<<前のページ | 次のページ>>
フレーム
2005年10月5日(水)
小さな恋

ここ一月あまりの間、小さな恋をしていました。
妻が亡くなって以来、まさかこんなに早く僕の心が動かされる女性が現れるなんて思ってもいませんでしたが…。
結局、形も成さないまま終わってしまいましたけど。
その間、妻に対する罪悪感のようなものと、いまだ妻を思う気持ちの強さと、それでいてまた恋が出来る自分への驚きと、それに伴う喜びと切なさと、そして、現実的な問題としてはまったく踏み出せそうにない自分の心持と、様々な思いに揺れました。
人はちょっとしたきっかけと出会いさえあれば、新しい自分を見つけたり、視界が開けたりするもんなんだとしみじみ感じました。
今はまだ突然に訪れた小さな恋を失ったばかりなので、胸が痛苦しいのですが、さばさばもしてます。
この1年数ヶ月の間、周りの親しい人たちに甘えながら心のリハビリを公言して好き勝手してきた僕ですが、そろそろちゃんと前を向こうって、そう確かな気持ちが芽生えてきました。

小さな恋といえば思い出すのがMISIAの1stアルバムのなかの『小さな恋』という曲。数ある彼女のメジャーな曲の中にあっては、あまり目立たない曲だけど、僕の中では『EVERYTHING』よりもずっと好きな曲です。その詞の中に書かれた女の子のなんといじらしくて可愛いこと!

最近アニメ化されただけでなく、近々映画化もされることも決定した『ハチミツとクローバー』、通称ハチクロが面白い♪
登場人物のそれぞれが、それこそ小さな恋、揺るぎない愛を抱きながらも、当人たちの思い通りに決して事が運んでいかないもどかしい恋模様が、仲間として過ごす青春の一瞬の輝きの中で、時にコミカルに、真摯に描かれています。
自分の中の好きだという感情に正直であればあるほど、思い合うこのなんて難しいことか。そんなことを改めて思い出させてくれる、少々乙女チックな漫画です。

2005年8月22日(月)
梅花藻

もう10日以上前になるが、友人に付き合ってもらって、滋賀県の醒ヶ井(さめがい)というところに咲くことで有名な梅花藻(ばいかも)を見に行った。
この梅花藻、きれいな水に育つ水草の一種で、初夏から夏にかけて白い梅の花に似た小さな花を水面からのぞかせることでその名がついたらしい。
醒ヶ井という場所と地名はいつの間にか知ってはいたが、京都から湖北を旅するにも、名古屋や長野方面に行くときにも、ただ通り過ぎるだけの場所だったのだが、その名前の持つ響きや字からも気になってはいたのだと思う。
何年か前にテレビニュースか何かで醒ヶ井の梅花藻の事を見て以来、ずっと見たい、行きたいと思いつつ見逃してきたのだった。
東に名神高速を、西に国道27号線に挟まれた旧中仙道に沿って街はあり、山間の小さな町だが、昔も今も東と西を結ぶ重要な地点であったのだと思われる。
町はまだ、明治・大正、昭和初期の面影をそこここに残していて、梅花藻の咲く川は各家々で果物や飲み物を冷やせるように工夫して使われていて、いつか見た懐かしい風景が、情緒あふれる町に溶け込んでいて、一歩この町に踏み込んだだけで、この町が好きになってしまった。
去年、鶴来に行ったときにも感じたが、高樹さんのおっしゃる物語の生み出させる地霊のようなものが、物語を生み出さない僕にも感じられて、一緒に付き合ってくれた友人に熱く語ってしまい、困った顔をされたほどだった。
たまたま入った小さな路地の奥に小さなお寺があって、そこに御葉付き銀杏と呼ばれる樹齢150年ほどの大木が合って、この樹のどこか神々しいまでの堂々とした佇まいに、しばし見とれてしまった。葉っぱの表皮が膨れてぎんなんをつけることからこの名前がついたようだ。
地元のお醤油屋さんが店の一角を喫茶店にしていて、ちょうど一息つきに入った頃にちょっとした夕立がやってきて、古い建物の格子越しにその様子を見ていたのも、何だか心の癒される出来事だった。僕はここの地霊から歓迎されているなぁって、勝手に思って、一人悦にいっていた。やっぱり友人は呆れ顔だったけれど。

2005年5月27日(金)
最後の夜

明日は僕が迎える初めての妻の命日だ。
法事も済ませたし、明日は仕事なので、何気なく過ぎていくものと思っていたが、ここのところ、妻の友人や妻を慕ってくれる人、僕の友人などが1周忌を迎えることへの連絡をくれたり、お参りに来てくれたりと、妻の死が決して僕個人だけのものではないことを改めて感じた。

今日の午後、僕と妻が関係を持ち始めた頃に、妻の直属の部下だった女の子から電話をもらった。。
当時は、ただならない僕達の関係を感じ取って、いろいろな意味で迷惑もかけ、そのことで僕達も、彼女に対して言葉に表せない複雑な思いを抱いた子だった。
妻にとっては、仕事を辞めるまで同じ店で働くスタッフとして、やりにくいことも多々あったと思う。
それでも、自分の後を任せられる人材として、彼女を育てることに全力を注いだ妻。
そうした妻の思いが通じたのか、元スタッフとしてではなく、一人の女性として、人間として妻を認めて、妻が仕事を辞めた後も、何かにつけ仕事のこと、プライベートのことなど、相談したり、されたり、一緒に飲みに行ったりする、お互いが心を許す関係になったようだ。
一時は僕の部下でもあったわけで、それなりの親交があったこともあって、妻の1周忌に僕の様子をうかがいがてら電話をくれたようだった。
この彼女、数年前に結婚して、今3歳になる男の子がいるのだが、この子が生まれつきの重い病気を抱えていて、食事が一切取れず、鼻に通したチューブから栄養剤を得てここまで来たとのこと。未だ一人で歩くことも話すことも出来ないながら、少しずつ主張を見せるようになったようで、そのことを彼女は喜んでいた。鼻のチューブを嫌がって、外そうとするので、近くお腹に直接チューブをつける手術をするそうだ。「人にこんな風に説明すると、すごく驚かれるけど、そんなことないんですよ」と、いささかの誇張もなく、体裁を装うでもなく、ごく自然なこととして話してくれた。
去年、妻を友人と一緒に参ってくれた時にも、彼女は言ったものだった。
「わたしはこの子がわたしの子で本当に良かったって思ってます。この子にしてやれることは、どんなことでもしてやりたい。」
決して他人を気遣える余裕などないように思える彼女からの、心のこもった電話に胸が熱くなった。
僕も妻も本当に幸せな人生を送っているのだと感じた。それは今も尚なのだ。

一年前の今夜、この日が妻と最後の夜になるとは思いもしなかった。
今も覚めない夢を見ているようで、今朝もいつもと同じように
妻が仕事に出かけて、夜には帰ってくるような気がして、一年という時間の経過がどうしても実感できずにいる。
一年前のこの日休みだった妻は、朝から調子が悪かったようで、歩いて15分ほどかかる病院に出かけた。その前日にも、仕事中に立っていられないほどの頭痛に、仕事の途中で病院に駆け込んだらしいが、たいした検査もなくしばらく様子を見ようということで帰されたらしい。薬を飲んで、少し楽になったらしく、その日、会社の中でももっとも世話になった人の送別会の幹事役を引き受けていたらしく、そのまま出席したのだった。そうした経緯もあって、昼前まで寝ていた妻は、優れない体調を押して病院に向かったのだろう。でも、出かけた時間が遅かったのか、診療時間外ということで、やむなく帰ってきたらしい。せっかく出てきたのだからと、帰りに買い物もしたらしい。いつものように、僕が仕事を終えて、今から帰るという電話を入れると、その日の出来事を簡単に説明したあと、でも、今日少し安く買い物できたからご馳走やでっと、嬉しそうに言った。帰ってみると、僕の大好きなお刺身が、いろいろ盛り合わせて大皿に盛られていた。
食事を終え、後片付けをしている彼女が、突然僕に向かって言った。
「あたしが死んだら、あなたどうする?」
夫婦ならこうした会話は、時折することと思う。
僕も妻の調子が悪いことは知っていたが、それゆえに、夫婦の甘い語らいの一つとして、別段何ひとつ構えることなく「泣く。」と一言答えた。
「泣くだけ?」
「とりあえず、泣く。でも、もし僕が先に死んだら、早いこと新しい恋をして、さっさと結婚してくれたらええしな。」
「あたしは嫌や。あなたが他の人と恋するなんて、ちょっと哀しい」
そういう妻を見ると、流しにもたれながらニコニコ笑っていた。
「なんやそれ。自分はさっさとするんか?」
「そらするかもしれへん。でも、あなたとの恋みたいなんは、こんな激しいのんは、もう一生あらへん」
「ずるぅ…」

小説でも、こんな都合のいい会話ってあるんかなぁっと思えるほどの、他人が聞いたらアホらしくなる会話を、妻との最後の夜に交わせたことを、僕は今、心から喜んでいる。あの時、僕みたいに「新しい恋をして」などというクールぶった愚かな考えを、さもそれが正しいことかのように妻に言われていたら、今僕は、今日の日を迎えて、これほどにも愛しく妻を想うことはなかったと思えるもの。
明日は母と妹が妻と一緒に過ごしてくれるとのこと。静かに迎えたいと思います。

2005年5月9日(月)
KISS

学生の頃、友人が店長をしていた、その頃から増え始めた24時間営業の喫茶店で、4,5ヶ月バイトをしていたことがある。
バブル華やかな頃だ。今のように就職難の時代ではなかったと思うが、その頃僕は、卒業を目前に控えながら、まだ就職先を決めていなかった。
そんな僕が、お客さんのほとんどいなくなる夜更けの喫茶店で、有線を聞きながら掃除をしている時に思ったこと。
こんな風に傍らに音楽を聴きながら出来る仕事っていいなぁっということだった。
今の仕事は、残念ながら音楽を聴きながらというわけには行かないが、家でパソコンなどしているときは、ずっと何かしらかけている。
主にJ−POP中心だが、洋楽から邦楽、クラシックからジャズなど基本的に何でも聞くほうだ。パソコンの横には新旧取り混ぜたCDが二山ほど積まれたままだ。
先日、友人と持っているCDがどれぐらいあるかって話になって、ざっと4、500枚だろうと答えていたが、あるとき数えてみると、900枚以上あって、恐らく今は、1000枚近くあるのではないだろうか。
今日はリンクのページにも載せている『都胡の間』の都胡さんが、日記帳にUAの『情熱』の話をしていたので、懐かしい気持ちでこの曲の入ったアルバムを聞いている。僕の場合、ファンになると、ずっとその人のCDを買い続ける傾向があって、サザンや竹内まりや、大貫妙子などは、レコードでそろえていたものを、またCDで買いなおしているぐらいだ。
UAもそうしたミュージシャンの一人で、最新アルバム以外は、大体そろえていると思う。最近の彼女のアルバムは、かなりエキセントリックな感じで、馴染めないこともあるが、この頃のUAは、とても親しみやすい。『情熱』、『リズム』は僕も大好きな曲だが、『水色』という曲が彼女の歌う曲の中でも、とりわけ好きだ。
この曲は大阪へ仕事で毎日行っている頃によく聞いた覚えがある。僕の友人が当時とっても気に入っていたアルバムで、彼の車でもよく聞いた。
こんな風に、僕の記憶は音楽で彩られることが多くて、あの曲が流行っていた頃だから、あの時代っていうように、音楽とともにその時代の空気感や色彩がまざまざと浮かぶ。
妻も音楽を聞くのはとても好きなようだったが、僕のようになんでも聞くというわけではなく、後年はしっとりとした落ち着いた曲を好んだようだ。妻との思い出にまつわる曲など挙げたらキリがない。
それでも、1曲、二人にとって、とても大切で、二人がこよなく愛した曲がある。
S.E.N.Sの『人と時と風の中へ』という曲だ。この曲は友人が紹介してくれた曲で、曲の醸し出すこのタイトル通りの世界が脳裏に広がって、初めて聞いたときは鳥肌が立ったのを覚えている。
僕と妻は、結婚を前提に今住んでいるマンションに二人越してきたのだが、僕の両親に彼女の紹介が済み、後は妻の両親に会って、結婚の承諾をもらうだけとなったときに、ご両親が九死に一生を得るというような事故に逢われて、結婚する機会を逸してしまった時期があった。
一緒に住み始めて2年ほど、籍を入れない同棲状態が続いたが、田舎の妻の兄夫婦の粋な計らいで、とにかく式を挙げて、当時、半身不随で不自由な生活を余儀なくさせられていた妻の父を、バージンロードを歩かせることを目標に二人の式をやろうということになったのだった。
この結婚式の新婦入場に使った曲が『人と時と風の中へ』なのだ。僕達は兄の知り合いが管理を任されていた、室内植物園のよう場所を借りて式を挙げたが、まだ暮れ切らない夏の夕暮れ、緑の葉と白い花々の咲き乱れる中、妻と父が二人満面の笑みを浮かべながら、僕の側まで来てくれるのを、この曲を聴くたびに思い出したものだ。
妻もこの選曲はとても気に入ってくれた。まさにぴったりだとたいそう喜んでもくれた。この曲は、僕達の幸せへとつながる曲だったのだ。
だからこそ、なのだが、妻を送る時に僕はこの曲を迷わず使った。二人の大切にしていた曲で妻を送ること以外に僕には思いつかなかったからだ。
妻が亡くなってから、僕は4、5ヶ月の間、この曲の入ったアルバム以外は聞かなかった。どんな音楽も僕の中に入っては来なかったし、聞きたいとも思わなかった。
部屋の中でも車の中でもエンドレスでこのCDを流している僕を、家族や友人はそっとしておいてくれた。ある日母が、『人と時と風の中へ』を聞いて、ポツリと呟くように「この曲は本当に寂しい曲やなぁ」と言った。
その時にこの曲の持つ世界の奥深さを感じた。幸福も、また不幸もともに「人」と「時」と風の中へなのだと。
去年の秋、車での伊勢志麻への旅に誘ってくれた友人たちのために、車のBGMにかけていたS.E.N.Sを取り出したのをきっかけに、また以前のようにいろいろな音楽が聴けるようになった。反対に以来、S.E.N.Sは聞いていない。聞くのが怖くもある。でも、いつかやっぱり聞いてみることだろう。そのときの僕は、何を感じるのだろう。
音楽はその時々の情景に結びついているといったが、最近、気に入って聞いているクリスタル・ケイの『KISS』は、妻が亡くなってからの曲なのに、彼女に結びついて離れない曲となってしまっている。
歌詞はKISSの喜びと、幸福感を素直に歌った曲なのだが、この曲の中の女の子のように、きっと妻は二人の幸福な未来を夢見て逝ったのだろうと、この曲を聴いていると思えてならない。そう思うのは、僕の願いや祈りのようなものかもしれないが、不思議と確信に似たものがある。
時折妻は僕に聞いたものだった。「なんであの時、キスしたん?」
もちろん、はじめてキスしたときのことを妻は言っている。たった一度のキスが、運命を変えることもあるのだと、妻は気づいて言っていたのかと今は思える。僕はそんな風なことまで考えずに、うやむやに答えていただろうけど…。
KISSといえば思い出す曲がもう一つ。竹内まりやの『マンハッタン・キス』。これも妻との関係が始まったときに流行っていた、本当に痛くて切ない曲だ。竹内まりやのすごいところは歌詞の中に「私より本当はもっと孤独な誰かが あなたの帰り 待ってるわ すれ違う心の奥見透かしながら」という詞があること。この曲に胸を痛めた人は多いと思う。多分、竹内まりやにこうした恋愛の経験がなければ書けない詞だと、僕は思っている。

左の写真は、そのお気に入りのクリスタル・ケイのニューアルバム。右の写真は、僕のCDとDVDの保管場所。何と玄関入ってすぐのところに置かれています。もともと、仮に置いていたに過ぎないのですが、すっかり定着しちゃってます。高樹さんの言う、地震のときの出口確保って言うのに、多分に問題あります。

2005年5月4日(水)
新しい命

今朝、弟夫婦に男の子の赤ちゃんが生まれました\(^o^)/
母子ともに無事だと聞いて、ホッと胸をなでおろしています。
昨日の夜、弟とその奥さんに電話で様子を聞いていたときは、産まれるのは連休明けになりそうということだったのですが、その後、急に産気づいたそうです。
今日が予定日その日だったのですが、夫婦ともども高校の教師をしている二人らしいなぁっと、出産の無事を聞いた後、何だか可笑しくなりました(*^o^*)
妻が亡くなった折、随分長く仕事を休んで泊り込んで僕に付きっ切りでいてくれた弟とその奥さん。新しい命が芽生えた時、少し恥ずかしそうに報告してくれたのが昨日のようです。二人に感謝の気持ちと、心からのおめでとうの気持ちで今は一杯です。

先日、友人たちとBBQをして楽しんだのですが、その帰り、琵琶湖と比叡山を背景に夕陽の見れる、妻の大好きだった場所に車を止めて、しばらく黄昏ていました(^o^;A
そのときにふと思ったのですが、今月の妻の命日までは、「去年の今、妻は生きていたのに…」と思って、感傷に浸ることも出来るのに、命日を境に、「去年」という時の単位が失われて、ほんの少し、自分の中の感傷から距離を置くことが出来そうな気がしました。
こんな感覚は、今までに感じたこともなく、僕が漠然と考えていた、「時間の力」の意味が、実感として初めて感じられたような気がしました。
尼崎の列車事故を境に、少々ナーバスになっていた僕の気持ちが、少しだけ軽くなったみたいです。
妻の命日となった5月、僕は大好きだった5月のイメージに暗いものを抱いていましたが、今日の弟夫婦の新しい命のお陰で、何だかつき物が落ちるような、爽やかな気持ちで、新緑のこの季節を感じられるようになりそうです。
生と死と、入れ替わり立ち代り…。こうして人々は人生を紡いできたのだなぁっとしみじみと感じます。

左の写真は、随分前に家の近くで琵琶湖を背景に夕陽を撮ったときのもの。右の写真は去年の秋に弟夫婦と、若狭の水上勉ゆかりの若州一滴文庫に行った時に写したもの。僕たち三人と、このときにはもう奥さんのお腹の中には赤ちゃんもいるので、今日の日の記念に載せて見ました。

2005年4月14日(木)
めぐり合わせ

いつの間にか時間は過ぎて、来月は妻の一周忌になる。
その法事の相談をしに、菩提寺である京都の岡崎の黒谷(くろだに:金戒光明寺)さんの中にあるお寺へ行く。
近くに平安神宮を始め、銀閣寺から哲学の道を経て、南禅寺へと続く桜のきれいなところが続き、例年より遅い目の開花となった桜を見に来る観光客で界隈は溢れていた。
滋賀県から京都の実家に行くまでに1時間以上かかり、実家から黒谷さんへ行くのに、さらに1時間以上かかってしまった。普段の倍以上の時間がかかって両親ともどもぐったりした気分で到着した。
行く道々で他の車のナンバーを見ると、ほとんどは他府県車であった。この時期に京都の人間なら車で動こうとはしない。
約束していた時間より1時間以上遅れてお寺に着いたが、ここで偶然と呼ぶにはあまりにも不思議な出会いがあった。
車が入れないために、少し離れた場所に駐車して、お寺に続く細い道を歩き、その道沿いにあるお寺の入り口に続く石の階段を登ろうとしたそのとき、道の向こう側から見覚えのある男の人が歩いてきた。
何とそれは妻の兄だったのだ。妻は3人兄弟の末っ子で、郷里には一番上の兄が、家を継いでいて、5人の子宝にも恵まれ、傍目にも幸せに暮している。
今回出会ったのは、2番目の兄。この兄、今年50になるが、ずっと独身で、人生を飄々と生きている。京都の大学を出、そのまま京都にいついた兄を頼って、妻は京都に出てきた。しばらく一緒に住んでいたこともあり、妻にとって、この兄はいつも気にかかる存在だった。

文学と音楽と映画と酒と旅が好きなこの兄とは、趣味の点でもとても気があっただけでなく、実は大学も学部も一緒の
先輩であったことが妻と付き合い始めた頃に分かり、そういう点でも、ある意味妻以上に仲良くもしていた。僕達が田舎へ帰るときは、必ず兄も誘うようにしたし、毎年、年末年始になると、この兄が泊まりにやってきて、一緒に正月を過ごすというのが、僕と妻が一緒になって以来の恒例行事であった。

兄は宅配の仕事をしていたが、会社の中では特に決まった場所をまかされるわけでなく、京都市内全域をカバーする立場にあった。
その兄が、あの時間に、荷物を持って、しかもその荷物は不在のための持ち帰りだったそうだが、あの京都中混雑していたあの時期に、偶然にせよ、妻の法事の相談をしに今にもお寺に入ろうとしていた僕達と出会うというのは、僕達家族にとっては単なる偶然と呼ぶには不思議なめぐり合わせを感じないではいられない。僕達の到着が30秒早くても遅くても、この兄とはめぐり合えなかったはずで、両親も思わず僕の妻が引き合わせたんやろか…と言葉に出さずにはいれないようだった。
妻が亡くなって、その秋にこの兄と、妻の友人たち4人で有馬温泉に行って以来の兄との再会だった。
ちょっとした立ち話で早々に別れたが、ここへ来るまでの混雑でやや疲れを感じていた僕は、この偶然の再会で、とても嬉しい気持ちになり、疲れも吹っ飛んでしまった。
打ち合わせが終わり、僕は両親と別れて、桜を見がてら界隈を歩くことにした。

写真はそのときに撮ったもの。気持ちのいい青空に淡いピンクの花が美しいと思えた、絶好の花見日和でした。右の写真は、疎水沿いの桜を撮ったもの。人が写っていませんが、実は歩道は人で溢れています。