このあたりのお殿様 その2
− 源平合戦期の武将 多田蔵人行綱 −
多田蔵人行綱は、多田院の開祖、源満仲から数えて7代目にあたり、正五位下伯耆守、また蔵人に任ぜられたことがあるため、多田太郎、多田蔵人また六条蔵人などと号していました。源平合戦期の真っ只中において、多田源氏宗家を継いだ行綱は、歴史の中で重要な役割を果たします。 |
満仲からの行綱までの源氏系譜
源満仲の嫡男で多田荘を次いだのは頼光でした。
このように、源満仲以来、その所領を継いだ多田源氏の末裔達の官位は下がり、国司に任官する数も減る一方でした。しかし、満仲の三男の河内源氏を開いた頼信の末裔は、源義家(八幡太郎)をはじめ全国でその名をとどろかせ、清和源氏の嫡流の座を獲得して、頼朝の鎌倉幕府へと続いていくことになります。
そして、多田頼盛の嫡男が行綱であり、頼光以降、歴史的に希薄な存在になっていた多田源氏を、幸か不幸か、歴史の表舞台に引っ張り出す役目を負うことになります。 |
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「鹿ケ谷の変」での密告者
多田行綱が一躍歴史にその名を残すことになったのは、世にいう「鹿ケ谷(ししがたに)の変」の密告者になったためです。
治承元年(1177)、権大納言藤原成親や西光法師などの後白河院の近臣らにより、京都東山の僧俊寛の鹿ケ谷山荘において平氏打倒の謀議がなされました。 事の成功に疑問を持った行綱はこの会に見切りをつけ、京都西八条の屋敷に清盛を訪ねて密告したのです。首謀者は全員捕らえられ断罪に処されましたが、行綱はその賞にあずかれなかったばかりでなく、陰謀に加担したかどで安芸の国に配流されてしまいます。
この会に参加した唯一の武人として、実行隊長の役割を期待されたのでしょうが、出世から外れた貴族達の「愚痴を言い妄想を語る会」に付き合っていられなくなったのではないでしょうか。 |
平氏の京落ちに一役
鹿ケ谷の変から6年後、多田行綱は、藤原兼実の日記「玉葉」に登場します。
「多田行綱は近々平氏から源氏に寝返るとの噂があったが、今朝はっきり平家に謀反した。摂津や河内を横行して、いろいろ悪行を重ねて河尻の船などを奪い取っている。」と記載されています。行綱は、いつの間にやら安芸の国から多田に帰り再挙の機会を待っていたようです。 行綱が再挙したこの頃、北陸道を進んできた源(木曽)義仲(源頼朝の従兄弟)は琵琶湖を越え、源行家(源頼朝の叔父)も伊賀から大和に入り、ともに打倒平家を目指して京に迫っていた時期でした。行綱は西国から京に入る物資を横取りすることで、義仲や行家の進軍に歩調を合わせ、平氏のいる京の包囲網の一翼を形成していたとも考えられます。
義仲らに歩調を合わせて活躍したとみられる行綱ですが、その後こんなことがあったようです。 |
この時代を語る歴史資料
「吾妻鏡」
「玉葉」
「吉記」 |
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義経の鵯越への協力
一度は征夷大将軍にまでなった木曽義仲ですが、今度は源範頼・義経(ともに頼朝の弟)の軍により京を追われることになります。これにより、頼朝は正式に平氏追討の宣旨(せんじ)を受けます。
範頼ひきいる本隊五万騎は西国街道を進んで昆陽野(こやの・伊丹市)に陣を敷きます。一方、搦め手(背面攻撃隊)の義経は一万騎をひきい、丹波道を通り敵の背面の明石に向かいます。 |
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義経への襲撃
平家が壇ノ浦で滅亡した後、義経と頼朝との対立は激しさをまします。鎌倉に戦勝報告に向かった義経に対し、頼朝は会見を拒否します。義経はむなしく京に帰るのですが、頼朝の強勢を恐れる後白河法皇により、義経は頼朝の対立者に仕立て上げられ、やむなく義経は西国に逃れることになりました。 ここで、またまた多田行綱が登場します。
「玉葉」には、「多田行綱らが、義経の一行を討ち取ろうと待ち構えているという噂が流れた。まず、船を用意するために義経の郎従が摂津に向かったが、これも討たれたらしい。」と記されています。
「義経記」のおいては、大物の浦から船出したものの悪天候のため同じ場所に引き返してしまったところに、豊島蔵人、上野判官、小溝太郎らが五百余騎を30艘の船に乗せて襲撃してきたため、義経の従者らが矢や薙刀で討ち取った後、義経一行はそれぞれ思い思いに落ちていったとしています。
いずれの記録も詳細な部分では相違ありますが、摂津源氏の一派が西国に落ちていく義経一行を襲撃したことは紛れもない事実のようですし、そこに多田行綱が深く関わっていたこともまた事実のようです。 |
「奇怪」な行動により勘当された行綱
義経の追捕を契機として、守護・地頭の設置を果たした頼朝は、武家政権の確立を目指して御家人の統率に乗り出します。当然その手は多田の地にも及びます。
「右大臣家(頼朝)奥儀」と題する古文書に、多田源氏及び多田荘に関する頼朝の重要な決定を伝える記述があります。
この書状が出されたのは、行綱が摂津国川尻において義経一行を襲撃する以前のことであり、行綱の勘当と多田荘の没収の理由に挙げている、「奇怪」な行動の内容は明らかではありませんが、行綱が義経の平氏追討に協力したことで、両者に密接な関係が生まれていたのかも知れません。 |
天草に残る行綱伝承
歴史資料から消え去った多田蔵人行綱ですが、実は九州熊本は天草地方に、行綱が「落人」として流れ着いたという伝承が残されているのです。 壇ノ浦の戦いで滅亡した平家一門が落人として隠れ住んだという場所は日本各地に存在し、特に五家庄(熊本県八代郡泉村、球摩郡五木村)中心にして熊本県内には数多くの「平家落人伝説」が残されています。そのひとつとして、天草郡御所浦島を中心とした天草地方には、行綱が落人としてこの地に流れ着いたとの伝承が残されており、行綱の墓と称される墓石も存在します。
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御所浦町役場の発行した調査報告書によると、御所浦島の瀬戸目崎には行綱の墓石とその妻を祭ったと伝えられる「若宮」があり、島の反対側の梅戸には行綱の娘(伝承によっては妻)の松依姫(まちよがひめ)を供養するための石塔があるといいます。
その報告書では、松依姫の伝えの中で、松戸は「鬼界ケ島の松戸」ともいわれていて、鹿ケ谷の変により藤原成親や僧俊寛が流された鬼界ケ島(定説では奄美大島列島の硫黄島)とダブらせている可能性を指摘しています。
また、御所浦島の隣の天草島中田村(現神和町)には、代々庄屋の家系である「大堂家」の遠祖が「平家の落人」行綱であるとの伝承があります。 |
行綱が壇ノ浦の合戦に参加したかどうかはさておき、源氏方の行綱が落ちのびなければならない言われはありませんし、前述したように、その後摂津国にて義経一行を襲撃していますので、歴史的事実とは相違しています。
一方、天草の郷土史家が15年程前に天草地方の伝承をひろった「天草伝説集」なる本があります。それによると、御所浦町以外にも天草地方の島々には、いたるところに平家落人伝承が転がっています。その中でも御所浦のそれには、源氏方武将の伝承が混在している点で異彩を放っています。多田行綱一族の墓があるだけでなく、御所浦島の横にある横浦島には義経が船を隠したという「船隠し」という浦や弁慶が登ったという「弁慶山」があり、おまけに那須与一もやってきて「与一が浦」、ついでに「頼朝越え」なる峠まであるそうです。この辺りの浦は、義経ならずとも舟を留めるのに適当な泊が多く、ある時代に船舶集団(いわゆる「海賊」)の拠点があり、平家物語のヒーローの名前と結びつき、それに弁慶や頼朝のおまけがついたのだろうと思われます。 |
激動の時代の中で「悪役」となった行綱
さまざまな歴史の書物の中で「日和見主義者」「裏切り者」「風見鶏」と散々コケ下ろされている行綱ですが、激動の時代の中で一族の存亡をかけて必死に時代を生き抜いた結果、たまたま「鹿ケ谷の変」での「密告」行為が平家物語の中で大きく取り上げれれたため、このようなレッテルを貼られてしまったという見方もできるのではないでしょうか。 「鹿ケ谷の変」において、当初の平家打倒のスローガンには賛同したため謀議に参加はしたものの、その余りにも稚拙なクーデター計画には武人として唖然としたであろうし、夜な夜な繰り広げられる「謀議」が、平家一門の官位独占のなかで冷遇された貴族達の愚痴の言い合いの酒席に変貌しているのをみて、一族を守るため止む無く「密告」に走ったとも考えられます。 また、義経の鵯越に協力したのも、当時義経一行は平家打倒の源氏正規軍であったから当然のことでしょうし、摂津の河尻で西国に落ち延びる義経一行を襲撃したのも、その時点で義経は、源氏の総大将頼朝の敵だったのですから、この行動もあえておかしいとは思いません。 つまり、平家打倒の一番手として人柱的役割を担って断罪された鹿ケ谷謀議の藤原成親ら、そして平家追討劇のヒーローであるにもかかわらず不運の最期をとげた源九郎義経、彼らの不幸を語り継ぐのに必要な「悪者」の役を、多田行綱はたまたま演じてしまったと思えるのです。 |