『経済経営論集』(桃山学院大学)第29巻第4号、1988年3月発行

  

ふたたびマルクス機械論草稿の
執筆時期について(上)

――機械論草稿連続執筆説の批判――

 

松尾 純

   T.はじめに――旧稿1)までの論争の概観
 マルクスの1861ー63年草稿が Karl Marx / Friedrich Engels Gesamtaus
gabe( 以下MEGAと略記する ) 第2部 第3巻 第1分冊〜第6分冊2)
して公刊されて以来、『資本論』成立史研究が大いに進展しつつある。 とりわ
け研究の出発点ともいえる草稿の執筆順序・ 時期について、 これまで無批判
的に受け入れられてきたMEGA 編集部 の見解にたいして疑問が呈ぜられ、
現在幾つかの重要部分に関して論争が展開しつつある。
 論争の焦点は、現在のところ2つである。一つは、 草稿「第3章 資本と
利潤」(ノート]Y・973-1021)および「雑録」部分 (ノート]Z・1022ー
1028)が草稿「5.剰余価値に関する諸学説」その他 (ノートY―]Xおよび
ノート]Z・1029―ノート][)に先行して執筆されたのか、 それとも、それよ


1)拙稿@「マルクス機械論草稿の執筆時期をめぐって―― 執筆中断説と連続執筆説
の対立――」桃山学院大学『経済経営論集』第27巻第2号、1985年10月。
2)Karl Marx, Zur Kritik der politischen Ökonomie ( Manuskript 1861ー63),
in: Karl Marx / Friedrich Engels Gesamtausgabe, Abt. U, Bd. 3, Teil 1,
1976; Teil 2, 1977; Teil 3 1978; Teil 4, 1979; Teil 5, 1980; Teil 6,1982,
Dietz Verlag. 以下この書をMEGAと略記する。引用に際しての訳文は、Teil
1〜5部分については、 資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス資本論草稿集』(以
下草稿集と略記する )CDEFG、大月書店、1978、1980、1981、1982、1984年
に従う。幾つかの個所で訳文を変更したが、いちいち断らない。 以下この書から
の引用に際しては、 引用文直後にMEGAの引用ページと草稿集のページを次の
ように略記して示す。例(MEGA、1974;草稿集C234)。

ー65ー

りもあとに執筆されたのか、という問題である3)。 筆者は、すでに、 この問
題をめぐる論争を概観し、 草稿「第3章 資本と利潤」・「雑録」が 「諸学
説」 その他に先行して執筆されたということを簡単ながら論証しておいた4)
その後の研究状況から判断して、「諸学説 」の先行執筆説が退けられたもの
と断定することができる。筆者は、その後草稿「第3章 資本と利潤」・ 「雑

3)この議論に関係する論文として次のものがある。 大村泉@「一般的利潤率・生産
価格と剰余価値の利潤への転化」『北海学園大学経済論集』第30巻 3号、1982年12
月。大村A「生産価格と『資本論』第3部の基本論理(上)(中)(完)『経済』227、
228、229号、1983年3、4、5月。 服部文男 「 マルクス・ エンゲルス研究の最近
の動向と課題」『経済』237号、1984年1月。 大村B「論文集『「資本論」第二章
稿』(Der zweite Entwurf des 》Kapitals《)(ベルリン、1983年)の刊行によ
せて(上)」『経済』240号、1984年4月。吉田文和「ふたたび『機械論草稿』につ
いて」『経済』241号、1984年5月 所収の「<付記>原伸子氏の批判に接して」の
「二」の大村稿C「草稿『 第3章 資本と利潤』=1862年 12月 作成説にたいし
て」。佐武弘章@「『剰余価値学説史』執筆の動機とその『資本論』成立史への影
響について」『社会問題研究』第32巻1号、1983年10月。 W. Focke, Zur Geー
shichte des Textes , seiner Anordnung und Datierung in: Der zweite
Entwurf des 》Kapitals《, Dietz Verlag, Berlin,1983.原伸子「『資本論』草稿
としての「1861-63年草稿」について(1)」『経済志林』第51巻第4号、1984年3
月。 Omura, I. D, Über die Entstehungsphasen des "Dritten Capitel.
Capital und Profit" und der "Miscellanea": Dezember 1862 oder Dezember
1861?, Beiträge Zur Marx-Engels-Forschung. Bd. 16, 1984. 大村E「新『メ
ガ』編集者による編集訂正と『資本論』成立史の新たな時期区分」『経済』259号、
1985年11月。 大村泉・大野節夫「DDRでの二つのコロキウムに参加して」『経
済』261号、 1986年1月。 Manfret Muller / Wolfgang Focke, Wann entstand
das "3. Capitel: Capital und Profit", das in Marx'Manuskript "Zur Kritik
der politischen Ökonomie" von 1861 bis 1863 enthalten ist?, Beiträge zur
Marx-Engels-Forschung, Bd. 16, 1984. 大村F「 資本一般と競争――草稿第3
章『資本と利潤』を中心に――」経済理論学会編『「資本論」の現代的意義』、年
報第21集、青木書店、1984年。 秋田清「ロートベルトゥスの地代論とマルクス
――『剰余価値学説史』におけるマルクスとリカードゥ(T)(U)――」九州大学
『経済学研究』第47巻第4号、1982年6月、1985年12月。鳥居伸好@「一般的利潤
率の形成と生産価格――『1861ー63年草稿 』の検討を中心として――」『愛知論
叢』35・36合併合、1984年3月。鳥居A「マルクスの『1861-63年草稿』におけ
るリカードゥ地代論批判」『愛知論叢』40号、1986年3月。鳥居B「マルクス生
産価格論の形成」経済学史学会第50回全国大会(早稲田大学)、1986年11月8日、
レジュメ。大村G「絶対地代の発見と『資本一般』――『剰余価値学説史』『g.
ロートベルトゥス氏』と草稿第3章『資本と利潤』との連繋――」『経済学』(東
北大学)第48巻3号、1986年11月。
4)拙稿A「1861ー63年草稿記載の『第3章 資本と利潤 』の作成時期について」桃
山学院大学『経済経営論集』第26巻第1号、1984年6月。

ー66ー

録」執筆先行説に立脚して1861ー63年草稿における 「利潤率低下法則論の形
成過程」5)および 「生産価格論の形成」6)過程を解明することによって、考証
された執筆順序が正しいものであることを再確認した。
 論争のもう一つの焦点は、 ノートX・190ー219およびノート]\・1159-1282
記載の「 γ.機械。自然諸力と科学との応用(蒸気、電気、機械的諸作用因
と科学的諸作用因)」(以下機械論草稿と略記する)が、 いつ、どのようにし
て、執筆されたのか、という問題である7)。 論争は機械論草稿執筆中断説と機

5)拙稿B「利潤率低下法則論の形成過程」(1)(2)(3) 桃山学院大学『経済経営論集』第
25巻第4号、第26巻第3号、第4号、1984年3月、12月、1985年3月。
6)拙稿C「生産価格論の形成」(1)(2)(3)(4)、 桃山学院大学『経済経営論集』第28巻
第1号、第2号、第3号、第4号、1986年6月、10月、12月、1987年4月。
7)この議論に関する論文として次のようなものがある。Jürgen Jungnickel,Zu Inhalt
und Bedeutung des Abschnitts "Maschinerie. Anwendung von Naturー
kraften und Wissenschaft" im Mauskript von 1861ー1863. in: ...unser
Partei einen Sieg erringen. Studien Zur Entstehungs-und Wirkungsgeshichte
des "Kapitals" von Karl Marx, Verlag Die Wirtschaft Berlin,1987. Ders.,
Die systematische Ausarbeitung der Theorie des relativen Mehrwerts.
in: Der Zweite Entwurf des 》Kapitals《, Dietz Verlag, Berlin,1983. Ders.,
Einige Bemerkungen zur Marxschen Analyse des Unterschieds von Werkー
zeug und Maschine. Beiträge Zur Marx-Engels-Forschung. Bd. 5, 1979.
Manfret Müller, Zur Charakteristik der letzten Arbeitsphase am Manuskript
"Zur Kritik der politischen Ökonomie(1861-63)" von Karl Marx, Beiträge
Zur Marx-Engels-Forschung, Bd.5, 1979.吉田文和@前掲論文。吉田A「J.H.
M.ポッペ『テヒノロギーの歴史』とマルクス」『経済学研究』第33巻第1号、1983
年10月。Yoshida, F. C, Wurden Marx' "Theorien uber den Mehrwert" nach
der Unterbrechung seiner Arbeit andem "Maschinerie - Manuskript" geー
schrieben?, Beiträge zur Marx-Engels-Forschung, Bd. 16, 1984. 吉田D「マ
ルクス『テヒノロギー史抜粋ノート』を調査して」『経済学研究』第35巻第2号、
1985年9月。 吉田E「新MEGA編集者をたずねて 」『経済 』、1985年 10月号。
吉田F「マルクスの『機械論草稿』の執筆時期について ―― 内田弘氏の拙稿批判
への回答――」『経済学研究』第35巻第3号、1986年1月。 大村和泉・吉田文和
「『剰余価値学説史 』執筆前後の理論的諸問題――『機械論草稿 』作成過程の論
争をふまえて―― 」『北海学園大学経済論集 』第33巻 第4号、1986年3月(以
下、大村 ・ 吉田共同論文と略記する)。吉田G『マルクス機械論の作成』北海道
大学図書刊行会、1987年。 内田弘@「『資本論 』成立史における『直接的生産過
程の諸結果』」『専修経済学論集』第10巻第2号、1976年2月。 内田A「機械論
から剰余価値学説史へ――『 1861ー63年草稿 』機械論草稿「 連続執筆 」説批判
――」『専修大学社会科学研究所月報』249号、 1984年4月20日。内田B『中期
マルクスの経済学批判 』有斐閣、1985年。 内田C「『二重の不変資本問題』の理

ー67ー

械論草稿連続執筆説に分かれて展開している。 前者は、機械論草稿はノート
X・190から始まりノートX・211の途中まで執筆され、 そこで中断し、次に
ノートYー]Xおよびノート]Z・1029ーノート][において「諸学説」その他が
執筆され、そのあと再びノート X・211 にもどって機械論草稿の執筆が再開
され、ノートX・211ー219とノート]\・1159ー1282に機械論草稿の後半部分
が執筆されたとする見解である。 これは、MEGA編集部および原伸子、佐
武弘章、内田弘氏らの見解である。これに対して、 後者は、 機械論草稿は、
「諸学説」その他(ノートYー]X、ノート]Z・1029―][)が執筆されたのち、
ノートX・190ー219、ノート]\・1159ー1282において連続して執筆されたの
であり、ノートXの執筆中断は190ページの直前あるいは 176ページにおいて
生じたとする見解である。これは、吉田文和・ 大村泉両氏および大野節夫氏
らの見解である。この論争は、 現在もなお決着を見ず継続中であるのみなら
ず、連続執筆説内部においてノート Xの中断箇所をめぐって8)、また、執筆
中断説内部において執筆中断の理由をめぐって9)論争が展開されている。
 本稿では、 この機械論草稿の執筆時期をめぐる論争を取り上げる。まず、
論点を整理し残された問題点を摘出し、次に、 それらの論点のいくつかを検
討し、 筆者自身の論拠をいくつか提示することによって執筆中断説の正当性
を主張することにする。

論射程 『1861〜63年草稿 』における『機械論草稿 』はどのような順序で書かれ
たか」『専修経済学論集』第21巻第1号、1986年9月。内田D「『二重の不変資本
問題』の意義――佐武弘章氏の批判に答える 」『経済評論』1987年 12月号。佐武
弘章A「 マルクス機械論に影響を与えた一匿名書について 」『大阪府立大学紀要
(人文・社会科学)』第32巻、 1984年。佐武B「マルクス機械論の形成――1.形
成過程における動揺――」『社会問題研究』第33巻第2号、1984年 1月。佐武C
「マルクス機械論の形成――2.執筆の中断――」『社会問題研究』第34巻 第1号、
1984年 9月。 佐武D「マルクス機械論執筆中断の理由について―― 内田弘『二重
の不変資本問題』説の批判――」『経済評論』1987年10月号。佐武E『「資本の生
産過程論」の成立』未来社、1987年。大野節夫氏@「『1861ー63年草稿』と経済学
批判体系プラン」(上)(下)『経済』243号、244号、1984年7月、8月。大野A
「『経済学批判』から『資本論』へ」(上)(下)『経済』256号、257号、1985年8
月、9月。
8)大野論文@Aと大村・吉田共同論文を見よ。
9)内田論文Dと佐武論文Dを見よ。

ー68ー

 最近の論争内容に入る前に、 それ以前の論争内容を筆者旧稿における整理
に立ち戻ってごく簡単に概観しておこう。
 論点整理の都合上、執筆中断説を MEGA編集部の見解に代表させて見て
おこう。MEGA編集部の推定の根拠は次の5点につきる10)
 @ノートX・211でマルクスは1862年 11月 26日付けの『ザ・タイムズ』紙
掲載の一論文から長大な抜粋を行なっている。 したがって、この引用箇所以
降が書かれたのは少なくとも1862年 11月26日よりもあと――したがっておそ
らく「5 剰余価値に関する諸学説」よりもあと――である。
 A1863年 1月 24日付、1月 28日付のエンゲルスあての手紙で、マルクスは
機械に関する篇 の仕事をしていることを知らせている。 特に、 彼は、 1月
28 日 付の手紙で 「僕は機械に関する篇に 2、3のことを書き加えている。
そこには、 最初の取り扱いのときには僕が無視していたいくつかの興味深い
問題がある 」と述べているが、文中の「最初の取り扱い」とは、機械論草稿
のいわゆる前半部分の仕事のことであり、また、「興味深い問題 」とは、ノ
ートXの執筆中断以降の技術学的問題のことであろう。
 B1862年 3月 6日付 の手紙のなかで、マルクスは「マニュファクチュアの
基礎をなしまたA・スミス によって 描かれているような分業は、 機械制作
業場には存在しない、ということ―― この命題そのものはすでにユアによっ
て詳述されている――を示すための 」実例がほしいとエンゲルスに頼んでい
るが、マルクスはここでは、ノート X・ 191にある表現に依っている。つま
り、このころマルクスが 機械論草稿を執筆していたことをこの手紙は示して
いる。
 CノートX・209に『ベンガル・フルカル』と『ボンベイ商業会議所報告』
からの引用があるが、それは、 ノート第7冊抜粋部分の208ページ から採ら
れたものである。ところが、このノート第7冊抜粋部分の 193ー208ページは
1862年 2月 25日以降のものである。 というのは、 193ページに 1862年 2月
25日付の『スタンダード 』からの引用があるからである。したがって、ノー

10)詳しくは拙稿@、54-59ページを見よ。

ー69ー

トX・209の引用は、1862年2月25日以降のものである。
 DノートX・211の1862年 11月 26日付『ザ・タイムス』からの引用直前の
個所で、マルクスは、 もっと詳しくプルードンに立ち入るという意図を表明
しているが、彼はその意図を 実現していない。したがっておそらく、『ザ・
タイムス 』の引用とプルードンの個所との間に 執筆の中断が生じ、そして、
その中断期間に「5 剰余価値に関する諸学説」が書かれたのであろう。
 これに対して、大村・ 吉田両氏は、機械論草稿連続執筆説を主張し、その
根拠として次の3つを提示した。
 第1根拠は、機械論草稿冒頭ノートX ・ 192におけるポッペ『テヒノロギ
ーの歴史』の利用である。ノートX・192の「{ }内の記述は、あとから書
きくわえられたのではなく、・・・・・・ポッペ『テヒノロギーの歴史』第1巻163
ページ・・・・・・の記述をもとにしている。・・・マルクスは1851年の『テヒノロギ
ー史抜粋ノート 』13ページにこの部分を抜粋している。そして、この抜粋を
読み返したのは、1863年 1月 28日付の手紙・・・・・・内容からみて、手紙が書か
れた直前と推察される。・・・・・マルクスが1851年に抜粋した内容を、数字をふ
くめてそのまま暗記していたという、 およそありえないことを想定しないか
ぎり、ノートXの『機械論草稿』冒頭は、1863年 1月 28日前後に書かれたと
いうことになる。・・・・・・そうなれば、・・・『剰余価値学説史』完了後の『機械
論草稿』にとりかかったことは明白である」11)
 第2根拠は、ノート X・198ー210において提起されている「機械導入の動
機と諸結果」にかんする8項目の論点に関して、ノートXとノート]\、]]の
間に認められる「内容的連続性」である。吉田氏は、その後「『機械論草稿』
の内容上の連続性については根拠」としない12)、とされている。したがって、
本稿での検討対象からこれは外すことにする。
 第3根拠。「1862年3月6日の手紙・・・・・・内容は、『1861ー63年草稿』『b、
分業』ノートW-166ページ、ノートX-175ページに対応している・・・・・・。・・・

11)吉田論文B、181-182ページ。
12)吉田論文F、131ページ。

ー70ー

・・・上記手紙は、 ユアとともにA・スミスに言及している点に注目されたい。
・・・・・・ノートW-166ページ、ノートX-175ページには、ユアとともにA・スミ
スに言及した記述がみられるのである。・・・ /・・・ ノートX-191ページでは、
スミスへの言及はなく、ユアの記述・・・・・・が引用されているのみである」13)
 以上が、両説の推定根拠である。前稿での検討結果をふまえて、 それぞれ
の根拠について検討してみよう。
 まずMEGA編集部の根拠@について。 これは、 ノートX・211以下の機
械論草稿の後半部分が 1862年11月26日 以降に執筆されたことを示すだけで、
ノート X・190ー210の機械論草稿の前半部分の執筆時期についてはなにも語
っていない。
 次に、MEGA 編集部の根拠Aについて。前稿で述べたように、手紙に見
られる「『興味深い問題 』とは大雑把にいって技術学的分析に関わる問題で
あるという点で各論者の理解は一致している 」が、「『 最初の扱い 』につ
いては、さまざまな解釈が可能なようである。 機械論草稿の前半部分のこと
であるという解釈、『要綱』での機械論のことであるという解釈、 さらには
『諸学説』執筆後『「機械論草稿」を書きはじめるにあたり、 当初構想して
いたもの』・・・・・・であるという解釈がなされている。吉田氏自身でさえ、『「最
初の取り扱い」とは、・・・・ 「経済学批判要綱」における機械の取り扱い』の
ことであるという解釈から、『1863年 1月 になって、「機械論草稿」を書き
はじめるにあたり、当初構想していたもの・・・・・』であるという解釈へと動揺
しているぐらいである」14)。 文言それ自体をいくら検討してみたところで、
そこから出てくる一つの可能な解釈をもって、 執筆中断説 や 連続執筆説の
「決定的な論拠」とするわけにはけっしていかない。吉田氏は、「『最初の取
り扱い』という文言そのものは、マルクスが 1862年 3月に『機械論草稿』を
執筆していたことを何ら直接に証明するものではない」 15)と言われるが、逆
に吉田氏の文言解釈以外にはありえないということも、「証明 」することが

13)吉田論文@、267-268ページ。
14)拙稿@、80-81ページ。
15)大村・吉田共同論文、40ページ。

ー71ー

できている訳でもないのである。
 次に MEGA編集部の根拠B を見ることにしよう。 MEGA編集部は、
「マニュファクチュアの 基礎をなしまたA・スミスによって描かれているよ
うな分業は、機械制作業場には存在しない 」というユアの命題について触れ
た手紙の内容とノートX・191の内容とが対応すると解釈する。 しかし、 ユ
アの命題そのものはノート X・175でも言及されている訳であるから、 ノー
ト X・191はノート X・175 および手紙の執筆時期と推定される1862年3月6
日よりも(ずっと)あとに執筆されたという可能性を排除しえないであろう。
他方、吉田氏は、1862年 3月 6日の手紙では ユアとA・スミスにともに言及
しており、ノートW・166、ノート X・175でもA・スミスとユアをともに叙
述しているということから、手紙とノート W・166、ノートX・175との対応
関係を――ノート X・191 との対応関係を排除して――主張している。しか
し、 たんに両個所でユアとスミスの両方に言及しているという程度の事実関
係から、どうして、 手紙と草稿との執筆時期の対応関係を「考証」したとい
うことができるのか、 筆者には理解しかねる。MEGA編集部にしろ吉田氏
にしろ「考証上の面に限定して」16)手紙と草稿との対応関係を確定すること
は、いまのところできていないと言わざるをえない。両者の「対応」関係は、
内容的な対応関係がそこになんらかの形で確認されたとしても、 「考証」上
の「決定的な論拠」となしうるほどのものではなく、 単なる状況証拠にすぎ
ない。両者の対応関係だけから、 両者の執筆時期の一致を導きだせるものか
どうか、「考証」方法として疑問と言わざるをえない。
 次に、MEGA編集部の根拠Cについて。これは、 吉田氏の批判をまつま
でもなく、執筆中断説の根拠にはなりえない。 根拠Cによって確定しうるの
は、ノートX・209の執筆時期の「上限 」=1862年 2月 25日だけである。こ
れ以降であれば、ノートX・209の執筆は何時であってもいい訳である。
 最後に、MEGA編集部 の根拠Dについて言うと、いまのところ吉田氏と
同様に、「このプルードンの問題は草稿執筆時期の確定的な証拠たりえない。

16)吉田論文@、266ページ。

ー72ー

なぜなら、それを直接に証明するものはなにも示していないからである」17)
と言わなければならない。MEGA編集部の解釈も、また、――「『機械論草
稿』になって、・・・『・・・・・・プルードンのたわごとについては別のところ』と
はじめに書いたのである。 この記述は、プルードンについてはすでに『剰余
価値学説史』で言及したとみることができる。・・・ 『われわれはこの場所で、
すぐに、プルードンの全汚物をまとめておくことにしよう 』というのは、す
でに『剰余価値学説史』において、プルードンの学説を・・・・・検討しているこ
とを前提にした記述である」18)という――吉田氏の解釈も、与えられた同じ
事実からは、 共に十分に成り立ちうる推定である。 しかし、 吉田氏にしろ
MEGA編集部にしろ、 互に相手の推定が成り立ちえないということを「証
明」・「考証」しえた訳ではないのである。
 因に、この問題についての筆者の考えはこうである。 すなわち、プルード
ンの{ }部分には「不変資本の価値について言えば、 この価値は、それ自
身によって、 現物で補填されるかまたは不変資本の他の諸形態との交換によ
って補填されるかするのである」(MEGA、318;C557)という叙述が存在
する。ここでマルクスは不変資本の現物補填、 不変資本と不変資本の交換に
よる補填について説明しているが、これらの論点は、 再生産論の形成に関す
る諸研究において一般に指摘されているように、 「諸学説」の[年々の利潤
と賃金とが、 利潤と賃金とのほかに不変資本をも含む年々の商品を買うとい
うことは、どうして可能か、の研究](ノート Y・272―ノート Z・ 299:
MEGA、398-438;D109-169)においてはじめて本格的に掴みだされ、それ
を起点とする一連の再生産論研究19) をつうじて深められていく論点である。
これらの論点が、ノート X・210ー211で了解ずみの論点であるかのように要
約的に指摘されている以上、少なくともノートX・210ー211部分(MEGA
317ー318; 草稿集C555-557)ついては、「諸学説 」 執筆以後に書かれたも
のと理解するのが自然であろうと思われる。 したがって、このプルードンに

17)吉田論文F、134ページ。
18)吉田論文B、187-188ページ。
19)とりあえず、水谷謙治『再生産論』、有斐閣、1985年、第5章を参照せよ。

ー73ー

関する{  }部分の冒頭と末尾の文言 ―― 「 Von  Proudhon's  Blödsinn
we speak another place.」、「Wir wollen an dieser Stelle gleich den
ganzen Breck von Proudhon zusammenstellen. 」 ―― も次のように解
釈すべきであると考える。すなわち、「諸学説 」各所でプルードンに対する
幾つかの 批判的言及を 加えてきた マルクスは、 まず「 Von Proudhon's
Blödsinn another place プルードンについては別のところ」と書く。そ
の意味は、「プルードンについては別のところで(すでに述べた)」というこ
とであろう。あとで書き加えられた「 We speak 」は、文法的には、現在進
行中の動作ではなくて「 we will speak 」か「 we have spoken 」である
が、後者として理解すべきであろう。他方、 末尾の「われわれはこの場所で、
すぐに、プルードンの全汚物をまとめておくことにしよう」と述べているが、
その意味は、 すでに「 諸学説 」のいろいろな場所でプルードンの学説につ
いて批判的に 言及してきたことをいまここで 「 まとめておくことにしよう
wollen・・・・・・ zusammenstellen 」ということである。しかし、このマルクス
の意図は、 この場所が機械論草稿の途中であるがゆえに、実現されずに終わ
った。かくて{  }部分の冒頭と末尾の文言は、次のような文脈になる。す
なわち、 ≪プルードンについては別のところ(「5 剰余価値に関する諸学
説」の各所で )すでに述べた≫が、≪われわれはこの場所で、すぐに、すで
に批判的に言及したプルードンの全汚物をまとめておくことにしよう≫、と。
 しかし、「いずれにしても、 このプルードンの問題は[機械論]草稿執筆
時期の確定的な論拠たりえない」20)と言わざるをえない。
 かくて、執筆中断説を主張する MEGA編集部の5つの根拠はどれ一つと
して確固とした根拠ではありえないと言うことができよう。
 他方、連続執筆説の3つの根拠についてはどうか。
 まず、吉田氏の第1根拠について。 吉田氏は、 1863年1月28日付の手紙の
直前に、『テヒノロギー史抜粋ノート』を読みかえした、そして、ノート X
の機械論草稿冒頭におけるポッペへの言及は 1863年1月28日前後に書かれた、

20)吉田論文F、134ページ。

ー74ー

という推定をもって自説の「決定的な論拠」21)であるとしているが、しかし、
1851年の『テヒノロギー史抜粋ノート 』の内容をマルクスが覚えていたとい
う第2の推定は、いまのところ、 なにびともけっして否定しえないであろう
し、また、 1862年3月ごろ、 あるいは、 それ以前に、 マルクスが1851年の
『テヒノロギー史抜粋ノート 』を読みかえしたのではないかという第3の推
定も、けっして否定しえないのである。 これらの可能性を否定しうる証拠・
資料をわれわれはいまのところ知らない。
 その後、諸氏の批判を受けて、 吉田氏は第1根拠を次のように「補強」さ
れる。すなわち、『テヒノロギー史抜粋ノート 』13ページ48〜49行目、1861
ー63年草稿ノートX・192、ノート]\・1166.以上「3つの部分を比較して気
づくのは、ノートX-192ページの記述が、 『抜粋ノート』13ページの要約的
記述であり、]\-1166ページの記述は、『抜粋ノート』13ページのそのまま
に近いが、・・・・・・一部異なっており、・・・・・・『ポッペの文を直接、 原文のま
ま』・・・・・・使用しているわけではない点である。したがって、『不正確』とい
う点では・・・・・・五十歩百歩であって、ノートX-192ページの記述の『不正確』
さをもって、 それのみが記憶にもとづくものであると断定することはできな
いであろう。/・・ノート]\-1166ページのみならずその前のノート]\-1162
ページ以降における記述も、『抜粋ノート』のおなじ見開きの、12-13ページ
にもとづいている・・・・。ノートX-192ページとノート]\-1162ページ以降の
記述の基礎となっている『抜粋ノート』のページが同じ見開き部分にある・・・
・・・。このことは、ノートX-190ページからはじまる『機械論草稿』冒頭部分
が、『中断』なく、 それ以降の部分に書きつづけられたことを示す1つの傍
証となるであろう」22)。要約するとこうなる。ノートX・192の記述は『抜粋
ノート』の13ページの要約的記述であり、ノート]\・1166の記述は、『抜粋
ノート 』13ページそのままに近い。 「不正確 」という点では五十歩百歩で
ある。前者の「不正確 」さを記憶にもとづくものであると断定することはで

21)吉田論文B、181ページ。
22)吉田論文F、128ページ。

ー75ー

きない。ノート X・192とノート ]\・1162以降の記述の基礎になっている
『抜粋ノート』のページが同じ見開き部分にある。「このことは、・・・・・・『機
械論草稿』冒頭部分が、『中断』なく、 それ以降の部分に書きつづけられた
ことを示す1つの傍証となるであろう」、と。
 「要約的記述」と「そのままに近い」記述とを、 然したる理由もなく「五
十歩百歩」であると断定してしまい、そこから、ノートX・192の「要約的」
記述の「不正確」さは、記憶にもとづくものではないと言われても、 ただち
に首肯しがたいのである。ましてや、ノートX・192とノート]\・1162以降
の記述が、『抜粋ノート 』のページが同じ見開き部分によっているというこ
とから、 これらの部分は「 中断 」なく書きつづけられたものであると「推
定」しているが、これは乱暴極まりない「推定」であると言わざるをえない。
しかもさらに、これらの「推定」を、 機械論草稿連続執筆説の「決定的な論
拠」から秘に後退させて1つの「傍証 」であるとされているに至っては、何
を言わんやである。 「1863年 1月 以前に、 マルクスが『テヒノロギー史抜
粋ノート』を『読み返した』という『第1の可能性』も、 1851年に抜粋した
ノートの内容をそのまま1862年 になっても記憶していたという『第2の可能
性』も立証できないのである」23)と言われるが、自説の「立証」もできず解
釈の多様性を残したまま「傍証 」に終わっているにもかかわらず、批判者に
のみ「立証」責任を負わせるのは、如何なるものであろうか。
 次に、吉田氏の第2根拠について。 すでに述べた事情から、本稿での検討
対象からこれを外すことにする。吉田氏の本意は、 確かな根拠に基く考証を
補強するための状況証拠 としてこの第2根拠 を考えるということであろう。
 最後に、吉田氏の第3根拠について。 すでに述べたように、 1862年 3月6
日付の手紙をいくら微細に検討してみても、それは「決定的な論拠 」を与え
てはくれない。
 以上が、最近にいたるまでの論争の概要である24)。結論的に言うと、ME

23)同上、128-129ページ。
24)その後、吉田氏は次の2つの論拠を追加された。すなわち、 第4根拠=「Heft
]Zの冒頭、1022ー28ページ記載の『雑録』は1862年1月ー3月に作成され、こ

ー76ー

GA編集部も、吉田・大村両氏も、 自説を証明するための「決定的な根拠」
を提示できていないということである。

U.大野節夫氏の機械論草稿連続執筆説――論争の新たな展開
 機械論草稿の執筆時期をめぐる論争は、 大野氏による新たな根拠の提示に
よって新たな展開をみせるようになった。以下、大野説を検討してみよう。
 大野氏は、ノート X・176において執筆が中断されたとする。 すなわち、
「ノートXの執筆にはいって、 その最初の175ページと176ページに2行を書
いただけで、 マルクスは『3 相対的剰余価値』の執筆を中断し、『5 諸


の擱筆の時期は『 3月1日 』以前ではありえない。 だがここでは、 マルクスは、
特別剰余価値の問題を商品の『社会的価値』、『個別的価値』といった概念を用い
ることなく考察しているばかりか、 『 個別的価値 』というべきところ を誤って
『社会的価値』とさえ述べている。 しかし『機械論草稿 』の冒頭で特別剰余価値
の問題を考察する際には、右の二つの概念を駆使して行なっている 」(大村 ・ 吉
田共同論文、40ページ)。第5根拠=「MEGA第U部第3巻に収載されたファク
シミリなどによれば、 HeftX、190ページ以降と189ページ以前とでは行数、 筆勢
とも異なる」(同上)。「ノートX-190ページよりあとでは、それ以前とくらべて
@行間がせまく・・・、A筆跡が細かく書かれている・・・・・。B行が水平に書かれてい
る。/・・・・ノートX-182ページ(『分業』)とノートY-220ページ(『剰余価値学
説史』)のフォトコピーを比較することができる・・・・・・。そこには筆跡の近似性が
みられる」(吉田論文E、227ページ)。
 まず、第4根拠について。「 雑録 」は 1862年1月ー3月 に作成された; 擱筆の
時期は「3月1日」以後である;「 雑録 」において マルクスは 「特別剰余価値の
問題を・・・・・『社会的価値』、『個別的価値』といった概念を何ら用いることなく考
察している」ということは、たしかに吉田氏の言われるとおりであるが、 しかし、
「雑録 」中の特別剰余価値の問題を考察している個所はノート ]Z・1023ー1024
であり、そこでは「社会的価値 」「個別的価値 」という概念が使用されていない
からといって、 そのことと 機械論草稿冒頭において特別剰余価値の問題が2つの
概念を駆使して考察されているということが 矛盾しているとは 直ちに言えないの
ではなかろうか。「雑録」ノート ]Z・1023-24の執筆時期と「 雑録 」の擱筆時
期とがそれほど接近していないとすれば、 そして、 機械論草稿が「雑録」の擱筆
以後に、 あるいは 少なくともノート ]Z・1023ー24以後に着手されたとすれば、
うえのような事実経過を矛盾なく理解することができるのではなかろうか。
 次に、 第5根拠について。 吉田氏の指摘されることがすべてそのとおりである
としても、 それはノート X・189とノートX・190との間になんらかの時間的隔た
りがあった可能性を意味するだけであって、 両者の間に 9 ヶ月の隔たりがあると
いうことまで意味する訳ではないのである。 要するに、 状況証拠にすぎないので
ある。

ー77ー

学説』の執筆に転換する。『5 諸学説 』以後ふたたび分業項の補足が書き
こまれていく。ユアの命題にかんする記述と G・ガルニエの分業論にかんす
る記述以後をしきる一本の線がノートVの中断個所をしめすものである」25)
 大野氏の推定根拠は何か。
 第1根拠。 ノートX・176ー189、ノートX・190-211、ノートU・89ー93、
ノート V・124aー124h が 「ほぼ同一の時期に執筆されたことは、これらの
諸部分に引用・ 利用されたいくつかの共通な文献の存在からもうらづけられ
る」26)。「ノートV、124f〜g ページとノート・][、1142〜1144ページとは、
・・・あいついで書かれたものであろう。・・・・執筆時期は、ノート・][のこの
部分が執筆された1862年の12月以外ではありえない」27)。「ノート・][、1139、
1140ページの・・・・・・プランの記述のあとに、いったんその執筆が中断された。
そして、この中断期に、 ノート・V、 124a〜hページの補遺およびノート・
][、1140〜1144ページの補遺群が書かれた。さらに、[前者――松尾]・・・
が1862年12月に書かれたことは、・・・・・・[ノートX・176ー189、ノート X・
190-211、ノートU・89ー93――松尾]もまた、同一の時期、 すなわち『5
諸学説』以後、1862年12月以後に執筆されたことをしめしている」28)
 第2根拠。「ノート・X、175ページに引用されている・・・・・ユアの文章は、
[ 1862年3月6日付の―― 松尾 ]手紙でいうユアの命題『マニュファクチュ
アの基礎をなし、 A・スミスによってえがかれているような分業が機械制工
場には存在しない』と完全に一致している」29)。「手紙の文面に対応する草
稿の記述個所が、・・・・・ただノート・X、175〜176ページのみであることは明
白である。 マルクスは 1862年3月6日ごろ、ノート・ X、175〜176ページを
執筆していたのである」30)
 第3根拠。ノートX・178の記述=「人口中の僕婢部分も同様である。たと

25)大野論文A(上)、222ページ。
26)同上、215ページ。
27)同上、218-219ページ。
28)同上、219ページ。
29)同上、221ページ。
30)同上、222ページ。

ー78ー

えばイングランドでは 100万人 にのぼるのであって、この数は織物工場と紡
績工場とで直接に働いている労働者を全部あわせたよりも多い」(MEGA
276;C487)。 ノート Z・303の記述=「工場に関する最近のイギリスの官
庁報告書もやはり、 工場主だけを除き、工場と付属事務所で使われているす
べての人を『はっきりと 』就業賃労働者の部類に数えあげている。(これの
結びを書き終える前に、報告書の字句を見ること。)」(MEGA、443;D177)。
ノート[・358の記述=「工場に関する最近の報告書 (1861年または1862年)
によれば、連合王国の本来的工場で使用されている(管理人も含めた )総人
員数は77万5534人にすぎないのに――『下院の奉答文の関する報告書』、1861
年4月24日付。(1862年2月11日印刷)――、 他方、 婦人の召使の数は、 イ
ングランドだけで100万人に達した」(MEGA、520;D306-307)。これらを
対比して次のように言う。「ノート・[、358ページの記述は『5 諸学説』
での『生産的労働と不生産的労働との区別』の執筆過程での『工場 』の再読
の結果、獲得されたものとみなしうる。・・・・・・ノート・X、178ページの記述
も社会的分業を『生産的労働と不生産的労働との区別 』に立脚して論じる一
連の記述の一部であるとみてとることはけっして困難ではない。したがって、
・・・・・・X・178ページの記述は、『工場』を再読した結果獲得したノート・[、
358ページの記述を、のちに、 分業項の執筆を再開したときに、 要約的に記
述されたものとなろう」31)。以上要するに、ノートZ・303の記述(末尾にお
ける「報告書の字句をみること」という文言 )―→ 『工場、1861年4月24日
付、下院の要請にたいする報告書(1862年2月11日、下院の命により印刷)』
の再読―→ノート[・358の記述―→ノート X・178での「要約的」記述、と
いう執筆順序が推定される。
 第4根拠。 ノート X・178の記述 ―― 「労働その物に関連するかぎりで
の、科学の労働からの分離、 工場や農業をその応用とする科学の工場労働者
と農業労働者からの分離については機械の項で、(そうでなければ、 これら
の考察はすべて、資本と労働にかんする最終章に属する)」(MEGA、277;C

31)同上、223ページ。

ー79ー

489ー490)――について大野氏は次のように言われる。 「この記述の前段は
『5 諸学説』の『0 リチャード・ジョンズ」での展開 (ノート・][、
1152ページをみよ)とかかわる。・・・・・・/右の記述が1862年3月ごろ・・・・とす
れば、・・・・1862年3月ごろには、『T 資本の生産過程』の後半部分の編成項
目がつぎのように変化したとみるほかないことと矛盾する。/ 3 相対的剰
余価値 4 資本の蓄積 5 剰余価値にかんする諸学説/すなわち、『T
資本の生産過程 』の編成項目から、『5 賃労働と資本』が消失しているの
である。/ これにたいして、右の記述が1862年12月に書かれたとすれば、わ
れわれは『資本と労働にかんする最終章』ノート・][・・・・・の『第3篇 資
本と利潤』プランの『12 むすび。「資本と賃労働」』に対応すると理解でき
る」32)。要するに、文中の「資本と労働にかんする最終章 」という文言は、
1862年3月ごろのプランには合致しないで、1862年12月・ノート][のプラン
にのみ合致すると考える。
 第5根拠。ノート X・182ー183の「哲学者は思想を、詩人は詩を、牧師は
説教を、教授は概説書を生産する、等々。 犯罪者は犯罪を生産する」(ME
GA、280;C496)という記述は、ノートZ・299〜ノート\・379の「生産的
労働と不生産的労働との区別 」論中の 「シュトルヒによれば、医師は健康を
・・・・・・生産し、教授や著述家は啓蒙を・・・・生産し、道学者などは道徳を生産し、
説教師は敬神を生産し、 君主の労働は治安を生産する、 等々。」(MEGA、
605;C443)という記述と「同質的である」33)。「それは、ただ、ノート・X、
176ページ以後の分業論が、この『{余論(生産的労働について)}』・・・にい
たるまで、『生産的労働と不生産的労働との区別 』に立脚した社会的分業に
かんするもの・・・・・・であることに対応しているにすぎない」34)。要するに、ノ
ート Z・299〜 ノート \・379における「生産的労働と不生産的労働との区
別」論―→ノートX・176以後の分業論=「生産的労働と不生産的労働との区
別」に立脚した社会的分業論、という執筆順序を推定される。

32)同上、223ページ。
33)同上、224ページ。
34)同上、224ページ。

ー80ー

 かくて、大野氏は次のように結論づけられる。「(ノート・X、176〜189ペ
ージ)が、・・・・・・[ノートX・190ー211、ノートU・89ー93、 ノートV・124
aーh ――松尾]と同一の時期にかかれたこと、・・・・・・(ノート・V、124f〜
gページ)がノート・][、1142〜1144ページ と 同じ1862年12月に書かれた
こと」35)、「ノート・X、175〜183ページの検討において・・・・その176ページ
で諸記述をしきる一本の線を分水嶺とし、これ以前が『エンゲルスへの手紙、
1862年 3月6日付 』の文面に対応し、 これ以後の記述が 『5 諸学説』と並
行してか、あるいはよりあとに書かれたこと」36)、が明らかになった、と。
 以下、 これらの5つの根拠について検討してみよう。 論点整理の都合上、
第2、第3、第4、第5根拠からみることにしよう。大野氏は、上記の第3、
第4、第5の根拠を指摘されたのち、 意外にも、 科学的良心に基づいてか、
次のように言われる。 「右に考察した諸点は、 ノート・X、176ページの以
前の記述をしきる一本の線以後の記述が『5 諸学説 』以後に書かれた状況
をうかびあがらせる。第2[本稿では第4根拠 ――松尾]に考察したことを
のぞけば、 この部分は『5 諸学説 』よりもまえに書きえたかもしれない」
37)、と。この大野氏の言葉に従えば、上記の第3、第4、第5根拠のうち第
4根拠以外は「状況」証拠にすぎないものであるということになるが、 以下
念のために少し検討しておこう。
 まず、 第2根拠に付いて。 ノート X・175のユアの文章が 1862年3月6日
付の手紙でいわれるユアの命題と完全に一致する、したがってノートX・175
の執筆は1862年 3月6日ごろであると大野氏が推定されるが、 しかし、 大村
氏が指摘されるように、 「ユアの命題そのものに限るならば、大野氏も認め
られているように、HeftX、191ページにも見出される」38)。すなわち、手紙
の「ぼくの本のために、マニュファクチュアの基礎をなし、 A・スミスによ
って描かれているような分業が機械制工場には存在しない、 ことをしめす一

35)同上、224ページ。
36)同上、225ページ。
37)同上、224ページ。
38)大村・吉田共同論文、40ページ。

ー81ー

例がほしい。 命題そのものはすでにユアによって詳論されている」という叙
述は、 ノート X・191の次の叙述と 一致することを否定しえないであろう。
「単純協業は、・・・機械では、 分業にもとづくマニュファクチュアでよりも、
はるかに重要な契機として現われる。・・・・・機械制作業場では、多くの人々が
同じことを行なうということは、 本質的なことである。これは機械制作業場
の主要原理である。・・・・マニュファクチュアで展開された分業は、一面では、
きわめて縮小された規模ではあるが、 機械制作業場のなかで 繰り返される。
他面では、のちに見るように、機械制作業場は分業にもとづく マニュファク
チュアの最も本質的な諸原理を捨ててしまう」(MEGA、293;C515-516)。
ここから直ちに1862年 3月 6日 の手紙の内容がノート X・191の記述にのみ
対応すると断定することができる訳ではもちろんないが、 しかし、両者の対
応関係を否定しさる確実な事情がない以上、大野氏のように、 「手紙の文面
に対応する草稿の記述個所が、・・・・・・ただノート・X、175〜176ページのみで
ある」39)と断言しうる訳でもない。
 ノート X・175と1862年 3月 6日 の手紙の対応関係が排他的に確認しえた
としても、そこから確実に推定しうることは、ノートX・175の「ユアの命題
にかんする記述までが1862年3月はじめ[まで]に執筆された」40) というこ
とだけであろう。そもそも、 たとえノート X・175と1862年 3月 6日の手紙
との間に対応関係が確認されたとしても、それは、 両者が同一時期に書かれ
たということを直ちに意味するとはかぎらないのである。 したがって、大野
氏のこの第2根拠は、 ノート X・176の「一本の線のあとのガルニエの分業
論以後が『 5 諸学説 』よりもあとに、 あるいはこれと並行して執筆され
た」41)という推定の決定的な根拠にはなりえないのである。
次に、第3根拠について。 大野氏は、ノート Z・303の「工場に関する最
近のイギリスの官庁報告書」に基づく記述の末尾の 「報告書の字句を見るこ
と」という文言、ノート[・358の報告書の詳細な数字を含む記述、ノートX

39)大野論文A、222ページ。
40)同上、222ページ。
41)同上、222ページ。

ー82ー

・178での「要約的」記述という事実から、ノートZ・303―→ノート[・358
―→ノートX・178という執筆順序を推定される。 しかし、ノートX・178の
「記述における『人口中の僕婢部分は、・・・・・・イングランドで100万人にのぼ
る』ことの認識は、 たぶん1861年春におこなわれた国勢調査の報告にもとづ
くものであろう」42)し、また、「この記述は、『織物と紡績の工場で直接に働
いている労働者全部』の数を前提としているかぎり、 『工場、 1861年4月24
日付、 下院の要請にたいする報告書 (1862年 2月 11日、下院の命により印
刷)』にもとづくとみられ」43) るとすれば、そして、マルクスがこの『工場』
を1862年 2〜3月 には読んでいたことは 「1862年 3月 6日付の手紙で、これ
に由来する『gigs 』および『 feeders on circular frames 』に言及してい
たことからあきらかである」44)という大野氏の推定が正しいとすれば、氏自
身も言われるように、 ノート X・178の 「記述は1862年3月には書くことが
できたものである」45)、と見ることが十分可能であるということになる。し
たがって、うえの事情それ自体は、ノート X・178がノート[・358よりもあ
とで執筆されたことの決定的な根拠にはなりえない46)
 この問題を考える場合、 なお次の諸事情を考慮にいれる必要があるように
思われる。まず、ノートZ・303の記述について、@文中の「官庁報告書」は
MEGA「異文」注では「工場法」となっている(MEGA、U、3/2、Apparat
・Teil 2, S. 28;草稿集D178)。 A「官庁報告書」の原文は、 「Return
ではなくて「Report」となっている。[ノート]\では、『工場 Return』と
『工場監督官報告書 Reports 』とがはっきり区別されている。] B「異文」

42)同上、227ページ。
43)44)45)同上、222ページ。
46)内田氏は、この問題について次のような批判・皮肉を表明されている。「ノート
[、 S.358に『工場』からの『詳細な記述』があり、 ノートX、 S.178にはその
『要約』があることをもって、 『詳述』→『要約』の執筆順序を必ずしも根拠づ
けられない。 ちなみに吉田文和は、 ポッペの『 要約 』(ノートX、 S. 192.
cf. "im Lauf des 18ten Jhdt.")→『詳細な引用』(ノート]\、S.1166. cf.
"Bis zur Mitte des 18. J. H.")という順序で機械論草稿『連続』執筆説を根拠
づけられている」(若手マルクス=エンゲルス研究者の会、1985年度例会、 当日
配布の内田「大野論文へのコメント」)。

ー83ー

注によると、 末尾の「(これの結びを書き終える前に、報告書の字句を見る
こと。)」という部分があとから書き加えられたものである(草稿集D178)。
これらのことから、 ノート Z ・ 303の本文執筆のときマルクスは「報告書
Return」の現物を見ていなかったと言えよう。また、 MEGA編集部の「注
解」では、 また大野氏の推定でも、 この「報告書 Report」とは『下院の奉
答文に関する報告書、 1861年4月24日付、 1862年2月11日、 下院の命により
印刷 Return to an address of the Honourable The House of Commons,
dated 24 April 1861. Ordered, by the House of Commons, to be
printed, 11 February 1862.』のことであると断定されているが、はたして
そう言いきれるかどうか疑問の残るところである。 次に、 ノート[・358の
記述について、 @冒頭の「報告書 Report」は MEGA「異文」注によると
「国勢調査」から書き換えられたものである(MEGA、U、3/2、Apparat・
Teil 2, S. 44;草稿集D307)。A「報告書」(予想される、あるいは、あと
から入手された「国勢調査」の報告書のことかもしれない) の日付が「1861
年または1862年」という曖昧な表現になっている。 B「『下院の奉答文に関
する報告書』、 1861年4月24日付。(1862年2月11日印刷 )」という部分は、
あとから書き加えられた部分である( MEGA、U、3/2、Apparat・Teil 2,
S. 44; 草稿集D307)。これによって考えられることは、 本文執筆時にはマ
ルクスは『 報告書 Return 』を見ていなかったのではないかということであ
る。上記の「 報告書 Report 」がこの『報告書 Return 』のことであるとし
ても、少なくとも本文執筆時にはマルクスは正式の『 報告書 Return 』を手
元に置いていなかったと考えなければならない。ともあれ、 これらの諸事情
を考慮に入れると、『工場』の再読→ノート[・358の記述という大野氏の推
定ははなはだ不確実・不正確なもののように思われるのである。 なお一層厳
密な検討を要するのではなかろうか。
 次に、 第4根拠について。 大野氏は、「1862年3月ごろには、『T 資本
の生産過程』の後半部分の編成項目が次のように変化した」として、「3 相
対的剰余価値  4 資本の蓄積  5 剰余価値にかんする諸学説 」とい
ー84ー

う編成項目を提示され、 これとノート X・178の「資本と労働にかんする最
終章」という文言とが矛盾すると言われる。 しかし、 ノートX・178でいわ
ゆる「1859年プラン 」にもとづいて「資本と労働にかんする最終章」(プラ
ンでの正確な項目名は「5.資本と賃労働 」)を指示したマルクスが、それ
より6ページ先のノート X・184でとりあえず「3 相対的剰余価値  4 
絶対的剰余価値と相対的剰余価値との結合   5 剰余価値に関する諸学説
[6 本源的蓄積  7 資本と賃労働]」([ ]部分はいわゆる「中間プラ
ン」以後マルクスの言及がなくなるから)というプラン変更47)を行なったか、
あるいは、 大野氏の言うように「3 相対的剰余価値  4 資本の蓄積 
5 剰余価値に関する諸学説」というプラン変更を行なった (この場合には、
まだノート・][のプランのようなものが成立していないので、「資本と労働に
かんする最終章 」が存在するのかどうか、存在するとすればどこに位置づけ
られるのか不明。)と見れば、なんらそれは矛盾ではないであろう48)
 大野氏は、ノート X・178の「資本と労働にかんする最終章 」という表現
について、「ノート・][、1139ページに書かれた『第3編 資本と利潤』の
プランは、『12 結び、「資本と賃労働」』を最終項としているのであり、
『資本と労働にかんする最終章』という表現は、 これを前提とする以外にな
く、したがってこれ以後に書かれうるものである」49)、と言われるが、しか
し、ノート][のプラン作成以後マルクスは直ちにこのプランの編別構成に従

47)内田氏は ノート X・184のプランについて本稿とほぼ同じような解釈をされてい
る。すなわち、「3 相対的剰余価値・・・・・・。4 絶対的剰余価値と相対的剰余価
値との結合・・・・・・。 5 剰余価値に関する諸学説。6 資本の生成/資本蓄積と本
源的蓄積 /。 7 資本と賃労働・・・・・」( 若手マルクス=エンゲルス研究者の会、
1985年度例会コメント=質問集、7ページ。)
48)大村氏も ほぼ 同様の批判を加えられている。 すなわち、 「氏の疑問は『 b.分
業』の末尾が『学説史 』の起筆以前に作成されたと理解した場合でも、 @『中間
プラン 』が記入されているのが右の『最終章 』に言及されている個所よりも更に
6ページ進んだ 184ページであり、 A『中間プラン 』を境に、 マルクスが『1861
ー63年草稿』起筆段階における『資本の生産過程』論の構想の『4) 本源的蓄積』、
『5) 資本と賃労働』に言及することがなくなる、 という2点を考慮すれば解消
されよう」(大村・吉田共同論文、47ページ)。
49)大野論文@(上)、218ページ。

ー85ー

って執筆していたとは思えない。というのは、たとえば、ノート]]・1255に
おいてマルクスは次のように述べている。「絶対的な資本量が、 個々の資本
家の手中で増大し、それが社会的[性格]の規模を獲得するあいだに、 他方
では、諸資本の構成に一つの変化が生じる。 不変資本にくらべて可変資本が
相対的に減少し、・・・。{このことは、資本主義的生産の特徴から諸結果を導
き出す次のδ)において総括すべきではないか、それは問題だ。 }」(MEGA
2045;訳50)、237ページ)。文中の「次のδ)」とは、内容的に考えてノート ][
のプランで言うと「7 生産過程の結果 」か、 あるいはもしかすると「6
剰余価値の資本への再転化。・・・・・・」のことであろう。しかし、マルクスはそ
のような指示文言を与えてはいない。「δ)」という記号・番号は、 筆者が推
測するに、目下マルクスが執筆中の「γ)機械。等々」の「次のδ) 」という
ことではなかろうか。あるいは、この「δ)」という記号・番号は、 α→ β→ γ
の次の番号「4)」を意味し「4)資本の蓄積 」を指しているのかもしれな
51)。しかし、いずれにしても、マルクスは、ノート][のプランに正確に従
った指示文言を与えていないと言わざるをえない。また、ノート]\およびノ
ート]]の[表紙第二面]の「3)相対的剰余価値」「γ)機械、 等々」という
タイトル、ノート]]Uの[表紙第二面]の「4) α)剰余価値の資本への再転
化。・・・」、ノート]]U本文の「4)剰余価値の資本への再転化」等々という

50)マルクス著 / 中峯照悦 ・ 伊藤龍太郎『1861ー63年草稿抄  機械についての断
章』、大月書店、1980年。 以下においても、 この訳書からの引用にさいしては、
引用個所を、訳IIIページと略記して示す。
51)内田弘氏は、この「次の δ)」について次のように解釈されている。「ここでいう
『もっとあの[節]δ 』とは、『 1863年プラン 』で考えると、 α=商品 ・ 貨幣
論、 β=転化論、 γ=剰余価値論、 δ=蓄積論となる。すなわち、マルクスは機械
論草稿の『後半』・・・・・・では『1863年プラン』における『7.生産過程の結果』に従
って、『商品の価格。プルードン 』を位置づけているのである」( 内田論文 C、
91ページ)。筆者の場合は、4番目の文字ということで「δ)」=「4)」と解し、 さ
らにこの「4)」を、内容を考慮して強いて理解しようと思えば「4)資本の蓄積」
のことであろうと理解する。しかし、内田氏のように「 δ)」とは「『1863年プラ
ン』で考えると、 α=商品・貨幣論、β=転化論、 γ )=剰余価値論、 δ=蓄積論と
なる」とまで言われると、 そのようなプランが『1863年プラン 』の何処にあるの
かと問いたくなる。解釈の意図は解るが、 強引にすぎるのではなかろうか。 あく
までも一つの可能な解釈にすぎないものと理解しておくべきであろう。

ー86ー

表現(MEGA、2214)は、すべてノート][のプラン以降に執筆されたもの
であるにもかかわらず、 このプラン項目名・項目番号にかならずしも従って
はいないと言わざるをえないものである。 とすれば、 たとえノートX・176
ー211がノート][のプランのあとに書かれたものであるとしても、「ノートX
・178の『資本と労働にかんする最終章』という表現は、これ[ノート][の
プラン――松尾]を前提とする以外になく・・・ 」52)という大野氏の主張には
根拠がないと言わざるをえない。
 また、大野氏は、1862年 3月 以降「3 相対的剰余価値  4 資本の蓄
積  5 剰余価値に関する諸学説」という編別構成プランが存在していた根
拠として、「ノート・Uの末尾にみられる 『T、4、本源的蓄積』はノート
・Vで姿を消し、かわって、『資本の蓄積 』を意味する『蓄積のところで』
(ノート・V、104ページ)、『蓄積の項』(ノート・W、168ページ)、『蓄積に
属する』(同ノート・171ページ)という表現が散見される」53)ということ、
「『5 賃労働と資本』項もたぶんこれをさすであろう『第5章』(ノート・
V、103ページ)の表示を最後に、もはやみいだせない」54)ということを指摘
されるが、 しかし、そうであるとすれば、どうしてそれ以後「4 資本の蓄
積」という表現が、(「剰余価値に関する諸学説」については番号「5」が付
けられているにもかかわらず、)登場しないのか、不明と言わざるをえない。
たとえば、ノート\・379では「これは蓄積の篇に属する」(MEGA、553;
D359)、 ノート]・478では「このことは資本の蓄積に関する篇 Abschnitt
でも説明することにしよう」(MEGA、737;E104)という表現が見られる
が、番号「4)」が付けられていないのである。 したがって、 1862年3月当
時、 マルクスが「3 相対的剰余価値 」と「5 剰余価値に関する諸学説」
の間に 「4 資本の蓄積 」をはっきりと位置づけていたと言えるかどうか、
甚だ疑問である。
 また、大野氏は、1862年 3月 ごろには、『T 資本の生産過程』の後半部

52)大野論文@(上)、218ページ。
53)54)大野論文@(下)、209ページ。

ー87ー

の編成項目が「・・・・・4 資本の蓄積  5 剰余価値に関する諸学説」とい
うプランに変更された根拠として次のように言われる。「ノート・]W、850a
ページでの 『資本の把握でのウェイクフィールドの独自な功績は、 「剰余価
値の資本への転化 」にかんする以前の項であきらかにされている 』というマ
ルクスの名言がこの頃を執筆していたことの論拠にはならない・・・・・。・・・・こ
れらの名言は、これらがおこなわれている『5 諸学説』の位置から、 先行
している諸項目を予示したものとまず理解しなければならない。したがって、
『5 諸学説』以前に、項目編成としても、『協業、分業、機械』および『剰
余価値の資本への転化』(=資本の蓄積 )が予定されていたのである」55)
ここでの記述を、「諸学説 」に先行する項目編成として「協業、 分業、 機
械」および「剰余価値の資本への転化 」の存在を提示したものであるという
大野氏の理解それ自身は正当なものであるとしても、このような項目編成が、
ノート ]W・ 850aの執筆時期(1862年10月)よりずっと先の1862年3月ごろ
から明確に存在していたということにはかならずしもならない。 むしろ、ノ
ート]W・850aのプランは、ノート][のプランを先取りして示したものであ
ると理解すべきであろう。というのは、このころになると、ノート][のプラ
ンを先取りしたような指示文言が幾つか現われるからである。 たとえば、ノ
ート ]W ・ 853には 「プライスの幻想には収入とその諸源泉とに関する篇
Abschnitt のなかで立ち返ること」(MEGA、1372;F291)――これに比
して、ノート]Y・977では「剰余価値と利潤との混同または両者の区別の欠
如は、ただ正当な叙述それだけが問題であるかぎりでは、 経済学における最
大のばかげた誤りの源[であった。]・・・・・・だが、このような批判は、この章
の最終部分 Abschnitt に属する」(MEGA1606;G101)と言われている。
また、ノート]X・935では「プルドンとバスティアとの利子に関する論争は、
俗流経済学者たちが経済学の諸範疇を擁護するやり方としても、 浅薄な社会
主義・・・・・・がそれを攻撃するやりかたとしても、特徴的である。われわれは俗
流経済学者に関する篇のなかでこの点に立ち返る」(MEGA、1522;F515)。

55)大野論文A(上)、213-214ページ。

ー88ー

ノート][・1086では「俗流経済学者たちに関する章のなかで言及すること」
(MEGA、1776;G386)。ノート][・1089では「われわれはこれらの例外
を、われわれの本文のなかでは、 価値の生産価格への転化について述べる箇
所で取り上げなければならない」(MEGA、1796;G397)。ノート][・1098
では「蓄積、 すなわち剰余価値の資本への転化の最初の叙述にさいしてすぐ
に言えることは・・・・・」(MEGA、1796;G425)。ノート][・1109(MEGA
1816-1817;G460)やノート][・1136(MEGA、1855;G532)の記述、等
々。あるいは、ノート][のプランの「12、結び。『資本と賃労働』」を想起さ
せるノート][・777の「この点は、『資本と賃労働との関係の弁護論的叙述
に関する篇 Abschnitt』で説くことにしよう」(MEGA 1251;F81)とい
う記述がある。したがって、 大野氏の言う1862年 3月ごろのプラン(とりわ
け「4 資本の蓄積」)がたとえ存在していたとしても、ノート][・850aの
叙述はその存在の根拠にはかならずしもならない。
 最後に、第5根拠について。 大野氏は、 ノートX・176以後の分業論はノ
ートZ・299〜ノート\・ 379における「生産的労働と不生産的労働との区別
」論に立脚した社会的分業論であり、 したがってノートX・182ー183はノー
トZ・299〜ノート\・379よりあとに執筆されたと推定され、 この推定をも
って、ノートX・182-183が「『5 諸学説』よりもあとに、あるいはこれと
並行して執筆された」をしめすとされる。
 しかし、ノートX・182-183部分は、 少なくとも、 1862年夏以前に執筆さ
れたものと思われる。というのは、こうである。ノートX ・ 182に次のよう
なあとから書き加えられた部分がある。「これによって、 概説書の原稿がそ
の著者自身に与えてくれる ―― と証人能力ある証人たる ロッシャー教授の
[言う](  を見よ)ような――、私的な楽しみは別としても、国民的富の
増加が生じる」(MEGA、280;C496-497)。MEGA注解には次にようにあ
る。 「この文の追加を行なったさいにマルクスは正確な出典指示のために場
所を空けておいた。 これはおそらく、『国民経済学原理』(ヴィルヘルム・
ロッシャー『国民経済学体系』、第1巻)、増補改定第3版、第1巻、シュト
ー89ー

ゥッガルトおよびアウクスブルク、1858年、のことであろう。・・・・・1862年の
夏、マルクスは、 フェルディナント・ラサールから借りたこのロッシャーの
書物を、ノート第7冊、 ロンドン、 1859ー1862年の223-233ページに抜粋し
たのであった。この追加部分が書かれたのは、 たぶんこの抜粋以降のことで
あろう」(MEGA、U、3/1、Apparat、144;C498-499)。これによると、こ
の追加部分の書き加えは、 1862年 の夏 ( = ロッシャーの書物の抜粋)以
降であるとされている。 しかし、「マルクスは正確な出典指示のために場所
を空けておいた」、 つまり正確な出典指示ができない状態であったというこ
とから考えると、書き加えは、 1862年の夏(=ロッシャーの書物の抜粋)以
前に行なわれたものと推定すべきではなかろうか。 MEGA注解が言うよう
に追加部分の書き加えがたとえ1862年夏以降であるとしても、 もとのノート
X・182ー183 の執筆は(ロッシャーの書物の参照指示が書き加えた以前の本
文に存在しないことから考えて )1862年夏までに行なわれたことは確実であ
る。したがって、われわれの推定に従えば、 追加部分の書き加えが1862年夏
以前であり、 ノート X・182-183の執筆はさらにもっと早い時期――「諸学
説」以前、遅くともロッシャーの書物のやや正確な出典指示[「『国民経済学
の基礎』、第3版、1858年」)があるノート]T・499(1862年7月ごろと推定)
以前あるいはロッシャーの書物が登場する1862年 6月 16日付のマルクスのラ
サール宛の手紙以前――に行なわれたものと考えられる。 したがって、ノー
ト X・182ー183は、 「諸学説」以後に執筆されたものではなく、 おそらく
「諸学説 」以前に、あるいは遅くとも「諸学説」前半期に執筆されたもので
あると見てほぼ間違いないと言えよう。 したがって、この第5根拠は、「ノ
ート・X、176ページの・・・・・・一本の線以後の記述が『5 諸学説』以後に書
かれた状況をうかびあがらせる」ものではけっしてなく、 むしろその逆の状
況さえうかびあがらせるものであるというべきであろう。
 以上、われわれは、大野説の5つの根拠のうち、第2―5根拠を検討した。
その結果、 それらはけっして機械論草稿連続執筆説の根拠をなしてはいない
ということがわかった。 残るは、第1根拠である。これについては、1985年
ー90ー

秋以降、大村・吉田両氏によって、論争の「新たな展開」=「『b.分業』項
末尾の執筆時期」を問題として検討・批判されている。次に、大村・吉田両氏
の大野批判を検討することにしよう。
(まつお じゅん/経済学助部教授/1988.3.10受理)

(追記) 本稿(下)脱稿直後(1988.4.6)、大野節夫「ノート・X(1861-63年
草稿)の執筆過程」『経済学論叢』(同志社大学)第39巻第3号、1988年3月
10日発行を入手した。そこでは、 大野説に含まれている多くの「あやまりと
あいまいさが・・・・・・再検討され、払拭され」(28ページ)ている。この「訂正」
大野説については、 別の機会に 稿を改めて 検討することになるであろう。
(1988.4.11)

ー91ー