このあたりのお殿様 その2 

− 源平合戦期の武将 多田蔵人行綱 −

  

 多田蔵人行綱は、多田院の開祖、源満仲から数えて7代目にあたり、正五位下伯耆守、また蔵人に任ぜられたことがあるため、多田太郎、多田蔵人また六条蔵人などと号していました。源平合戦期の真っ只中において、多田源氏宗家を継いだ行綱は、歴史の中で重要な役割を果たします。

 

満仲からの行綱までの源氏系譜

 源満仲の嫡男で多田荘を次いだのは頼光でした。
 頼光は大江山の鬼退治をはじめ武勇に優れた武士として有名ですが、彼の時代は藤原道長が摂関政治を完成させた時期のため大きな戦乱もなく、頼光は典型的な受領の一人として過ごします。中央では正四位下、内蔵頭(くらのかみ)、国司では尾張、備前、但馬、伯耆など10カ国以上の守、介を歴任します。当時、藤原氏一門に握られた中央政界で活躍の場がなかった中流貴族は、実利の面で"美味しい"国司任官を望みました。これだけの数の国司を歴任できたのは、とても幸運であり、藤原氏との太いパイプがあったものと思われます。
 頼光の嫡男、頼国も、頼光と同様に、正四位下、内蔵頭となり、国司では摂津、伯耆など7カ国程の守を歴任します。
 その子、頼綱になって初めて「多田」姓を号することになります。しかし、多田源氏の祖頼綱は、従四位下、蔵人、国司も3カ国止まりで父祖からは一格落ちます。
 頼綱の子、明国は従四位下、下野守になっていますが、なぜか佐渡に配流されています。その子、行国は従四位下、佐渡守となり、その長男頼盛は従五位下、摂津守となっています。頼盛の弟頼憲とその子盛綱は保元の乱において崇徳上皇側についたため乱後に斬首されています。

 このように、源満仲以来、その所領を継いだ多田源氏の末裔達の官位は下がり、国司に任官する数も減る一方でした。しかし、満仲の三男の河内源氏を開いた頼信の末裔は、源義家(八幡太郎)をはじめ全国でその名をとどろかせ、清和源氏の嫡流の座を獲得して、頼朝の鎌倉幕府へと続いていくことになります。

 そして、多田頼盛の嫡男が行綱であり、頼光以降、歴史的に希薄な存在になっていた多田源氏を、幸か不幸か、歴史の表舞台に引っ張り出す役目を負うことになります。
 多田行綱の生きた時代は、まさしく源平合戦の真っ只中でした。京で繰り広げられた政権争いとは無縁であっても、北摂の地では勢力をもっていた行綱は、時代の大きなうねりの中に巻き込まれてゆくことになります。

 


鹿ヶ谷山荘での謀議の様子(「日本歴史図会」より)

「鹿ケ谷の変」での密告者

 多田行綱が一躍歴史にその名を残すことになったのは、世にいう「鹿ケ谷(ししがたに)の変」の密告者になったためです。

 治承元年(1177)、権大納言藤原成親や西光法師などの後白河院の近臣らにより、京都東山の僧俊寛の鹿ケ谷山荘において平氏打倒の謀議がなされました。
 その計画とは、祇園会の雑踏に乗じて平氏政権の本拠地六波羅に火を放ち、攻撃をかけるというものでした。といっても、酒を入れる瓶子(へいし)を倒して、「そら瓶子(平氏)が倒れた〜」とふざけあっていたそうですから、計画内容もさぞお粗末なものだったのでしょう。
 ようするに、平氏による官位独占のなかで冷や飯を食わされた貴族達が、「清盛はけしからん。平家は打倒しなくてはならん。」と、酒の席でみんなで気勢を上げたに過ぎない集まりのようでした。

 事の成功に疑問を持った行綱はこの会に見切りをつけ、京都西八条の屋敷に清盛を訪ねて密告したのです。首謀者は全員捕らえられ断罪に処されましたが、行綱はその賞にあずかれなかったばかりでなく、陰謀に加担したかどで安芸の国に配流されてしまいます。

 この会に参加した唯一の武人として、実行隊長の役割を期待されたのでしょうが、出世から外れた貴族達の「愚痴を言い妄想を語る会」に付き合っていられなくなったのではないでしょうか。
 その後、歴史資料において、行綱の記録はしばらくの間途切れることになります。

 

平氏の京落ちに一役

 鹿ケ谷の変から6年後、多田行綱は、藤原兼実の日記「玉葉」に登場します。

 「多田行綱は近々平氏から源氏に寝返るとの噂があったが、今朝はっきり平家に謀反した。摂津や河内を横行して、いろいろ悪行を重ねて河尻の船などを奪い取っている。」と記載されています。行綱は、いつの間にやら安芸の国から多田に帰り再挙の機会を待っていたようです。
 また、同時期の吉田経房の日記「吉記」には、「多田(行綱?)の下知と称して、西国からの船に狼藉を働いている者がいる。これを抑えよ、との京からの命に対して、行綱が早速行動を起こしているが、これには謀反の匂いがする。」と記してあります。

 行綱が再挙したこの頃、北陸道を進んできた源(木曽)義仲(源頼朝の従兄弟)は琵琶湖を越え、源行家(源頼朝の叔父)も伊賀から大和に入り、ともに打倒平家を目指して京に迫っていた時期でした。行綱は西国から京に入る物資を横取りすることで、義仲や行家の進軍に歩調を合わせ、平氏のいる京の包囲網の一翼を形成していたとも考えられます。

 義仲らに歩調を合わせて活躍したとみられる行綱ですが、その後こんなことがあったようです。
 平家一門が木曽義仲軍により京から追い出された時、多田行綱も京に入り、上皇の警護の武士として名を連ねることになります。しかし、その後、義仲が後白河上皇と対立し院御所を襲撃した時、上皇の警護につきながら途中から逃げた「摂津国源氏」の中に、多田行綱が含まれていた、と一部の「平家物語」では伝えており、敗戦を察知した行綱はいち早く多田の地に逃げ帰ったのかも知れません。

この時代を語る歴史資料

「吾妻鏡」
 吾妻鏡は、治承4年(1180)4月の頼朝挙兵から、文永3年(1266)7月の前将軍宗尊親王の帰京までの87年間にわたる鎌倉幕府の事跡を編年日記体に記録した史書です。鎌倉幕府や鎌倉武士団、京都朝廷との関係、天変地異に至るまで当時のことを知る上で貴重な資料となっています。

「玉葉」
 源頼朝に擁立されて後鳥羽天皇の摂政となった藤原兼実の日記。平氏政権の時には、政務の中枢とは疎遠であったため、政治動向については第三者的立場の記述が多いのですが、一方で、様々な情報ネットワークをもっていたらしく、、頼朝の動向や対朝廷交渉を伝える記事などは貴重な歴史的資料となっています。

「吉記」
 権大納言・吉田経房の日記。平家全盛期には不遇を囲っていた九条兼実とは違い、後白河法皇の近臣であった分、記述が拗ねてないと言う人もいます。現存するのは約15年間ですが、内容は詳細にわたり、「玉葉」とともに源平合戦期の好歴史資料とされます。

知ったかぶりで書いていますが、トーゼン筆者は読んだことありません。(*^_^*)

 


鵯越から一の谷へ駆け下りる義経軍
(「日本歴史図会」より)

義経の鵯越への協力

 一度は征夷大将軍にまでなった木曽義仲ですが、今度は源範頼・義経(ともに頼朝の弟)の軍により京を追われることになります。これにより、頼朝は正式に平氏追討の宣旨(せんじ)を受けます。

 範頼ひきいる本隊五万騎は西国街道を進んで昆陽野(こやの・伊丹市)に陣を敷きます。一方、搦め手(背面攻撃隊)の義経は一万騎をひきい、丹波道を通り敵の背面の明石に向かいます。
 途中、三草山で平家の一隊を撃破した後、義経は兵を2つに分けます。副将の土肥実平に七千の兵を預け明石に向かわせ、義経自身は三千を率いて鵯越に向かいます。三草山から鵯越をとおり一の谷への道は、大変な難路であり、誰が案内したのか「平家物語」諸本でも説は分かれ、どこを通ったのかも確かな資料はないようです。ただ、三草山から一の谷への道は、どこを通っても多田源氏の勢力圏に触れることになり、多田源氏が義経の行軍に協力したことと思われます。

義経への襲撃

 平家が壇ノ浦で滅亡した後、義経と頼朝との対立は激しさをまします。鎌倉に戦勝報告に向かった義経に対し、頼朝は会見を拒否します。義経はむなしく京に帰るのですが、頼朝の強勢を恐れる後白河法皇により、義経は頼朝の対立者に仕立て上げられ、やむなく義経は西国に逃れることになりました。

 ここで、またまた多田行綱が登場します。

 「玉葉」には、「多田行綱らが、義経の一行を討ち取ろうと待ち構えているという噂が流れた。まず、船を用意するために義経の郎従が摂津に向かったが、これも討たれたらしい。」と記されています。
 行綱は、こうした義経捕縛の武士達の急先鋒となったようで、京を出発した義経一行を、行綱らが摂津国の大阪湾岸の河尻や大物浦で待ちうけ戦いになっています。このことは、数々の義経関連の物語において語られています。

 「義経記」のおいては、大物の浦から船出したものの悪天候のため同じ場所に引き返してしまったところに、豊島蔵人、上野判官、小溝太郎らが五百余騎を30艘の船に乗せて襲撃してきたため、義経の従者らが矢や薙刀で討ち取った後、義経一行はそれぞれ思い思いに落ちていったとしています。
 「平家物語」においては、この合戦を大物の浦へ着く前のこととして、摂津源氏の大田太郎頼基と戦っています。また、ちょうど西風が激しく吹いたので、(この風は平家の怨霊とある)義経の船は住吉の浦に打ち上げられたとしています。
 「源平盛衰記」では、都を落ちると聞いて在京の武士が弓をいてきたので、これを蹴破って西に向かっている。そして、途中、中小溝というところに陣取る多田蔵人行綱、太田太郎、豊島冠者ら千騎に襲われるが、これをも追い散らして、大物の浦から船をだすことになります。しかし、平家の怨霊のため波風が荒れて、大物の浦や住吉の浜に打ち上げられ、義経家人の三百余騎はおもいおもいに落ちてゆきます。
 「玉葉」は平家物語と同じく太田頼基が襲ったとして、「吾妻鏡」は多田行綱、豊島冠者が要撃したと記載しています。

 いずれの記録も詳細な部分では相違ありますが、摂津源氏の一派が西国に落ちていく義経一行を襲撃したことは紛れもない事実のようですし、そこに多田行綱が深く関わっていたこともまた事実のようです。
 ただ、いずれの記録も行綱がどうなったかについては、明確に書かれていません。

 

「奇怪」な行動により勘当された行綱

 義経の追捕を契機として、守護・地頭の設置を果たした頼朝は、武家政権の確立を目指して御家人の統率に乗り出します。当然その手は多田の地にも及びます。

 「右大臣家(頼朝)奥儀」と題する古文書に、多田源氏及び多田荘に関する頼朝の重要な決定を伝える記述があります。
 「多田蔵人行綱は奇怪な行動があったので勘当した。多田荘を行綱から没収し、大内惟義に預けるから早速知行するように。行綱に親しい武士を大切にする必要はない。それ以外の一般の多田荘の武士は罪を問わないので従来どおり使ってよい。」というものです。満仲以来、多田源氏により伝領されてきた多田院と多田の荘園は、行綱の時代に頼朝によって没収され、大内惟義(これも源氏の一流)に預けられたのです。

 この書状が出されたのは、行綱が摂津国川尻において義経一行を襲撃する以前のことであり、行綱の勘当と多田荘の没収の理由に挙げている、「奇怪」な行動の内容は明らかではありませんが、行綱が義経の平氏追討に協力したことで、両者に密接な関係が生まれていたのかも知れません。
 いずれにせよ、義経に対する厳しい追及の延長線上に行綱の処遇も位置づけられており、河尻で西国に落ちる義経一行を待ち伏せしたのは、頼朝の勘当を解いてもらうための行動であったとの見方が定説になっています。
 それでも、行綱に対する勘当が許されることはありませんでした。それ以降、行綱の行方は歴史的資料から消えさることになります。
 残された多田源氏の一般の家人たちは、棟梁の行綱が頼朝から勘当される一方で、その後任の大内惟義を通じて名主職や荘官職などを安堵されており、鎌倉幕府の「多田院御家人」として再編成されていきます。

 

天草に残る行綱伝承

 歴史資料から消え去った多田蔵人行綱ですが、実は九州熊本は天草地方に、行綱が「落人」として流れ着いたという伝承が残されているのです。

 壇ノ浦の戦いで滅亡した平家一門が落人として隠れ住んだという場所は日本各地に存在し、特に五家庄(熊本県八代郡泉村、球摩郡五木村)中心にして熊本県内には数多くの「平家落人伝説」が残されています。そのひとつとして、天草郡御所浦島を中心とした天草地方には、行綱が落人としてこの地に流れ着いたとの伝承が残されており、行綱の墓と称される墓石も存在します。


天草地方と五家庄


御所浦島にある行綱の墓
御所浦町役場調査資料より

 


行綱の妻?を祭った若宮
御所浦町役場調査資料より

 御所浦町役場の発行した調査報告書によると、御所浦島の瀬戸目崎には行綱の墓石とその妻を祭ったと伝えられる「若宮」があり、島の反対側の梅戸には行綱の娘(伝承によっては妻)の松依姫(まちよがひめ)を供養するための石塔があるといいます。

 その報告書では、松依姫の伝えの中で、松戸は「鬼界ケ島の松戸」ともいわれていて、鹿ケ谷の変により藤原成親や僧俊寛が流された鬼界ケ島(定説では奄美大島列島の硫黄島)とダブらせている可能性を指摘しています。
 そして、この地の伝承の中では、その時流刑にならなかった行綱も同様の罰を受け、"鬼界ケ島"に流されてきたのかも知れません。
 このような歴史の事実と違う伝承は、平家物語を語る琵琶法師から「鬼界ヶ島での流人の苦労、特に一人残された俊寛の物語りを聞くにつけ島の人々の正義感からして密告者である蔵人行綱をそのまま都に住まわせる事を許さなかった」聴衆のニーズによって生まれたのだとしています。

 また、御所浦島の隣の天草島中田村(現神和町)には、代々庄屋の家系である「大堂家」の遠祖が「平家の落人」行綱であるとの伝承があります。
 大堂家の第十四代当主が、30年程前に大堂家に伝わる伝説をまとめた書があるらしく(私は見てません (^^ゞ )、そこには壇ノ浦から始まる行綱の逃避行のルートが詳細に描かれているそうです。
 行綱一行は、壇の浦から落ちのびると、土佐の足摺岬付近の大堂海岸に上陸し、その後、日向(宮崎県)から九州を横断し、天草島大道村(現竜ヶ岳町)に到着したそうです。いまも、大道村西浦には行綱とその郎党の墓と称される十数墓が現存しているといいます。

 行綱が壇ノ浦の合戦に参加したかどうかはさておき、源氏方の行綱が落ちのびなければならない言われはありませんし、前述したように、その後摂津国にて義経一行を襲撃していますので、歴史的事実とは相違しています。

 一方、天草の郷土史家が15年程前に天草地方の伝承をひろった「天草伝説集」なる本があります。それによると、御所浦町以外にも天草地方の島々には、いたるところに平家落人伝承が転がっています。その中でも御所浦のそれには、源氏方武将の伝承が混在している点で異彩を放っています。多田行綱一族の墓があるだけでなく、御所浦島の横にある横浦島には義経が船を隠したという「船隠し」という浦や弁慶が登ったという「弁慶山」があり、おまけに那須与一もやってきて「与一が浦」、ついでに「頼朝越え」なる峠まであるそうです。この辺りの浦は、義経ならずとも舟を留めるのに適当な泊が多く、ある時代に船舶集団(いわゆる「海賊」)の拠点があり、平家物語のヒーローの名前と結びつき、それに弁慶や頼朝のおまけがついたのだろうと思われます。
 それにしても、平家落人伝説の"宝庫"天草に、源氏の武将の伝承が混在しているのは、800年前に、この地に流れ着いた多田行綱の末裔の存在が影響している?・・・だったら面白いでしょうね。

 

激動の時代の中で「悪役」となった行綱

 さまざまな歴史の書物の中で「日和見主義者」「裏切り者」「風見鶏」と散々コケ下ろされている行綱ですが、激動の時代の中で一族の存亡をかけて必死に時代を生き抜いた結果、たまたま「鹿ケ谷の変」での「密告」行為が平家物語の中で大きく取り上げれれたため、このようなレッテルを貼られてしまったという見方もできるのではないでしょうか。

 「鹿ケ谷の変」において、当初の平家打倒のスローガンには賛同したため謀議に参加はしたものの、その余りにも稚拙なクーデター計画には武人として唖然としたであろうし、夜な夜な繰り広げられる「謀議」が、平家一門の官位独占のなかで冷遇された貴族達の愚痴の言い合いの酒席に変貌しているのをみて、一族を守るため止む無く「密告」に走ったとも考えられます。

 また、義経の鵯越に協力したのも、当時義経一行は平家打倒の源氏正規軍であったから当然のことでしょうし、摂津の河尻で西国に落ち延びる義経一行を襲撃したのも、その時点で義経は、源氏の総大将頼朝の敵だったのですから、この行動もあえておかしいとは思いません。

 つまり、平家打倒の一番手として人柱的役割を担って断罪された鹿ケ谷謀議の藤原成親ら、そして平家追討劇のヒーローであるにもかかわらず不運の最期をとげた源九郎義経、彼らの不幸を語り継ぐのに必要な「悪者」の役を、多田行綱はたまたま演じてしまったと思えるのです。