2004-11-27
レフィル
 
 またやってしまった。沢木はいかにも苦々しそうに舌打ちした。先週から文具売場はてんてこ舞いで、来年用システム手帳のレフィルをリーフィルと発音する癖がいまだにぬけず、店長の細川から小言を食ったのである。
 
 「沢木さんはイギリス帰りだから仕方ありませんかねえ」
 
 一回りほど年下の細川のいう決まり文句がこれである。これを言われたくないからつねづね注意している、なのについリーフィル「refill」といってしまう。むこうでリーフィルといえば酒樽のつめ替えのことをいうことが多かったし、英国の家庭では飲食物の二杯目、または「お代わり」をもとめるときによく使われる。
 
 英国の老舗百貨店「ジェンナーズ」文具売場のスーパーバイザーとして15年のキャリアをもつ沢木だが、職場でリーフィルといえばボールペンの替芯、ルーズリーフやシステム手帳の替ノートのことを指す。薬局ならさしずめつめ替え用の薬である。離英して2年になるが、いまだに沢木はジャパングリッシュ発音に慣れないでいる。
 
 去年、五十の坂をむかえたとたん、それまでたやすく適応できたことができなくなっていた。長年にわたる滞英生活におさらばし、往時とはすっかり様変わりした日本の環境になじむには時間がかかる、帰国子女だってそうなんだから、自分のような中年男はなおさらだ、沢木はそう思うことにしている。
 
 だがそれは、いわば沢木のエクスキューズにすぎず、すでに英国にいたときから持ち前の暗記力が徐々におとろえはじめ、すっかり自信を失っていた。40代半ばまではバカンスといえばスペインやポルトガルの田舎をレンタカーで走り回ることだった。
 
 スペイン語だろうがポルトガル語だろうが、必要な単語はすぐおぼえるられたし、出発地から目的地までのちいさな町や村の名はほとんど頭に入っていたから、道路標識に記された地名を見て確認するのがたのしみで、道をまちがえたことなどなかった。
 
 4年前それはやってきた。下調べの時点であれだけたやすくおぼえることのできた地名が、現地に入って間もなく、まるで歯がぬけおちるように記憶からポロポロおちてゆくのだ。はじめは気にもとめなかった。一過性の健忘症にすぎない、20代にも30代にも一時的にものわすれすることはあった、そのうちもとにもどるだろう。
 
 一ヶ月たち二ヶ月たっても、おちた歯はもとにもどることはなく、それどころか、記憶の空洞化はいっそうつのるばかりで、さっき考えていたこともほかのことを考えるとすぐに思い出せないことがあった。考えごとをして部屋に入ったとき、なにしにこの部屋に来たのだろうと、いったん前の部屋にもどって思い出すということもあった。
 
 そういう日々が半年もつづいたあと、今度はバスタブにつかっているさいちゅうに「疲れた」ということばが口からもれるようになった。そういう自分に気づいてはいたし、これではいけないと自らを何度も叱咤激励したがむだだった。
 
 ある朝、洗面台の鏡にうつった自分の顔を見て、思わず疲れたといったこともあったが、日本語でいったのと、つぶやくような声でいったのとがさいわいしてミリアムには気づかれずにすんだ。
 
 ミリアムは飛びきりの美形というのではなく、髪の色も目の色も褐色で、英国女優タラ・フィッツジェラルドによく似て、すっきりしてはいるが愛嬌のある顔立ちをしていた。また、粉雪のような肌はすべすべしていて、化粧したときよりも素顔がきれいだった。
背丈も166センチの中肉中背、英国女性にしては大柄ではなく、離婚した沢木の妻のノーブルな美しさ、しっとりした肌、すらりとした体つきとは対照的だったが、ミリアムが目を閉じたときの、上瞼がほんのり薄紅色に染まるようすは格別のものがあった。
 
 そのミリアムとのいさかいの絶え間がなくなったのもその頃からだ。沢木はへんに潔癖なところがあり、外出から帰ったらかならず石鹸で手を洗う習慣がある。習慣というよりもはや習性といったほうがよいかもしれない。
車を運転すると、ドアの取っ手やハンドルにふれることは不衛生であり、新聞を買うときわたす小銭、飲食物の釣銭をさわるのも不潔に思えた。コインはどこでだれが汚い手でさわっているかしれたものではない。
 
 また、子供のころから扁桃腺がよわく、なにかといえば喉の痛みをうったえていた沢木は、人から風邪をうつされるのをひどく警戒していた。風邪のウィルスは手から目や喉の粘膜に付着する、だからつねに石鹸をつかって、まめに手洗いをしなければならない、それは云うなら、沢木の信仰でさえあった。
 
 だから沢木にはミリアムの不潔がゆるせないと思った。もうすぐ40に手がとどく分別盛りのはずのミリアムが、外出から帰って手洗いをしないのだ。そのままの汚い手で食器にさわる。
沢木の胸にさわった手が下腹部におりてゆき、局部をまさぐって硬さをたしかめる。以前はそうされて悦にいっていたこともあったのだが、そのころは悦楽よりも不快感のほうがまさるようになった。思わずちいさな声が出るのは、つまりは後者のさけびなのである。
 
 ミリアムはジェンナーズ文具売場で沢木の部下で、ひょんなことから転職の相談にのり、ミリアムは沢木の友人の勤務するGMという広告デザイン会社にうつった。もう12年も前のことである。
ほとんど独学で修得したにもかかわらず、ミリアムにはおどろくべき広告デザインの才能があって、その後めきめき頭角をあらわし、それにあわせるかのごとく沢木と親密になっていった。そして彼女の提案で同棲するにいたったのだった。
 
 ミリアムと暮らしはじめた最初の年、彼女は沢木が予想しなかったほどの柔軟さで沢木の好きなものを好きになっていった。ロンドンでの歌舞伎公演のさいに示したミリアムの学習ぶりに沢木は正直絶句した。
演目も役柄もロクにおぼえていないが、近松座を旗揚げした鴈治郎が演じた狂言で、口からたらりと血を流す場面があった。
 
 幕間でミリアムがいうには、血のりは男性用避妊具に入れて、1センチくらいの丸い玉にして口に含んでおくのだそうである。学生時代から歌舞伎に親しんでいた沢木も知らない話だ、どこでどう調べたのか、さらりといってのけるミリアムを凝視するばかりだった。
 
 ミリアムと別れたのは沢木が急激な老いを感じて、別れを告げられる前に先手を打ったのだ。外出のあと手を洗わないミリアムの怠慢にイヤケがさしたからではない、不潔もときにはエロティックである、不潔はたいした問題ではなかった。不潔がたまさか蠱惑的であることも沢木は熟知していた。それよりもなによりも、あのそそるような薄紅色のまぶた。
 
 沢木はミリアムをゆるせなかったのではない、年齢より早く老いてゆく自分がゆるせなかったのだ。不潔な女はゆるせない、沢木はそういう潔癖な男を演じただけのことである。そんな自分にイヤケがさして、矢も楯もたまらず別れたのである。それは女とではなく、自分との訣別なのだった。
 
 そして2年あまりたったいま、沢木はミリアムに代わるレフィルの見つからないことをいまさらのように後悔している。

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