投稿の部屋
皆様からの投稿文をまとめたページです。



1年間を振り返って         永安恒久(16年卒)

クルージング部に入部して…         相崎良介(18年卒)掲載時現役

無題(25周年記念誌より転載)       高木正治(59年卒)

クラブの思い出(25周年記念誌より転載)  井上潤一(57年卒)

無題(25周年記念誌より転載)       清水晴彦(60年卒)

25周年に思う(25周年記念誌より転載)  服部容純(平成1年卒)掲載時現役

小磯良平氏                 今達純一(59年卒)

無題(25周年記念誌より転載)       辻 信也(56年卒)

無題(25周年記念誌より転載)       寺井 誠(58年卒)

25周年によせて(25周年記念誌より転載)  平野孝史(40年卒)

石原裕次郎                  島田 宏(52年卒)

薬師丸ひろ子                 糟谷俊明(62年卒)

藤原紀香                   川岸邦充(H6年卒)

郷ひろみ                  杉浦正幸(55年卒)

40年度活動記録(25周年記念誌より転載) 岡本充央(41年度卒)

無題(25周年記念誌より転載)       頴川邦子(41年度卒)

ヨット(5世)の模型の作り方         今達純一(59年卒)

ヨーロッパ学生選手権             島田 宏(52年卒)

ハウステンボスレース             島田 宏(52年卒) 

甲南Todayより(No.22号より転載)

夏クルを終えて                大野和哉(1回生)

沖縄回航・夏クルの感想            山川浩一(1回生)

夏クルージングを終えて            山本京美(1回生)

2008年度 夏クルージングを振り返って    時末悠吾(1回生)



1年間を振り返って

永安 恒久(16年卒)


 平成14年6月末、我がクルージング部に謹慎処分が下されると同時に最上級生であった先輩方が引退、そして私が主将になりました。「さてこれからどうするか、主将になったからにはがんばらなくては・・・」と、思いつつも、部の現状が現状であり、何もかもが唐突なことであったので、はっきりとした答えなど見つかりませんでした。
 運命の出会いはそれからでした。北川さん、小寺さん、堤さんが大学に出向かれた際に、「君は政治に興味があるか?」と、北川さんから問い掛けられたことを今でも鮮明に覚えています。
 クルージング部再興へ向けてのスタートがきられ、北川さんからは個人的に、主将とは、組織とは、といったことを御指導して頂きました。また、その他多くのコーチの方々にも御協力頂き、ハーバー内での活動は認められていましたので、出入港練習やアンカーリングの練習を繰り返ししました。しかし当初は疑問や戸惑いを感じる部分もありました。現役の意見とOBの方の意見とのすれ違いにより、今ひとつ噛み合わなかった事もあります。その大きな理由の1つとして、OBの方を含めての部の運営、また、練習している内容も現役がそれまでに思いつかず、経験していなかった、ということにあると思います。しかし、OBの方々との交流や練習を重ねるごとにつれ、徐々に部員の意識も変化し、北川さんからは「決定的瞬間」と、言われました。
 そんな中、夏もだんだんと近づき、いざ夏クルへ。今年は部員を前半、後半と2組に分け、須磨〜博多で交代し、博多〜須磨というプランで臨みました。私は後半でしたが、前半が航海中は心配が絶えませんでした。決して部員を信頼していなかったということではありませんが、自分が夜寝る前に「あいつらも今寝てるやろな。船沈んでないよな。」、朝起きては「もう出港してるな。今ごろどこかで座礁してたり・・・。」これまで夏クルに向け準備や練習を重ねてきただけに、もしものことがあったら、とドキドキしていました。そんな心配も必要なく、8世は部員を乗せて無事博多に入港し、黒く肌を焦がした部員たちを見て鳥肌が立ちました。前半組の意志を受け継ぎ、細心の注意を払い一路須磨を目指しました。打ち付ける雨、会話を無くす照りつける太陽、着岸時に失敗し海へ落ちる後輩、宴会で飲んで騒いで語って明け方地元の漁師さんに怒られたり、米が硬かったり軟らかかったり、風呂を目指してアスファルトの上を延々と歩いたり、学生生活最後の夏クルは大成功に終わりました。須磨の桟橋を踏んだ感触はどこの寄港地よりも温かく、1年間背負っていたものが落ちていくのを実感しました。
 この1年間を振り返ってみて、非常につらかったことや反省すべき点は多々あります。 主将就任後、OBの方々から頂いたメールは200件を超えました。しかし、「甲南大学体育会クルージング部」という部活動を通して経験したことや学んだこと、出会った仲間や多くの諸先輩方と知り合ったこと等全てを含め、今後自分の人生を歩んでいく上で、とても内容の濃い貴重な1年間となりました。なかなか他の学生には真似できない素晴らしい経験ができたと自負しています。
 今後クルージング部を背負って立つ後輩達には、「気風損なうことなく、より一層の発展を望む」と心から期待しています。

以上

   

クルージング部に入部して…

相崎良介(18年卒)

一回生の相崎です。この部に入部して早半年が過ぎました。正直な所、入部当初の私は全くと言っていい程ヨットに興味がなく乗艇中の時間が苦痛で仕方ありませんでした。それに加え厳しい陸トレ、周港湾合宿、夏クルージングどれも信じられない程過酷なもので、いつこの部をやめようかと常に考えている自分がいました。しかし先日関東にて行なわれたプレ学生選手権で初めてレースを経験しヨットの熱さ、そして何よりチームとしての団結の素晴らしさを知り、いつのまにかヨットの虜になってしまいました。一回生のくせに生意気やと思われるかと思われるかもしれませんが、今の私の目標は三月の学生選手権で四名の先輩方と共に、このレースに出る事が果たせなかった10名の四回生の先輩方の無念を晴らし優勝することであります。その為にこれからの数多くの雑用、座学、練習をこなし立派なヨットマンとなれるようそして何より大好きな伝統あるこの部の為に精一杯頑張りたいと思います。

 



無題(25周年記念誌より転載)

高木正治(59年卒)

 大学を卒業し、社会人となって、はや4年目を迎えました。月日のたつのは早いもので真っ黒に日焼けし、仲間達と海辺で騒いでいたのがついこの間のことのように思い出されてきます。特に「夏」という季節になると、ギンギンに照りつけてくる太陽の日差し、その太陽の光に反射し眩しく揺れる波…とふと思い出に浸ってしまうこともしばしばあります。
 今でもよく同期の仲間達と集まって話をするのですが、出てくる話は、決まって大学時代のクラブの事、それも3〜4回生の頃のことではなく、苦しかった1〜2回生の事が多いようです。やはり苦しかった頃の思い出は、心の底に強い印象として焼き付いています。入部して初めての合宿にある周航湾合宿でミーティングした中に、暑さに逆上して鼻血を出した者がいました。その時、「大丈夫か!?」と駆け寄ったみんな。しかし、それは彼を心配してではなく、むしろ正座の痛さから逃れる為だったのです。合宿には、この様なエピソードが数限りなくあります。これはクルージングでも同じです。今だから笑える…そんなことの連続でした。
 我ら59年卒の10人は、もともとヨットが好きな者は少なく、それは4回生になってもあまり変わらなかったようです。何故、そんな10人が4年間クラブを続けて来たのか、それは、先輩、後輩を越えた海の仲間のふれあいが好きだったからです。今でも、仕事に疲れた時、海を見ていると、心の中のモヤモヤが海の波に洗われる様でスーッとします。
 とにかく、4年間同じ釜の飯を食い、海に青春を賭けた仲間達、そしてその仲間との友情が今でも大きなものとして残っています。
 今年の夏もまた、どこからともなく降って湧いてきた旅行の計画!しっかり、大阪組、東京組と別れて、和歌山、神津島へとやはり海を求めて行く予定になっています。
 4年間のクルージングで得たものの中でもこの友情はかけがえのないものです。
どうしようもないメンバーばかりですが、これから一生付き合っていくのではないかと思います。そして、みんな子連れでまた海へ…。そんな日が早く来る事を楽しみにしています。


上田氏宅にて(後列左から3番目)






クラブの思い出(25周年記念誌より転載)

井上潤一(57年卒)

 2年がボウズになると夏が来る……。
 その年も例年のごとく新入生勧誘目標人数を達成できなかった私達2年生はボウズになりました。
鷹取駅の近くの散髪屋で、じゃんけんに負けた私はトップバッターでした…。アルバムの2年の時の写真を見るたびにあの散髪屋のカガミに写った自分の顔を思い出します。
 クラブの4年間で2年生という学年はいちばんしんどい学年だったのです。1年が1人しか残らなかったので、朝のフィッティングや、クルージング中の最下級クルー等、1年の仕事を2年間もやっていたのです。そう言えば3年の夏のクルージングも2週間最下級クルーをやっていました。アカくみ、買い出し、めし作り、天気図、水くみ、そして5世は私が1人、3世は片山が1人、夜中、平戸の岸壁のうす暗い電灯の下で、腰をかがめて食器を洗いながら「なんで3年にもなっておれらがこんな事せなあかんねや。」とボヤいたものでした。おお、すべてはあの勧誘失敗のせいです……。
 この様に私にとってのクラブは忙しく働き回ってばかりでしたが毎日が非常に充実していました。
4年の夏は九州一周でした。一番の思い出はやはり南の島です。口永良部島のあの海のきれいさは他には比べられない程でした。小さな洞穴があり、ゴムボートで探検したり、水中メガネで潜ったり、あれは沖縄よりきれいでした。後でそこはサメの名所という話もありましたが……。
 種子島の向かいに馬毛島とう無人島があります。小さな港があり入港が非常にむつかしい。デッドスローで斜め45度の角度で幅2〜3mの水路を入港しないと、3世の様にロックしてしまうのです。馬毛島はちょっとしたジャングルのようで、夜は灯り一つありません。その夜は月もなくなるまでプラネタリウムのような星空が広がっていました。石川セリのテープを聴きながらいつまでも星空をながめていたものでした。
 このようにクラブの思い出はいっぱいあるのですが、最後に卒業してからのクラブとの関わりを少し書きます。
 内ノ浦、枕崎、博多、壱岐、対馬、広島、幸崎、これらの地はヤマハに入社してから仕事で担当した地区なのです。この内、4回、夏のクルージングで後輩達に会うことが出来ました。その度にあのクラブ時代を懐かしく思い出します。今は広島にいますが、また機会があれば、あの「茶色」のセールを見つけて後輩達や甲竜に会いたいものです。



枕崎にて(手前右端)





無題(25周年記念誌より転載)

清水晴彦(60年卒)

 クルージング部創部25周年にあたり、私達後輩のために、素晴らしい艇と伝統を作り、そして伝えていただいた諸先輩方に、感謝の気持ちを述べたいと思います、と同時に、今後「甲竜」のクルーとして育っていく諸君には、海の素晴らしさを知り、またシーマンシップによって結ばれた深き友情を手にすることが出来るよう、是非、力一杯悔いることのない青春の日々を過ごしてもらいたいと望む次第です。
 母なる船「甲竜」によって育てられた私も、今ではなんとか一般社会人の振りをして、安穏とした毎日を送っておりますが、今を振り返ること数年前は、諸先輩方皆様同様それは大変な学生生活を過ごしたものでした。
 大学生とはそもそも何をする人か、それは決して、単位を取る目的にのみ授業に出席するにあらず、人生を送る上で必要かつまた役に立つ知識、経験を得ることが大学生活4年間に与えられた責務であると心得ます。
 その信条を貫くために、教室の席をただ漫然と暖かめる暇を惜しみ須磨のハーバーへと日参する毎日でした。
 いろいろな人と出会いました。教えられました。感動する出来事も多々ありました。数え上げればきりのない、今思うと本当に充実した日々でした。
 そんな中で、私が今一番大切なものとして思えるのが、4年間苦楽を共にした仲間達のことです。
私達60年度卒は同期15名という大所帯であったため、それはほんとうにいろんな変わり者が居りました。
海が好きでヨットが好きで、暇さえあれば、いつもどこかで誰かの船に乗っている者もいれば、ヨットのことなど何の興味も持たず、「舵誌」等から専門的なことを学ぼうという知識欲はもとより、3世、5世についている部品の名称や役割さえも知らない者すら居りました。ところが、このぐうたら者達もクルージングにはかかせない存在だったのです。
 普段の練習中は非常におとなしい彼達が、ひとたび開放されてクルージングの海へ出て行くと、それはもうにぎやかで、下級生の頃から食事当番をすることより先に先輩諸氏を笑わせることに専念し、上級生になってからも航海計画や艇の航行にはおかまいなしに、やれ「遊びに行くなら博多がいい。別府の夜はポン引きが多くて困る。」だの好き勝手なことを言っている次第でした。
 こんな彼達の存在が、長い航海でつかれた身体や、荒れた海での緊張した心に気分転換の意味で、ほんとうにやすらぎをあたえてくれたもので。
 このかけがえのない仲間達をあたえてくれた甲竜には、「母なる船」という称号がぴったりだという気がします。いつの日か、この素晴らしい仲間達と、時を越え、若き日の夢を再び呼び起こし、青い海と、すずやかなる風の音の中を、ドライなビールを片手に航海することができたら、と思う今日この頃です。




25周年に思う(25周年記念誌より転載)

服部容純(平成1年卒)掲載時現役

 我が甲南大学体育会クルージング部も、25周年を、無事迎えることができました。これは、一重に諸先輩方の努力と、学校及び関係諸氏のご理解、ご協力の賜物と心得ます。
 25周年といえば、私が生まれる前からの歴史でありますが、このような歴史、伝統など何も知らず、ただ海へのあこがれだけを胸に入部してから3年、今ではその伝統を理解し、その重みをひしひしと感じています。
 私が入部した時、すでに甲竜3世はなく、その後すぐに甲竜8世を擁して、活動の幅は大きく広がりました。各レースへ積極的に参加しオレンジカップ上位入賞、大阪湾メモリアルレース一位、ミドルボート選手権上位入賞など、数々の戦績を残しています。また、前回クラブ初の試みとして沖縄クルージングを行いました。
 しかし、忘れてならないのが、安全面です。活動範囲の拡大に伴い、危険もそれだけ増大します。クラブの第1課題は、安全確保です。創部以来無事故という輝かしき伝統は、絶対に絶やしてはならないものであり、私たちも、第1に考えるのはこの事であり、後輩にも伝えていかなくてはならないものです。
 ところで、このような有意義な活動を続けている反面、最近のクラブの深刻な問題として、部員不足があげられます。クラブ発展のためにも、この問題の解決が、当面のクラブの課題となっています。
 このようにまったくの初心者が、たった4年の間に、これだけの活動ができるのも、先輩方から受け継がれている、実績・伝統のおかげであり、私たちも後輩に受け継がしていかねばなりません。この先何十年も、脈々と受け継がれ、クラブがより一層の発展をとげることを信じ、その世代代々精一杯の努力を続けてくれることを確信します。




小磯良平氏

今達純一(59年卒)

 申し遅れましたが、活動報告(OB版も含めて)のページの背景画像になっているヨットのイラストは小磯良平氏が我が部の為にデッサンして下さった、我が部が誇るべきイラストです。
 代々勧誘パンフレットの表紙として受け継がれていましたが、いつの間にか忘れ去られているようです。
改めて見直すととても素敵なイラストだと思いませんか?
よく見たらサインも入っているでしょ?




無題(25周年記念誌より転載)

辻 信也(56年卒)

我々昭和56年卒業(内2名は57年卒業)の9名は、心・技・体、三拍子揃った理想のヨットマン、私=辻信也、体力のかたまり主務=神木規人、電話をしてもいつも居なかった副将=加藤康彦、ポケットに両手をつこんだまま走っていてコケてケガをした江田哲也、まがったことが大嫌いな石田誠司、理論が実践を上回ってしまった幸徳昌彦、実はヨットが嫌いだった高田秀樹、自称スポーツ万能の高橋伸雄、一見クールなキザオ、ヒゲの似合っていた水島史雄の9名であります。そんな我々のクラブの思い出は、4年生の時のクルージングの事であります。我々が、4年生の時の夏は異常気象と言うべきもので、晴れた日は少なく、強風続きの日が多かった様に思い出されます。あの太平洋の海の青さ、一日中海だけを見ていてもあきなかった事、甲竜3世、甲竜5世の波を切る音、それ以外は何も聞こえてこない快晴、順風の午後、港で飲んだビールの味、久々の都会で大騒ぎした高知、博多の夜、降るような星空、輝く朝日、それぞれが昨日の事の様に思い出される。そういう我々も、30才になろうとしている。今では、女房、子供に振り回されている今日この頃、月日の流れを感じつつも、またいつの日か、9人で太平洋に乗り出す事を夢見ているのであります。

  




無題(25周年記念誌より転載)

寺井 誠(58年卒)

 私が甲南大学に入学し、クルージング部に入部してから、約一年が経過した頃には、同期は北川と私の二人だけになっていた。
 しかも、私が体育会本部の仕事をしていた関係で、ほとんど一緒にヨットに乗った事もない二人が、初めて同じ船に乗り、お互いを知る事ができたのが、春のクルージングであった。
 それから2年、先輩方や後輩の助けで何とかやってきた二人がいよいよ部を任される日がやってきた。主将が北川、主務が私の二人だけの最上級生である。
 幹部となった我々の前には、女子部員の問題や、1世の老朽化の問題という二つの難問が待ち受けていた。そこで、女子だけで行ける近距離のクルージング用として6世を購入し、安全性にも疑問の出てきた一世を廃艇する事を決断した。これで、ディンギー3艇、クルーザーが3世、5世、6世の6艇を保有する我がクルージング部の陣容を整えた。
 我々二人の基本的な考え方は、レースよりも安全性を重視した活動に主眼を置くという事であったためレース活動にはほとんど参加する事がなかった。
 そして、昭和57年7月、最後のクルージングの出発となる。行き先は関東。一年生の時に訪れた思い出深い所である。須磨を出発し紀伊半島から遠州灘を越え、西伊豆から伊豆諸島、三浦半島を折り返しに須磨へと帰る航程である。途中、エンジントラブルや台風に見舞われながら、8月末、須磨帰港の日となる。数々の思い出を残してくれたクルージングも最終日である。昼過ぎヨットハーバーの突堤で出迎えてくれる後輩の姿が見えた時の感動は今でも忘れる事はできない。
 そして、クルージング部で過ごした4年間の思い出は、これから先も決して忘れることはないと思う。



25周年によせて(25周年記念誌より転載)

平野孝史(40年卒)

 西宮港のヨットハーバーにあるマーメイドの像は、26年前1962年8月12日(日曜日)午前11時 堀江兼一青年がキングフィシャー艇の19フィートのベニア(合板)のマーメイド号で太平洋を単独横断サンフランシスコのゴールデンブリッジを通過したものを記念したものです。63年 名神高速開通、 64年 東京オリンピックが開催されました。我らのクルージングクラブができたのが、終戦後18年目、株価も最低、沖縄に行くためにも許可申請のいる対米国為替円レートは固定相場360円+−1.0%、71年より変動相場88年1月4日120円45銭ですが、物価は8.9倍の差がありました。マイカー時代とはほど遠い時です。クラブ艇の第一号、シーラス艇が昭和38年小豆島の岡崎造船所にできあがり引き取りの打ち合わせには姫路より連絡船にて内海の静かな湾に面した造船所に着きますと、その建物の内には兄が石原慎太郎運輸大臣である弟、映画界華やかな時代の故石原裕次郎主演石原プロダクション第1回作品”太平洋一人ぼっち”の映画撮影のためにカットモデルの艇2艇、完全な艇1艇が作られていました。その横に誕生間近なクルージングクラブの一号艇があったのです。一ヶ月後、西宮港の岸壁で機帆船より受け取り、須磨ヨットハーバーに運びました。NHKのニュースキャスターが今のヨット界は20年前のテニスかゴルフのようであると言っていました。25年の歴史を土台にこれからも挑戦、発展して欲しいものです。



石原裕次郎

島田宏(52年卒)

時:大学4年の7月末
所:鳥羽国際ホテル 鳥羽パールレース前夜祭会場にて

・「甲竜」は、立席パーティの際、一番前のテーブルを陣取った。
 但し、少し遠慮してサブテーブルの一番前
・振り返った際、でかい人に当たったら、それは「石原裕次郎」
 甲竜ガールズ(同上メンバーの寺西・岸本両君の彼女・・共に現在は奥様)と共に、記念写真となった次第。
・ちなみに写したのは、甲南大学のおかかえ写真屋「ユニバーサル」の加久さん。
・パーティの後、夜になって「甲竜5世」(新艇!)の中で、準備をしてると、
 石原裕次郎氏、乗ってきて、大変!。
 曰く「おー甲南。学生の割に、お前ら好い船乗ってんじゃねーか」と、べらんめい口調。
(手にブランデーを持ち、相当酩酊している)
・後に「石原慎太郎」氏も乗ってくる。 明らかに慎太郎の方がかっこ良い。
・明くる日、スタート海面にて、裕次郎はサンバード(54ft)に山崎達光氏と乗っている。
(慎太郎は、自分のコンテッサに)
・甲竜の風上に現れる。甲竜の所は無風!。
「裕次郎」さん、早く行って! でないと、甲竜進まん!
 裕次郎氏は、「甲南」がんばれよ!で先にスタートされた次第。



薬師丸ひろ子

糟谷 俊明(62年卒)

私たちの代が4回生の時です。雑誌「明星」の発行が61年6月19日号なので、取材にきたのは4月頃ではないかと思います。
私が、甲竜8世の前の桟橋に立っていると、日曜日の午前中に、マネージャー(事務所)らしき人が来て、
「今、薬師丸ひろこがラジオ関西に出演している。昼からヨットハーバーで取材をしたいのだが、協力いただけますか?」
と言われました。
「少しカッコをつけて、昼からも練習がありますが、彼女といっしょに外にでるのですか?」と聞いたところ、
「ここで、写真をとるだけです」ということでした。
「それくらいなら、OK」と返事をし、昼から彼女がきたわけです。
最初は彼女の写真だけを撮っていましたが、そのうち、
「いっしょに、ヨットに乗ってください」といわれ、4回生が乗りました。雑誌に載っているのは、その時のもので、だまっているのもおかしいので、下条がシートの縛り方を教えています。
ただ、さすが、芸能人(当時は人気もありましたが)だけあって、化粧が上手なのか、手入れが行き届いているのか、とにかく、顔がピカピカ光っていました。
それと、香水の香りがたまらないくらいで、当時の私たちにとっては、かなり刺激的な香りだったことを覚えています。それと、1年下の後輩がだまって写真を撮ろうとしていたのですが、マネージャーに見つかり、怒られていました。
それでも、まだ、隠れて撮っていたようですが・・・。
多分、大林というやつだったと思います。




40年度活動記録(25周年記念誌より転載)

岡本 充央(41年度卒)

40年度の活動の主なものは、Y−20(甲竜1)を完成させる事でした。それまでのクルージング同好会の活動は、岩崎先輩の所有艇であるY−21や26フィートクルーザー(エストレリーター)、その他ディンギー(ムーンタイプ)を借用したり、黒石君が叔父さん達と所有しておられたY−19(明石海峡の潮の流れには絶対に逆らえない、と言う立派なエンジンを持っていた)、そして奈良山君の所有艇のシーラス等、すべて無料借用という全面的にご好意に甘えた上での活動でした。
 クルージングクラブとしての所有艇はシーラス1艇のみでした。そのような実状ではクラブの発展はあり得ないと、先代キャプテンの時にとにかく小さくても良いからクルーザーを建造しようという計画が出来、艇所有ということが具体化しました。
 資金計画としてクラブ員が原則としてアルバイトをし、春・夏・秋の3休暇で¥45,000を出し合い20名弱の部員数で約80万を集めようという膨大な計画??でした。それでも資金はかなり不足しており、金額を増額するか期間を延ばすかと、資金計画の練り直しをしておりましたところ、ワンダーフォーゲル部が山小屋の建造資金を父母の会より援助してもらったと言う話を聞き込み、我がクラブでも援助を受けようということになり、ワンゲル部にその方法を教えてもらい60万の融資を受けることができました。艇は、当時太平洋独りぼっちのキングフィッシャーか、Y−21のどちらにするか議論の結果、少しでも足の速いY−21を取り40年夏期休暇の終わり頃には進水できました。
 そのY−21でのレース活動は須磨ポイントレースでは序盤は沖コースを採り風が無く、岸コースを採った艇に先行されたものの後半スピンワークやチームワークが実を結び24フィート群をぶち抜きクルーザーの部では見事2位に入賞しました(40年9月)。
 しかし、11月の高松レースではかなりの強風のため24フィート以上の艇に大きく水をあけられレーティングでやっとブービー賞だったのには全員がっかりしました。しかし父母の会への融資返済等は42年の後輩達に廻ってしまいました。
 以上、薄らぎつつある記憶を思い出しつつ乱記しましたが、やはり当時の事が走馬燈の様に浮かび上がり熱い血潮が騒ぎ出した今日この頃です。





無題(25周年記念誌より転載)

頴川 邦子(41年度卒)

 大学一年の娘は、毎朝5時半に「出艇!!」と声を掛け、多分主人もそうであった様に、喜々として主人のお古のカッパやライジャケを持って西宮浜へ出かけてゆきます。そんな娘の姿に、25年前「女だてらにヨットなんぞ!!」という母の声を背に、セールバッグをかついで須磨のハーバーに通った自分の姿をオーバーアップさせ、無性に懐かしく、1/4世紀の時の流れの速さ、人の運命の切なさをしみじみと感じていおります。
 その頃、甲南大学公式庭球部は同学年から3人ものデ杯選手を出す程の全盛期でした。そのテニス部の芽の出ぬ一部員であった私に取りまして、あの加山雄三がトイレもキッチンも付いたヨットで海を走り回る若大将姿は、あこがれあり又理想の男性像でありました。丁度そんな頃「クルージング同好会発足の為の同好の志求む。」の貼紙を見て「ここに入れば加山雄三に会えるかも?」との思いですぐに連絡先の橋本公宏先輩に電話しました。「○○でお会いしましょう。」との返事にひょっとしたら加山雄三みたいな人かもしれぬとワクワクドキドキしながら、出かけて行ったのを覚えております。同好会が発足したものの お金もない!!ヨットもない!!経験者もほとんど無い!!状態でしたから、あちこちの知人友人のヨットに乗せてもらいながら「そのうちに我々のヨットを!!」という熱い想いが部員全員の胸にフツフツとしていたのは感じて下りました。ちなみのその頃の部費は大学の援助がない為一人一万円でした。
 その頃の練習合宿はほとんど岩崎先輩邸で行われ泊るのから食事まで岩崎先輩のお父様のお世話になっておりました。岩崎さん宅にはモーターボート2〜3隻、クルーザー2〜3隻、ムーンタイプというけったいなヨット4〜5隻ありまして、二色や淡輪の港に集合して岩崎家の威光のおかげで貧乏な割には肩はって闊歩致しておりました。しかしそれではいけないと思い直し須磨のハーバーに戻ってからはずっと貧乏でしたが夢があって楽しい時代でした。同好会→クラブ→部と順調に発展した陰にこうやって支えて下さった方があったからこそと、今は亡き岩崎先輩のお父様に感謝いたしております。
 そうして卒業間際に浸水した 甲竜一世 ベニヤの21フィートでしたが男の人達は土方や沖仲士までしてお金を作って浸水させた我々のはじめてのヨットを見た時は色々な気持が混ざり合って感無量でした。今でも覚えております。しかし女子部員は相変らず私一人、間に二人の女性が入部されました。一人はヨット部のキャプテンを射止める目的で入部し達成した長坂かよ子さん(旧姓岡本)と、淡輪フェリーの井植婦人になられた池内さんです。
 なぜ女子部員が続かなかったのかと言いますと、我々の乗るヨットにはトイレがなく、トイレはバケツそれもバリバリと音のするブリキのバケツしかない時代だったからだと思います。新聞紙をちぎったりもんだりしてバケツの消音に苦労しました。
 何しろその頃の25フィートのヨットというと勿論プラスチックのない時代ですから全て木製で、今の60フィート位の迫力があり、私なんぞ一生25フィートのヨットには乗れないと思っておりました。
 そして最後に私が甲南クルージング同好会に入った最大の収穫は私の加山雄三を見つけた事でした。いつもチビた下駄にジャンパーを着てニコニコして、ヨットに取りつかれて9年も大学に行ったという、ユニークなオッサン 頴川三郎に出会えた事でした。日航機事故で私の手に私の泉とガラティア5を残して逝ってしまいましたが、いつの日か娘と二人でおっさんの骨を沈めた、紀伊水道沖までクルージングするのを楽しみに元気で頑張っております。



夏クルを終えて

大野和哉(1回生)

夏クルが始まる前は、約1ヶ月という長さにものすごく抵抗がありました。夏休みに友達と遊べないことが嫌でした。それと、自分自身がテレビのない環境を1ヶ月も耐えられるかが心配でした。だから、出発日が近づくにつれて僕の気持ちは、どんどん重くなるいっぽうでした。
そうして始まった夏クルで僕が1番感じたことは、1日の長さでした。夏クルの1日は、普段の2・3日分くらいに感じました。逆に、家に帰ってきてから何日かは、1日がものすごく速く感じました。それと、朝早く起きて→船を出して次の目的地に着いて→料理して食べて→風呂に入って→寝るという毎日を過ごしていたので、どんどん曜日感覚や日付感覚が無くなっていきました。よく夏クル中に今日が何日なのかわからなくなっていました。
夏クルの中で、僕をいつも楽しましてくれたのは、時末でした。和歌山では、食器置き去り事件を起こし、徳島では、捕まえた魚を放置プレイして腐らし、熱ランでは、記憶を失くすほど酔っ払い靴投げ競争を1人でして、朝から靴を買いに行ったり、松山では、眼鏡を海に落としてテンパって周りを見ずに生着替えをしてしまった事など、夏クル中は多くのミスを犯しました。
夏クルから帰ってきて一番に思った事は、朝早く起きなくてもいいということでした。夏クルの朝は、かなりきつかったです。この夏クルは、後から考えるといい思い出かもしれないけど、やっている時は、めちゃめちゃしんどかったです。





沖縄回航・夏クルの感想

山川浩一(1回生)

この沖縄回航でいろいろな物を得ることができました。
1つ目は、GPSを使いこなせることの重要性。あのスピードの中ではGPS以外の方法は遅すぎて怖くなってしまうというのが素直な感想です。確かに甲竜はあそこまでは速くないけども、使えることにこしたことはないはずです。ただ、夏クル後使い方を忘れてしまっているのが現状です。
そして2つ目に事前準備は入念にしておくこと。また、連絡はこまめに入れること。使わせてもらうほうなので連絡は入念にしているのをみて考え方が変わりました。
ただ、ものすごく疲れた5日間でもありました。なんせ甲竜の5倍も速度が出るもんですから、操縦しているときはもちろん、ゴミワッチしているときかなり緊張しながらしていました。そして、2時間くらい上にいるとかなり疲れて、下のソファーでかなりぐっすりと気持ちよく眠るという日もありました。ただ沖縄回航の時(夏クルの時にも当てはまる)はとりあえずよく食べることが重要だということは言えます。
夏クルでは、みんなのいろんな顔を見ることができました。
大野の意外な一面、山本さんの意外な一面、とくに時末のKING OF TROUBLEっぷりは一番印象に残ってます。夏クルの思い出といったら、回った島々と、朝早起きがきつかったことと、時末がトラブルを起こしまくったことですね。あと、武蔵工業大学の人らがきてくれたことですね。熱ランに行けなかったので、関東の人とは全く絡みがなかったので、他大学の人と交流できてよかったです。とりあえず、僕らが卒業するまでに一回関東の船に乗ってヨットで外洋体験がしてみたいです。





夏クルージングを終えて

山本京美(1回生)

夏クルージングが始まる前は、技量もなく海に出て、クルージングをするのは正直言って不安でした。「大丈夫なのかな。」とも思ったりしました。いざ夏クルージングが始まると一日一日が、長く感じた時もありました。疲れて料理も作るのも大変でしたが、特に天気図は、まだ一回くらいしかやったことがなかったので、それなりに時間もかかりました。しかし何回もやっていくうちに、だんだんと慣れてきて短時間で、できるようになりました。夏クルージングに慣れてくると、初め一日が長く感じていたのが嘘のように一日が過ぎるのが早く感じました。夏クルージングの思い出は、今までに行ったことのない場所に行けたことや初めて阿波踊りを踊ったことです。時末君が眼鏡を海に落としてしまったことなどクルージング中の、たくさんのハプニングも思い出の一部です。
夏クルージングを終えた時は安心感と同時に達成感、充実感もありました。クルージング中は大変なことも、たくさんありましたが全てが、いい思い出です。内容の濃い夏クルージングでした。




2008年度 夏クルージングを振り返って

時末悠吾(1回生)

 約1ヶ月の夏クルージング。夏クルに出発する前は、そんなに長い期間本当に大丈夫か、という不安でいっぱいでした。でもその長い夏クルを終えた今、僕たちは一生の宝物を得たと思います。確かに途中で投げ出して帰りたくなったときもたくさんありました。毎日の料理を作るのも面倒ですし、朝起きるのもつらく天気図を取るのもかなり大変でした。駅を見るとつい神戸までの帰り方や運賃を計算していたり、タクシーを見るたびに反射的に手を上げそうになったりもしました。
 たくさんの苦労もありましたが、楽しいこともまたたくさんありました。僕は食器のかごを使って同じ航路で潮によって行きと帰りでどれくらいの時間が変わるかという実験をしたり、熱海では無意識のうちに靴を使って魚の住処を作ってあげたりしました。また、眼鏡をもし海に落としたときにうまく浮く方法はないかと考え、自分の眼鏡を犠牲に実験の結果を出したこともあります。もちろんそんな方法などあるはずありません。
 その他にもたくさん楽しかった事やつらかったことなどありますが、もしこの夏クルがつらいことしかなかったら1ヶ月も持たなかったと思いますし、楽しい事だけでも何にも残らない中身のない物になっていたと思います。楽しかったことも、つらかったこともあったからこそ一生残る大切な宝物だと胸を張って言えるのだと思います。


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