縄文時代・・・一万年以上続いた日本の時代

 

 

縄文時代

 

時期区分

草創期

早期

前期

中期

後期

晩期

 

気候の変化と縄文文化

 

円筒土器文化圏

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縄文時代

 

 

縄文時代(ブログ)

 

縄文時代は、今から約1.65万年前から約3千年前、

新生代、更新世末期から完新世にかけて、

一万年以上にわたり、日本列島で発展した時代です。

 

旧石器時代と縄文時代の違いは、

土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式等があります。

土器の起源

日本の家の起源

 

縄文時代は、元々縄文土器が使用された時代を示す呼称でしたが、

次第に生活内容を加えた特徴の説明がされるようになり、

磨製石器を造る技術、土器の使用、農耕狩猟採集経済、定住化した社会

ととらえられるようになりました。

 

縄文時代の終わりについては、

定型的な水田耕作を特徴とする、弥生文化の登場を契機としますが、

年代については、紀元前数世紀から紀元前10世紀頃まで、諸説あるようです。

 

沖縄県では、貝塚時代前期に区分されます。

次の時代は、貝塚時代後期となり、貝塚文化と呼ばれます。

 

また、東北北部から北海道では、

縄文時代の生活様式が継承されるため、続縄文時代と呼ばれます。

 

縄文文化の分布範囲も、諸説ありますが、

縄文土器の分布を目安とした場合、

北は、宗谷岬と千島列島、

南は、沖縄本島です。

 

尚、縄文時代の後期後半の日本列島では、すでにイネが栽培されていたようです。

ただし、イネが単独で栽培されていたわけでなく、

オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバ等の雑穀類や、アズキ、大豆等と混作されていたようです。

 日本の作物の起源

縄文時代

 

 

縄文文化は、多様な地域性を備えた文化群であったことが指摘されています。

 

縄文人が製作した土偶は、

縄文時代の全期間を通して、日本列島各地で使われていたのではなく、

時期と地域により、限定されたものでした。

 

縄文早期の前半期に、関東地方の東部で集中的に使用された後、

縄文中期に、土偶の使用は一旦消滅しています。

その後、縄文後期の前半に、東日本で再び土偶が使用されるようになりました。

 

一方、九州では、当初土偶が使用されませんでしたが、

縄文後期になると、九州北部や中部で土偶が登場しました。

 

土偶の使用の地域性について、

ブナ、ナラ、クリ、トチノキ等の落葉性堅果類を主食とした地域(落葉樹林に覆われていた地域)と、

西日本を中心とした照葉樹林帯との生業形態の差異と関連づけて、

落葉性堅果類(クリやドングリ)は、秋の一時期に集中的に収穫され、

比較的大きな集落による労働集約的な作業が必要となるため、

土偶を用いた祭祀を行うことで、社会集団を統合していた、という説があります

縄文時代

 

植物栽培 日本の作物の起源

福井県の鳥浜貝塚の

前期の層から、栽培植物(アズキ、エゴマ、ウリ、ヒョウタン、ゴボウ等)が、

早期の層からも、ヒョウタンが検出されています。

 

一方、北部九州の後・晩期遺跡の遺物で、焼畑農耕が行われていた可能性が高いと考えられています。

福岡県下の後・晩期遺跡の花粉分析、

熊本市の遺跡で、イネ、オオムギ、

大分県の遺跡で、イネ等が検出されています。

 

東日本の後・晩期の遺跡から、ソバの花粉が検出されています。

これらも、焼畑農耕による栽培と推定されています。

縄文時代 トップ

 

 

時期区分

土器型式上の区分から、

縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期6期に分けられます。土器の起源

 

草創期(約15,000 - 12,000年前)

早期(約12,000 - 7,000年前)

前期(約7,000 - 5,500年前)

中期(約5,500 - 4,500年前)

後期(約4,500 - 3,300年前)

晩期(約3,300 - 2,800年前)

 

その他、諸説あるようです。

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草創期(約15,000 - 12,000年前) 気候の変化

旧石器時代から縄文時代への移行期です。 日本列島の起源 

 

日本列島の旧石器時代の人々は、

大型哺乳動物(ヘラジカ、ヤギュウ、オーロックス、ナウマンゾウ、オオツノシカ等)や

中・小型哺乳動物(ニホンジカ、イノシシ、アナグマ、ノウサギ等)を狩猟対象としていました。

 

大型の哺乳動物は、季節によって広範囲に移動を繰り返すので、

それを追って、キャンプ生活を営みながら、頻繁に移動生活を繰り返していました。

 

草創期になると、一時的に特定の場所で生活する、半定住生活を送るようになりました。

 

草創期の初め頃は、日本列島が大陸から離れる直前であったと推測されています。

 

晩氷期の気候は、短期間に寒・暖が起こり、厳しい環境変化がありました。

温暖化が進行し、氷河が溶けて海水面が上昇し、海が陸地に進入しました(海進)。

 

環境の変化に伴い、

貝類や魚類が、新しい食糧資源になりました。

 

狩猟の獲物は、ゾウや野牛の大型哺乳動物から、

シカやイノシシの中・小哺乳動物に変わっていきました。

 

狩猟・植物採取・植物栽培・漁労の、

3つの新たな生業体系をもとに、生産力を飛躍的に発展させました。

 

草創期前半の時期は、遺跡によって、石器群の組み合わせが違いました。

急激な気候の変化による、植生や動物相、海岸線の移動等の、

環境の変化に対応した道具が、次々に考案されていきました。

 

新しい道具が、短期間に数多く出現しては、消えていきました。

 

局部磨製石斧や、槍・弓矢が、製作・使用されました。

 

竪穴住居跡で、小型の骨製U字型釣針も発見されています。

 

隆起線文系土器・爪形文系土器・押縄文系土器(多縄文系土器)

女性像を線刻した小礫(しょうれき)が作られました。 土器の起源

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早期(約12,000 - 7,000年前) 気候の変化

人口、推定2100人。

 

この頃、日本列島は、完全に大陸から離れて、島国となりました。

 

初めの頃は、現在よりも気温2度ほど低く、海水面も30mほど低かったようです。

その後、海水面の高さが戻りました。

 

鬼界カルデラの噴火で、西日本一帯に火山灰が積もりました。

 

定住生活が出現し、数個の竪穴住居で、一集落を構成しました。 日本の家の起源

 

定住化によって、縄文人は、集落の周辺の林床植物(下草)にも影響を与えました。

 

一時的に居住する、半定住的な生活では、周辺地域の開拓までに至りませんでしたが、

定住的な生活をするようになった縄文人は、

居住する周辺の照葉樹林や落葉樹林を切り開いたことにより、

クリやクルミ等の二次林(二次植生)の環境を提供することとなりました。

 

縄文人の、主要で安定した食料資源となった、

ワラビ、ゼンマイ、フキ、クズ、ヤマイモ、ノビル等が繁茂しやすい雑木林を創造したことになります。

 

定住生活には、植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていたと想像されています。

ドングリやクルミ等の堅果類を植林栽培する初歩的農法が確立し、食糧資源となりました。

 

縄文時代の建築材や燃料材は、クリが大半です。

 

狩猟では、大型の哺乳動物に変わって、シカやイノシシ等の中・小型哺乳動物が中心となりました。

狩猟道具として、弓矢が急速に普及しました。

 

狩猟とともに、漁労も活発化しました。

貝塚は、この時期の前半には、海が進入してできた海岸地域に作られていました。

貝塚は、ヤマトシジミが主体でした。

最古級の神奈川県の夏島貝塚

千葉県の西之城貝塚があります。

押型文土器期に属する愛知県の先苅(まずかり)貝塚は、海面下13mの深さから発見されました。

 

南関東の定住集落の形成には、漁労活動も重要な役割を果たしていたという説があります。

 

縄文時代早期初頭、鹿児島市にある加栗山遺跡では、

竪穴住居跡の数が大幅に増加し、中央広場を囲むように配置されています。

 

縄文早期前半には、関東地方に竪穴住居が最も普及しました。

最も規模の大きな東京都の武蔵台遺跡では、

24棟の竪穴住居と、多数の土坑が半環状に配置されて検出されています。

 

縄文早期中頃北海道函館市中野B遺跡からは、

500棟以上もの竪穴住居跡、多数の土器等が出土しています。

津軽海峡に面しており、漁労活動が盛んに行われ、

長期にわたる定住生活を営むことができたようです。

 

また、早期の東海地方の定住集落である、

静岡県の富士山麓にある若宮遺跡では、

他の早期の遺跡と違い、狩猟で使用する石鏃が大量に出土しました。

 

早期前半の、南関東や南九州の遺跡では、

植物質食料調理器具である、石皿、磨石、敲石が出土し、

加熱処理具の土器も大型化、出土個体数も増加しました。

 

堅果植物を叩いたり、砕いたり、すり潰したりするための、石皿や磨製の石等も使用されていました。

 

組み合わせ式釣り針。

網用の土錘・石錘。ヤス、銛。

 

縄文・撚糸文の尖底土器が作られました。

 

圧煮炊き用の土器の出現が、旧石器時代の生活を変えました。

 

2013年、福井県鳥浜貝塚から、

世界最古級(約1100015000年前)の調理土器が発見されました。

これにより、サケ等のを調理していた可能性があるります。

 

小型の土偶が作られました。

 

屈葬が行われ、

縄文犬を、人と一緒に埋葬していたそうです。

時期区分 トップ 早期

 

 

前期(約7,000 - 5,500年前)

人口、推定105500人。

 

気候は温暖で、海面・気温上昇(縄文海進、海水面45m上昇)のため、

現在の内陸部に貝塚が作られました。

 

竪穴住居が、広場を囲んで集落を作りました。

 

湖沼の発達により、漁労活動が開始し、丸木船が作られました。

 

この期を境に、土器の数量は一気に増加し、形や機能も多様化し、平底土器が一般化しました。

羽状縄文を施した繊維土器が盛んに作られました。

 

木器・土器・櫛・黒曜石等に、を塗ることが始まりました。

 

耳飾り・勾玉・管玉等の装身具が作られました。

 

環状列石環状石籬(せきり))が作られました。

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中期(約5,500 - 4,500年前) 気候の変化

人口、推定261300人で、集落の規模が大きくなりました。

 

気温は低下し始め、

海岸線が、ほぼ現在に近くなりました。

 

植林農法の種類も、ドングリより食べやすい、クリに変わり、大規模化しました。

 

大型貝塚が形成されました。

 

立体的文様のある大型土器が流行しました。

 

石柱祭壇や、

石棒・土偶等の呪物が盛んに作られました。

 

遅くとも縄文中期頃には、ヒスイ製勾玉が作られていたようです。

新潟県糸魚川の長者ヶ原遺跡からは、ヒスイ製勾玉とともに、ヒスイの工房が発見されました。

 

青森県の三内丸山遺跡や、北海道南部で出土されるヒスイは、糸魚川産であり、

縄文人が広い範囲で、お互いに交易をしていたと考えられています。 円筒土器文化圏

 

後年には日本製勾玉は、朝鮮半島へも伝播しました。

 

抜歯の風習が始まりました。

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後期(約4,500 - 3,300年前) 気候の変化

人口、推定16300人。

 

後期後半の日本列島で、すでにイネが栽培されていたようです。

ただし、イネが単独で栽培されていたわけでなく、

オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバ等の雑穀類や、アズキ、大豆等と混作されていたようです。

 

縄文時代後期から晩期にかけて、

熱帯ジャポニカの焼畑稲作が行われていました。

 

イネには、ジャポニカ(日本型)とインディカ(インド型)等の亜種があり、

ジャポニカは更に、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカ(ジャバニカ米)に分かれます。

 

温帯ジャポニカは、中国の長江北側から、日本列島という、

ごく限られた地域に、水稲農耕と密接に結びついて分布しています。

弥生時代以降の水稲も、温帯ジャポニカとされています。

 

日本列島へは、まず熱帯ジャポニカが、南西諸島を通って伝播したようです。

 

縄文時代のイネについて。

炭化米が、後期後半の熊本県や鹿児島県の上野原遺跡等から検出されました。

 

イネのプラント・オパールは、

熊本県の上南部(かんなべ)遺跡

岡山県の南溝手(みなみみぞて)遺跡の他、

後期後半の西日本各地の遺跡から発見されています。

 

南溝手遺跡では、

穂を摘み取るのに使われたと推定される石器(穂摘み具)や、

打製土掘り具と見られる石器も発見されました。

 

水田遺構として最も古いものは、津島江道遺跡のもので、3m×5m前後の小区画水田です。

 

交易目的の漁労民が発生したようです。

 

製塩土器が発見されており、製塩専業集団が存在したようです。

 

大湯環状列石(ストーンサークル)。

 

ウッドサークル(巨大木柱遺跡)。

 

敷石住居がみられました。

 

伸展葬

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晩期(約3,300 - 2,800年前)

人口が、推定75800人に減少しました。

 

気温が2度前後低下し、海面も低下したようです。

 

漁労活動が、壊滅的打撃受けました。

 

北九州・近畿では、縄文水田がみられるようになったようです。

 

夜臼式(ゆうすしき)土器。

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気候の変化と縄文文化

縄文時代は、1万年という長い期間にわたり、大規模な気候変動を経験しています。

 

日本列島は、南北に極めて長く、地形も変化に富んでおり、

気候や植生の地域差は大きいです。

 

縄文時代の文化形式は、歴史的にも地域的にも一様ではなく、多様な形式を持つものとなりました。

 

2万年前に最終氷期が終わってから、6000年前頃までは、

地球の気温が、徐々に温暖化していった時期です。

縄文草創期から前期に相当します(1.3万年前-6千年前)。

この間に日本列島は、100m以上もの海面上昇を経験しました。

6000年前には、海面が現在より4m5m高かったようです(縄文海進)。 人類登場時の地球

 

旧石器から縄文へ

最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると、地球規模で温暖化に向かいました。

 

1.3万年前から1万年前の、最後の氷期である晩氷期の気候は、

数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わるほどで、

急激な厳しい環境変化が、短期間のうちに起こりました。

 

それまでは、針葉樹林が列島を覆っていましたが、

西南日本から太平洋沿岸伝いに、落葉広葉樹林が拡がり、

北海道を除いて、列島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われました。

 

コナラ亜属やブナ属、クリ属等、堅果類が繁茂するようになりました。

 

北海道は、

ツンドラが内陸中央部の山地まで後退し、亜寒帯針葉樹林が進出しました。

日本海側と南部の渡島半島では、針葉樹と広葉樹の混合林が共存するようになりました。

 

温暖化による植生の変化は、

マンモスやトナカイ、ナウマンゾウやオオツノジカ等の大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、

日本列島では、約1万年前までには、ほぼ絶滅してしまいました。

 

縄文草創期の日本列島の植生は、

冷涼で、乾燥した草原が中心でしたが、落葉樹の森林も一部で出現していました。

 

地学的に見ても、

北海道と樺太はつながっており、

津軽海峡も、冬には結氷して北海道と現在の本州がつながっていました。

瀬戸内海は、まだ存在しておらず、

本州、四国、九州、種子島、屋久島、対馬は、一つの大きな島となっていました。

 

この大きな島と朝鮮半島の間は、幅15km程度の水路でした。

 

その後、温暖化により海面が上昇した結果、

対馬・朝鮮半島間の水路の幅が広がって朝鮮海峡となり、

対馬暖流が日本海に流れ込むようになりました。

 

これにより日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現し、

豊富な雪解け水によって、日本海側にはブナ等の森林が形成されるようになりました。

 

縄文早期には、

定住集落が登場した他、

本格的な漁業の開始、

関東における外洋航行の開始等、

新たな文化要素が付け加わりました。

 

1.1万年前に、季節的な定住が始まり、

1万年ほど前に、通年の定住も開始されたと推測されています。

 

最も古い定住集落は、

九州南部の上野原遺跡金峰町の遺跡です。

 

定住が開始された理由として、

食料の確保や廃棄物問題、死生観上の要請等の問題が、

定住によっても解決できるようになったため、という説があります。

 

この時期の土器は、北東アジア系、華北・華中系、華南系の3系統に分けられており、

分布面から見ると、

北東アジア系は、北海道から東日本に、

華北・華中系は、西日本、

華南系は、南日本から出土しています。

 

植生面から見ると、縄文早期前半は、

照葉樹林帯は、九州や四国の沿岸部、関東以西の太平洋沿岸部に限られており、

それ以外の地域では、落葉樹が優勢でした。

 

縄文前期から中期にかけては、

最も典型的な縄文文化が栄えた時期であり、

三内丸山遺跡に起居した縄文人たちが保持していたのも、主にこの時期の文化形式です。

 

この時期には、日本列島に大きく分けて、9つの文化圏が成立していたと考えられています。

 

海水面は、縄文前期の中頃には、現在より3mほど高くなり

気候も、現在より温暖でした。

この縄文海進によって、沿岸部には好漁場が増え、

海産物の入手も容易になったという説があります。

 

植生面では、関ヶ原より西は、概ね照葉樹林帯となりました。

 

縄文後期に入ると、

気温は、再び寒冷化に向かい、

弥生海退と呼ばれる海水面の低下が起こりました。

 

関東では、従来の貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていきました。

 

一方、西日本や東北では、新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していきました。

 

中部や関東では、主に取れる堅果類が、クリからトチノキに急激に変化しました。

 

青森県の亀ヶ岡石器時代遺跡では、

花粉の分析により、トチノキからソバへと栽培の中心が変化したようです。

 

その結果、食料生産も低下し、縄文人の人口も停滞または減少に転じました。

 

文化圏も、9つから4に集約されました。

気候の変化 トップ

 

 

円筒土器文化圏

縄文時代前期から中期にかけてつくられた、円筒土器を特徴とする文化圏です。

東北地方北半部から北海道南西部でみられます。

 

遼河文明との関連が指摘されています。

 

古代には、律令国家の外縁に位置づけられる地域であり、

蝦夷という勢力の本拠となった地域です。

 

東北地方で、北海道産の黒曜石が、

北海道で、新潟産のヒスイが大量に出土する等、

津軽海峡をわたる人々の交流と物資の輸送は、極めて盛んでした。

 

三内丸山遺跡等の巨大集落が営まれました。

 

縄文時代後期になると、

秋田県の大湯環状列石等、ストーンサークルとよばれる、祭祀遺跡が数多く作られました。

 

晩期には、

亀ヶ岡式土器や遮光器土偶、藍胎漆器が製作されました。

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