時期に一致すると考えて何ら問題はないであろう。・・・・報告書の「序
文」の日付は『1861年12月31日』であるから、・・・・ この報告書は『1862年2
月には刊行されていた』・・・・とみてもよいであろう。マルクスはこの種の報
告書には常に関心を払っていた。とすれば、この『最近』は『剰余価値学説
史』が起筆される直前の1862年3月以外ではありえない」11)
以上の両氏の批判は、分業論末尾の執筆時期は1862年12月以後ではありえ
ないとする点において(「1862年3月以外ではありえない 」と推定できるか
どうかは疑問であるが)、正当なものであると言えよう。
ところが、うえの分業論の執筆時期は1862年3月 であるという推定にもか
かわらず、大村・吉田両氏は次のように言われる。「だからといって、『機
械論草稿』の作成時期に関するMEGA編集部の見解が正しいということに
はならない」12)、と。その理由を次のように説明される。

10)同上、219ページ。
11)大村・吉田共同論文、42-43ページ。
12)同上、43ページ。

ー27ー

  「大野氏は、HeftX、188ページ と HeftV、124dページにおける引用文
がいずれも同一の引用文献の同一ページから採られているが、・・・・相互に重
なるところがないということ、これを根拠に草稿の両部分が同時期に連続し
て作成されたと推断していた。しかし・・・・こうした事実関係は・・・・直接的に
は引用する際の問題関心の相違に関わる問題であろう。そして問題関心の相
違は、常識的にはむしろ夫々の草稿が全く別の時期に作成されたことを示唆
する」13)。「マルクスが『b.分業』の末尾を作成するよりも以前に当該の『工
場監督官報告書・・・・ 』を検討していた場合、あるいは、HeftX、188ページ
と HeftV、124dページ との実質的なページ数の差が非常に大きい場合に
は、こうした問題関心の相違は『機械論草稿』の作成時期の確定にとって特
に問題視する必要はない。 しかし マルクスが当該の報告書に 接したのは、
『最近』=『b.分業』末尾に着手する直前である。また『機械論草稿』の冒
頭、HeftX、190〜196ページと HeftV、124a−hページとが同時期並行的
に作成されたという事実を 否定することはできない以上、『b. 分業』の末
尾と HeftV、124dページとの実質的なページ数の差は 10ページにも満た
ないのである。こうした諸点を考慮すれば、・・・・『b.分業』末尾と『機械論
草稿』とが同時期、連続的に書かれたというのは甚だ説得力に欠けるといえ
るのではあるまいか」14)
大村・吉田両氏の批判・主張のポイントは、分業論末尾(ノートX・188)
とノートV・124dとの問題関心の相違は、 両部分が「同時期、 連続的に書
かれた」のではなく「全く別の時期に作成されたこと」を意味するという点
にある。
なお、大村・吉田両氏は、次のような推定をも提示されている。すなわち、
ノートV・124dに引用されている『工場監督官報告書』の部分は「Heft]\
・・・・・・、1233ー4ページにおいても、・・・・・HeftV、124dページと同一のテー
マのもとに利用されている。このことは、HeftV、124dページ前後と Heft

13)同上、43ページ。
14)同上、44-45ページ。

ー28ー

]\とがほぼ同時期、連続的に作成されたことを示唆する」15)、と。
かくて、大村・吉田両氏の批判・推定は次のように整理することができよ
う。すなわち、@分業論末尾(ノートX・176ー189)は「諸学説」以後では
なくて1862年3月に執筆された。 AノートV・124d 前後とノート]\ とが
「ほぼ同時期、連続的に作成された」。B分業論末尾のノートX・188とノー
ト V・124d との間に問題関心の大きな相違が存在するが、それは草稿の両
部分が全く別の時期に作成されたからである。 CノートX・190ー196とノー
トV・124a−hとは同時期並行的に作成された。かくして、 D分業論末尾
(ノートX・176ー189)と機械論草稿とは「同時期、 連続的に書かれた」の
ではなく、機械論草稿は1863年1月起筆の「Heft]\とほぼ同時期、 連続的
に作成され」(←A)、分業論末尾は 1862年3月に作成されたのである(←
@)。
 そこで、以下、 このような大村・吉田両氏の推定を検討することにしよう。
筆者の見るところ、推定@は分業論末尾の執筆は「諸学説」以後ではないと
いう点において正当なものと思われる。しかし、それ以外の推定A〜Dはす
べて不確実なものである。その理由を以下順次述べることにする。
 まず、Bについて言うと 、 筆者は 、大村 ・ 吉田両氏の「考証 」方法
を全く受け入れることができない。「実質的なページ数の差」が10ページに
も満たない草稿のA個所とB個所において「引用文が・・・・同一の引用文献の
同一のページから採られている・・・・にもかかわらず、相互に重なるところが
な」く、「同一文献にたいする問題関心があまりにも相違すぎる」からとい
って、そういう事実関係から、直ちにA個所とB個所とは「全く別の時期に
作成された」ものであるという推定・結論がどうして導きだせるのか。筆者
の科学的理解能力を越える「考証」方法であると言わざるをえない。「常識
的には」、むしろ、「問題関心の相違」が存在するからこそ、「実質的なペ
ージ数の差は10ページにも満たない」にもかかわらず別の個所に「相互に重
なるところがない」叙述を引用したのではなかろうか。問題関心が違うのは

15)同上、44ページ。

ー29ー

別々の時期に書かれたからであるという推定は、一つの可能ではあるが「常
識的には」むしろ不自然な解釈ではなかろうか。
大村・吉田両氏の推定Cについてはどうか。ここでも両氏の「考証」の粗
雑さが目立つように思われる。両氏は次のように言われる。「『機械論草稿』
の冒頭、HeftX、190〜196ページと HeftV、124a−hページとが同時並行的
に作成されたという事実を否定することはできない」16)と。これだけでは、ど
のような根拠によって、ノートX・190ー196 がノートV・124a−hと同時
並行的に作成されたと判断しうるのか、不明である。おそらく、批判対象で
ある大野氏の推定をそのまま受けいれてのことであると思われる。
大村・吉田両氏が大野氏の所説を次のように要約されている。「Heft V、
124a−hページは『あとから』・・・・・・HeftVに挿入されたページであるが、
マルクスは『機械論草稿』の冒頭、HeftX、196ページにおいて、ここでの引
用は『HeftV、eページに属する(124ページの後)』・・・と述べているだけで
はなく、HeftV、124d[ eの誤りであろう――松尾]ページでも『 HeftX、
190・・・・・・ページを見よ』・・・と記している。このことは、『機械論草稿』の
冒頭とこの HeftV、124d[同じく e の誤りであろう――松尾]ページとの
作成時期が非常に接近していることを示している」17)、と。ノートV・124d
とノートX・188とが同時期連続的に執筆されたという大野氏の推定に対する
批判を急ぐあまり、大村・吉田両氏は、ノートV・124e とノートX・196と
の作成時期の接近という事実関係に基づく大野氏の粗雑な「考証」をそのま
ま受けいれてしまったようである。大野氏は、「196ページと・・・ 124eペー
ジが同時に書かれたこと」18)をもって、ノートV・124にあとから挿入された
補足的記述部分(124a−h )全体がノートX・190ー211と並行して書かれ
たものであると推定している。こうした粗雑さは、ノートV・124d と ノー
トX・188の執筆時期の推定についても見られる。すなわち、うえでは 124d
だけが問題にされているのに、「『b.分業』の末尾、Heft V、124a−hペ

16)同上、45ページ。
17)同上、41ページ。
18)大野論文A(上)、215ページ。

ー30ー

ージ、それに『機械論草稿 』の冒頭云々・・・・・・」19)とされているのである。
 このようにわれわれが言うのは、 次のような事情が存在するからである。
すなわち、ノートV・124a−h部分にたいするMEGA[異文]注には次の
ように書いてある。「124a-124hページ はあとからノート第3冊にはさみこ
まれたものである。124aページには『124ページへ』という覚え書きがある。
a−eページでは、マルクスはあとから『124』という数字をそれらのまえに
――a−dのまえではインクで、e のまえでは鉛筆で――書き加えた。 124
f-124hページのページ付けは鉛筆でなされた」(MEGA、Abt. U, Bd,
3/1, Apparat, Teil 1, S.79: 草稿集C357)。また、MEGA編集者による
「成立と来歴」には次のように書かれてある。「ノート第3冊では、124aー
124h の諸ページが、あとから書き込まれたものである。それらは、125ペー
ジですでに『3 相対的剰余価値』が書き始められたあとで書かれた、絶対
的剰余価値への補遺である。書体から見て、それらはいちどに通して書かれ
たものではない。124dページと124eページは、1862年以前には刊行されて
いなかった『工場監督官報告書。1861年10月31日にいたる半年間』からの抜
き書きを含んでいる。それに続いて、アシュリの『10時間工場法案』からの
引用とジョン・フィールデンの『工場制度の呪咀』からの引用とがある。こ
の二つの出典は、ノート第5冊の196-203ページでも詳細に引用されている。
124eページでは削られている、アシュリの著者からの一節が、196ページで
ほとんどそのまま繰り返されており、『ノート第5冊の190ページを見よ』、
という覚え書きによって、 この直接的な関連がじかに示されている。 124a
ー124eページは、ノート第5冊とほぼ同じころ、196ページが書かれる直前
に書かれたものである。[ノートU、V、Wとが同じ種類の紙を用いており、
それに対してノートXとノートV・124aーh(それにノート]Y、ノート]Z)
もノートU、V、Wのそれとは異なる――松尾]同じ種類の紙が用いられて
いることもまた、これらが同じ時期に書かれたものであることを証明してい
る」(ibid., S.12; 草稿集C48*)。「あとから挿入された124a-124hページ

19)大村・吉田共同論文、41ページ。

ー31ー

のうち、 最初の5ページははじめ a−e とだけページづけされ、あとから
124 というページ数がつけ加えられた。しかもa−d のページはインクで、
eページは鉛筆でそれが書かれた。 最後の3ページのときには、124 という
数字とf、g、h という字母とがいっしょに、 鉛筆で書かれた。 124a ペー
ジには、ページ番号の下に『124ページへ』という覚え書きがある」(ibid.,
S. 24; 草稿集C64*-65*)。
 以上の証言から、ノートV・124a−h の成立について次のように推定す
ることができよう。 まず、最初の5ページが、a、b、c、d、e とだけペ
ージづけされて作成された。それと同時にか、それとも、そのあとで、aペ
ージのページ番号の下に「124 ページへ 」という覚え書きが書き込まれた。
その次に、a、b、c、dページのa−d という文字の前に「124」という
数字をインクで書き加えた。 おそらくそのあとで、 最後の3ページ、124f、
124g、124h ページが作成された。「124 」といおう数字と f、g、hとい
う文字が鉛筆で――おそらくマルクスによって――同時に書き込まれたもの
と思われる。そのとき同時に「124」という数字がe の前に鉛筆で書き加え
られたのであろう。【なお、可能性としては、a−dページの作成とf−h
ページの作成との間に、e ページの作成があったかもしれない。 というの
は、a−dページにすでに「124」というページ数がつけられているときに、
eページ にはまだ「124」というページ数がつけられていなかったという事
情から考えて、もしかすると、まずa−dページ が成立したあと「124」と
いうページ付けが行なわれ、その次に追加的にeページが作成されたために、
eページ だけが「124 」というページ付けがなされなかったかもしれない、
と考えられるからである。】eページの冒頭は、dページから続く『工場監
督報告書。1861年10月31日にいたる半年間』からの引用であるが、そのあと
にアシュリの『10時間工場法』(5、6ページ )からの引用があり、MEGー
A[異文]注によると、このあとに、次のパラグラフを書いたのち、消して
いる。「『原料に投下される資本は、単なる分業にもとづくマニュファクチュ
アの場合よりもはるかに急速に、労賃に投下される資本に比べて増大する。
ー32ー

そして、労働手段に投下される大量の資本部分がしっくり付け加わる』。手
稿ではこれに続いて、『(ノート第5冊、190ページを見よ)』、 という指示が
ある。これは196ページのことである。・・・・・196ページの末尾には、ここで中
断されたテキスト部分が、いくらか補足、変更されて、書かれている」(ib
id., S. 80; 草稿集C364)。「この部分の欄外にはしるしがつけられており、
『(これらの引用はノート第3冊、eページに属する)(124ページのあと)』
という覚え書きで終わっている」(ibid.,S. 80; 草稿集C365)、ということで
ある。ここで注目したいのは、「(これらの引用はノート第3冊、eページ
に属する)(124ページのあと)」という指示文言である。これによって推定
しうることは、ノートX・196を執筆している時点では、「eページ 」はま
だ「124eページ」と表記されていなかった、そしてもしかするとa−d ペ
ージにも「124」という数字が書き加えられていなかったかもしれない。 だ
からこそ、わざわざ「124ページのあと」という添え書きをしたのであろう。
それはまた、ノートX・196を書きだしたときには、少なくともすでに a−
eページが存在したということを示している。さらに、eページの「ノート
第5冊、190[196]ページを見よ」という文言であるが、この文言は、ノー
トX・196の執筆開始よりもあとになって書かれたことを示している。 この
ような事情から大雑把ではあるが、eページとノートX・196 とはほぼ同時
並行的に執筆されたものと推定できよう。
 ところで、ここで大事なことは、f−gページについては、a−eページ
よりもあとで作成されたという以外は何も言えない、ということである。f
−hページがa−eページよりもあとであるということは、f−hページの
ページ付けが鉛筆で「124」という数字とf、g、h というアルファベット
とが同時に書きこまれており、それはa−eページ に「124」という数字が
書き加えられたあとにちがいないからである。つまり、 a−eページとfー
hページの間には、時間的隔たりがあることはまちがいないと考えなければ
ならない。したがって、たとえば eページとノートX・196との同時並行性
が言えたとしても、だからといって f−hページ までもが ノートX・196
ー33ー

と同時並行的に書かれたということにはならないし、ましてやa−hページ
全体がノートX・190ー196と同時並行的に書かれたなどという推定は強引・
粗雑な「考証」としかいいようがない。
 したがって、大村・吉田両氏の推定Cは、a−hページの成立事情を無視
したうえでの乱暴な推定であると言わなければならない。だが、この問題は
機械論草稿の執筆時期を推定するうえで決定的に重要な情報を与えていると
思われるので、あとで詳しく分析したいと考える。
 大村・吉田両氏の推定Aについても同じようなことが言える。両氏は次の
ように言われる。すなわち、『工場監督官報告書。1861年10月31日にいたる
半年間』(ロンドン、1862年)の26、27ページ「部分は Heft]\(=1863年
1月起筆)、1233ー4ページにおいても、・・・・・・ Heft V、124d[、e――松
尾]ページと同一のテーマのもとに利用されている。このことは、Heft V、
124d ページ前後と Heft]\とがほぼ同時期、連続的に作成されたことを示
唆する」20)、と。草稿のA個所とB個所において、同一文献の同一個所が同
じテーマのもとに利用されているからといって、どうして、直ちに、A個所
とB個所とは「同時期、連続的に作成された」と言えるのか。この場合こそ、
むしろ「常識的には」、草稿の場所が離れているからこそ、同じ引用個所が
同じテーマのもとに引用されてしまったのではないかという推定が導きださ
れるべきではなかろうか。
 ノートX・196とノートV・124e とが同時期並行的に書かれたことは確実
であり、また、大野氏が推定するように、ノート][・1142ー1144とノートV
・124f−gとが同時期に連続して書かれたこともほぼ確かである。しかも、
大村・吉田両氏は、後者の推定についてどのように考えているのか不明であ
るが、前者の推定を「事実」として認めている――すなわち、「『機械論草
稿』の冒頭、HeftX、190〜196ページと HeftV、124a−hページとが同時
並行的に作成されたという事実を否定することはできない」21)と述べている。
とすれば、大村・吉田両氏によるノートV・124d 前後とノート]\・1233-

20)同上、44ページ。
21)同上、45ページ。

ー34ー

1234 とがほぼ同時期、 連続的に作成された 」という推定Aと、ノートX・
196とノート V・124eページが同時並行的に作成されたという事実とは矛盾
するように思われる。ノート V・124d―→ノート V・124eという執筆順序
は当然認められなければならない。他方、ノートX―→ノート]\という執筆
順序もまた機械論草稿連続執筆説を採るにしても認められなければならない。
そこで、もし推定Aが正しいものとすれば、後者の執筆順序(ノートX―→
ノート]\)を否定しなければならないということになる。さらに、大野氏の
推定A(ノート][・1142-1144とノートV・124f−gとが同時並行的に作
成されたという推定)が正しいとすれば、ノート]\・1233-1234―→ノート
X・196―→ノート][・1142-1144というとてもありえない執筆順序が、(推
定Aを正しいものとし、 ノートV の124d―→124e―→124f−g という執
筆順序を前提とするかぎり)、成立することになり、推定Aはますます矛盾
を犯すことになる。したがって、筆者は推定Aが誤っていると考える。
 かくて、大村・吉田両氏の推定ABC が成立しないことが明らかである。
したがって、たとえ推定@ が成立したとしても、 大村・吉田両氏の推定D
――すなわちノートX・176ー189 とノートX・190以下とが「同時期、連続
的に書かれた」のではなく、前者は1862年3月 に作成され、 後者は1863年1
月起筆の「Heft]\とほぼ同時期、連続的に作成され」たのであるという推
定――はけっして成立しえないと言えよう。
 ところで、さきにわれわれは、大村・吉田両氏の、「『機械論草稿』の冒頭、
Heft X、190〜196ページと Heft V、124a−hページとが同時期並行的に
作成されたという事実は否定することはできない」21)という主張にかかわる
問題点を指摘したが、 上述するところからもわかるように、 同じ問題点は
大野氏にも見ることができるように思われる。大野氏の推定はこうである。す
なわち、「諸文献からの引用にさいし、マルクスはノート・][、1142〜1144
ページにおいて その出典表記に略記および指示語をもちいているのであり、
これは以前に引用・利用したことをしめしている。・・・・/・・・・/・・・・ノート
・][とノート・V[124f〜g― 松尾]とに引用文献にかんしていちじる
ー35ー

しい相関がみられる。・・・・[@同一文献である。AノートVでは著者名・フ
ルタイトルに近い出典表記があるのに、ノート][では略記・指示語で表記。
Bマルクスの蔵書2点が草稿のこれら2個所でのみ引用されている。Cバビ
ジの書以外は諸文献が同一の引用順である。――松尾]/・・・・・ノートV、124
f〜gページとノート・][、1142〜1144ページとは、どんなにはなれている
ようにみえようとも、あいついで書かれたものであろう。・・・・/・・・・執筆時
期は、ノート・][のこの部分が執筆された1862年の12月以外ではなりえな
い。/・・・・・[この――松尾]結論は、不可避的につぎの状況をうかびあがら
せる。/まず、ノート・][、1139、1140ページの・・・プランの記述のあとに、
いったんその執筆が中断された。そして、 この中断期にノート・V、124a
〜hページの補遺およびノート・][、1140〜1144ページの補遺群が書かれ
た」22)。
 ここで大野氏は、ノートV・124f−gとノート][・1142-1144との引用
文献におけるいちじるしい相関を分析されて、両個所は、「どんなにはなれ
ているようにみえようとも、あいついで書かれたものであろう」と推定され
ているが、しかし、この推定がどんなに正しいものであったとしても、それ
は、ノートV・124a−h全体とノート][・1140-1144の両部分は「同一の
時期に執筆された」、ということの根拠にはならないのであろう。ノートV・
124f−gについての分析結果をもって、ノートV・124a−h全体を論じる
ことは、ノート V・124a−hの作成過程を少しでも顧慮すればできないは
ずである。ノートV・124f−gとノート][・1142-1144とが同時期に書か
れ、しかも、ノートV・124eとノートX・196とが同時に書かれたとしても、
これらすべて(とりわけノート][とノートX)が同時期に書かれたというこ
とには直ちにならないのである。というのは、すでに述べたように、ノート
V・124f−gはノートV・124a−eのよりも「あと」に書かれたことが明
らかであるからである。このように、ノートV・124f−gがノートV・124
a−e よりもあとになって執筆されたということの意味を十分考慮すれば、

22)大野論文A(上)、217-219ページ。

ー36ー

むしろ次のような推定――すなわちノートX・190以下少なくともX・196ま
での部分がノート V・124a−eとほぼ同時期に書かれたのち機械論草稿の
執筆が中断され、ノート][に至ってその1142-1144ページと同時期、連続的
にノート V・124f−gが書かれたというような推定――が成り立つのでは
なかろうか。大野氏の推定に従うとしても、ノートV・124f−gと同時並行的
に書かれたノートX・196が、ノートV・124f−gと同時並行的に書かれた
ノート][・1142-1144よりも先に書かれたということになる。ところが、こ
れは、大野氏の次の推定と矛盾する。「『5 諸学説』の最終局面で、マルク
スは、[T][ノートX・176〜189――松尾]、[V][ノートU・89〜93――
松尾]およびノート・][、1140〜1144ページの諸補遺を書き、また、ノート
・][、1144〜1157ページを終了するとともに、・・・・・・ノート・X、190ページ
にはじまる『γ 機械』の執筆にすすめている」23)。つまり、ここでは大野氏
は、ノート][・1142-1144(1862年12月)―→ノートX・190以下(1862年
12月以後)という執筆順序を推定している訳である。しかし、われわれの上
述は考証結果と大野氏の考証を組み合わせると、機械論草稿の前半部分―→
ノート][・1142-1144という執筆順序にならざるをえない。時間的な隔たり
の大きさの問題をいまおき、ノート V・124a−hの分析から見れば、そし
て、大野氏のノートV・124f−gとノート][・1142-1144の関係分析から
見ても、この執筆順序は認められねばならない訳である。
 大野氏は、ノートV・124f−gがノート][・1142-1144と同時期に執筆
されたということを、いつのまにかノート V・124a−h全体がノート][
・1142ー1144 と同時期(1862年12月)に執筆されたという推定にすりかえ、
それを根拠にして、ノート V・124d−eと深い関係があると考えるノート
X・188も、ノート V・124eとほぼ同時並行的に書かれたノートX・196も、
ノート][・1142-1144と同時期に書かれたと推定するが、しかし、その推定
はその出発点において重大な事実――ノートV・124a−eとノートV・124
f−hとの間には時間的な隔たりがあるらしいという問題――を看過してい

23)同上、225ページ。

ー37ー

る。この問題を clear しないかぎり、 大野氏の所説が成立したとは言えな
いのである。
 以上、われわれは、大野氏の機械論草稿連続執筆説の5つの根拠を検討し
てきたが、結局、それらは、どれ一つとして決定的な根拠ではありえないと
いうことを強く指摘せざるをえない。

W.自説=機械論草稿執筆中断説の根拠
 ノート V・124a−hの成立過程を分析して見ると、a−eページがf−
hページに先行して作成されたということをほとんど確信することができる
し、また、ノートV・124eがノートX・196と同時並行的に執筆されたとい
うこともまた確かである。また、ノートV・124f−gがノート][・1142-
1144とほぼ同時期に執筆されたという大野氏の推定もまたほぼ確かなようで
ある。とすれば次のような執筆順序がうかびあがってくる。ノートV・124e
と同時並行的に書かれたノートX・196は、ノートV・124f−gととがほぼ
同時期に執筆されたノート][・1142-1144に先行して執筆されたことになる。
 この関係をふまえて機械論草稿の執筆順序を考えると、次のように推定す
ることができるように思われる。すなわち、ノート V・124a−e部分の執
筆および機械論草稿の前半部分(ノートX・190以下少なくとも196までの部
分)の執筆―→[「諸学説」その他の執筆]―→ノート][・1142-1144部分
を含むノート][ 全体および[大野氏の推定を認めるとすれば]ノートV・
124f−g(あるいはh)部分の執筆。
 そこで、以下、このような執筆順序の推定(=機械論草稿執筆中断説)を
成立せしめるヨリ積極的な根拠を提示することにしよう。
 (1)まず 指摘されるべきは、 機械論草稿前半部分に出現する指示文言
「第3章」についてである。筆者の見るところ、それは、ノート][・1140の
「第1篇 資本の生産過程」に関する編別構成プラン中の「第3章 絶対的
剰余価値」のことではなく、むしろいわゆる1859年プランの色合いを濃厚に
残した編成項目としての「第3章 資本と利潤」、あるいは、機械論草稿前

ー38ー

半部分の直前に執筆されたと推定されるノート]Y所載の「第3章 資本利
潤」のことであろうと思われる。その理由を以下述べることにしよう。
 いま 問題の 指示文言「第3章 」とは次のようなものである。すなわち、
「なぜ、機械の採用につれて、いたるところで、他人の労働時間の吸収にた
いする渇望が増大するのか、また、なぜ、労働日が・・・・・・短縮される代わりに、
逆にそれの自然的限界を越えて延長させるのか、したがって相対的剰余労働
時間だけでなく、総労働時間も延長されるのか――この現象は、第3章で考
察される」(MEGA、292;C512-513)。「一般に経験からわかるように、
機械が資本主義的生産に充用されるようになれば・・・・・、機械が資本の一形態
として労働者にたいして自立化されるようになれば、絶対的労働時間――総
労働日――は短縮されないで、延長される。このケースについての考察は第
3章に属する」(MEGA、303;C529)。
 これらの 指示文言「第3章 」について吉田氏は 次のように解釈される。
「ここで第3章というのは、・・・『1862年12月〜1863年1月のプラン』の第3
章『絶対的剰余価値』中の『d.標準労働日のための闘争』をさしている」24)
また、大村氏の解釈はこうである。「[MEGA]編集部は、これをノート]
Y記載の『第3章』『資本と利潤』をさすものとして理解しているが、筆者
は、むしろ、ノート][、1140ページに記載された『第1篇、資本の生産過
程』のプラン草案における、『3.絶対的剰余価値。・・・・(d)標準労働日
をめぐる闘争・・・・』を念頭において記されていると理解したい。なんとなれ
ば、筆者の場合には、ノートX、190ページにはじまる『γ 機械。・・・』が、
ノート]\以降のそれと同様、1863年1月に作成されたものと推定している以
上、かかる『第3章』は、1861年12月〜1862年1月 に作成されたことが確実
な草稿同章よりも、むしろ、1862年12月〜1863年1月 に作成と推定すること
が可能な、そうしたプラン草案と対応させて理解する方がはるかに合理的だ
からである」25)

24)吉田論文B、192ページ。
25)大村泉「生産価格と『資本論』第3部の基本理論(完)」『経済』229号、1983年
5月、323ページ。

ー39ー

 見られるように、連続執筆説に立つ大村・吉田両氏によれば、ノートX・
190および199の「第3章」指示はノート][・1140のプラン中の「第3章 絶
対的剰余価値」を「念頭 」においたものであるということである。しかし、
もしそうであるとすれば、次のような不都合・疑問が生じてくる。すなわち、
なぜ、ノート][・1140プランの直後に書かれた機械論草稿のタイトルが、ノ
ート][のプランに従って上位項目が「3)相対的剰余価値」から「4)相対
的剰余価値」へと変更されていないのか、また同プランに従って下位項目が
「(c)機械。等々」とはなっておらずに、いわゆる1859年プランに見られ
る「γ 機械。等々」となっているのであろうか。また、ノート][よりもあ
とに書かれたことが明らかであるノート]\およびノート]]の[表紙第二面]
MEGA、1891)に、なぜ、「4)相対的剰余価値」「(c)機械。等々
というノート][のプランにおけるタイトルではなくて、「3)相対的剰余価
値」「γ)機械。等々」というタイトルが書き込まれているのであろうか。 さ
らにまた、ノート][・1140のプランでは「剰余価値の資本への再転化。本源
的蓄積。ウェーイクフィールドの植民理論」が「第6章」とされているのに、
なぜ、ノート]]Uの[表紙第二面(MEGA、1891)には「4) α)剰余価値
の資本への再転化。/ β) いわゆる本源的蓄積。/γ) 植民理論」、 ノート]]U
の本文(MEGA、2214)には「4)剰余価値の資本への再転化」等々となっ
ているのであろうか。さらに、ノート]]・1255で「このことは、資本主義的
生産の特徴から諸結果を導き出す 次の δ) において総括すべきではないか、
それは問題だ」(MEGA、2045;訳、237)という指示文言が存在し、それは
内容的にはおそらくノート][のプランの「7 生産過程の結果」(あるいは
「6 剰余価値の資本への再転化。・・・・・・」)のことであると思われるにもか
かわらず、なぜ、「γ)機械。等々」を執筆中に「第7章」あるいは 「7 生
産過程の結果」と指示されずに、意味不明の「次の δ)」と指示されている
のであろうか。これらすべてを説明するためには、ノートX・211以下でも、
ノートXIXでも、 ノートXXでも、 さらにノートXXIIでも草稿執筆中にマルクスが
自分の叙述プランの或る個所を指示する場合、ノート][・1139、1140の新し
ー40ー

いプランにまだ厳密に従ってはいなかった、あるいは、同プランをそれほど
「念頭」においていなかったと考えざるをえないのである。とすれば、ノー
トX・190および199の「第3章」指示も、大村・吉田両氏の言うようにノー
トVの同所がたとえノート][のプランのあとで執筆されたものであるとして
も、ノート][のプランを「念頭」においたものではなく、(また、後述する
ように、大野氏のいわれる1862年3月以降のプラン=「3 相対的剰余価値 
4 資本の蓄積 5 剰余価値に関する諸学説」を念頭においたものでもな
く)、むしろいわゆる1859年プラン(そこでは「3)相対的剰余価値」「γ)
機械。・・・・・・」となっている)の色合いを多少とも残した篇別構成を事実上
「念頭」において行なったものと考えなければならないであろう。
 マルクスは、機械論草稿執筆中は、「4 相対的剰余価値」の下位項目と
しての「c)機械。等々」ではなく「3 相対的剰余価値」の下位項目とし
ての「α)機械。等々」を書いているという自覚をもっていたと推定される。
というのは、ノートV・125には「3 相対的剰余価値」というタイトルが見
られ、ノート]\およびノート]]の[表紙第二面]には「3) 相対的剰余価値」と
いうタイトルが見られることから判断すると、どうしても、これらのノート
を執筆中にマルクスの頭のなかでは「4 相対的剰余価値」ではなく「3 相対
的剰余価値」を執筆中であるという意識が存在していたと考えざるをえない
であろう。とすれば、なぜ、マルクスは、「3 相対的剰余価値」を執筆中
、わざわざ突然ノート][のプランに従って「3)絶対的剰余価値」を、あ
るいはまた、大野氏のいわゆる1862年3月以降のプラン( =「3 相対的剰
余価値/4 資本の蓄積/5 剰余価値に関する諸学説」)に従って、「3)
相対的剰余価値」を指示しなければならないのか、まったく不明と言わざる
をえないのである。この疑問に答えるためには、この「第3章」とは「第3
章 資本と利潤」のことであると理解せざるをえないのである。【なお、大
野氏の場合にも「第3章」とは「第3章 資本と利潤」のことであると理解
しうる可能性があるが、あとで述べるように、ノート][・1139の「第3編資
本と利潤」プラン作成以降に機械論草稿が執筆されたと大野氏は推定される
ー41ー

訳であるが、その頃には もはやマルクスが「資本と利潤 」に関する議論を
「第3章」として指示することはありえないと考えられる。したがって、大
野氏の場合には、「3 相対的剰余価値」執筆中にマルクスが「第3章 相
対的剰余価値」を参照指示したということになり、大村・吉田説以上に奇妙
なことになる。】
 かくて、ノートX・190および199における指示文言=「第3章」はノート
][のプランにおける「第3章 絶対的剰余価値」のことではなく、ましてや
「第3章 相対的剰余価値」のことでもなくて、「第3章 資本と利潤」の
ことであるということが明らかになった訳であるが、このことは、以下に指
摘する事情を考慮に入れた場合、機械論草稿の前半部分の執筆時期が少なく
とも「諸学説」以後ではないということを意味しているように思われる。そ
の事情とは、「諸学説」以後、マルクスは「資本と利潤」論が属する個所を
「第3章 資本と利潤」と言い表わすことがけっしてないということである。
 「諸学説」執筆中および「諸学説」執筆以前マルクスは「資本と利潤」に
関する議論を指示する場合、それが「第3章 」あるいは「第3篇 」である
ことをほとんどの場合明記している。
 たとえば、ノートY・220 では、「すべての経済学者が共通にもっている
欠陥は、彼らが剰余価値が純粋に剰余価値そのものとしてではなく、利潤お
よび地代という特殊な諸形態において考察している、ということである。こ
のことからどんな必然的な理論上の誤りが生ぜざるをえなかったかは、第3
章で、 剰余価値が利潤としてとる非常に変化した形態を分析するところで、
さらに明らかになるであろう」(MEGA、333;D5)。 ノートY・271では、
「ラムジがここで利潤率について言っていることは、利潤に関する第3章で
考察すべきことである」(MEGA、396 ; D106)。ノート [・340-341
では、「利潤率は、剰余価値の特殊な形態によって どのように変化するか、
ということ。その特殊な形態とは、標準労働日を越える労働時間の延長のこ
とである。・・・・・・だが、われわれはこの点は第3章に譲ることにしよう。ここ
で説明したことの最大の部分は一般にその第3章に属する」(MEGA、496;
ー42ー

D267)。ノート\・398では、「ローダデイルによる利潤の弁護論的な根拠
づけは、あとになってから検討すればよい。第3篇で。」(MEGA、585D
410)。ノート]・461では、「ここでわれわれは明らかに、われわれがすで
に二度にわたってとりあげた問題・・・・に立ち帰っている。この問題の頻繁な
繰り返しは、その事柄になお難点があることを示している。[それは]本来
は利潤に関する第3章に属するものである」(MEGA、704;E57)。ノー
ト]T・526では、「リカードウを批判するにあたっては、彼自身が区別して
いなかったものを区別しなければならない。 [第1に]彼の剰余価値の理論
・・・・・・。・・・・・・第2に、彼の利潤の理論。・・・これは、この章にではなく、第3
篇への歴史的付録に属するものであるが。」(MEGA、820;E240)。ノー
ト]V・716では、「資本――直接的生産過程――を取り扱う第1篇では、恐
慌の新しい要素は少しもつけ加わらない。・・・生産過程そのものにおいては、
再生産された価値の実現だけでなく剰余価値の現実も問題にならない・・・・・。
/その事柄は、それ自体同時に再生産過程であるところの流通過程において
はじめて現われる。/・・・・ しかし・・・再生産過程と、この再生産過程のなか
でさらに発展した恐慌の基礎とは、この項目そのもののもとでは、ただ、不
完全にしか説明されないのであって、『資本と利潤』の章でその補足を必要
とする」26)(MEGA、1134;E719)。ノート][・1109では、「『資本と利潤』
に関する第3部分のうち、 一般的利潤率の形成が取り扱われる第2章では、
次の諸点を考察すべきである」(MEGA、1816;G460)。ノート][・1139
では、「第3篇『資本と利潤』は次のように分けること」(MEGA、1861;
G541)。
 これに対して、「諸学説」以後に執筆されたことが確かなノート X・211

26)「第3章 」という文言が 存在しない にもかかわらず、 ここに引用したのは、
次のような理由による。 すなわち、 まず 「資本――直接的生産過程――を取り
扱う第1篇」という表現が存在し、それに続くものとして「それ自身同時に再生
産過程であるところの流通過程」という篇が存在するとされている。したがって、
これは第2篇である。この第2篇に続き、それを「補足」するものとして最後に
「『資本と利潤』の章」が存在するとされている。したがって、それは言葉とし
て明言されていないけれども、事実上第3章あるいは第3篇「資本と利潤」の存
在を示していると言えよう。

ー43ー

ページ以下の部分およびノート]\以後、マルクスは、なぜつねに「資本と
利潤」に関する議論を指示する場合、それが「第3章」あるいは「第3編」
であることを表記しないのである。たとえば、ノートX・216では、「機械そ
のものの再生産時間は、その活動的使役が延長されてもそれと同じ割合で短
くはならない。しかし、その価値の再生産時間のほうはといえば、[それは
同じ割合で短くなる]。/ [その結果]、 一定の流通期間内の利潤はそれだけ
大きくなる。・・・・/その結果、総じて[資本の]可変部分にたいする不変部
分の割合が下がる。・・・・それゆえ、最後に述べたこれらの考察はすべて利潤
論に属する」(MEGA、1904;訳、18ページ)。ノート]]T・1235では、「単純
協業と分業によって労働の生産力が高められる場合には、次のことが明らか
である。第1に、不変資本は商品に比例しては増えないこと。第2に、生き
た労働の生産性が高まることに起因するここの生産物の価値量の減少は別に
しても、商品は、不変資本の節約によっても安くなるということ・・・・。われ
われはこの事情を、資本と利潤に関する篇ではじめてより詳細に考察する」
(MEGA、2013;訳、187)。ノート]\・1236では、「資本と利潤に関する篇で扱われ
る問題は、剰余価値・・・・の増大の問題でも、商品にはいってゆく過去の労働
と生きた労働との合計の減少の問題でもない。そこで扱われる問題は、資本
主義的生産様式のなかで労働が受けとるその社会的形態によってはじめて可
能になる不変資本の節約・・・・が、剰余価値の前貸総資本の価値にたいする割
合に、とくに充用される生きた労働と過去の労働との量的割合に、どう影響
するかという問題である」(MEGA、2015;訳、191-192)。
 以上から分ることは、 1861ー63年草稿の前半期では、 マルクスは「資本
と利潤」に関する議論は「第3章」に属する、あるいは、「第3篇」に属す
ると指示している、しかし、「諸学説」以後、すなわちノートXの少なくと
も211以下およびノート]\以下では、もはや「資本と利潤」に関する議論は
「第3章」・「第3篇」に属するという指示はまったく行なわれなくなり、単
に「資本と利潤に関する篇」・「資本と利潤の篇」・「利潤論」という指示が行な
われるだけになる、ということである。
ー44ー

 このような変化が1861ー63年草稿に認められる以上、次のような推論が可
能になろう。すなわち、ノートX・190および199に「資本と利潤」論を指示
する「第3章」という文言が存在する以上、ノートX・190ー199前後は1861
ー63年草稿の前半期に――以下の事情から考えておそらく「諸学説」よりも
前に――執筆されたものと見為すことができる、と27)

27)この「第3章」という指示文言について、本稿とほぼ同じ理解が原伸子氏によっ
てすでに表明されている。 すなわち「筆者は、この『第3章』を、MEGA. U
/ 3 の編集部と同様に、『第3章 資本と利潤 』を指すものであると理解する。
その第1の理由は、マルクスが、『1861ー63年草稿 』の全体を通して、機械の導
入が労働日の延長をもたらすということを、利潤論との関わりで、 すなわち利潤
率減少を阻止する手段として重視していたからである。このことに関する叙述は、
草稿の随所に見られる」(原「『資本論』草稿としての「1861-63年草稿」につい
て(1)――最近の作成時期をめぐる論争について――」『経済志林』第51巻第4
号、1984年3月、151-152ページ)。「第2の理由は、 以下のとおりである。すな
わち1863年1月のプラン作成後、 相対的剰余価値は、 『3 相対的剰余価値』と
して執筆され始めたのであるから、 大村氏の言われるようにこの『3 相対的剰
余価値』のなかで『第3章』として、 『3. 絶対的剰余価値』を指示するという
こと自体不可解なのである」(同上、153ページ)。「さらに重要であるのは、マ
ルクスが、この『V 資本と利潤 』という論題を取り扱う部分を『第3章』とよ
ぶのは、厳密に、1863年1月 より前の時期に限定されている、という事実である。
すなわち、・・・・・・マルクスは1863年1月に、いわゆる『「資本論」第3部または第
3篇のプラン』を作成した後、『資本と利潤 』を取り扱う部分を『第3章』とよ
ぶことをやめ、それにかわって、『第3部』あるいは『第3篇 』という指示を用
いるようになったのである」(同上、163ページ)。「1863年1月の『「資本論」第
3部または 第3篇のプラン 』が作成された後、 マルクスは、『資本と利潤』を
取り扱う部分を『第3章』とよぶことはなかったのである」(同上、167ページ)。
 以上の原氏の主張のうち、 機械論草稿前半部文中の「第3章」とは「第3章 
資本と利潤」のことであるという点、および、 マルクスが「資本と利潤」という
論題を取り扱う部分を「第3章」とよぶのは 1863年1月 より前の時期に限定され
ているという点、については筆者の理解する所とほぼ同じである。
 しかし、「1863年1月 のプラン作成後、 相対的剰余価値は、『3 相対的剰余
価値』として執筆され始めた 」という表現は少しばかり修正を加えたほうがよさ
そうである。すなわち、「1863年1月 のプラン作成後[ においても ]、 相対的剰
余価値は、[作成されたばかりのプランに従わずに] 『3 相対的剰余価値』とし
て執筆され始めた」、と。また、「1863年1月に、 いわゆる『「資本論」 第3部
または第3篇のプラン』を作成した後は、『資本と利潤』を取り扱う部分を 『第
3章』とよぶことをやめ、それにかわって、『第3部』あるいは 『第3篇』とい
う指示を用いるようになったのである 」という表現は、 筆者の知るかぎりでは、
そしてまた、原氏自身の調査( 同上、167ページを参照せよ)によっても、 事実
に反するのではなかろうか。ノート][のプラン作成以後は、「『資本と利潤』を取
り扱う部分を『第3章』とよぶことをやめ、・・・『第3部』あるいは『第3篇』と→

ー45ー

 (2)機械論草稿執筆中断説を支持するもう一つの証拠を提示しておこう。
それは、「労働能力の生産費」という用語問題である。
 マルクスは、1861ー63年草稿のなかで「労働能力の生産費」という用語を
しばしば使用しているが、それらはほとんどすべて1861ー63年草稿の前半期
に属している。 すなわち、 たとえば、ノートT・21では「労働能力の生産
費」(MEGA、38;C62)。ノートV・100でも「労働能力そのものの生産費」
MEGA、160;C283)。ノートV・170でも「労働能力の生産費」(ME
GA、171;C303)。ノートW・165でも「労働能力の一般的生産費」(ME
GA、262;C461)。ノートZ・310でも「労働能力の生産費または再生産費」
・「労働能力の生産費」(MEGA、453;D193)。ノートZ末尾〜ノート[
における「賃金の生産費」・「労働の生産費」・「労働者の生産費」などの用語
の頻出。 他方、 ノート]Y ・ 997でも「労働の生産費」 (MEGA、 1654;G
178)。 ノート]Y・1015でも 「労働能力の生産費」(MEGA、1666;G198)。
ノート]Y・1020でも「労働能力の生産費」(MEGA、1672;G206)。
 これらに対して、管見のかぎりでは、1861ー63年草稿後半期では「労働能
力の生産費」という用語は例外的にノート]]T・1328(MEGA、2179)にの
み存在するのみである。
 ところで、機械論草稿の前半部分ではどうかというと、そこには計3箇所
にわたって「労働能力の生産費」という用語が見られる。すなわち、ノート
X・191の2箇所に「労働能力の生産費」(MEGA、294;C516)。ノートX
・198に「労働能力一般の生産費」(MEGA、301;C527)。因に、この「労
働能力の生産費」という用語に類似した用語は、1857-58年草稿28)でもマル
クスによって使用されていたものである。たとえば、ノートU・26(MEGA
U1/1、207;資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス資本論草稿集』、大月書

→ いう指示を用いる」こともなくなった、とすべきではなかろうか。要するに、
1863年1月のプラン作成にもかかわらず、その後もそのプランにはかならずしも
従わず、執筆を進めていったということであろう。
28)Karl Marx, Ökonomische Manuskripte 1857/58,in : Karl Marx / Friedrich
Engels Gesamtausgabe, Abt. U, Bd. 1, Teil 1, Teil 2, 1976, 1981, Dietz
Verlag.

ー46ー

店、1981年、@341)およびノートV・14(MEGA、U1/1、226; 同@370)
には「労働の生産費」という表現が見られ、ノートV・42では 「労働能力に
含まれている生産費」(MEGA、U1/1、276; 同@463)という表現が見ら
れる。
 このように1861ー63年草稿後半期において「労働能力の生産費」という用語
が消滅したのは何故かというと、 「生産費」という用語それ自体がこの時期
に (とりわけノート]X・929[MEGA、1512;F499]以下になると)ほと
んど使用されなくなったからであろうと思われる。 草稿後半期における例外
的な使用例は、 筆者の調べたかぎりでは次のようなものがあるだけである。
すなわち、ノート]Z・1035では、 「生産資本のところでこうしたことを直接
に見たとおり、この費用は、前貸資本、 生産費として、商品の価格のなかに
はいって行くのである」(MEGA、1694;G238)。 ノート]Z・1065aでは
「事柄を簡単化するために、 われわれは、この第2の11ポンドを諸費用(流
通費および生産費) とその資本の生産的部分にたいする利潤とを含む価格追
加分であると仮定しよう。 ・・・一部は流通費として、一部は生産費・・・・とし
て追加するのである」(MEGA、1745;G326)。 ノート]\・1184では、「機
械によって[得られる節約の]一つは、 ―― とくに既存の機械が改良されて
新しいものに取り替えられる場合は―― [作業]空間の節約、それにもとづ
く生産費 the cost of production の縮減である 」(MEGA、1947;訳、
87ページ)。ノート]]・1253-54では、 「回転の加速はすべて、個々の資本家
に資本支出を減らしつつ 同じ分量の労働を搾取することを可能にする・・・・・
のであって、それは、搾取の生産費を減らし、 資本をさばく彼の能力を高め
るのである」(MEGA、2043;訳、233-234)。 そして最後に、前掲のノート
]]T・1328(MEGA、2179)における「労働能力の生産費」という使用例。 以
上のようにノートXV 後半以下にもたしかに僅かな使用例がある (が、しかし、
それらは、 ノート]]T・1328の「労働能力の生産費」という使用例以外は、
「生産費」=c+v という意味のみをもつ使用例である)。 しかも、ノート][
以降にはわずか3例である。 これらに対して、それ以前には、とりわけノー
ー47ー

ト]T・ 529〜ノート]U冒頭での生産価格概念を表わす用語の「平均価格」か
ら「費用価格」への移行期 ( すなわち「生産費」概念の展開 )以前には、
「生産費」 という用語はほとんど無数に登場するといっても過言ではないで
あろう。因に、1857ー58年草稿でも、「生産費」という用語は頻出する(引
用は省略する)。
 以上のような「労働能力の生産費」という用語および「生産費 」という用
語の使用状況から判断すると、明らかに「労働能力の生産費 」なる用語が連
続して3個所に渡って登場する機械論草稿の前半部分 (少なくともノートX
・190ー198部分)は1861-63年草稿の前半期に、おそらくノート]T〜ノート]U
部分以前に執筆されたものであると確信することができるのである。
 (3)機械論草稿前半期の執筆時期を 考える場合、さらに、 ノートX・
188-202、 ノートV・124a〜eおよびノート]Y・]Zの間に認められる以下の
ような事情あるいは対応関係(@〜D、F〜G) に注目する必要があるよう
に思われる。
 @まず、すでに述べたところから、 ノートX・196とノートV・124eとが
同時並行的に書かれたことはほぼ確実である。
 A [ジョン・バーナド・バイルズ] 著『自由貿易の詭弁と通俗経済学の検
討』、第7版、ロンドン、1850年は、1861ー63年草稿では、ノートV・124c
とノートX・190 の2個所だけに引用されている。ここから直ちにこれらが
同時期に書かれたと結論づけられる訳ではないにしても、 両者の間に或る時
間的対応関係が存在するのではないかと考えることができよう。
 Bジョン・フィールデン著『工場制度の呪咀、または、 工場の残酷さの起
源の略述』、ロンドン、1836年は、1861ー63年草稿では、ノートV・124e、
ノートX・199、ノートX・202にだけ引用されている。 ここから直ちにこれ
らが同時期に書かれたという結論が導き出せる訳ではないにしても、 ノート
V・124eとノートX・199、202 との間に或る時間的対応関係が存在するの
ではないかと考えることができよう。
 Cアントニ・アシュリ著『10時間工場法案、 1844年3月15日金曜日、下院
ー48ー

での演説』、ロンドン、1844年は、1861ー63年草稿では、ノートV・124e、
ノートX・196、ノートX・199、ノートX・202ー203にだけ引用されている。
ここから直ちにこれらが同時期に書かれたという結論が導き出せる訳ではな
いが、しかし、ノートV・124eとノートX・196、199、202ー203との間にな
んらかの時間的対応関係が存在するかもしれないと推定してもかまわないで
あろう。
 DノートV・124eとノートX・199、 202には、アシュリの著書とフィー
ルデンの著書の両方が同時に引用されている。 両者の間になんらかの時間的
対応関係が存在する可能性が大きいと言えよう。
 E以上に対して、サン・ジェルマン・ルデュック著 『サー・リチャド・ア
ークライト。大ブリテンの綿工業の誕生(1760-1792年)』、パリ、 1841年は、
1861-63年草稿では、ノートV・124fとノート][・1142にだけ引用されてお
り、また、 ヘンリ・グレイ・マクナブ著『ロバト・オウエン氏の新見解なら
びにスコットランドのニュー- ラナークにおける彼の施設についての公正な
検討』[フランス語版 ]、 英文からラフォン・ド・ラデバ訳、パリ、1821年
は、ノートV・124f−gとノート][・1143にだけ引用されており、 しかも
それらの引用の仕方から判断して、 つまり大野氏の指摘する諸事情から判断
して、ノートV・124f−gとノート][・1142ー1143は同時期、連続的に書か
れたものと考えてまちがいないであろう。
 F『工場監督官報告書。 1861年10月31日にいたる半年間』、ロンドン、1862
年は、1861ー63年草稿では、ノートV・124d−e、ノートX・188、ノート
X\・1233ー1234にだけ引用されている。推定Eが妥当なものであるとすると、
ノートV・124f−gより先のノート V・124d−eが、ノート][・1142-
1143より後のノート]\・1233ー1234と同時並行的に書かれた(大村・吉田両
氏はそのように推定する)とは思われない。 とすれば、『報告書』の引用の
仕方から考えると、ノートV・124d〜eとノートX・188との間にある程度
の関連があると考えることができよう。 それらが同時的に書かれたとは断定
できないにしても、 両者の間にはなんらかの時間的対応関係が存在する可能
ー49ー

性があると言えよう。(機械論草稿の執筆時期をめぐる論争状況を踏まえて、
少し控えめに)、この推定Fが成立する可能性を、いまのところ、推定@〜
Eよりも小さいものとしておこう。
 以上@〜Dを総合的に判断すると、ノートV・124c−eとノートX・190-
202(推定Fをも加味するとノートX・188-202)とが同時期に書かれたとい
う状況、そしてまたEから判断して大野氏の言われるようにノート V・124
f−gとノート][・1142-1144とが同時期に書かれたという状況が浮かびあ
がってくる。
 GノートU、ノートV、ノートW は「同じ種類の紙 」が使用されており
MEGA、Abt. U, Bd. 3, Apparat・Teil 1, S. 23, 24; 草稿集C63*,
65*)、ほぼ連続的に書き進められたことを推測させる。他方、ノート]Y、]Z
は「ノートXと同じ種類の紙」が使用されているが(MEGA、Abt.U,Bd.
3, Apparat, S. 2415, 2416; 草稿集G57*, 58*)、それは、ノートX冒頭
がノートXVI,XVIIと同時期に書きはじめられたことの証拠でもある。このこと
は、ノートX・176 以下が「諸学説」以後に書かれたとする大野氏において
さえ認められるであろう。言い換えれば、すべての論者が認める執筆時期の
推定から考えて、ノートX冒頭とノート]Y、]Zとは同時期に執筆された訳で
あるから「同じ種類の紙」を使用していても少しもかまわないのである。
 ところが、MEGA編集部の報告によると、ノートV・124a−eとノート
Xも「同じ種類の紙が用いられている」ということである。われわれの推定
@〜DFから総合的に判断すると、ノートV・124c−eとノートX・188ー
202 とが同時期に 書かれたという状況が 浮びあがってくる訳 であるから、
ノートV・124a−eとノートX とが「同じ種類の紙」を使用していても少
しも不自然ではないと言えよう。
 ノートXとノート]Y、]Zとが「同じ種類の紙」であり、また、ノートXと
ノートV・124a−eとが「同じ種類の紙」であるとすれば、 当然のことと
して、ノートV・124a−eとノート]Y、]Zも「同じ種類の紙」である。と
ころで、もし大村・吉田両氏や大野氏のようにノート V・124a−eとノー
ー50ー

トXVI、XVIIとは同時期に執筆されたものではけっしてないという立場に立つと
すれば、ここに、ノートV・124a−eは、なぜ、ノート]Y、]Zと「同じ種
類の紙」を用いて作成されたのか、という疑問が生じてくるのである。この
「不自然な」ノートの作成の仕方は、ノートV・124a−eもノート]Y、]Z
と同時期に書かれたと考えることによって、ごく自然なノートの作成の仕方
として理解されることになるのである29)
 この結論から推定F振り返ってみると、次のような状況が浮かびあがって
くる。すなわち、(a)ノートX・188における『工場監督官報告書。1861年10月

29)この「用紙の種類 」の問題およびノートV・124a−h 作成過程については、本
稿とほぼ主旨の推定を内田弘氏も行なっている(内田弘「『二重の不変資本問題』
の理論射程  『1861〜63年草稿』における「 機械論草稿 」はどのような順序で
書かれたか」『専修経済学論集』第21巻第1号、1986年9月、53-61ページ)。「マ
ルクスは『1861-63年草稿』で・・・・・・10種類の紙を用いた・・・ 。・・・かれは同じ種
類の紙を『連続して・同じ時期に』用いているのである。・・・・・・この特徴に注目す
るならば、『最終ノート』・『最終ノート2』・『ノートX』および『ノート\』・
『ノート]』と同一種類の紙がノートV・124a〜124h ページに 2 ボーゲン、時
期的にほぼ同じ時期、すなわち 1861年 12月 [「最終ノート」] から1862年 4-6月
[ノート\、]] とほぼ 同じ時期に 用いられたと 考えるのがごく自然である。と
すれば、・・・・・・ノートV・124eページとノートX・196ページとは同時に執筆され
たと確実に推定される以上、『機械論草稿』の『前半』・・・・・・は『学説史』より前
に書かれたと判断するほかないのである」(同上、58-59ページ)。
 とりわけ、ノートV・124a−hを構成する2ボーゲンについての内田氏の次
の推定は、本稿での推定を補強する。すなわち、「第1に、ノート]Xのあとに充
てられたノート]Z(1029-1065ページ)は『雑録』が書かれた『最終ノート2 』
の残りの部分であり、 そのノートが 用いられ始めた時期は、『 学説史 』より前
(1862年1月)である。その時、 ページづけは次のようの行なわれた。・・・・・・のち
にノート]Zとして転用するさいに、すでに用いているところ(a〜g)を、算用
数字で1022-1028とページをつけ、 残りの部分を1029ー1065とページをつけたので
ある。 したがって『最終ノート2』は始めから全部、 アルファベットとギリシャ
文字でページがつけられていたのであり、ノート V・124a−124h ページに充て
られた 2ボーゲンはそれとは別の用紙である。/ 第2に、ノート Xの211ー219ペ
ージのページづけは『 学説史 』より前にすでに行なわれていたのである。だから
こそ、つぎのように内容は『 連続 』しているにもかかわらず、ページづけが『飛
躍』することになったのである。すなわち、『γ )機械』の『続き』はノートXの
211ページから219ページ まで書かれた後、 ページづけに関してはノート][の最
後のページ・1157ページに続けて、ノート]\の最初のページに (ただし1ページ
とばして)1159ージとページをつけて『γ )機械』の『続き 』を書き続けたので
ある。 したがってノートXの一部は例のノートV・124a〜124h ページに充てら
れた2ボーゲンに転用されてはいない」(同上、60-61ページ)。

ー51ー

31日にいたる半年間』、ロンドン、1862年の引用(MEGA、290;C509)、(b)ノ
ートV・124a−eにおける同『報告書』および『工場監督官報告書。1860年
10月31日にいたる半年間』、ロンドン、1860年、および『工場監督官報告書』、
1843年の引用(MEGA、202-206;草稿集C356-365)30)、さらに(c)ノート]Z
・1028における「同じく、本来の工場では、産業労働者軍のうちの死傷者た
ちの戦況報告の大部分(半期ごとの工場報告書を見よ)もまたそのことに由
来しているのである」(MEGA、1681;草稿集G219)という記述、さらに
また(d)1862年3月6日付のマルクスのエンゲルス宛手紙の内容、(e)ノートX
・203ー209における8個所にわたる『工場監督官報告書』からの集中的な引
用(MEGA、309-316;草稿集C540-554)などから総合的に考えて、1862年
3月初旬ごろマルクスは、 一連の『工場監督官報告書』に注目しそれらを熟
読し、それらを草稿の各所において、それぞれの問題関心にそって利用・引
用していたという状況が浮かびあがってくるのである。

* * * * * * * *
 以上、われわれは、まず機械論草稿連続執筆説を支持する幾つかの根拠を
検討し、それらがどれ一つとして決定的な根拠ではありえないということを
確認するとともに、機械論草稿前半部分が1861ー63年草稿前半期に、おそら
く「諸学説」以前に執筆されたと判断せざるをえない根拠を幾つか提示した。
機械論草稿連続執筆説を支持するものとして提示されたすべての根拠がどれ

30)ノートV・118の「さて以上のこと[ワラキアの夫役労働]と、 他方でのイギリス
の資本主義的生産における、 労働時間――剰余労働時間―― への渇望とを対比
してみよう」という記述に続くノートV・118〜ノートV124e部分、とりわけノー
トV・119(MEGA、195;草稿集C344)〜ノートV・124e(MEGA、205;草稿
集C363)部分は、一連の内容をなしているものと考えられる。というのは、 そ
こには、『工場監督官報告書。1855年10月31日にいたる半年間』、ロンドン、1856
年から始まり『工場監督官報告書。1861年10月31日にいたる半年間』に至る各年
度の『工場監督官報告書』が引用されているばかりではなくて、それらの欄外に
は「0)」〜「10)」という暗号めいた数字(現在のところその意味が不明なので
こう呼んでおこう)が書き込まれているからである。筆者が考えるに、もしノー
トV・124a〜e部分だけがノートV・119ー124部分より9ヶ月もあとに書かれた
と理解すれば、その欄外に一連の暗号めいた数字が書かれたことに不自然さが残
るように思われる。

ー52ー

一つとして決定的な根拠ではありえないうえ、ここに提示した幾つかの根拠
に従えば、機械論草稿の冒頭部分(少なくともノートX・190ー209部分)は
「諸学説」以降に書かれたものではけっしてありえないという状況が浮かび
あがってくる。そして、もし「諸学説」がほぼ連続して書かれたものである
とすれば、われわれが提示した根拠に従うかぎり、機械論草稿の冒頭部分は
「諸学説」以前に執筆されたと考えざるをえないのである。(終り)
(まつお じゅん/経済学部教授/1988.4.6受理)

ー53ー