ローマの歴史・・・すべての道はローマに通ず。

 

 

 ローマは、イタリアにあった都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界全域を支配する世界帝国にまでなった国家です。

  紀元前753年(建国)から、1453年(東ローマ帝国滅亡)まで存在したと考えると、実に2200年以上も続きました・・・

 ローマの歴史をみると、まさに人類の歴史ですね・・・

 

 人類は、離合集散、隆盛と衰退、を繰り返しているような気がしますが・・・一体、人類は進化しているのでしょうか・・・

 

 王政期

 共和政期

 帝政期

 帝国の分裂と衰退

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王政期

紀元前753年(建国)から紀元前509年まで、ロムルスに始まる伝説上の七人の王が治めていた期間です(伝承)。

初期の4人の王は、ローマ建設時の中心となったラテン人とサビニ人から選ばれていますが、

その後の3人の王は、エトルリア人出身であるとされます。

ブルトゥスによるタルクィニウスの追放によって、王政ローマは終わりました。

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共和政期

初期

中期

末期

 

 紀元前509年から前27年までの、イタリア半島の一都市国家から、地中海全域に属州を持つ帝政になるまでの期間です。

王政への反省から、共和政がとられ、2名の執政官がローマの政治を司ることになりました。

政治は、元老院と執政官ら政務官を中心として、民会などで一般ローマ市民の意思も反映されながら運営されました。

最初の執政官には、ブルトゥスと、コラティヌスが選出されました。

 

 この頃、アケメネス朝(紀元前550 -330年)が成立しています・・・

紀元前499年から前449年まで、ギリシア遠征(ペルシア戦争)を行いましたが、ギリシアの勝利で終わりました。

 しかし、その後ギリシアは分裂し、ペロポネソス戦争(紀元前431 - 紀元前404年)が起こりました。

 

 その後、アレクサンドロス3アレクサンドロス大王。紀元前356- 323年。)が登場し、マケドニア王国が勢力を伸ばしました。

紀元前338年、アテナイ・テバイ連合軍がマケドニアに敗北し、ギリシアは、マケドニアの支配下に置かれました。

紀元前334年には、マケドニアが東征を開始し、アケメネス朝も滅びました。

 

 ちなみに、紀元前347年、アリストテレスが、アレクサンドロス3の家庭教師になっています。

アリストテレスは、プラトンの弟子で、

プラトンは、ソクラテス(共にギリシア)の弟子です。

ソクラテスは、理不尽な罪で、紀元前399年、自ら毒を飲み、亡くなりました。

 尚、哲学はよくわかりません・・・無知の知、です。

 

しかし、アレクサンドロス3の死後、マケドニアも内乱状態となって分裂し、ローマに滅ぼされました。

 

共和政初期

 ブルトゥスによる王政の打倒から、イタリア半島の中部・南部を勢力に加えた頃までです。

相次ぐ戦争の中で、戦争の主力となった重装歩兵の政治的発言力が強まり、

それを支えたプレブス(平民)が、当時政治を独占していたパトリキ(貴族)に対して、

自分たちの政治参加を要求するようになりました(身分闘争)。

共和政期

 

共和政中期

 カルタゴとの、ポエニ戦争の時期です。

イタリア半島の統一を果たしたローマは、西地中海の商業覇権をめぐって、

紀元前264年から、カルタゴとの百年以上の戦争へ突入しました。

 

第一次ポエニ戦争で、シチリアを獲得し、この地を最初の属州としました。

 

紀元前218年から始まった第二次ポエニ戦争では、カルタゴの将軍ハンニバルに苦戦しましたが、スキピオの活躍で、再び勝利します。

この時、イベリア半島南部におけるカルタゴの拠点を奪い、西地中海征服を果たしました。

また、カルタゴに味方したマケドニアにも遠征を行い、イリュリアやアカエア(ギリシア)を影響下に置きました。

 尚、アルキメデスは、紀元前212年、第二次ポエニ戦争の時に亡くなりました。

 

紀元前149年より第三次ポエニ戦争が始まり、紀元前146年に、カルタゴは破壊されました。

共和政期

 

共和政末期

グラックス兄弟の改革と死、その後の内乱の一世紀を経て、アウグストゥスによる帝政の樹立までの期間です。

 

ポエニ戦争の後も、対外征服戦争や反ローマの反乱などによりローマの軍事活動は続きました。

ローマ軍の中核をなしていた自由農民は、連年の出征によって農地から引き離され、

また属州より安価な穀物が流入したため、次第に没落していきます。

この状況を打開するために、グラックス兄弟が、平民の支持を得て、土地分与の改革を実施しようとしました。

しかし、改革は失敗に終わり、紀元前133年、ローマは内乱の一世紀に突入しました・・・改革は難しいですね。

 

こうした状況では、優れた指揮能力を持つ者を執政官に選ぶ必要がありました。この時台頭したのが、

民衆派(ポプラレスガイウス・マリウスと、元老院派(オプティマテス)のルキウス・コルネリウス・スッラです。

激しい内戦の末、スッラが勝利しました。

 

当時、いわゆる、パンとサーカスパンと見世物)で、剣闘士試合等も行われていましたが、

紀元前73年から前71年に、スパルタクスの反乱、という剣闘士や奴隷による反乱が起こりました。

一時は優勢でしたが、クラッススポンペイウスにより鎮圧されました。

  彼ら2人にカエサルを加えた3人は、第一回三頭政治を結成し、元老院に対抗しました。

  しかし、クラッススの死後、残る2人の間で内戦が起き、カエサルが勝利しました。

・・・「賽(さい)は投げられた

カエサルは、紀元前45年に終身独裁官となりましたが、前44年に共和主義者によって暗殺されました。

・・・「ブルータス、お前もか

 

この後、オクタウィアヌスアントニウスレピドゥスが、第二回三頭政治を行いました。

オクタウィアヌスは、紀元前31年、アクティウムの海戦でアントニウスに勝利し、

紀元前27年に「尊厳者(アウグストゥス)」、「第一の市民(プリンケプス)」の称号を得て、

共和政の形式を残しながら、プリンキパトゥス(事実上の帝政)が始まりました。

共和政期 トップ

 

帝政期

ユリウス・クラウディウス朝

五賢帝の時代

セウェルス朝

軍人皇帝時代

ドミナートゥス

キリスト教

 

 ユリウス・クラウディウス朝内乱期

 ローマ帝政は、アウグストゥスの皇帝就任と、ユリウス・クラウディウス家の世襲で始まりました。

 

   初代皇帝アウグストゥスの時代に、

常備軍の創設や補助兵制度の正式化、

通貨制度の整備、

ローマ市の改造や属州制度の改革、などを行い、帝国の基盤が整えられました。

 

 さらに防衛がしやすい自然国境を定め、そこまでの地域を征服したため、(無理はよくないですね。)

帝国の領域は拡大し、安定した防衛線に守られた帝国領内は、

パクス・ロマーナローマの平和)、と呼ばれる平和が長く続くこととなりました。

 

 しかし、ティベリウスの死後から、軍事・政治の両面で徐々に変化が起こりました。

 軍事面では、自作農が没落したため徴兵制が破綻し、代わって傭兵制が取られましたが、

帝国内部に強大な常備軍が常駐するようになり、潜在的な政治集団の発生につながりました。

 政治面では、68年、ネロが亡くなると皇位継承戦争が発生し、4人の皇帝が次々と擁立されたことから、四皇帝の年とも呼びます。

 一時帝国は複数の属州軍閥に分割され、これにガリアなどローマ化の進んでいた属州や、ユダヤ人など東方の反乱も同期しました。

 

やがてウェスパシアヌスが勝利し70年にフラウィウス朝を開始すると、ローマは小康状態を取り戻しました。

 しかし、その後ドミティアヌスが暗殺され、後継ぎがなかったためにフラウィウス朝は断絶しました。

帝政期

 

 五賢帝の時代ネルウァ=アントニヌス朝

 紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎えました。

ネルウァ                          96 -  98年。五賢帝時代の開始。

トラヤヌス                        98 - 117年。領土が最大となりました。

ハドリアヌス                     117 - 138年。東方国境を安定化や、全属州を視察。内政の整備と、防衛体制を確立。

アントニヌス・ピウス         138 - 161年。内政の改革や財政の健全化。

マルクス・アウレリウス      161 - 180年。「哲人皇帝」。晩年は各地の反乱や災害や異民族の侵入に悩まされました。

5人の皇帝を、五賢帝といいます。

 

 この時代には、法律(ローマ法)、交通路、度量衡、幣制などの整備・統一が行われ、

領内には軍事的安定状態が保たれていたようですが、地中海の海上流通は減退が見られました。

 また軍隊とつながる大土地所有者が力を持ち、自由農民が重税を避けて逃げ込むケースが増え、自給自足的な共同体が増加した時期でもあります。

帝政期

 

 セウェルス朝

 コンモドゥスが、悪政の末に192年に暗殺されたため、社会は混乱し、内乱が勃発しました。

 193年には5人の皇帝が乱立し、五皇帝の年と呼ばれる混乱が起きました。

 

 この内戦を制したセプティミウス・セウェルスによって193年にセウェルス朝が開かれました。これは、当初から軍事色の強い政権でした。

 五賢帝時代の末期頃に天然痘の流行により人口が減少し、その後各地で反乱が頻発するようになり、また軍団兵・補助兵とも、なり手が不足しました。

 これに対処するため、212年、カラカラアントニヌス勅令によって、ローマの支配下にあるすべての地域に、同等の市民権が与えられました。

 これによって、非ローマ市民の著しい不平等は多少緩和されましたが、ローマ市民権の価値が崩壊し、以後長く続く混乱の一因となりました。

 市民権に価値がなくなったために、帝国内の補助兵のなり手が急減し、軍事力の衰退を招きました。(あちら立てれば、こちら立たず・・・難しいですね。)

 

 235年、アレクサンデル・セウェルスが軍の反乱によって殺害されたことでセウェルス朝は断絶し、

以後、軍人皇帝時代と呼ばれる混乱期に突入していきます。

帝政期

 

 軍人皇帝時代

 「元首政」の欠点は、元首を選出するための明確な基準が存在しない事です。

 そのため、地方の有力者の不服従が目立つようになり、行政が弛緩し始めると、

相対的に軍隊が強権を持ったため、反乱が増加しました。

 約50年間に26人が皇帝位に就いたこの時代は、軍人皇帝時代と呼ばれます。

 

 パクス・ロマーナにより、戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、

代わりにコロヌス(土地の移動の自由がない農民。)が急激に増加しました。

 この労働力を使った小作制のコロナートゥスが発展し始めると、人々の移動が減り、商業が衰退し、地方の離心が促進されました。

帝政期

 

 ドミナートゥス(専制君主制)

 284年に最後の軍人皇帝となったディオクレティアヌスは、混乱を収拾すべく、帝権を強化しました(ドミナートゥス)。

 またテトラルキア(四分割統治)を導入しました。これは、二人の正帝(アウグストゥス)と、副帝(カエサル)によって行われました。

 

 強大な複数の外敵に面した結果、皇帝以外の将軍の指揮する大きな軍団が必要とされましたが、

軍団はしばしば中央政府に反乱を起こしました。

 テトラルキアは皇帝の数を増やすことでこの問題を解決し、帝国は一時安定を取り戻しました。

彼の下でローマは古代から中世に向けて、外面でも内面でも大きな変化を開始します。

 

 ディオクレティアヌス305年に引退した後、テトラルキアは急速に崩壊していきました。

 混乱が続く中、西方副帝であったコンスタンティヌス1が有力となり、324年には唯一の皇帝となりました。

 彼は専制君主制の確立につとめる一方、東のサーサーン朝ペルシアの攻撃に備えるため、

330年、交易ルートの要衝ビュザンティオン(ビザンティウム)に遷都して国の立て直しを図りました。

 

 コンスタンティヌス1の死後、北方のゲルマン人の侵入は激化、

特に375年以降のゲルマン民族の大移動が、帝国を揺さ振ることとなりました。

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 キリスト教

 帝政初期に、帝国領内のユダヤ属州で生まれたイエス・キリストが創始したキリスト教は、

徐々に信徒数を増やしてゆき、2世紀末には帝国全土に広まりました。

 313年にコンスタンティヌス1は、ミラノ勅令を公布してキリスト教を公認しました。

 更に、392年にテオドシウス1のときには国教に定められ、異教は禁止されることになりました。

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 帝国の分裂と衰退

 395年、テオドシウス1は帝国を東西に分け、長男と次男に、分治させました。

 以降のローマ帝国を、それぞれ西ローマ帝国東ローマ帝国と呼びます。

 ただし、当時の意識としては別の国家となったわけではなく、あくまでもひとつのローマ帝国でした。

 

 西ローマ帝国395-476年)

 皇帝の所在地としての首都は、ローマからミラノ、後にラヴェンナに移りました。

 西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に耐え切れず、

476年、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによってロムルス・アウグストゥルスが廃位され滅亡しました。

 その後もガリア地方北部のローマ領としては存続しましたが、クロヴィス1によるフランク王国に編入され、消滅しました。

トップ 帝国の分裂

 

 東ローマ帝国395-1453年)

 東ローマ帝国は、首都をコンスタンティノポリスとし、15世紀まで続きました。

 

東ローマが、ゲルマン人を退けることができた理由として、 比較

アナトリアのイサウリア人のようにゲルマン人に対抗できる勇猛な民族がいた、

アナトリア・シリア・エジプトのような、ゲルマン人の手の届かない地域に豊かな穀倉地帯を保持していた、

首都コンスタンティノポリスに難攻不落の大城壁を築いていた、

西ゴート人や東ゴート人へ貢納金を払って西方へ移動させた。

ことなどが挙げられます。

 

 東ローマ帝国は、古代末期のローマ帝国の体制を受け継いでいましたが、

完全なキリスト教国であり、また徐々にギリシア的性格を強めていきました。

 

 西ローマの消滅後は唯一のローマ帝国政府として、名目上では全ローマ帝国の統治権を持ちました。

 東ローマによる帝国の再建は何度か試みられました。

 6世紀のユスティニアヌス1によるものは一定の成果を収め、地中海の広範な地帯が再びローマ帝国領となりました。

 

・・・しかし、無理がたたったのか、ユスティニアヌス没後は混乱と縮小の時代に入り、

78世紀にかけ、イスラム帝国やスラヴ人(ブルガリア帝国)などの侵入により、領土が大幅に縮小しました。

 そのため、テマ制(軍管区制)が導入されました。

 

 ラテン語が使用されていた帝国西方の喪失は、公用語のギリシア語化7世紀)を促し、

8世紀にはローマやラヴェンナを含む北イタリア管区を失い、また、西欧に対する影響力も低下しました。

 これらにより帝国の性格を変化させ、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした、

ビザンツ文明」とも呼べる段階に移行しました。

 

 800年に、カール大帝が、西ローマ皇帝(フランク・ローマ皇帝、在位:800- 814年。カールの戴冠)を称しましたが、

東ローマ帝国は、当初カールのローマ皇帝位を承認せず、812年にようやく帝位を認めました。

・・・カールの死後、分裂してしまいますが、

以後、ローマ教会と西欧は、東ローマ皇帝の宗主権下から離れてしまいました。

 更に、962年、オットー大帝がローマ皇帝に戴冠し、神聖ローマ帝国が始まりました(800年という説もあります)。

 

 東ローマ帝国は、910世紀頃には安定期に入り、再び積極的な対外行動をとります。

帝国の領土は再び拡大し、11世紀初頭にはバルカン半島とアナトリア半島の全域、南イタリア、シリア北部等を領有しました。

 しかし、その後はイスラムや西欧に対して劣勢になり、

 ノルマン・東ローマ戦争1011 - 1185年)、

 セルジューク・東ローマ戦争1055 - 1308年)などが起こりました。・・・

 この影響で、十字軍1096-)遠征が行われました・・・

 1204年、第4回十字軍により首都コンスタンティノポリスを占領されました・・・十字軍って???

 

 その後、1223年のカルカ河畔の戦い以来、モンゴル帝国によるヨーロッパ侵攻が始まり、

1242年、ジョチ・ウルスがキプチャク草原に成立しました。周辺国は、モンゴル帝国に属国化していきましたが、

逆に東ローマ亡命政権であるニカイア帝国は、1261年にコンスタンティノポリスを奪回し、東ローマ帝国を復興しました(パレオロゴス王朝)。

しかし、以後は内乱が頻発し、オスマン帝国等に領土を侵食されていきました。

 

 一方、1378年から1417年まで、ローマとアヴィニョンにそれぞれローマ教皇が立ち、カトリック教会は分裂した状態でした(教会大分裂)。

 

 また、1396年、ハンガリー王を中心としたヨーロッパ諸国は、ニコポリスの戦いでオスマン帝国に大敗しました。

この時は、1402年のアンカラの戦いで、オスマン帝国がティムールに敗れて統制を失ったため、危機を脱しました。

 

 しかし、14534月、オスマン帝国軍による2ヶ月にも及ぶ包囲戦の末、529日ついにコンスタンティノポリスは陥落しました。

 最後の皇帝コンスタンティノス11は戦死し、東ローマ帝国は滅亡しました。

 

  陥落の原因としては、比較

 西欧からの援軍がなかったこと・・・この頃のヨーロッパでは、

 神聖ローマ帝国では、1437年に、ルクセンブルク家の帝位が終わり、

1452年、ハプスブルク家フリードリヒ3が、神聖ローマ帝国皇帝に即位したばかりでした。

 また、フランスとイギリスの間では、百年戦争が行われていました。(1337-1453年)

 更に、ロシア帝国の前身であるモスクワ大公国は、1467年にイヴァン3がコンスタンティノス11世の姪ソフィアを妻とし、

ローマ帝国の継承者であることを宣言しますが、この頃は、タタールのくびきにより支配されていました。

 加えて、

 オスマン艦隊の山越え、という奇策により、援助物資の供給がとだえたこと、

 新兵器(ウルバン砲)による城壁破壊、

 ケルコポルタ門の通用口の施錠し忘れていたこと・・・

など、が考えられます。

 

 ゲルマン人撃退と、コンスタンティノポリス陥落を比較すると、興味深いですね。

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