仏像ー鎌倉時代

  「鎌倉時代」の時代区分を、「平家滅亡」の1185(文治一)年から「鎌倉幕府の滅亡」
の1333(元弘三)年までといたします。

  「仏像彫刻」は鎌倉時代で終わったと言われるとおり、現在、仏像の国宝指定は鎌倉彫
刻が最後です。何故そうなったかと言いますと、信仰の対象が「仏像崇拝」から「人間崇
拝」に変わったことが大きな要因です。それは、仏像の代わりに祖師の、肖像、肖像画、
揮毫書を礼拝するようになり、しかも、祖師の肖像彫刻を安置した「御影堂(みえどう・
ごえいどう)」が、「本堂」よりも大きく建築されるようになりました。
   「禅宗」では師が仏でありますから、仏像を必要としません。開祖、高僧の像を頂相
(ちんそう)と言って、仏像より重んじられ信仰の対象とされました。頂相は曲彔(きょく
ろく)という椅子に坐る坐像が普通です。とはいえ、禅宗には仏像は全然無いのではなく、祀られる場合は主に釈迦如来像であります。
 
  「鎌倉の新仏教」は、前代の積善の数を競うようなことをせず、ただひたすらに阿弥陀
如来の名号の「南無阿弥陀仏」を、口の中で唱えるだけで極楽に往生できると説きました。庶民にとっては手軽に信仰できるので、我が国では浄土教が、東南アジアの中でも飛躍
的に普及しました。「親鸞」にいたっては阿弥陀如来の名号をただ一度だけ唱えれば救わ
れると説きました。
 これらの新仏教は、出家して仏の弟子にならなくても在家のままで極楽に往生できる
というものですから、庶民は喜んで信仰したのは申すまでもありません。さらに、悪人
でも往生できるとも言われ、前代の積善行為のあるなしも問われなくなりました。この
ような布教の変化が、仏教が一部の特権階級のものだったのが一般大衆にまで広がって
いきました。
 これらの新仏教は中国から請来(将来)された仏教でなく我が国で生まれた仏教ですから、我が国独自の仏教といえます。その新仏教を起こしたのですから、釈迦と同じと考
えられ、祖師が尊ばれたのでしょう。
 しかし一方、武士階級には新仏教は軟弱な宗教と見なされました。反対に禅宗は、こ
の時代に中国から請来されため京都にもなかったことと、更に厳しい修行があることが
武家たちに共感を呼んだのであります。


  鎌倉彫刻といえば「興福寺」に代表されるといっても過言ではありません。なぜなら、
興福寺には鎌倉時代の国宝仏像24体のうち11体、つまり、全体の46%もの仏像が
安置されているからです。
 
 1180(治承四)年の「南都の焼き打ち」で、失われた天平彫刻の復古制作は、東大寺・興福寺の復興事業によって大量に行われました。
 しかし、興福寺は、藤原氏の氏寺でありましたから東大寺のように源頼朝からの援助
も受けられず、再建は遅々として進まず、ついには「山田寺」から「薬師如来像(旧山田寺
仏頭)」を奪い取ってくるという前代未聞の出来事まで起こしたのであります。そのよう
な厳しい状況の中で、興福寺に鎌倉彫刻の優作が多く残されたのは、仏所「慶派」の功績
があればこそです。ところが当初は、藤原氏は貴族であり、貴族といえば京都の印派、
院派を可愛がり、慶派はその貴族に疎んじられておりましたから印派、円派のように表
舞台で活躍する機会もありませんでした。
 しかし、鎌倉彫刻の理想は天平彫刻の写実に還ろうだったので、慶派は南都に本拠を
構え、細々と仏像の造像や修理をやっていたことで、結果として天平彫刻の良さを学ぶ
ことが出来ましたのは幸運でした。

  それと、慶派は京都では相手にされないので鎌倉に赴き、その地で造像の仕事をやり
武家階級に評価されました。武家の文化は、前代の貴族好尚の優美な像より逞しい像が
好まれたことと、勢力の貴族と係わりのあった院派、円派を敬遠いたしましたので、奈
良仏師の慶派が浮かび上がることが出来たのであります。さらには、興福寺仏師として
興福寺で造仏、補修をやっていたので興福寺の僧侶とは人間関係が出来ていて僧侶の支
持もあったことでしょう。
 不遜な言い方をすれば もし、南都焼き討ちがなければ、慶派がこのように活躍出来
る舞台はなかったかも知れません。
 慶派の名前の由来は、仏師名に一字「慶」を入れたことが多いからです。とはいえ、法
隆寺金堂の阿弥陀如来坐像の作者は、運慶の四男で大仏師「康勝」というように大仏師で
も「慶」が付かない者もいました。 
 
 慶派は新しい写実主義を究めるため、人間らしい眼に見せる「玉眼」の技法を採用したり、中国から将来された宋様式を採用して新写実主義の鎌倉彫刻を完成させました。
 布教の対象を、武家や大衆にまで広げたため、仏像は、当然理解しやすくする必要が
ありました。そこで、像の表現はどこかで見かけたような面貌とか動きのあるものにし
たりして外面に力を注ぎました

 運慶、快慶の師だった「康慶」作の「法相六祖像」は、それはそれは大胆な彫り込みで、
新しい作風とは言え驚きをもって迎えられたことでしょう。ただこれらの像は、「儀軌」
に捉われない僧侶像でしたから新しい作風を吹き込むことが出来たのであり、仏像であ
ればあそこまで思い切った手法が取れなかったものと思われます。

 寄木造で巨像の制作が可能となりました。構築物のような「東大寺南大門仁王像」の制
作は、巨大像だけに運慶、快慶の指導の下にグループ作業で行われました。

 「鎌倉大仏」は南都の影響で造営されましたが、像の金メッキは大変な手間と費用を要
するので簡便な技法で仕上げました。その技法とは像に漆を接着剤として金箔を押しま
した。この技法だと天平時代の金メッキ(アマルガムメッキ)の際発生する水銀中毒による、皮膚障害、呼吸器障害の被害がなくなる利点がありました。

 余談ですがイタリアのマルコ・ポーロが『東方見聞録』の中で、我が国を「黄金の島
ジパング」と紹介したのは、外国では近隣諸国から何時侵略を受けるか分からないので、
常に持って逃げれるよう土地ではなく金の地金で保持いたしましたが、我が国では侵略
される心配が殆ど無いため、土地を保持して金は消費に回しました。それゆえ、金を利
用した漆箔、螺鈿、切金文様、蒔絵装飾の美術工芸品などが多かったので、黄金の島ジ
パングと勘違いしたためでしょうか? 

 写実主義もついには着せ替え人形のように裸体像を造り、その像に法衣を着せる新様
式の仏像を造りました。そこまでは行き過ぎだと思われた像は上半身のみ裸形です。こ
れらの像は珍しいので、多くの信者を集め、厚い信仰を受けております。
 前代以上に作品には名前を入れるようになり作者不明の作品が少なくなりました。

 
            
            仁 王 像(東大寺)    
 
     
    大日如来坐像(円成寺)
      
    吉祥天立像(浄瑠璃寺)
 
    
    金剛力士像(興福寺)
      
      波夷羅像(興福寺)
 
       行 賀 像(興福寺)
     
       天灯鬼(興福寺)
 
   維摩居士像(興福寺)
       
    文殊菩薩立像(興福寺)
 
  
  千手観音立像(興福寺)
                                                                        画 中西 雅子