2020-05-11
3日間の恋
 
 昭和43年、特別展開催のない上野・西洋美術館。11月初旬、ふらりと寄ったその日の午後、がらんとした館内は屋外と同じ清々しい空気に満ちていた。
ひとけのない展示室を順に回っていくうちに絵を凝視している女性がいて、近くを素通りしても気づかず立ちつくしていた。身長154、5センチの小柄で小顔、ショートカット、形のよい足、ミニスカート。
 
 疲れるほど見学したわけではなく、広い休憩室に誰もいなかったのでイスに腰かけた。10分くらいたったろうか、女性が入ってきて、目が合うと近くのイスに座り、「すいていて気持ちいいですね。うしろ通りませんでした?」と言う。
 
 西洋美術館の約1週間後、渋谷の下宿から根津美術館まで歩いた。そのころは「表参道駅」もなく、原宿で降りて歩くより渋谷から青山通りを歩いたほうが早かった。根津美術館にはクシャーン期の菩薩像など彫刻のほかに曼荼羅図、水墨画の傑作もあり、下宿から徒歩圏内。
 
 館内は水を打ったようにシーンとして人影はなく、うすあかりの照明は仏教関連の作品に好都合、順路を進むと向こうに人が見えた。彼女もこっちを見た。西洋美術館で会った女だ。また会えそうな気がしていた。彼女が意外な顔をしなかったのは同じ思いだったのかもしれない。時のたつ間もない出会い。
 
 女性は世田谷区桜上水のアパートに住んでいて、京王線「桜上水駅」より小田急線「経堂」からのほうが近いらしい。多摩美術大学へ通っていた。
名前を聞くと、「笑われるから言いたくない」と言う。「名なしの子と呼んでもいいの?」と言ったらば、「笑わないでね」と言って、「古川ちづ子、千の鶴、昔の名前でしょ。ほら、笑った」と睨むようにほほえむ。
 
千鳥ヶ淵まで歩きましょうかということになった。講義の合間に貸しボートを漕ぎに行くとっておきの場所。
根津から乃木坂〜山王下、三宅坂に突きあたって左へ曲がる道を歩いた。歩き方がさわやかできびきびしている。健脚だった。1ヶ月ぶりの千鳥ヶ淵に人影はなく、沿道から見おろすサクラの朱色にことばを失った。
 
 木々が映る大きな瞳、彫刻的で細く高い鼻。仰月形の湿った唇。網目のしっかりしたライトブルーのクルーネックセーターに日焼けした顔が映え、上半身はスリム、下半身はセクシー、南欧の甘い匂いが漂う。低音だがよくとおる声、控えめで明るい会話の調べ、時を刻むような話し方に魅了された。
 
 「もうすぐ駒場祭があるけど行きませんか?」と彼女は言った。駒場は渋谷から京王・井の頭線で2駅。11月24日に駒場東大前駅東口で落ち合うことにした。相手の話を真摯に聞いて記憶に残すことのほかに取り柄もない男の最初で最後のチャンスだ。
 
 駒場祭の展示物、イベントはほとんど見ないで生い立ちや家族について語りあい、渋谷駅前・東急プラザ2Fのスパゲッティ専門店へ行った。何度か食べたことのある具だくさんでボリュームのある「コスモポリタン」を注文。粉チーズとゆで卵のみじん切りが降りかかる。「すごい量」と驚きながらも平らげ、「おいしかった」と言った。
 
 いつのまにか彼女のふるさと宮城県の話になっていた。東京に出てきて1年もたっていないのに郷里の山河を追懐し、子どものころの夢をみるという。「海より川が好き。川で育ったから。森も好き。鎮守の森も」。遠くのほうを見る目がきらきらかがやく。都会ふうなのに、うわべを飾らず率直な人柄が伝わってくる。落ち着いた雰囲気も好感が持てた。
 
 彼女のふるさとの山河は変わっていない。変わりやすい都会にいるからさみしいのではない、どこにいても、何をしても、独自の感性がさみしさをもたらすのである。心は通い合っていた。沈黙することもあったけれど、気まずさは微塵も感じず、19歳の男女は時を惜しむように語り合った。
 
 場所を移しコーヒーを飲み終えるころ時計は11時をさしている。「川と森が好き」と語る目は潤み、夜の森の匂いがした。もうすこし一緒にいたいと同じことを考えている。この女性となら愛し合えるかもしれない。そして彼女に溺れるだろう。
 
 徒歩7分の下宿にもどったのは午後11時半前だった。エントランスで上履きに履きかえたとき管理人と女性経営者があらわれ、「飛行機は手配しました」と言い、封筒を渡そうとする。「何ですか」とたずねた。交通費だった。
 
 「お父さん危篤って連絡が。羽田からムーンライト便が出ています」。当時、伊丹空港へ毎日深夜便が運航していた。手持ちがあったので、お礼を述べ受け取らず羽田へ向かった。危篤は方便だと顔に書いてあった。
 
 突然死だった。喪主をやってくれと母から頼まれた。喪主の正装はモーニングである。自分用に誂えたものなどあるわけもなく貸衣装。ペンギンのような上着に縞のズボン。
初七日を終え帰京、数日後連絡があり、「お父さま‥」と千鶴子さんは絶句。1週間何の連絡もないから心配して下宿に電話し、管理人から聞いたそうだ。
 
 父の死によって決意したのは父の夢をかなえることだった。クラシック・コンサートを聴くため、イタリアやドイツをみるためにヨーロッパを旅しなければならない。そこまではふつうだった。父が急死した時に陶然としていた自分を責めずにはいられなかった。そこからは支離滅裂、女性への思慕を断つ禁欲の修道僧。
 
 千鶴子さんは帰省を延ばして連絡を待っていた。説明しようのない心のうちを明かさないまま昭和43年が暮れようとしていた。始まった途端に終わった3日間の恋。昭和45年11月下旬まで特定の女性と交流せず時は過ぎていった。
 
 記憶は魂の記録である。人は過去の幽囚であり、過去は人の幽囚である。人間が記憶を美化するのではない、記憶が人間を美化するのだ。幽囚の番人よ、過去を忘れさせよ、さもなくば私を忘れよ。

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