家族に対しては尽くすのではなく尽くされるもの、家族への信条は終始一貫していた。父に溺愛されすぎたのである。父はどんなわがままでもきいてくれた。他人にひどくやさしかったのは、どこかで帳尻を合わせるという平衡感覚なのか、それとも単なるぶりっこなのか、いまも判然としない。
身内から批判されるのは平気だったが、他人から批判をうけると、智子はめくじらを立てて怒った。ふだんから家族には冷淡で、娘のユキが愚痴をこぼしても、それはかくかくしかじかの理由であんたが悪い、そうこたえるのが常であるから、ユキに泣き言をいっても冷たくあしらわれることが多い。
それは、ふだんがふだんだけに仕方がないという気持が智子にあるので腹も立たないが、他人に悪口をいわれたと知ると激怒した。
家族には思いやりを与えなくてもつき合っていけるが、他人にはできるだけリップサービスほかのサービスを提供しないと良好な人間関係を営むのは困難であるとの認識が智子にはあった。
智子にはそれ以外にもこんな考え方をする性向がある。それは、最初は他人でも、歳月とともに徐々に緊密な関係ができあがっていったとき、親しくなる前は相手の人柄や能力などを欲目にみてしまうが、いったん緊密な間柄になると、何かにつけ相手の欠点が気になり出して、みまいとしてもそこばかりみてしまうのである。そうなると途端に熱が冷めてしまうのだ。それまでは十分な気配りをしてもらい、やさしい言動で接してもらってきた相手は、智子の急変に面食らった。
人はだれしも見かけと中身、虚像と実像はどこかにズレがあるもので、智子にもそれは分かっている。分かってはいても、贔屓目にみていたときの自分とそうでない相手との隔たりを過剰に意識し、そこに生じた落差をどうすることもできないのだ。
良顕からの電話でたしかな手応えをえた智子は、早速向こう6ヶ月の計画を練る。良顕に気に入られる自信はすでにできている、あとは良顕の気持をどう高ぶらせ、心身ともにがんじがらめにし、自分に対する愛を確固たるものにさせ、完璧な結婚へと導くかである。あせってはいけない、でも、あせらないといけない、悠長にダラダラ交際しているとトンビにさらわれてしまう。
M市では自分のライバルになる女はいないけれど、道内のほかの町には得体の知れない無数のライバルが手ぐすね引いて待っている。そう思うことで智子は自らを奮い立たせた。全身に緊張感と戦闘意欲がみなぎった。4年前の借りは必ず返す、それは智子の祈りにも似た悲願だった。
良顕のデートの申し入れに、その日は家業の手伝いが忙しいことを理由に断るが、数日後に案の定、良顕は日にちをかえて申し込む。智子は応じることにした。デートするとなれば下手な遠慮はいらない、車の助手席に座った智子は、信号待ちで車が停止したとき、いきなり良顕の空いている左手をにぎる。分厚くあたたかい手だった。良顕は思いのほか冷静に智子の右手をにぎり返した。
彼へのお近づきの印、良顕はそう受けとめたのである。その日のデートはただのデートで、旭川まで行き、高級感のあるすし屋で夕食をとり、高校時代の思い出話に花を咲かせた。良顕は別れ際に次のデートの日時の都合を智子に尋ねた。前回のときとちがい、「大丈夫です」と智子は快諾した。相手のきもちがよくなっているときは、自分もきもちよくする、それは智子の鉄則なのである。自然のながれに逆らわないことでむすびつきがつよくなる。ながれに乗っている舟に棹をさし、舟をむりやりとめてしまうのをこころよく思う人はいないだろう。ここちよさは男女を急接近させ、高めさせる。
じらしたり、じらされたりするのは一時の技巧としてはうまい手かもしれない、じらすことで功を奏すこともすくなくはない、だが、じらしすぎると円滑な男女関係に亀裂がはいるということもある。そのあたりのタイミングがむつかしい。智子はそういう意味でタイミングをはかる名人である、そのころの智子自身は気づいていなかったが。智子がそれと気づいたのはそれから8年後のことである。
(未完)
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