ハプスブルクの歴史・・・戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ。

 

 

 ハプスブルク家は、神聖ローマ帝国の皇帝位を中世以来保持した名門の家系です。

 血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得し、中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、

オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、

オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の家系となりました。

 

  ハプスブルク家の歴史をみると、ローマ帝国後の人類の歴史をみるようです・・・平和が一番ですが・・・

 

 ハプスブルク家の歴史

 スペイン系ハプスブルク家

 オーストリア系ハプスブルク家

 結婚政策

 

 ハプスブルク家の歴史

 ハプスブルク家は、スイス北東部(バーゼル近郊)のライン川上流域を発祥地とします。

この地にはハビヒツブルク(「鷹の城」)古城が現存しますが、この「ハビヒツブルク」がなまって「ハプスブルク」になったと考えられています。

 1273年、ルドルフ1が、ドイツ王(皇帝に戴冠していない神聖ローマ帝国の君主)に選出されて世に出ました(尚、この時大空位時代も終わりを告げます)。

(日本では、鎌倉時代で、1274年、一回目の元寇(文永の役)が起こりました。ヨーロッパのルーシ諸国は、タタールのくびきといわれる時代です。)

 

 一時勢力が衰えましたが、オーストリア公として着実に勢力を広げ、1359年、ルドルフ4が「大公」を自称しました。

 1440年、フリードリヒ3がドイツ王になってからは王位をほぼ世襲化することに成功し、更に、

 1452年、神聖ローマ帝国皇帝(在位:1452 - 1493年)に即位しました。(奇しくも同年、東ローマ帝国が滅亡しました。

(日本では、室町時代で、1467年、応仁の乱が起こりました。)

 

 その後、マクシミリアン1(在位:1493 - 1519年)が、婚姻により領土を拡大してハプスブルク家隆盛の基礎を築きました。

そして、孫のカール5(在位:1519 - 1556年)の下で、ヨーロッパの一大帝国を現出させました。

さらに、カール5世の弟フェルディナント1世がハンガリー王、ボヘミア王に選出されたため、ハプスブルク家は東欧における版図が広がりました。

 1521年、カール5世は、祖父の所領をフェルディナント1オーストリア系)と分割しました。

 1556年、父母を通じて相続した所領を息子フェリペ2スペイン系)に継がせました。

こうしてハプスブルク家は、二つに分かれました。

 1549年に取り交わされた協定で、フェルディナント1世の子孫が神聖ローマ皇帝位を世襲することになりました。

(日本では、同年、ポルトガル王の依頼でインドのゴアに派遣されていたフランシスコ・ザビエルが来日し、日本に初めてキリスト教を伝えました。)

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 スペイン系ハプスブルク家(アブスブルゴ家) ハプスブルク家の歴史

 スペインは、アメリカ大陸や太平洋(フィリピン、マリアナ諸島)に広大な植民地(ヌエバ・エスパーニャ)を有し、

またヨーロッパにおいてもネーデルラントやイタリアなどを支配下に置きました。

 フェリペ2(在位:1556 - 1598年)の治世に最盛期を迎え、1580年から1640年までポルトガル王を兼ね、イベリア半島全域に加え、

ポルトガルが南米やアフリカ、アジア沿岸に持っていた植民地も併せ持つことになり、「日の沈まぬ帝国」を実現しました。

1584年、天正遣欧少年使節が、フェリペ2世に歓待を受けました。)

 

 しかし、1588年、アルマダの海戦無敵艦隊が壊滅し、衰退します。

八十年戦争オランダ独立戦争)などにも敗れて、財政破綻状態となりました。

(日本では、1600年、関ヶ原の戦いが起こり、江戸時代となりました。)

 

 1640年には、ポルトガル王政復古戦争が起こり、ポルトガルとの同君連合が解消されました。

(前年の1639年、日本は、ポルトガル船入港禁止を行い、鎖国を行いました。)

 

 1700年、カルロス2の死によって断絶した後、スペイン継承戦争1701 - 1714年)を経て、王位をスペイン・ブルボン家に譲りました。

尚、この戦争に対応して、北アメリカ大陸でアン女王戦争1702 - 1713年)が起こりました。

また、同時期に、北欧では大北方戦争1700 - 1721年)が起こりました。

(日本では、元禄時代(1688 - 1707年)を中心に、上方で元禄文化が繁栄しました。

 一方、大地震や噴火が続発し、1703年には、元禄地震M8.1)が、1707年には、宝永地震M8.4)と宝永大噴火(富士山最後の噴火)が発生しました。

 その後、1716年からは、徳川吉宗により享保の改革が行われました。)

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 オーストリア系ハプスブルク家ハプスブルク=ロートリンゲン家ハプスブルク君主国) ハプスブルク家の歴史

 1804年から1867年まではオーストリア帝国

 1867年から1918年まではオーストリア=ハンガリー帝国、と称しました。

  家系の主な系統

 オーストリア皇帝家: 宗家。神聖ローマ皇帝・オーストリア大公の他にハンガリー王、ボヘミア王も兼ねていました。

 トスカーナ大公家

 モデナ公家

 チェシン公家、など

 

 オーストリアは、フェルディナント1に始まります。

 成立は、ハプスブルク家がオーストリア大公国に加えてハンガリー王国、ボヘミア王国を獲得した1526年、とされます。

 1529年、スレイマン1率いるオスマン帝国軍により、首都ウィーンが包囲されました(第一次ウィーン包囲)。

 1648年、三十年戦争終結とともに結ばれたヴェストファーレン条約によって弱体化しました。

この条約は、帝国の死亡証明書とも呼ばれましたが、ヨーロッパにおけるカトリックとプロテスタントによる宗教戦争は終止符が打たれました。

 1683年、オスマン帝国の第二次ウィーン包囲撃退の後、ハプスブルク家は力を取り戻し、

オスマン帝国を破って、ハンガリーを奪還しました(1699年、カルロヴィッツ条約)。

(余談ですが、この頃から、ウィーンでカフェが広まりました。)

 

 カール6(在位:1711 - 1740年)は、帝位と家督を継がせる男子がなく、

マリア・テレジアを相続人としてハプスブルク家領とボヘミアやハンガリーの王位、オーストリア大公位などを継がせ、

帝位にはその夫のロレーヌ公フランツ・シュテファンを就かせることを取り決めました。

 

 フランツ・シュテファンは、ロレーヌ家の当主(1729 - 1737年)であり、皇帝フェルディナント3世とフランス王ルイ13世の曾孫でもありました。

 ロレーヌ家は、ロレーヌ公国を統治した家系です。ロレーヌは、ロタリンギアに由来します。

 1670年から1714年の間にロレーヌは2度、ルイ14に占領されており、

ロレーヌ公の一族はオーストリアへ亡命し、以後ハプスブルク家との関係を深めました。

 その後、ポーランド継承戦1733 - 1735年)が起こり、1734年、フランツはフランスにロレーヌを占領されました。

 1736年、フランツはマリア・テレジアと結婚して帝位継承者となりますが、

国際的承認と引き換えにロレーヌ地方をルイ15に譲渡しなければなりませんでした。

 1737年、代償としてフランツは、メディチ家断絶により空位となったトスカーナ大公国の大公位を継承しました。

 

 1740年、カール6世が没すると、プロイセン王フリードリヒ2、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト、ポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト3らが

ルイ15世と同盟を結び、先の取り決めを無視して領土の割譲や帝位を要求し、オーストリア継承戦争が勃発しました。

 この戦争によってオーストリアは、フリードリヒ2世にシレジアを奪われ、またアルブレヒトが皇帝となり、ボヘミアも一時占領されました。

 しかしマリア・テレジアの下でオーストリアは、イギリスの援助を受けて反撃に転じました。

シレジアを取り戻すことはできませんでしたが、フランツが1745年に帝位を奪還してフランツ1(在位:1745 - 1765年)を名乗りました。

 1748年、アーヘンの和約によってオーストリア、ボヘミア、ハンガリーの相続を承認されました。

 

 その後、オーストリアはプロイセンにリベンジします(七年戦争1756 - 1763年)。

 オーストリアが外交革命によりフランスと同盟を結ぶ等、当初圧倒的に有利でした。プロイセンは、今回はイギリスから財政支援を受けました。

しかし、エリザヴェータ女帝の死によるロシアの離反などによって、結局シレジアを回復できませんでした。

(尚、大黒屋光太夫は、漂流している所をロシア人に助けられ、1791年、エカチェリーナ2(エリザヴェータの息子ピョートル3世の妻にして女帝。)に拝謁しました。

1792年、ラクスマンにより、大黒屋光太夫は根室に寄港し、帰国できました。)

 七年戦争に対応して、北アメリカでは、フレンチ・インディアン戦争 1755 - 1763年)が起こりました。

この戦争で、イギリスが優位となりましたが、多額の負債をかかえました。

そのため、イギリスは植民地への課税を行おうとしましたが、これによりアメリカ独立戦争1775年 – 1783年)が起こりました。

 (更に、アメリカを支援したフランスも、勝利はしたものの財政が破綻し、フランス革命の要因となりました。)

 

 フランツ1世とマリア・テレジアの長男ヨーゼフ2(在位:1765 - 1790年)は、

父から帝位を、母からオーストリア大公位とハンガリーとボヘミアの王位を継承し、

母とともに啓蒙主義を推し進めるなど、積極的に富国強兵に努めました。しかし、この急進的な改革は、抵抗に阻まれることになりました。

 (余談ですが、この頃、モーツァルトが活躍しました。

 

 ハプスブルク家とフランス王家は長年にわたり敵対関係にありましたが、大国化するプロイセン王国に対抗するため、

マリア・テレジアの下で外交革命がなされ、両者の間に同盟関係が成立しました。

 1770年の、フランス王太子ルイ16と、マリー・アントワネットの結婚もその一環でした。

 しかし、ブルボン家との関係の重視は、反面でドイツ諸邦との関係の弱体化につながりました。

 

 1789年、フランス革命が起こり、ハプスブルク家は、今度はプロイセンと共にフランスに出兵します(フランス革命戦争)。

 しかしフランス革命政府軍に敗れ、さらにナポレオン・ボナパルトの台頭を許しました。

(日本では、1787年、松平定信により寛政の改革が行われました。)

 

 1804年、ナポレオンは、フランス皇帝ナポレオン1世となり、同年、フランツ2も、オーストリア皇帝フランツ1を称しました。

 1806年、神聖ローマ帝国は、アウステルリッツの戦いに敗れ、ライン同盟の結成とフランツ2世の退位によって名実ともに消滅しました。

(以後、ハプスブルク家はオーストリア皇帝として存続しました。)

 1812年、ナポレオンは、ロシア戦で大敗して失脚し、

 1814年、ウィーン会議が開催されました。(「会議は踊る、されど進まず」、議長はメッテルニヒです。)

(日本では、徳川家斉の治世で大御所時代でした。この頃、江戸を中心に化政文化が栄えましたが、浪費により江戸幕府の財政が苦しくなり、

1841年、家斉の死去後、水野忠邦による天保の改革が行われました。)

 

 その後、フェルディナント11848年の3月革命(1848年革命)で退位すると、弟の長男フランツ・ヨーゼフ1が即位しました。

 そして、ウィーン体制護持の神聖同盟の一角として地位を保持し、ドイツ連邦内においても優位を保っていました。

 しかし、1853年、クリミア戦争でロシアと敵対して神聖同盟が崩壊しました(この同盟は、ロシア皇帝アレクサンドル1の提唱で結成されました)。

(日本では、同年、アメリカのペリー率いる黒船来航がありました。

  尚、この時期も日本で大地震が続発し、1854年、安政東海地震M8.4)と、その約32時間後には安政南海地震M8.4)が、発生しました。

1855年には、安政江戸地震M6.9)や、宮城県沖を震源とする地震(M7.3)などが発生しました。

参考に、1835年(M7.0前後)と、1861年(M7.3)に宮城県沖地震が発生しました。)

 

 1859年、サルデーニャ王国に敗北してロンバルディアを失います(イタリア統一運動リソルジメント))

(余談ですが、同年ダーウィンウォレスによって自然選択説が体系化されました。)

 

 1866年、普墺戦争プロイセン(首相はビスマルクです。)に大敗し、ドイツ連邦から追放(ドイツ統一)と、国際的地位を低下させました。

 (翌1867年、この敗戦がきっかけとなり、ヨハン・シュトラウス2によって美しく青きドナウが作曲されました。)

 

 国内でも、諸民族が自治を求めて立ち上がり、フランツ・ヨーゼフ1がハンガリー人に対して妥協(アウスグライヒ)することで、

1867年、帝国はオーストリア帝国とハンガリー王国とに二分して同じ君主を仰ぐ、オーストリア=ハンガリー帝国へ再編されました。

 (日本では、同年、大政奉還が行われ、明治時代となりました。

また、1873年、首都ウィーンで開催されたウィーン万国博覧会は、維新後の新政府が初めて公式参加した万博です。

万博に出品された浮世絵琳派等日本美術は、ヨーロッパでも注目されました(ジャポニスム)。

接吻など、クリムトの「黄金の時代」の作品は、琳派の影響を指摘されています。)

 

 それでも以後、民族問題は深刻を深めていきました。

 1908年、ボスニア・ヘルツェゴビナ併合を行ったことから、大セルビア主義が高揚し、ロシアとの関係も悪化しました。

 フランツ・ヨーゼフは唯一の息子である皇太子ルドルフの死後、甥のフェルディナント大公を皇位継承者としましたが、

 1914年、同夫妻が暗殺される事件(サラエヴォ事件)がきっかけとなって、第一次世界大戦が始まりました。

 大戦中にフランツ・ヨーゼフは死去し、フェルディナントの甥カール1が帝位を継ぎますが、

 帝国内の民族が続々と独立し、盟邦ハンガリーもオーストリアとの完全分立を宣言しました。

 1918年、最後の皇帝カール1世は亡命し、中欧に650年間君臨したハプスブルク帝国は終焉を迎えました。

(同時に、ドイツ帝国、オスマン帝国、ロシア帝国も滅亡しました。)

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 結婚政策 「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」

 ハプスブルク家は、婚姻によって所領を増やしていきました。

 一方で婚姻による所領の流失にも敏感であり、一族外に所領が継承される事態を防ぐため、血族結婚を繰り返しました。

 ハプスブルク家には強固な当主の概念があったため、外戚に家を乗っ取られることも、また一族内で争いが起こることもまれでした。

 ほとんどは政略結婚でしたが、その割には夫婦仲が円満で子宝に恵まれたケースが多いようです。

 そのため、ハプスブルク家に関しては、陰謀などの血生臭いイメージはあまりないようです。

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 尚、現在オーストリアは、永世中立国となっています・・・平和が一番ですね。

 

 

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