2003-10-08 Wednesday
それでも愛されたい(1)
 
 きょうでもう5日も頭痛がつづいている。睡眠不足とか宿酔ではない、突然の配置換えでやむなく来た売り場が、前の売り場とちがいやたらと神経がすりへって、酸素不足の血液が頭にのぼってくるのと、首筋に澱んだ血がたまって、ひどい肩凝りとなっているから頭痛がするのだ。
きょうも電車に酔った。遅番のときはラッシュアワーをはずせるので、梅田までの乗車時間30分を楽々座って行ける。ふだんは前夜の寝不足もうつらうつら居眠りをして解消するのだが、極度の肩凝りと精神のたかぶりのせいで眠ることさえかなわない。ストレッチでポキポキ、コリコリ鳴るはずの首、背中が無音状態、ピクリともしない。
 
 前の売り場で一日平均25足売れていた婦人靴は、先月に入って平均8足しか売れず1ヶ月過ぎた。
前の売り場が、主力を中高年向けのコンフォート・シューズからヤング向けのデザイナー・シューズにかえたことによる売り場面積縮小と、店頭に並べる靴数が50から30足に減ったことで、智子の担当する売り場はまともにアオリを食ったのである。
 
 靴売り場は、大阪・梅田でもっとも客の入りのよい百貨店にあったから、売り場面積と常時50足の品揃えを確保できてさえいれば、そこそこ以上の収入‥多い月で45万円、少ない月でも32万円ほど‥があった。智子の勤務する製靴会社は神戸にあって、神戸大丸、大阪の阪急、阪神、大丸の各デパートと、京都大丸、川西阪急と宝塚阪急にも店舗をおいている。主力はコンフォート系なので、若い女性の顧客や一見さんは少ないが、中高年に人気が高く顧客も多い。
 
 2年前、智子は別のデパートのGというドイツ製の婦人靴売り場から現在の会社Rに引き抜かれた。Gでは毎月きまった固定給料制だった。Gにイヤ気がさしたのは、面接時に賞与のことで説明を受けた話が実際とはちがっていたからである。賞与は販売足数実績によって査定されるのだが、売り場の従業員数で割るということを智子は知らされていなかった。
面接者は肝心な部分を故意に省いた、智子にはそうとしか思えなかったし、出来高に応じてもらえる賞与をアテにしなければ、智子は生活していけなかった。当時、大学受験目前の娘がいて生活費はいままでにないほど膨張していた。私学に通うとなれば事態はさらに逼迫する。余裕も猶予もなかったのだ。
 
 Rの基本給は15万円と安いのだが、販売足数が150足をこえると、1足につき700円のコミッションが加算される。このシステムだと、月に600足売れば、450足×700円=31万5千円が15万円に上乗せされ、46万5千円の月収となるのだが、、月8回の智子の休日にはRと委託契約を結んでいる派遣会社からのマネキン社員が来て、マネキン・8日分の給与8万円は智子が支払う。
Rとの契約でそうなっているのである。智子が社会保険のつかない契約社員の道を選択したのは、Gよりは多くの収入とチャンスを得られると思ったからである。
ただ、2月と8月はいつも悩みの種、売り上げは低迷し、300足売るのがやっとというていたらくなのだ。それで、2月と8月の収入は22万円にしかならない。
 
 それでも智子はめげなかった。1月と7月のバーゲンと、年に数回ある社員販売で2月と7月の売り上げ減を挽回し、ひとり娘のユキを京都の名門私立大学の社会学部に通わせた。ふたりっきりの母子家庭に長く身をおいていると、ユキとの親子関係は良くも悪くも親密にならざるをえない。
喧嘩は日常茶飯、テーマはだいたいお金。父親のいる家庭では、自動車免許取得のための教習所にかかる費用は父親が負担するのに、ママは一円も出さず、アルバイトで稼いで全額負担しなさいと言い放つのにはムカツクし、しんどい目をしてアルバイトで稼いできたら、今月から携帯電話の通話料を自分で払いなさいなんて最悪。
 
 420万円の年収は智子に生活のゆとりをもたらしはしない。ユキの学費は年85万円ほどだが、日本育英会から奨学金が年60万円支給される(これは借金だ)。それに、所得の低い家庭が大学に申請して、認可後支給される支援金が年36万円(これは返済しなくてよい)、学費はそれでなんとかなる。
 
 なんとかならないのは、2DKの賃貸住宅に毎月7万3千円、2台の携帯電話をふくむ通信費に3万円、食費は切りつめても6万円、水道光熱費が1万5千円、母子の定期代と交際費の合計が4万5千円、掛け捨ての生命保険料に1万2千円、養老保険に1万5千円、国民健康保険料は月割り1万7千円、
やめるなら死んだほうがマシなビール代に8千円、駐輪場が自転車2台で3千円、そのほか雑費が5千円ほど。このなかには二人分の化粧品、日用雑貨などの消耗品と美容院などの出費は算入されていないが、それらの合計は概算で月2万5千円ほどになる。要するに、毎月31万円の収入は死守しなければならないのである。
 
 ところが、配置換え後の売り場は前評判とちがい売れないのだ。先月、つまり9月は例年にない残暑が3週間つづき、秋冬物のブーツ類の売り上げはさっぱり。主力商品が売れないせいでもなかろうが、おそなえ程度に陳列してある短靴の売れ行きもよくない。7月末、Rの社長が売り場に来て智子に言った。上からのお達しで、9月からここはヤング向け路線に切り替わる、ウチも規模縮小ということだ、しかし、君の生活状況をボクは把握している、君には絶対悪いようにはしない、だから安心なさい。
 
 社長とはすでに好ましい人間関係ができていた。智子とは同い年だし、彼の出身大学にユキは入学したし、道東M市在住の義姉・鶴子が年4回、京都へ陶磁器の仕入れに来るたびに、社長の保岡は智子、ユキ、鶴子の三人を京都の高級料亭へ連れていった。保岡の自宅は京都市下京区にある。
山海の珍味を食したあと、なじみのカラオケ・バーで深夜まで遊ぶというのが定例になっている。
公私にわたって智子は面倒をみてもらっている。利にさとい智子は、安原のそばにいることは生活面でのプラスになるだけでなく心の支えでもあるから、絶対に離れたくないと思っている。
 
 三ヶ月前の7月上旬、京都のカラオケ・バーでユキと鶴子が化粧直しに立ったとき、酔った勢いなのか、保岡は智子ににじりよって耳元でささやいた。
ボク、智ちゃんのスポンサーになっちゃおうかな。何をタワケたことを、社長にはすでに20代後半の愛人がいて、それは社内では半ば公認となっており、年数回の国内・海外旅行の際には必ずその女同伴であることは、社内で知らぬ者はいなかった。知らないのは保岡の伴侶と子供たちだけである。
40を幾つか過ぎた自分のスポンサーとは、冗談にしても度がすぎる、智子はそう思ったが、保岡のもの言いがまるっきりの冗談とも思えず、ほかに思惑があるかもしれないと話の先を聞く姿勢をとった。
 
 保岡はそういう智子の態度が思いがけなかったのか、一瞬ひるんだような空白のあと智子の目を直視した。誤解しないでよ、スポンサーというのは変な意味じゃなく‥、そこまで言うと保岡は手元のグラスを手にとった。智子はあわててグラスにビールをそそぐ。黄金色の液体で充たされるはずのグラスは白く泡立ち、泡は生き物みたいにグラスからあふれ出て、保岡の股間に落ちた。
すみません、智子はあわててカウンターのおしぼりを保岡のそこにあてようとしてハッとした。年甲斐もなく心臓が高鳴り、保岡に聞こえるのではないかと思うほど鼓動を感じた。からだは熱かった、しかし空気は重かった。持ち前の大胆さは影をひそめていた。社長、きょうは歌わないんですか、そういうしか手だてはないように思えた。
 
 智子のひとことでその場の雰囲気はすり替わる。雰囲気をかえるのは不本意である反面、かえないとまずい。スポンサーになって欲しい、内奥の心はそう願っているのだが、手前の心はそれを否定する。
二つの心のせめぎ合い、それは40を過ぎたバツイチ女・智子の習性といえよう。少なくとも知恵ではなかった。みた目には毅然とみえても、からだや心は常に楽チンを求めているのである。ただ、大学に通う娘の母という意識がはたらいているので、異性から安手にみられるのがイヤなだけなのだ。
 
 元来、智子には警戒心というものがない。気脈が通じ合えば、特に異性のえり好みはしない。
M市で家業にかかわっていた頃も‥結婚前と離婚後とではまったく様相が異なる‥結婚前より離婚した後のほうが大胆になった。もっとも、地元のM市では体面が気になって猫をかぶっていた。
が、地元をはなれると急に大胆になるのである。サルルの原生花園でヒッチハイクしていた関西の大学生を北見市まで乗せていき、ついでに別の場所で馬乗りになった。30代半ばは大胆盛り、智子は自分にそういいきかせた。学生なら、感激はされても安手にみられる心配はほとんどなく、ゆきずりの旅行者なら安手にみられても、自尊心にまで影響しない。
 
 結婚前は一回りも年のちがう男と深いなじみを重ねたこともある。その前に、M市に出向してきた8歳年上の商社マンと札幌に駈け落ちしたこともあった。後になって分かったことだが、そいつはとんだ食わせ者で、総合商社Mの社員とは真っ赤なウソ、実はMの下請け会社の臨時雇いだった。
とにかく智子は人をすぐ信用する質なのだ。ことが順調にはこべば、そういう性質は相手に好感を持たれることが多いから、結果的に引き立ててもらえることもあるのだが、まかり間違えば、ニセ商社マンの場合のように目もあてられない状況に陥ることもある。
 
 だまされて、裏切られてもその男が好きだった。スポーツ系のガッチリした体躯、二の腕は智子の太腿ほどあって、胸板が分厚く、臀部は意外とちいさかったが、筋肉質で締まっていた。中学1年生のとき両親を立て続けになくした智子は、たくましい男に弱かった。
 
 身体のたくましさより頭のたくましさのほうがたよりになると分かったのは、30をいくらか過ぎた頃からである。そういう意味で智子は世間知らずであったというべきであろう。男に無知であったのではない、なによりも筋肉に拘泥し、自分の好みを優先しすぎたのだ。その頃と現在の智子の違いは、筋肉で失敗するかしないかである。たくましい肉体をみれば、いまもからだの芯がムズムズするが、そういう虫が何匹あばれても手なずけた。
 
 智子は大切に19年間あたためていたものすべてをそいつに与えた、身も心も貯金も。9ヶ月後、いよいよ貯金が底をつくと、男はススキノのソープランド(当時はトルコ風呂)ではたらいてくれと懇願した。
これにはさすがの智子も閉口した。はたらくのはかまわない、場所や職種はどうでもよかった、現に智子は札幌の親類のすすめで税理士事務所に職を得て、顧問先の振替伝票と帳簿のつき合わせや、総勘定元帳への記載業務を手伝った。智子は日商簿記二級を高校のとき取得している。
労働の対価はすくなかったが、生活の足しになった。しかし、いくら男のためでも、そして、すぐにまとまった金になるとはいっても、ソープランドに身をおくつもりはなかった。
 
 智子がかたくなに拒否すると、男は暴力をふるった。足で何度も背中や腿をけられた。数週間で智子のからだは青アザだらけになった。そのくせ男は反省するふりをしてすぐにあやまった。それでも男と別れることはできなかった。兄、兄嫁の鶴子の猛反対を押し切って札幌に駈け落ちしてきたという意地もあったが、初めて深くなじんだ男との別れがつらく、このままでは落ちてゆくのも時間の問題と思いながらぐずぐずしていた。
 
 先の見えない事態が急転し、終止符が打たれたのは、業を煮やした兄・正治が札幌に出てきて、男、男の両親と直談判に及んだからだ。男は智子のせいで会社を首になったとゴネまくり、損害賠償を要求してきた。すったもんだのあげく、正治は男に30万支払ってケリをつけた。あとはいやもおうもない、札幌を離れるのを渋る智子を強引に連れ帰ったのである。正治がそうしなければ、本当のところ、智子はどうなっていたか分からない。それくらい危うく、こわれやすく、フラフラしていたのである。
 
 経験不足が危うさを生み、経験が自己管理を生む。M市に帰ってきた智子のその後は憑き物が落ちたかのごとく順調だった。M市一番の資産家に嫁ぐ日までは。
 
             (未完)

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