仁王像のお話

  今月は天部の「仁王」について記述いたします。「仁王像」は四天王像と違い雨風にさら
される中門、南大門、仁王門(二王門)、山門などの門内安置が多いため国宝指定の仁王
像はたった3件のみです。その内訳は「東大寺三月堂像」、「東大寺南大門像」と「興福寺
国宝館像」の3件です。これら国宝指定の仁王像3件の内2件は堂内安置像で門内安置
像はたったの1件しか存在いたしません。どうしても、門内安置像の場合原則として常
に風雨にさらされる正面の南向きに据えられるため風食が激しく痛ましい姿が多くなる
のも事実です。それゆえ、たった1件の国宝指定の門内像である東大寺南大門像でも風
雨の被害がこうむるのを避けるため仁王同士が対面しあうよう安置され問題の南側は閉
鎖して保護されております。

 原則、門の奥行は2間でありますのを「光明寺の二
王像」は奥の一間の間に安置されております。しかも
後側、横側の窓は盲連子窓で雨風を防いでおります。
この安置方法は保存対策から有効でしょう。
写真から分かりますように南側の柱は彩色が褪せて
木肌が現れ始めております。                       
 「寺院建築−鎌倉時代」をご参照ください。

 
       二王門(光明寺)

 当初、釈迦を守護する「執金剛神」が単独で祀られました。執金剛神とは甲冑で武装し
て金剛杵を持っている神と言うことです。古代、釈迦の象徴と言えば舎利塔が一般的で
ありましたので執金剛神は塔のガードマンということでしょう。それが、門の左右に安
置されるようになって執金剛神の分身が一対の仁王像となっていったのであります。
 
  門の左右に安置される2体一具ですので二王とも称されました。口を開けたのが阿形、
口を閉じたのが吽形となります。これは「狛犬」でお馴染みでまた「阿吽の呼吸」の語源で
もあります。 

 左側(向かって右側・東側)には阿形像、右側(向かって左側・西側)には吽形像を安置
するのが通例となっております。しかし、古代には逆の配置もあります。
 阿吽形像の名称としては
 阿形・・金剛、金剛力士、金剛力士、密迹金剛、
 吽形・・力士、密迹力士、金剛力士、那羅延金剛、
と称されておりますがいずれにも「天」が付きません。現在では金剛力士像、仁王像、二
王像などと呼びその両像を阿形像、吽形像という呼び方で区別されているようです。

 髪の毛を髻に結い、上半身は裸形、腰は裳で装い、裸足という姿が原則ですが古代に
は甲をまとった武装像もあります。主に阿形像が持つ「金剛杵」ですが金剛杵は古代イン
ドの武器で最初、四天王の上司である「帝釈天」の持物でした。

 びくとも動かないぞと足を広げた「仁王立ち」で立ちはだかりますがこれは仏敵を威嚇
するためのポーズでいざとなれば敏速に闘いに挑むことでしょう。 

 飛鳥・白鳳時代、仁王像は中門の両脇に安置され伽藍に侵入する仏敵を退散させるた
めの任務ですが天平時代からは「南大門」に守備位置を変え寺院全体を守ります。このこ
とは、釈迦一尊のボディガードでありましたものが中門に安置されてからは伽藍を守り
それから南大門に安置され寺院全域を守るように変わりました。
 仁王像が安置された山門、楼門などは平安以降「仁王門」とも呼ばれるようになりまし
た。「仁王さま」と庶民に親しまれていますだけに仁王門(二王門)と呼ばれる寺院も多い
ことでしょう。

 

 仁王像は隆々たる筋肉体質で力強い風貌から健康そのもの
に見えるため衆生は「健康を祈る神」としてさらには仁王像の
脚は筋骨逞しく表現されておりますので「健脚の神」としても
幅広く崇拝されました。仁王さんは健脚の神ということで大
小の藁ぞうりが奉納されているのを間々見受けますが仁王像
の足元か正面に掛けてありますのは「長保寺」のような小型の
ぞうりでこれは個人的な祈願のためのようです。それに比べ
「石手寺」のような立派なぞうりは衆生のもので健脚・健康の
神としてぞうりに触れてお参りすると健やかな生活が期待で
きることでしょう。このような大きなぞうりを出入り口の通
路の左右に掛けることが出来るのは仁王像が正面を向いてい
るからで仁王が向かい合って立っていると裏側(北側)に掛け
るようです。数多くのぞうりが吊ってある寺院もありその願
いを見てみますと健脚だけではありませんでした。
 仁王は足を丈夫にするため御参りするのであって、駿足に
なるのを願うのであれば「韋駄天」にお参りせねばなりません。韋駄天は奈良では余り見かけませんね。


     二王門(石手寺)


     大 門(長保寺)

 


  阿形像(鞏県石窟・中国)


   阿形像(竜門石窟・中国)

   「鞏県(きょうけん)石窟」、「竜門石窟」共に風化か毀損されたのか分かりませんが鞏
県石窟の吽形像は面影すら残っておりません。また、竜門石窟の吽形像は首から上と両
腕が毀損されておりました。「鞏県石窟像」は武将像には見えず宝冠、瓔珞をつけた菩薩
像のような感じがいたしました。「竜門石窟像」は上半身は筋肉が盛り上がって逆三角形
でありますが下半身が心もとなく健脚の神とは思われませんでした。ひょっとすると中
国では健脚の神ではないのでしょうか?
 裳裾が隣の多聞天像まで大きく棚引いております。瓔珞は胸飾りだけでなく全身を飾
っております。写真では左を向いておりますが像は洞に向かって右壁に彫られておりま
すのでこれで正面を向くことになります。金剛杵は持っていたのでしょうか?後述の法
隆寺像と同じように両手とも素手のように見えます。

 


     石 塔(芬皇寺)


       仁 王 像

  「芬皇寺(ふんこうじ)・韓国」は我が国でいえば飛鳥時代に四天王寺式伽藍で創建され
た古刹です。写真の石塔は伽藍の一塔で九層だったそうです。第一層の四面に龕室があ
ってその入口に石扉を設け、その入口の左右に花崗岩で仁王像を彫刻して嵌めてありま
す。基壇の四隅には石造の獅子が配置されており、仁王と獅子の守護で万全の警備体制
です。本来、仁王は釈迦一尊の守護神であった名残と考えられ貴重な遺品と言えましょ
う。

 


      吽形像(法隆寺)


    阿形像(法隆寺)

 「仁王像」は現存最古でしかも天平時代唯一の遺構です。ただ、後世の補修に於いて
塑土で塗り重ねていった結果肥満体となったらしく残念ながら国宝ではなく重要文化
財に留まっております。しかし、塑像でありながら1300年もの長き間、雨風による損
傷が免れることの出来ない正面の南向きのまま安置されていたことは驚きそのもので
す。なんといっても今日まで多少姿態が当初より変わっているかもしれませんが維持
できたことは凄いことで、悠久の昔から現在まで、自然との闘いでの補修は並大抵の
ことではなかったと考えられます。しかしそれが逆に功を奏したのか、阿形像は現在
の体型の方が量感で圧倒される迫力があり逞しく武将像そのものであると思っており
ます。また、吽形像の殆どが木彫に変わっておりますがその改変で阿形像よりも当初
の姿を留めております。
 金剛力士像は金剛杵を持っていなければならないのに本像は両像共素手の像である
ことから仁王像と称した方が適当といえるでしょう。
 仁王像は左手を握って怒りにふるえる拳を作り右手は金剛杵を執るか五指を大きく
開いておりますがどちらかといえば金剛杵を持つ方が多く造られております。
 両像の特徴は左手が拳を作り右手は五指が思い切り開くというポーズですが右手は
素手か金剛杵を持つかどうかの違いだけでこのスタイルは後世に引き継がれておりま
す。これは仏敵を威嚇しながらの戦闘態勢で、非の打ちどころもないバランスが取れ
たデザインは仏師の創意工夫でありましょう。
 腰を思い切り横に引いた姿勢を表現しております。東大寺南大門の吽形像も凄いと
思いましたがそれにも負けないくらい大きく腰を引いております。法隆寺で是非確認
して見てください。制作が711年の天平初期と言えば後述の「薬師寺の二天像」のよう
に直立不動で動勢が乏しい様相が好まれた時代の筈なのに流行に逆らってまでこれだ
け思い切った斬新なスタイルを考え出した若々しいパイオニア魂を持った仏師が居た
ことは驚きでありますが、そのような鬼才が誕生した背景には、仏師の自由な創意に
まかせて制作に打ち込めた、仏師にとっては最高に恵まれた良き天平時代だったから
でしょう。
 吽形像の右手の掌を外側に向ければ後世の一般的な仁王像のスタイルとなりますが
掌を外に向けるよりは下に向けた方が相手に恐怖感を抱かせることになり演出効果満
点ではないでしょうか? 
  阿形像は視線をはるか彼方とはいきませんが少し離れた場所にあり吽形像は後世の
改変かもしれませんが足元近くに視線があるように見えます。両像で遠近の見張りを
分担しているのでしょう。

 多くの寺院では二王像の前にネットが張ってありますがこれは鳩の糞害に憤慨した
のと昔からちぎった紙を口で噛み紙団子にしたのを、身体でもっと丈夫にしたい部位
とか患部に当たる部位をめがけて投げつけその目標の部位に当たりくっつければご利
益が期待できるという俗信のためこの紙爆弾の被害が像に悪い結果をもたらすからで
す。最近ではチューインガムの方が性質が悪いらしいです。法隆寺像にはネットを設
けておりませんので二王像の表面は防護材料で処理されております。正面向きでネッ
トを張られておらない巨像をバックにすれば記念撮影には絶好の場所と言えるでしょ
う。

 撮影は両像の下げた手を入れるべくカメラを持った手を高く挙げたまま勘に頼るも
のでした。これもデジカメは撮影結果がその場で確認出来ますがこれがフィルムカメ
ラなら撮影後焼付けするまで結果が分からないので難しかったことでしょう。

 


   執金剛神立像(東大寺)

  「執金剛神(しゅこんごうしん)立像」は天平時代
の鮮やかな彩色が残り、あまりの美しさに衝撃と
感動を覚える像です。「厨子」に安置されるという
破格の扱いがここまで完全な姿で保存出来たので
しょう。それには、脇役ではなく「脇侍」の待遇で
あったのでしょうか?それとも、本像が本尊を守
っていたが仁王、四天王像が現れてきたので現役
から引退することとなりそれまでの功績を称えて
特別に厨子に安置されたのでしょうか?
 
執金剛神像で国宝指定はこの像のみという貴重
なものですがただ残念なことにたった一日の
12月16日しか拝観出来ないことです。しかし考え
ようによっては、秘仏だからこそ創像当初の像容
が保存出来たとも言えましょう。
 
なぜか北向きに立っております。謂れについて
は省略いたします。
 天平時代の特徴である動くのに便利な軽快な装

い、睨み付け燃え上げる闘志の眼には「玉眼」の走りとも言うべき「黒燿石」が黒目として
使われております。口はかっと開いた大喝一声、右手の浮き出した血管は破裂しないか
心配されるくらいし凄まじいものです。
  「金剛杵(こんごうしょ)(青矢印)」を持って振り上げた右手、血管が激しく浮き出た
太く逞しい左手など迫力ある憤怒像です。
 ダイヤモンドの和名「 金剛石」は「金剛杵」から付けられたものです。
 釈迦の死後仏法、寺院の守護神となります。インドでは考えられない厚着でこのよう
な装いになったのは中国に於いてでしょう。
 余談ですが、12月16日に訪れますと、彩色文様の保存状態が良い執金剛神立像だけで
なく「良弁僧正坐像」「
開山堂」「俊乗上人坐像」「俊乗堂内部」をも拝観できる「しあわせ」が
あります。
  変更があるかもしれませんので調べてからお訪ねください。 

 


   阿形像(東大寺)


   吽形像(東大寺)

 三月堂の「仁王像」は「南大門の仁王像(後述)」と同じように「阿吽(あうん)」の配置が
逆になっております。
三月堂には梵天、帝釈天、仁王、四天王と天部が8体、守護神
は仁王と四天王のダブルという異例ですが厳重な警備体制で三月堂は死守するという
意気込みで安置されたのでしょう。それゆえ、東大寺では数少ない創建当初の建物が
保存されたのでしょう。
  仁王像の通常と変わっているところは上半身が裸形でなく甲をまとっていることと
阿形像の頭髪が髻でなく「怒髪天をつく」でこの恐ろしい形相は仏敵に髪の毛が逆立つ
ような恐怖を与えたことでしょう。顎鬚は見事な西洋的な鬚です
。  
 執金剛神が分身して仁王となったのですが分身した間近だったのか須弥壇を守ると
いうより本尊のみを守るという態勢で本尊の方向に視線が向いております。
  阿形像は今まさに仏敵を威嚇攻撃している様を表現しており凄まじいまでの迫力で
す。これほど右手を高く挙げるのは珍しくその手には金剛杵を握っていたことでしょ
う。吽形の方は仏敵が襲ってくるまでの小休止で休めの姿勢でしょう。像としては変
化があって面白い構成となっております。ほっそりとした下半身でカモシカのように
敏捷性に富んでいるのでしょうがあまりにも細い脚のため健脚の神にはふさわしくな
いような気がいたします。皮革製甲冑の表現が優れているだけではなく装飾文様も見
事なもので見応えのある像となっております。  

 


   阿形像(東大寺)


   吽形像(東大寺)

  南大門の「仁王像」はわが国最大の木彫像で、像高は8.4メートルですが阿吽の位
置が逆となっております。
 最近のビッグニュースは今まで、吽形像は運慶作で、阿形像は快慶作というのが常
識でしたが近年の解体修理でその説が覆されたのであります。
吽形像は大仏師定覚、
湛慶で、阿形像は大仏師運慶、快慶がかかわったとのことであります。ただ、どうし
てこのような組み合わせになったのか不思議な気がします。運慶は総括責任者として
の役目を果たすため吽形像を長男の湛慶にまかせ、快慶は自分の手許に置いてコント
ロールしたと考えられますがしかし実際は、阿形像の作風を見て快慶作と昔から伝え
られておりますことから運慶は快慶が個性が発揮出来るよう制作をまかせたようであ
ります。
 先に解体修理された吽形像に運慶、快慶の名前が出てこなかったのですが続いて解
体修理された阿形像では修理以前に快慶の名は確認されておりましただけに阿形像に
運慶の名が出てこないのではないかと関係者の方々はそれはそれは心配されたことで
しょう。もし、天下第一の巨匠・運慶の名が出てこなかったら南大門像は運慶、快慶
の関与が定説となっていただけに美術史を書き換えなければならなかったからです。 

 「五指」を思い切り一杯に広げた像は「法隆寺仁王像」「新薬師寺伐折羅(ばさら)像」な
ど憤怒像には多く見られます。
 鎌倉時代に仁王像の傑作が多いと言われる所以は仁王像に異常なほど力を注いだ慶
派が存在したからでしょう。その慶派でもこの像は
巨像過ぎて「玉眼」の採用は無理だ
ったようです。

 太く逞しい破壊力を秘めた巨大な腕、盛り上がる胸の筋肉までがくっきりと表現さ
れ猛々しさが感じられます。裳裾は大きく棚引き激しい動きを表現し活気に満ちた気
宇壮大な像です。
藤原時代は絵画のような彫刻といわれるのに比べ彫り過ぎるきらい
があるほどの大胆な表現は個性の強い慶派ならではでしょう。
 この仁王像を後世に真似た像がないのは、真似ることが出来ないほど切れ味の良い
的確な表現の像だからでしょう。
これほどの巨像を破綻なく仕上げたのは優秀な慶派
の人材があればこその話でしょう。

 吽形の右足は指先を反り上げて踵のみが台座についているという珍しいポーズでそ
れでいてバランスが取れています。阿形像は吽形像に比べ誇張のない美しさのなかに
躍動感があふれております。
 阿形像は上半身が直立、吽形像は腰を大きく引いてくの字の体制になっております。
 頭には冑ではなく髻を結い、身体には胸飾り、臂釧、足釧の装飾品で飾り立ててお
ります。
 両像の脚を見ていると健脚の神といわれる所以が納得できます。 

 鎌倉時代の創像当初は正面の南向きだったのを風雨にさらされるのを避けて南側を
閉鎖して阿吽像を内側に向けお互いを向かい合わせたのか、それとも後述の「薬師寺
中門の二天像」のように既に向かい合っていたが南側は開放されていたのを閉鎖して
現在のような構造になったのでしょうか?


      中 門(薬師寺)(参考写真)

 後者の方で考えますと正面から見れば巨大な両像が一目瞭然で拝め像に近づくにした
がって圧倒される迫力が感じられたことでしょう。ところが南側を閉鎖したため正面か
らと門内の中央からとでは仰ぎ見る角度が違ってくるので吽形像の視線を下向きに修整
して視線の落とす位置を変えられたのでしょう。 
 現在、南大門に入り右見て左見てとならざるを得ないのですが「東大寺中門の二天像」
も向かい合っております。 

 


   吽形像(興福寺)


   阿形像(興福寺)

  「金剛力士像」の眼は、「玉眼(ぎょくがん)」で睨む方向に目の玉を膨らませておりま
す。そのため、憤怒像らしく恐ろしい目付きとなっており
ぐっと睨み付ける眼は迫力満
点であります。
  玉眼とは主に鎌倉時代に用いられ、材料は水晶を使用しているので、潤いのある眼と
なります。さらに本像では
眼に朱を入れ血走った眼にしております。写実主義に徹した
鎌倉時代ならではでしょう。
 「東大寺南大門像」は8m以上もあるのに本像は1.6mほどなので親しみが沸いてく
る像で人々を惹きつけております。
  浮き出す血管、
筋肉もりもりの逞しさ、浮き出た肋骨などの表現は量感にあふれ、筋
肉質の人間をモデルにしたようであります。裳裾が大きく棚引き動きの激しさを表して
おります。頭髪の髻は欠失したのでしょう。
 「堂内像」だった本像は、
補彩とはいえ鮮やかな色彩に彩られた文様を今もなお認める
ことが出来る像です。目を凝らしてご覧ください。

 
阿形像の右手は180度回転しておりそんな無理な体制で闘うには不利だと思われます
が慶派の名工が考えたポーズにはそれなりの考えがあったのでしょう。どうか、皆さん
も像を眺めながらお考えください。
 阿形像は俯きかげんですが吽形像は逆にボディビルで鍛え上げたように厚い胸を張り
どうだと威張っており気迫のこもった像となっております。

 寄木造の特徴は肉厚を薄くして像の干割れ、反り、歪みを抑えることでしたが本像は
彫刻の彫りが深く素材に厚みが要求されたことでしょう。しかしこれら表現の激しさは
人々の心を魅了して大いに持て囃されたことでしょう。

 


   吽形像(薬師寺)


    吽形像(薬師寺)


   阿形像(薬師寺)

 「薬師寺」は天平時代の建立ですが伽藍は藤原京の「本薬師寺」と同じ白鳳様式でありま
すから「中門」には「仁王像」が祀られると思っておりましたら天平様式である四天王の
「二天像」が祀られております。これは、中門が再建される際発掘調査の結果創建当初は
二天像が安置されていたことが判明したからです。
 正面向き(南向き)ではなく東大寺南大門像と同じように阿吽像が向かい合っております。
 現在、「南大門」は仮の門ですが近い将来五間三戸の壮大な門が再建されましたらその
門には仁王像が安置されることでしょう。
  中央の写真は金剛柵の上から像を望み撮影したもので薄く金網が写っておりますが少
し離れた場所での撮影では気にならないことでしょう。当初の極彩色の文様を見ること
が出来ますので今の間に写真に収めておくことをお勧めいたします。  

                               画 中西 雅子