- 現在使われている「尺八」は日本で独特の進化を遂げた楽器です。
普化尺八と言うものは、江戸時代から明治維新までは、主に普化宗(ふけしゅう)という宗教に関わるお寺によって伝承されていました。
維新によって、古い組織が壊され、尺八も宗教から解き放たれ、誰もが自由に吹けるようになりました。その事によって、法器が楽器となり、様々な表現の手段として様々なジャンルに加わるようになりました。この楽器について少し詳しく述べてみましょう。
- そもそも”尺八”と言う楽器はいつ頃生まれたのでしょうか?
縦笛は世界の色々な処に自然発生しましたが、日本に伝わる前は中国にその原型があるようです。
中国では、唐の貞観年(太宗皇帝)頃、呂才と言う人物が尺八を作った説や、唐の開元年頃(玄宗皇帝)、南囘向寺の一狂僧が笛を吹いたと言う説、また、唐の大中年(宣宗皇帝)に普化禅師を慕う張伯なる者がその禅師の鐸の音を竹笛で吹いたと言う説の、三の説がよく知られています。
然し、日本ではこの唐の時代より前、中国の随の時代に当たるころ、大陸から楽人達が国内に持ち込んだと考えられています。また、聖徳太子(幼名:厩戸皇子)もこの笛を吹かれたという記録があります。ほかに、普化禅師説と言うのがあり、これは「虚鐸伝記国字解」と言う本を根拠にした説ですが、この説が尺八マニアの人たちに広く支持されているのですが、この書籍である国字解本はどうも偽作ではないかと言われています。よって、これらの説は確信が持てません。(「尺八史考」参照)
また、「體源抄」第五巻に、西国の猿の啼く声に多くの人々が心打たれ無情を知り出家するという。時の帝、この猿を殺すが、出家した者がこれを哀れみその骨を持ち帰り、骨を吹いてみると猿の鳴く声に似たると言う、その骨笛を竹に模したものが尺八であると言う。
さらに、洞簫と言う笛が転じて尺八となったと言いう説もあります。
中国には古く洞簫と言う笛が存在していたのですが、唐の時代にその笛の隆盛を見るわけです。このように尺八の起源については諸説が入り乱れてこれが真実だと言われるものがまだ見つかっていません。
尺八という語源ですが、一般には唐の1尺8寸を言うようです。これは、筒音(穴を全部塞いだときの音)が中国音名の「黄鐘」の音高を持った笛の長さです。笛には色々の長さのものがあります。洞簫においても色々な寸法のものがあったのだろうと思うが、時代とともにこの笛に楽理の発達とか、儀式等の整理がすすみ黄鐘(こうしょう=日本の一越=D音)の笛が主に用いられるようになりました。これは、中国の伝説の皇帝黄帝が長さの単位、として笛を使ったと言われる。基準の9寸は穀物の90粒とし、この時の筒の長さの時に発する音を黄鐘という。長さが倍の1尺8寸の笛もオクターブ違う(ただし、9寸の管の一方の笛が閉管の場合は同じ音程になる。この辺は一度調べて下さい)が黄鐘になる。この基準の笛の長さが1尺8寸だから、尺度としての名称である”尺八”と言ったのかもしれない。
あるいは、洞簫と言う笛を仮定し、当然、いろんな長さのものが用いられたのであろうから、用いる洞簫を区別して、黄鐘の洞簫、あるいは黄鐘(一越)の洞簫等と言っていたか、あるいは1尺8寸の洞簫、1尺3寸の洞簫などと言っていたのか定かではありませんが、いずれにしろ一番基準として多く用いられていたのが1尺8寸管(黄鐘)の笛で、この笛をのこと、”一尺八寸の洞簫”が、いつか洞簫全体を指すようになったのではないでしょうか。
- 尺八は奈良以前に大陸から楽人達が国内に持ち込んだと考えられています。また、聖徳太子(幼名:厩戸皇子)もこの笛を吹かれたと言われています。
西暦750年頃、光明皇后が正倉院に御物を納められたときに、その品物に尺八が含まれていました。
(「正倉院楽器の研究」林謙三著(風間書房)に詳しく載っています。)
- 室町時代までの間はあまり尺八の記録がありません。円仁が声明を、尺八で行われたとか言ったものが散見されるのみです。このときはまだ、楽器として使ったのではなく単に調音に使っていただけいわゆる調子笛のような使い方せあったのかもしれません。
- 室町時代から江戸時代初期には一節切尺八があります。この楽器は、かってとんちの一休さんこと、一休宗純が愛用していたと言われています。(自身の諸書「狂雲集」に一節切尺八の詩が多く出ています)。菰者とか、旅芸人のような者が吹いていたようでもあります。
京都の大森宗勳が演奏し、あるいは堺の”隆達坊”が小唄伴奏に使っていました。
年代で言えば室町から江戸初期で、西暦1500年代でしょうか。日本に三味線の伝わったとされるのが西暦1560年頃ですから、それより少し前の時代の、大衆に近い存在の楽器だったのでしょう。
- 江戸時代に入ると、若い人にはあまり実感はないでしょうが戦前生まれの方なら記憶にある、深編み笠の虚無僧が吹く笛をイメージされるのではないでしょうか。

胸元には”明暗”の文字の記された箱をぶら下げ、家々の軒先で吹奏する虚無僧の吹く尺八は普化尺八とも言われ、現在広く一般に使われている尺八に一番近い物です。
現在、一般に”尺八の歴史”の主流をなしているのがこの、普化宗と言う、かって、江戸時代に存在
さて、この宗教に関わる部分でも諸説があります。
たとえば、尺八筆記(宮地一閑門人、山本満津校著=国会図書館蔵)に記載の一部に、後柏原院の時代に、後深草院正嘉二年に一月寺を開山した金先古山師の百五十遠忌を行った有無和尚(六十六世)によれば、由良興国寺開山法燈国師入宋しその帰朝の折りに、如来三十八世の法孫に当たる普化和尚法流の居士、宝伏、理正、宋怒、国佐の四人が同船し来る。
宝伏は宇治の辺に庵を結び普化禅を融通しょうと座臥し尺八を吹く。
その頃、法燈の会下に金先と言う者がいて、この宝伏と共に行脚し下総国小金に至り宝伏の遺言により、この地に寺を建立。月は一輪にして万萬境を照らす、普化の異名を取り、一月寺と号す・・・・云々。
- 宇治辺と言えば、江戸以前には京都から奈良へはこの宇治を経由していたようです。それは、宇治川の下流、現在の橋本市で桂川、木津川、宇治川が合流しているあたりに巨大な池があり、この池に宇治川が流れ込んでいたわけですが、この池を迂回するために宇治廻りをしたようです。この木津川沿いに一休宗純が住んでいた薪村、酬恩庵(俗称一休寺)があります。
- 明治4年に太政官布告により普化宗は禁止となる。
この後、荒木古童、吉田一調等が奔走し、楽器としての尺八の再興を果たす。
さて、江戸から幕末にかけて、普化宗は虚無僧を擁し、虚無僧達は上納金を寺に納めることにより本則(認可)を受け諸国を托鉢し喜捨を受け口過ぎをしていたが、中には尺八演奏技量の優れた者もいて、一カ所に定着し教授をする者も現れる。
黒沢琴古も四代続いた名門であるが、この流れを汲む者が明治の混乱期の後、尺八の再興に際し、琴古流を名乗ることになる。
関西では、京都には明暗寺系の虚無僧がいたが、著名な者も多くいたが、門を立てるほどではなかった。
そんなところに、技量商才共に優れた中尾都山が教授を始め、瞬く間に一門を構えるに至る。これが今日の都山流である。
尺八の歴史について