2004-12-25
優先順位
 
 未喜は自分でなにかを決められない女だった。いざとなれば頑固一点張りで、自説を通す傾向が強いと自他ともに認めているのだが、ここ一番というところで決断力の弱さが頭をもたげてくる。
高校時代まではそれなりに他人の考えに耳をかたむけていた。自己主張どころか、どちらかといえば他人の考えに迎合しすぎて、友人から主体性がない、八方美人などと揶揄され、口さがない者からは浮き草、アメンボウと嘲笑されたこともある。
 
 頑固さと決断力のなさは両立する、未喜は漠然とそう考えていた。協調性があっても好き嫌いのはげしい人間はいる、げんに自分がそうである。おまえは一概だねえ、中学一年の夏休みに急死した母からよくいわれた。「いちがい」は強情者ということで、未喜は母のことばが心底気にくわなかった。あたし、一概じゃないよ、かあさん、未喜は母の位牌に手を合わせるたびにそうつぶやく。
 
 高校卒業後、秋田県大館市の実家を離れて、横浜の叔父の経営する社員30人ほどの小さな製靴会社の経理部に勤務した。昭和49年当時はいまとちがって、振替伝票に記入するのも、金銭出納帳を作成するのもすべて手作業だった。
経理部とはいっても名ばかりで、勤続25年になる50代後半の寡婦が伝票と出納帳を一手に引き受けていたが、ふだんの伝票整理はアルバイトがやっていれば事足りる程度の出入りで、銀行預金や貸借対照、総勘定元帳に関しては叔父夫婦が、決算は税理士に一任していた。
 
 未喜が叔父に請われて横浜に来たのは、高校商業科二年のときに日商簿記二級に合格し、その余勢をかって翌年一級検定に合格してしまったのである。大館の公立高校はじまって以来の快挙に校長以下教科担任の狂喜するなか、未喜は浮かぬ顔をしていた。簿記の成績が群をぬいているわりにはほかの科目、英語や世界史などの成績はさっぱり、とくに英語は惨憺たるありさまで、50点取るのがやっとというていたらくなのだ。
 
 ある秋の日、わざわざ体育館に生徒をあつめ、簿記一級合格の表彰式を学校側がおこなったが、普通科にくらべると、商業科はいちだん低くみられていたこと、商業科の生徒数は普通科の二割にも満たないことに加えて、商業科から賞讃に値する生徒が出たことが気にくわなかったのであろう、普通科生徒の多くはふくれっ面をして歓迎ムードに水をさした。
 
 他人の思惑はどうでもいい、母が生きていたらさぞ喜んでくれたろう、1925年生まれの母は古いタイプの人である、未喜が手放しで喜べなくても、娘の栄誉は自らの誉れなのである。未喜が生まれてまもなく胃ガンで亡くなった父も顔をほころばせてくれたことだろう。
実物の父親は写真でしか見たことがなく、遺骨は父方の祖父母が持ち去り、母のちいさな墓は母の実家の墓の隣に立っている。兄夫婦に連れだって墓参したときから不思議だった、なぜ父母が別々の墓に入っているのか、母の遺骨が母方の先祖代々の墓に入ってないのはなぜか。
 
 長い間、漠然と疑問に思っていたせいか、未喜の夢のなかに時々母があらわれ、大館藩に代々仕えていた母方の父祖や曾祖父の話をしてくれた。「お武家出身の旧家は見識が高くてねえ、半端な死に方をした者は世間体がわるいといって、のけ者にされるのさ」、「おまえのひいじいさまは一徹者でしたよ、おまえの一概なのは、ひいじいさまに似たんだろうか、縦のものを横にもしなかったよ」。
 
 「おまえが生まれたとき、まわりはよろこんでくれたけど、ひいじいさまだけは苦虫ふみつぶしたような顔でいったよ、孫が不浄の子を産みよった」とね。 「だれが不浄なものか、わっちはじいさまに言い返した。この子はまぎれもないわたしの子です、そして、じっちゃんのひ孫よ、ってさ」。
「万延元年生まれのじいさまは九十になっていたけど、まだ矍鑠(かくしゃく)としててね、射すような目で、ワシの目に狂いはない、あと先考えたならおめエがいちばんよく知っとろう、この子がだれの子か、ときっぱりいったよ」。
 
 それで、だれの子なの、ほんとうは。そう詰問するところで母はいつもいなくなる。すぅ〜と消え去るのだ。子供のころはだれでも自分の出生に興味をもつ。秘密などありはしなくても、秘密があったほうが悲劇的であり、悲劇的な出自を望んでいたかのような自分のすがたをみるのである。近所の子たちはおたがいに、あんたは橋の下で生まれたのよ、わたしだって墓場で泣いているのをかあさんが拾って育てたんだから、あんたといい勝負、などという。
 
 そうなのだ、ふざけあって、決してめぐまれているとはいえない自分の境遇をなぐさめたり発散させたりするのだ、だれが教えたわけでもないのに。身の不幸は親のせいではない、拾われた自分の不幸である、捨てた人間がわるいのだ、そう思うことで親と自分を救済するのである。
 
 かあさん、かあさんはいまでもあたしのこと気にかけてくれてる?あたしを守ってくれてる?これで何度目だろう、未喜が位牌にむかってそう語りかけたのは。兄夫婦に、仏壇ごと横浜に持っていくわけにはいかないから、せめて位牌だけ持っていきたいとたのみ、叔父邸内にある別棟の一室に位牌をそなえ、コップに入れた水、炊きたてのご飯を供え一礼一拝するのが未喜の日課である。
 
 はじめて未喜が位牌に語りかけたのは、横浜に来て、おない年の遊び友だちどころか、年上にもこれといった友だちを見つける時間もなく一年たった四月はじめのこと、叔父の靴工場で丹誠こめてつくった婦人靴のはきやすさと低価格が横浜で評判をよび、その評判が銀座の大型靴店へと伝わって、そこの仕入れ担当者が交渉にきたのだった。
 
 その男を見た瞬間、未喜の体に鋭い電流が走った。男は見るからにスポーツマンで、りゅうとしたスーツの下に太い筋肉のあることは直感的にわかった。胸が厚く、背中がとてつもなく広いように思えた。そういう想像力のはたらくのは、未喜がその男に一目で魅了された証拠である。
 
 雪国で生まれたこともあってスキーは得意だったが、ほかにこれといってスポーツ経験のない未喜は、スポーツ選手に秘かな憧れも抱いていた。いや、正確には、筋肉質のスポーツ体型に惹かれていたというべきかもしれない。
 
 スキーのジャンプ台から風を切ってジャンプし、空を舞うとき、順番待ちの緊張が一気に解放されるあの瞬間にも似て、いいようのない爽快感と熱気が未喜をみたした。男は次の週も、またその次ぎの週もやってきた。銀座の有名靴店に自社製の靴を置けるといって叔父は舞いあがっていたが、未喜は仮契約の日、男とはじめて口をきいて小おどりした。
 
 間近で見た男は、未喜が思い描いていた以上にがっしりした体躯と野太い声をしており、日焼けした顔のせいか、歯の白さがきわだっていた。
その夜、母の位牌にいつもより長い時間手を合わせた。カアサン、アタシ、カレニムチュウナノ、オネガイ、カレノココロヲアタシニムカセテ。
 
 
 
 その年のクリスマスイブ、商談で来た男から思いもかけない贈り物が未喜に手渡された。冬の空のように澄みきった水色のカシミア・マフラーだった。聞いたことのない銀座の老舗で男が買ったのだ。夢中になったのは未喜だけではなかった、男も未喜をはじめて見たとき背中にビリビリきたらしい。男はそういっていたが、かあさんがそのお膳立てをしてくれたんだ。
 
 それから男との交際がはじまった。大学時代にラグビー部にいたという男は、当時あたらしくできた国立競技場のラグビーの試合に未喜をさそった。男の行くところならどこでもよかった、男が望むなら、なんでもかなえてあげたいと思った。
 
 ゆめのように時がすぎた。三年年余りの時間は、わずか一月のように感じられた。その間、男は一度も未喜のからだをもとめようとしなかった。じれったかった、どうしていつもあなたはそうなの、心はそう叫んでいたが、きっと自分を大切にしてくれているからと思うことにした。が、そう思う先から声にならない不満が噴出した。あのとき男は、何を考え、何を見ていたのだろう。
 
 そして不意にその日が訪れた。理由らしい理由など何もいわず男は郷里に帰るといった。愕然とした。目の前にいるのは五日前とはちがう男にみえた。それまではなんでも事前に知らせてくれた。ましてこんな大事を何の相談もないまま突然いうことはなかった。未喜は理由を問いただした。男は、おやじが帰ってこいというからとこたえるのが精一杯というふうで、あとは長い沈黙がつづいた。
 
 男の背中が急にちいさくなったような気がした。男は正直しょげかえっていた。だが、未喜にはこれが別れになるとは思えず、うん、わかった、じゃあ帰りなさい、でも、電話か手紙ちょうだいよ、そういって男の肩をポンと叩いた。
 
 
 男からは一度電話があったきりで、その後何の連絡もなく二年がすぎた、風のたよりに男が結婚したときいた。親同士が決めた昔の婚約者がいたという噂も流れてきた。そのころ、未喜にも縁談話が持ち上がっていた。三ヶ月前、中学時代の同窓会に出席するため帰郷したとき紹介された大館の大地主の一人息子が未喜を気に入って、父親を通じてぜひにと懇願されたのである。兄夫婦はおおいに乗り気だった。これが潮時なのかもしれない、そう思うほかなかった。
 
 相手は、結婚を前提に交際してもらいたいと意思表示し、最初は気がすすまなかったが、同郷の気安さと安定した高収入もわるいものではなく、未喜は次第に相手になじんでいった。数ヶ月後、結納の日取りも決まったある日、いきなり男はやってきた。
 
 未喜の婚約者は大館の有名人、市内は目立ちすぎるので、未喜は男に大曲で会おうと告げた。男は未喜に、いまでも好きだよといった。奥さんとはうまくいってるの?、未喜がそうたずねると、まあまあだよ、男はそういった。未喜にはそれがウソだとすぐわかった。その夜、未喜ははじめて男に抱かれた。そうなるのが自然だった。おそすぎたが、これで帳尻は合ったのである。
 
 あれからどのくらい時間がたったのだろう、未喜の一人娘は大学に通っている、秋田ではなく京都の。結婚後、夫の身勝手さと度かさなる浮気、姑とのいさかいにほとほと疲れはてた未喜は離婚し、娘は自分が引きとって育てた。
しばらくは大館で兄夫婦の家業を手伝っていたが、叔父のツテをたよりに京都の会計事務所ではたらいている。叔父の強いはたらきかけと、簿記一級の資格がものをいったのである。
 
 現在の未喜なら母のこころが読める。娘のことが最優先と思える。あのとき、婚約者のもとめに応じて体をひらいたから、ふたりの男の血液型が同じABだったから秘密は守られたのだ。
 
 かあさんの秘めごとはひいじいさまが見抜いてた、かあさんは否定するだろうけど、あたしは父さんの子じゃないと思う。あたしの秘めごとは、だれひとり知らない。そしていま、かあさんのお墓が実家の墓と別々になっている理由もおぼろげながらわかるような気がする。       

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