2020-04-25
花図鑑
 
 小学校の入学祝いに父が買ってくれたのは植物図鑑だった。植物は写真ではなく手描きの精緻な絵。ほんものを見ても気づかない花や葉の特徴をあざやかに描いていた。図鑑で見る花もきれいだったけれど、祖父の畑と花壇に咲くほんものはひときわ美しい。
 
 現役引退が早かったせいか2006年以降、50代後半にさしかかって追懐タイムが増えた。思い出が小学校低学年のころ、そして大学時代なのは、哀歓に満ちた濃密な時間だったからだ。
 
 初夏から盛夏の花、祖父が手塩にかけて育てたカンナ、グラジオラス、アサガオは記憶に残っており、思い出せば花にかこまれた時間を持てるような気がする。コロナ騒動の昨今、ほんのわずかでも心おだやかな時間を過ごせるのはそういう記憶のおかげである。
 
 昭和30年代前半、植物学者のように精緻な観察をしたわけでもないのに、写真で見るより図鑑で見る花のほうがしっくりくるのは、自分が思う以上に細かく観察していたのかもしれない。花は性器だと知った子どもはショックだったのに、20代初め、女性の秘所を観察しようとしたら、気配を感じとったのか、「そんなに見ないで」と言われた。
 
 こういう話をするのは老醜をさらけだすようなものだ。「梶山季之くらいには書けるね。」と女性は言ったが、川上宗薫と言われなくてホッとした。
 
 知人に見られることもあるので、待ちあわせの場所はできるだけそういう可能性のないところを選んだ。1968年、東名高速が開通していた。渋谷から246号を南西に進み、用賀インターから東名高速を走り、御前崎へ行くことが多かった。
高速道で陽気にしゃべっていた女性はインターチェンジを降り、御前崎に近づくと口数がすくなくなる。御前崎は車道のそばまで海がせまっており、近づくにつれて彼女は海になったのかもしれない。
 
 御前崎へ行くのは昼と夜のまざりあう時刻が多かった。車もすくなく、海浜は私たちのほかに誰もいない。茫洋たる海が眼前に広がる春の夕方、彼女は水平線を見ていた。月明かりに照らされた晩夏の夜、渚にかけよって立ちつくす後姿に魅了された。彼方にウサギが飛ぶのを見たという。
 
 秋の日、熱帯性低気圧は紀伊半島の西にいるのに、狂人の叫び声のような高波がおしよせ、不気味な鈍色の海と低い雲に悄然とする。未来への漠然とした不安なのだと彼女の顔に書いてあった。
 
 明治神宮の花菖蒲園は昭和46年(1971)6月下旬、梅雨のあいま、原宿駅前で待ちあわせした。このときも人っ子ひとりいなかった。ミニスカートが流行していて、前年は抵抗があったのか着用しておらず、足のかたちがきれいなのにもったいないと思っていた。
 
 若い女性の誰もがミニスカートをはいているのに、自分だけはいていないとかえって目立つと思ったのか、キュロットを着用し、次にミニスカートの順ではいてくれた。色気をみせないタイプが、かたちのいい足をのぞかせるとセクシー。
 
 デートを最優先して頻繁に逢っていたので、彼女が女ともだちに会うのは喧嘩のあいま。仲直りして真っ先に、あっけらかんとして、半年ぶりに誰それさんに会えた楽しそうに語る。喧嘩の有効利用である。
 
 いつだったか第三京浜を走行中、何が気にくわないのか口論となった。むかっ腹が立ち路肩で停車し「降りろ」と言った。そのときの顔といったらなかった。横っちょに車が猛スピードで走りさる。追突されたらどうするのよと呆れながら涼しい顔をしている。涼しさを装ったのだ。その顔を見たら余計に腹が立った。
 
 その後どうなったか記憶があいまい。久しぶりに女ともだちに会っていたのだろう。10日ほどたち、地下鉄駅の階段でばったり会い、今度はこっちが「会うと思っていた」という顔をすると、彼女は驚きと戸惑いの入り混じった顔をした。
 
 花菖蒲はまったくおぼえていない。おぼえているのは、黒地にグリーンの木々と白いラインをプリントしたワンピース、園内で私に仕掛けたいたずら。花よりあざやかで生々しい花の記憶。
彼女のことば「忘れられなくしてあげる」は、悪魔のささやきだったのか、一度言ってみたかったのか。あの場面であのせりふを言うこと自体が忘れられなくする決め手だったのか。妖しさの漂わない花から飛ぶ魔法の粉だったのか。
 
 花図鑑の花はしおれず枯れもせず、扉を開けば20代前半のすがたのままあらわれる。崖から転がり落ちるように心身が疲弊し、昨今のいやな世の中に辟易するとき、わが家のバルコニーで健気に咲く花を見ると気持ちが安まる。

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