1982年秋、智子は25歳で結婚した。相手はM市にある道立高校の1年先輩で、M市では知らぬ者のない大地主、同時に曹洞宗寺院「覚恩寺」住職・桃山良源の一人息子・良顕であった。
高校時代の智子と良顕は面識らしい面識はなかったが、良顕が高校総体スキー滑降の部・代表のひとりに選出されたことは知っていた。良源が地元紙・民友新聞の顧問をしていたこともあって、大々的に書き立てた。人口2万8千人の道東のちいさな町では大きなニュースであり、しかも、M市きっての名士の長男であってみれば、記事にならないほうが珍事である。
24歳になった智子がM市・青年商工会議所主催のパーティで良顕を紹介されたとき、まっさきに思い出したのはそのことであると良顕に言ったが、実は紹介される前から思い出していた。
良顕は、身長165センチの智子より3センチほど低かったが、身体全体が並はずれた筋肉のかたまりで、会場にいる良顕を智子が意識しないわけはなく、間近でみる胸板と臀部の分厚さにからだの芯が反応した。
モシカシタラワタシ、ダメカモシレナイ、智子はとっさにそう感じた。
3日後、良顕から電話があった。期待通りの事態に智子はこおどりしそうになった。しかし、電話に出た智子は冷淡そのものの応対をした。いま仕事中なので、夜、たぶん7時過ぎなら時間が取れると思うから、そのときまた連絡して下さいとこたえた。
のちに自らを大物食いと評した智子には、そんじょそこらのペッペーとちがい、相手が相手だけに、その頃身につけていたあらんかぎりの手練手管をつかってもまだ十分とはいえないと思えた。
なにがなんでも良顕をとりこにし、結婚という二文字を取りつけたい。目的がこれだけはっきりしている以上、目的達成に向かって突き進むしかない。智子は生まれてはじめて籠絡ゲームに夢中になった。
智子の実家について少々書かねばならない。智子の生家は父母の代にM市で酒販店を開業したが、数年後、父が燃料物取り扱いの資格と営業権を取り、ストーブの燃料となるコークスや木炭を配送販売した。月々の売り上げは上々で、というのも、M市役所、警察署、消防署を顧客とするのに成功したからである。その結果、毎月安定した収入を確保できたのだ。
智子は両親、とりわけ父親の溺愛をうけて育った。ぜんそく持ちの母の健康は日々すぐれず、入退院を繰り返したが、家にいても布団のなかにいることが多く、おさない智子の面倒は極力父がみた。
智子は父が40歳のときに生まれた初めての女児で、彼は自分の褞袍(どてら)をおくるみ代わりにして赤ん坊の智子を毎日抱いて歩いた。
道東の短い夏、父親の下着に手を入れて、父の乳首をまさぐるのが智子の日課だった。極寒の冬、智子は父に抱かれて眠った。そのとき智子の右手の指先はいつも父の乳首にふれていた。
智子の家に異変がおきたのは、中学校に通い出した春である。穀物相場、小豆の先物取引に手を出していた父が突然、腹部にはげしい痛みをうったえた。家族は株が下がったせいの神経性胃炎くらいにしか考えていなかったが、食後しばらくして父が手洗いで嘔吐しているのを知り青くなった。重度の胃潰瘍を患っているかもしれないと不安になった。
入院中の母親に代わって長男の正治が医者に呼ばれた。精密検査の結果は最悪だった。癌細胞は胃のほとんどを冒し、それでも飽きたらず身体全体に転移していた。そして余命3ヶ月と宣告された。
当時50代半ばの父の癌の侵攻は医者の診断(みたて)より速かった。市内の病院で彼は家族にみとられ永眠した。それからわずか2週間後、中学校で授業をうけていた智子は、母が危篤だからただちに病院へ行きなさいと担任教師に告げられ、迎えに来た兄嫁・鶴子の車で追い出されるように病院へと向かったが、病室にいる母のからだはすでに冷たくなっていた。
智子には予感があった。車のなかで母はもう死んでいるのではないか、もしそうだとしたら、眠るようなやすらかな顔でいてください、神さま、どうかお願いします、智子は手を合わせ、心のなかで懸命に祈った。神仏へのゆるぎない信仰心と大胆さ、それは智子の半生をいろどることになるのだが、その萌芽は父母の相次ぐ不慮の死にさかのぼるのかもしれない。
大胆さは智子の性格だが、信仰心を培ったのは智子の性格ではない、智子の人生である。
翌日、母の通夜で町内のバアさん連中のひそひそ話が耳に入ってきたとき、智子は愕然とした。長年気管支喘息で苦しんできた母は、夫の死で精も根もつきはてたのか、彼女にのこされた渾身の力をふりしぼって早朝に病院をぬけ出し、昼過ぎ神社の境内で発見された。発見者の通報で救急車がきたとき、母は虫の息であったという。神社の森はその昔、父母が子供の頃、仲良くかくれんぼした森だった。
転落はこのときからはじまった。ちいさな町の酒販店兼燃料店とはいえ、主な取引先が市や警察、消防といった大口客であるから、支払いが滞ることはないし、倒産の心配も無い。しかし、燃料の多くはすでに灯油が占めており、父の亡くなる数年前、正治が石油類取扱い業者の資格を得て灯油の配送販売をするようになった頃、市役所以外の公的機関では他業者が灯油販売の指定をうけていた。
先物取引による収支はトントンといったところで、そこまではよかったのであるが、母の初七日が終わるやいなや債権者がどっと押しよせた。商いがうまくいくということ自体は称讃されこそ、非難されることではない、だが、商いがうまく行きすぎると、智子の父のような人のよい人間はつい気が大きくなり、知り合いの口車にのる。口車にのるというよりむしろ人助けのお先棒をかつぐ。御多分にもれず、彼は市内の自営業者数人の連帯保証人になっていた。
ところで、自殺者の多い町というのがこの世に存在する。M市はさしずめそれに該当し、自殺者の対人口比率が高い。高いのはそればかりではない、離婚率が圧倒的に高いのである。
M市は戦前漁港として栄えた。その繁栄ぶりは釧路や根室の比ではなかった。道内の高額所得者‥といっても、昨今のように新聞紙上で公表されることはなく、テレビのニュース種にもならない。テレビはまだなかった‥にはM市の網元が名を連ね、かれらの多くは小樽にも拠点を設けた。そして、ニシン御殿を構え、北海道出身の国会議員に、いまでは信じられないような多額の献金をしていた、闇のなかで。
M市の繁栄をささえたのは漁業だけではない。市近郊の鴻之舞金山が大量(雇用者約5千人、家族を入れると1万数千人)の労働者を雇い入れ、それに伴う生活需要がM市にさらなる隆盛をもたらしたのである。建築業、酒屋、一杯飲み屋、いかがわしい旅館は言うにおよばず、家具、布団、畳、燃料、そのほか生活用品を扱う店舗、みなそれぞれに繁盛した。
水産業にせよ鉱業にせよ、隆盛をきわめた産業が時代の変化に対応できず凋落の憂き目にあったとき、長年そこで従事してきた人々と家族の悲惨は経験した者でないと分からないだろう。鴻之舞などは変化に対応できなくなったのではなかった、金を掘りつくして、金脈が空っぽになったのである。
戦後しばらくして、魚の需要は肉に取って代わられる。大型冷凍庫の普及で、海外から安い魚が輸入されるようになる。海には無尽蔵と思われる魚がいるのに、人件費の高騰などの不確定要素が魚の値段に影響し、この国の水産業は価格競争についてゆけなかったのだ。
鉱夫とその家族は札幌や内地に職を求めて去って行くが、新しい土地で思うような職につくことができず、離散した家族も少なくはなかった。
漁師や鉱夫で賑わっていた町の灯は、ひとつまたひとつと消えていった。町の人口の3割を占めていた人々が跡形もなくいなくなるのだ、自営業者の衝撃はとてつもなく大きい。
灯の減少と歩調を合わせるかのように自殺が増えていった。自殺者は漁師や鉱夫ではない、彼らは何らかの補償‥国や企業からの‥をうけることができた。自殺したのは、それらの補償を得ることのできない自営業者だった。毎日どこかで葬式が行なわれ、きょう葬式に参列した人が、あす棺桶の中にいた。
その頃からであろうか、死人の魂が仲間を求めてさまよっているという噂がまことしやかにささやかれるようになったのは。だれもさまよっている死者をみたことはなかった、が、目にはみえない魂に話が及ぶと、自分は自殺なんかしないと確信している人もふくめて、みな一様に押し黙った。
バブルがはじけ、JR名寄線が廃線になり、M駅がなくなる前後にも自殺者が増える。きのうカーペットの貼り替えに来た家具店の後継ぎ息子が、その夜M港の海で船乗りに発見される。家具店の経営はすでに破綻していた。
モノが売れず、商売替えをするにも資金不足でままならず、ほかに行くあてもない自営業者の多くが失意のまま病死した。自営業者のほとんどがM市から希望の灯は消えたと思った。そう思うほかなかった。
M市は以前から離婚は少なくなかった。漁師の妻たちは、夫が荒くれであるぶんだけ鍛えられている。荒くれ男に荒くれ女、といえば言い過ぎかもしれないのだが、いったん海に出た男は嵐に巻き込まれ、船が遭難してふたたび地上の土を踏めないこともある。旧ソ連や北朝鮮に拿捕(だほ)され帰国できないこともあったろう、ていよく病死ということにされて。
男も浮気する、女もそのときのいきおいで不倫する。毎年死に直面している夫婦に絶対はないのである。愛は、勿論強く存在する。しかしながら、愛の強さの反動で、男女の性(さが)が止めようのないはげしさとなって奔出することもあるのだ。かつて智子はこんなことを言った。女も体力あるからね。
妻の不倫は気候とも深くかかわっている。道東の冬は長い。漁師をやめて内地、主に東京へ出稼ぎに行った夫は帰って来ない。12月から3月まで雪に閉ざされ、陸の孤島と化すM市と内地の都会とでは冬の長さはおのずと異なるのである。愛の不在が不倫を生むと人は判断するかもしれない。それもあるだろう。さびしさが不倫の原因と考えられなくもない。それもありうるが、こうは考えられないだろうか。逆説的ではあるが、経済的貧しさが不倫を生むと。苦悩する魂は暖を求めて結ばれやすいのだと。
さて、亡父が連帯保証人になったばかりに1800万円(1969年当時)の債務を背負った正治は、最初は相続放棄しようかと考えた。そうすれば負債の返済をしなくてすむからである。親ののこしたわずかな遺産を相続するより、そのほうが得策なのは明らかだ。
亡父がのこした店舗は個人経営、つまり会社組織ではなかったので、民法上、会社ではなく、戸籍簿の相続人に債務が生じるのである。ところが、相続放棄するということは、酒や燃料類の販売権も継承できないことになる。これには正治も頭をかかえた。販売権は生活の糧、それがあるから商売もでき、正治と鶴子夫婦、3人の子、妹の智子が食べていけるのである。
問題はそれだけではなかった。債務者とは全員顔見知りであったし、そのなかには正治夫婦の結婚式の媒酌人もいた。それとこれとは別、そう割り切る冷静さが正治になくもないが、ふだんの近所づきあいで育まれてきた情というしがらみを断つには、あまりにもしのびがたいものがあった。
債務者と銀行をまじえて交渉中のある日、債務者のひとりが自宅で首を吊った。水道器具の販売・工事を手広く行なっていた人で、正治の高校の先輩だった。
この町は呪われている、正治はそう思った。同時に、懇意にしていた先輩の死で正治の心は決まった、決めざるをえなかった。この先、家族を犠牲にするだろうが、のこった債務者とも話し合いを密にしてできるだけのことはしていこう、一家が生きる道はそれしかない。
父親に溺愛された智子の落胆ぶりは生やさしいものではなく、一生の不幸がまとめていっぺんにきたような挫折感と喪失感に打ちのめされた。決して好きとはいえなかった学校の勉強も、まったくといってよいほど身が入らなくなった。勉強しないのは不幸だから、心のなかでそうつぶやくようになった。
義姉・鶴子は、智子の成績が急降下していくのを中学の担任教師から聞かされて知ってはいたが、家にいても机に向かおうとしない智子に閉口しながらも文句は言わなかった。秋田出身の鶴子も幼い頃母を亡くし、かなしさが尾をひいて勉強しなかったからである。智子は市内の道立高校商業科に進学した。
高校では目立たない生徒で、入部した放送部では放課後の案内、文化祭の仮装行列では捕えられたガリバーを運ぶ奴隷役といったぐあいである。目立つのがイヤなのではなく、目立つことがこの町では無意味であると思っていたのだ。高校を卒業したら、できるだけ早く町を出たい、それが智子のささやかな願いだった。町を出て、札幌のような都市に行ってはたらきたいと思っていたのである。そうでなければ、精悍で、心身を預けて甘えることのできる男性と結婚するか‥。
結局、智子の経験のなさと思い過ごしが災いし、卒業後札幌に出はしたものの、1年足らずでM市に舞いもどってこざるをえない状況に追い込まれてしまう。ただ、智子は痛い目にあいはしてもまったくくじけなかった。また出直せばよい、出直して、町一番の幸せを手に入れてやる、智子はひたすら自分を叱咤激励した。そして、その後4年間の紆余曲折をへて、ようやく幸福の入口を探り当てたのである。
(未完)
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