2022-03-13
Meditation
 
 夫が亡くなって15年経過し、20代前半おつき合いしていた男性が現実感のない紙芝居のように出てくる。あたしは60代半ばにさしかかっていた。
 
 かれと初めて会ったのは昭和43年4月、同好会の新入生歓迎旅行の甲府。市内を一望できる高台で先輩と話しているとき視線を感じた。あたしは膝小僧の見えるチョコレート色のスカートにブルーのスウェード・ジャケットを着ていた。
その後も学生会館でドッジボールを横目使いに命中させる小学生のように見ないふりして見つめられているような気はしたけれど無視した。
 
 その人に誘われたとき午後の講義が休講になったので、まあいいかと地下鉄に乗った。どこへ行くのか告げず、九段下で降りて階段を上がったところで「ボートに乗らない?」。
千鳥ヶ淵のボート乗り場まで沿道は満開の桜、水面に花びらが舞って顔に降りかかる。あたしはロクに話もせず、そういう気配に彼も話しかけようとせず、気まずい時間だけ過ぎていく。暮れなずむ春の日に惑わされるのはノーサンキュー。この男とはこれきりにしよう。
 
 1年半たち、なぜ遅くなったのかおぼえていない11月初旬、木枯しの吹く夜、誰もいない正門前で彼とすれ違った。最初に気づいたのはあたしで、ベージュ色のダスターコートの裾が翻った瞬間、肌もふれていないのに電気が走ったような感じで意思とは裏腹に声をかけてしまった。
 
 それ以来、あたしのなかで何かわからないものが変化した。一ヶ月ほどたち、彼に借りた本の著者が自死。実家に帰省している彼に手紙を書いた。
「特別何か感じるわけじゃありません。空気みたいな人だと思う。存在を感じないのに、なければ生きられない」。どう取りつくろってもラブレター。いつのまにか頭のメモが書き換えられていた。
 
 めったに顔を合わせない男だよ。あとになってわかったのは、気取らなくても、息をひそめなくても、素の自分でやっていけるから心地いい。それだけのことなのだが、そういう人を必要としていたのだろう。気づかないふりをして通り過ぎれば何もおきなかった。
 
 彼が手紙を読んでどういう反応をするかわかっていた。なのに筋書き通り行動されたら困るという気持ちもあった。あたしの思う方向に行ってくれるという気持ちと、深みにはまると自分を抑えられなくなるかもしれないという不安が交錯した。それからの経緯は忘れた。時間はアッというまに過ぎて春休みは大阪にいた。帰省している彼に連絡する。
 
 4月が過ぎ去ろうとする日の夜、車のなかでキス。初めてのキスは軽いタッチ。2度目、空き地の片隅で熱いキス。3度目、観察するあたしに気づき、離した唇をとんがらせたら、血圧上がったような顔をして「観察中の目も大きいね」と笑う。
 
 梅雨の合間に原宿駅で待ちあわせ、明治神宮の花菖蒲を見にいった。巨木の生い茂る林を抜ければ花菖蒲苑。苑内に人影はなく、花は見ないで、立ち止まってはいちゃついた。
誘うのもデートの場所選びもほとんどあたし。レストランと喫茶店は彼に任せた。夏の終わりから秋はドライブ、映画とコンサート、晩秋は美術館。冬は喧嘩していた。
 
 喧嘩のさなか、ふだんはめったに通らない地下鉄の階段を上がっていくと彼が降りてくる。喧嘩の余韻もさめやらぬのに、彼はここで逢うのを知っているかのような顔をした。不可解で不愉快だった。
よどんだ空気を吹き払って仲直りするのは難しいはずだが、バッタリ会ったら、バカみたいに寄り添っている。そんなの自分じゃないよと心に言いきかせても、自分だよと心は応える。喧嘩してもすぐ仲直りができるのは、前の喧嘩の理由も内容も忘れているからだ。そして根に持たないから。だからまた喧嘩した。
 
デートに雨の記憶はない。いつも晴れているねと言うので、晴れ女だよと言う。雨の夜、彼に手紙を書いた。結びの文言は雨の音をききつつ。逢わない日に雨が降る。
 
 海を見たいと言うと御前崎に連れていってくれた。東名高速牧之原インターチェンジまで100分、当時その先は一般道しかなく、御前崎まで20分。2時間もかかったという感覚は稀薄で、人のいない砂浜に立つと茫洋たる太平洋が広がり、無言で海を見る。胸に何を刻んでいたのだろう。
何回目かの御前崎。台風は駿河湾の遥か彼方、鹿児島沖にいるのに波が高く、空はどんより曇っていた。その場を離れたいという気持ちが伝わったのか、彼は帰ろうと言った。その後、御前崎へは行っていない。
 
 また冬が来て、喧嘩のあいまに自宅でビーフシチューをつくってもらった。エプロン姿が似合っている。エプロンの端をひっぱって子犬みたいに遊んだら、心をこめているのに気が散ると怒られた。両親は別の場所に住んでおり、妹と二人暮し。ビーフシチューおいしいと妹も顔をほころばせる。
 
 次はケーキつくってよと頼んだら、スポンジを焼くオーブンの有無を確かめ、生クリームの砂糖は甘味がソフトになる和三盆を使いたい、イチゴは買ってくる、ホイップを混ぜるのに時間がかかるとブツブツ言ってたが、ほんとうにつくってくれた。
お正月が明けるとすき焼き。関西風すき焼きを食べるのは久しぶりだった。味つけは全面的にお任せ。関東風より甘いけどイケた。
 
 卒業式は舞い上がった。渡したいものがあると彼は言い、車のトランクから取り出したのは両手でかかえきれないほどのローズレッドのバラ。大隈庭園でおこなわれた謝恩会に持っていったら、学部の友人たちがうらやましそうに見る。会は1時間ほどで終わり、バラを抱いたあたしを彼が撮影。得意満面だった。
 
 自宅まで送ってくれて、きょうはここで帰るよと言う彼を引き留めず、自室、台所、妹の部屋にバラを飾る。もらったときより飾るときのほうがうれしく、男はいなくていい。
数日後、写真できたと連絡してきた。おとなになって初めてのローズ系のスーツは思いのほか似合っていたし、数十本のバラに負けているふうでもなかったのだが、表情にどこか品がなかった。得意顔はよくない。
 
 4月、銀座の大手建設会社で仕事していた。彼は入社試験に落ちて就職浪人。ほとんど会えなくて平日の夕方、銀座で待ち合わせたような記憶がある。日曜は何をしていたのだろう。その年は駆け足で過ぎていった。
 
 年が明けてまもなく彼は引っ越し先を探していた。あたしもつきあった。西武新宿線「下落合」駅から徒歩数分の2LDK賃貸マンションと契約し、電気製品を買いそろえようとしているさなか突発事が起き、彼は身動きできなかった。予定していた食器類や日用品の買物、ルームキーの引き渡し、引っ越しもやるしかない。日曜しか動けないのがいまいましかった。
 
 彼のそれまで渋谷の学生センターみたいなところに住んでいた。引っ越し荷物は本と衣類、アメリカ留学中の高校時代の同級生とあたしの手紙、旅先から誰かが出した絵はがきなどで、引っ越しが終わってすぐその女子の手紙を読んだ。
 
 彼女の手紙を読み返した形跡はなかったが、あたしの便箋はボロボロ。何度も読み返したにちがいない。しわくちゃになっている便箋を見て高ぶる気持ちは収まり、引っ越しで休日が台無しになったことも、心配で疲れたことも吹き飛んだ。
 
 彼が帰って来る日、先に行って彼の母親、鳥取の従兄など3名を迎えた。従兄は来るやいなや車に飛び乗って西へ向かった。次の日曜、言わないでおこうと決めたはずなのに口がすべる。あたしを試そうとしてあのときアメリカの子の話をしたんでしょう。嫉妬からは誰も逃れられないのにイヤなやつ。
 
 ことしの初め夢をみた。彼が血を吐く夢。それからまたみた。坂道を上がりきった場所、二階建ての白い大きな、人の住んでいる気配のない不気味な家。ステキな夢なら気分爽快なのに、不安になる夢は寝覚めがわるい。
1年で退社し、古巣に学士入学した。就職したのは夏休みのインド渡航費を稼ぐためだ。インドから彼に手紙を出した。彼は絵はがきを希望したが、絵はがきを出す気にはなれず、しかし気になったので探したり。いいのが見つからず結局手紙にする。
 
 愛する食べものはまずアイブから始まるそうです。淫らな想像を包み込む古代インドの静寂。現代インドは騒音が愛を閉ざす。入社試験の結果はどうなったのか、きっといまもフラフラしているのだろうと思うと不快になってしまう。それなのにこうして書いているのも気に入らない。
そう思わせないように手紙ではなく絵はがきを注文したんでしょう。私は心配しがいがないほど丈夫で元気。インドで死んでもいいなぁと今は思っています。アーカンベー。
 
 帰国して下落合へ行ったら彼は消えていた。何度行ってもいなかった。どこへ逃げたのか手がかりはない。小冊子の存在を友人から知らされた。あたしより彼自身をおとしめることが記されてあり、ショックだった。
こうまでして別れなければならないの。フェアじゃないよ。日本に彼の居場所がなくなったような気がした。彼ほどあたしのことばが通じた人はこの先あらわれないかもしれない。
 
 別れて半年もたたない春先、大阪駅中央口前を横切っていたらばったり会った。半年ものあいだ存在を否定してきた。顔をみた瞬間あたしは憤慨した。信じられないことに彼はなつかしげに声をかけようとする。きびすを返し、肩を怒らせて急ぎ足で歩いた。猛烈な剣幕にあきらめて追ってこなかったが、眠りにつくまで落ち着かず、気分はよくなかった。
 
 人は愛から逃れ孤独になるか、孤独から逃れ愛を模索するかのどちらかだ。愛しながら孤独でいようなんて。男はいつも孤独だよ。女は寂しさに耐えられないから愛を求める。女を受けとめられなくなって逃げる男は女を不幸にする。そのころ結婚は女が積極的に生きるための手段だった。彼は自分自身を受けとめることもできないのだ。
 
 夫は50代で闘病のすえ木の葉が落ちるように旅立った。支えてくれた人たちもすっかり老けてしまった。自己憐憫もふりかえることも嫌いなので過去を棄ててきた。そうしているうちに沢山忘れた。
夫と暮らし始めたころ奈良公園の近くで借家住まいしていた。興福寺、東大寺は徒歩圏内。日曜、夫の運転で法隆寺、明日香などへ行った。柔和な面持ちで瞑想する億万浄土の仏像。極楽浄土の心地でいられる時間はあまりにも短い。
 
 子育てをすませ、寡婦になってからも、60代半ばまで肌はつややかで張りがあり、みずみずしかった。それだけは自信があった。その自信も怪しくなり、みずみずしさは思い出となってしまった。70歳を過ぎると思い出すことも少なくなって、身体のなかで何かが少しずつ崩れていき、身近に死を感じる。
 
 「人生は美しくあるべきです」と言っていた男の美しさの背景にあるのは京都の桜と紅葉だと思う。自分をおとしめて別れたあと活路を見いだし、美しく生きられたのだろうか。
 
 記憶の断片をつなぎ合わせるのは瞑想を深めるのと同じで、加齢が邪魔して容易につながらず、深めようとしても深まらず、ストップする。瞑想よりもっと遠くにいた男が突然あらわれ瞑想を妨げる。みずみずしさを保ったまま死んでいくと思えた20代がなつかしい。

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