2004-11-08
因果
 
 きょうも晋平は些細なことで怒りまくった。仕事先からここまでの道順を訊かれて、まちがえて教えてしまったからだ。
県道42号線を43号といったため、晋平は国道43号線だと思って神戸方面に向かったのである。国道43号は東西、県道42号は南北に走っているからまちがえようがないと言い返したことで彼はさらに激昂した。
 
 簡単な道順をまちがえるなんてありえない、晋平はそう思っているから、まちがえた相手をきびしくせめ立てたことも、激怒したこともたいしたことではない。だが、あたしにしてみればあんなことで激昂するなんてどうかしていると思う。その場かぎりの感情の噴出は、噴出したほうはすぐに忘れるが、されたほうはそう簡単に忘れない。
 
 その場はなんとかおさまっても、ふたたび相手がほかのことではげしく怒ったとき、そのときのことを思い出してしまうのである。そしてそれを言い出すと、いさかいの火は前よりもっと強く燃えさかる。そうなるのが分かっていてもつい言ってしまうのはあたしの性格なのだろう。
些細なことに端を発して、後戻りできないほどこじれることもこの先あるかもしれない、いまはまだ晋平との歴史が浅く、堆積したヘドロが少量だからだいじょうぶだけれど。
 
 それにしても22歳ではじめて真剣に好きになった人とこんなに頻繁にもめるのだろう。とくにここ数週間、晋平は腹を立てないと損するみたいに怒る。その前は怒っても説教じみた怒りが多かったし、怒ってはじきに反省して「わるかった」とあやまっていたのに、最近は口汚くののしるのがつねで、晋平が自分で言っていた良家の育ちとはおおちがいだ。晋平こと晋谷平蔵は正真正銘由緒正しき良家の子息なのだった。
 
 父方は江戸時代末期まで秋田・佐竹藩の御典医を代々つとめた医者の家系、母方は18世紀末に藩校・明徳館の館長となった学者系、道東で灯油とプロパンガス販売を生業としていたあたしの祖父母とは大ちがい、家系、家柄というなら晋平の家が大差圧勝である。
今春、新島襄の創立した京都の私立大学を卒業して地方銀行に就職したあたしは借金娘で、国からの奨学金のほかに大学からの学資融資も受けていて、両方とも無利息とはいっても、月4万円返済している。
 
 たまの返済なら文句はないのだが、毎月となるとけっこう大変、その上、夏の賞与を頭金にして買った中古車のローン支払いが月5万円弱だから、月収の半分ちかくは飛んでしまう。
 
 一回り年齢差のある晋平はその点のんきなものである。長男で、親から当然のように期待された医学部には行かず、いや、物理・数学が不得手で行けず、エスカレーター式のボンボン学校の社会学部にすべり込んだ。そこしか入る力がなかったのだ、本人は否定するだろうが。いまにして思えば、些細なことで激怒しては女に逃げられていたのだろう、34歳のいまにいたるまで独身をとおしていたのは。
 
 あたしは母子家庭に育ったから打たれ強い。打たれ強いというのは比喩ではない、母は子供のあたしをよく打擲した、お尻ではなく頭を。母が父と別れる決心をしたのは、父が母をかばってくれなかったからだ。それと、父の浮気。もっとも、浮気はあとになって分かったことで、母が広大な敷地にある姑の家を出てから知った。
 
 父の浮気は公然の秘密で、知らなかったのは母と、同じ市内に住む母の兄夫婦だけだったという。父はいつだって母の味方にならなかった。「お前さんには何を言っても同じだよ」といって、祖母、つまり自分の母親の側に立った。
 
 それが母の不満のタネの一つだったのはたしかであるが、母にいわせれば、父は「いつでも別れられる人」であったそうである。でも、なぜ母がそう思ったのかは不明。父のことはあたしもほとんど話題にしないし、母もあまり話したがらない。
そういう家庭にそだったことを晋平に話したら、「オレはそんないいかげんな男じゃない、オレはお前を守ってあげる」とムキになって言った。守ってくれるかくれないかはその時が来るまで分からないのによく言うよと思ったけれど黙っていた。口でいうのはたやすい、あたしはひややかに晋平を見て無関心をよそおった。
 
 人が人を守るのは生やさしいことではない、金銭的に守るのはたやすいことだ、そのとき必要なお金があって、提供する者と提供される者との関係が親密であれば可能、でも、双方がこじれた間柄ならむずかしい。そういう相手からの金銭にかかわる支援は受けたくないと思うのが人情だからだ。
でもあたしたちはちがった。母があたしの養育費を一銭も受け取らなかったいきさつもあってか、あたしが高校に入学した年から、自分の意地に固執しないという意味で母は急変した。あんなに嫌っていた祖母からの援助を願いでたのである、あたしを使って。
 
 夏休み、あたしが道東に帰郷したおり、あたしは母からいわれた通り祖母に窮状をうったえた。窮状は本物で、あたしは返済不要の育英資金を毎年得ていた。その頃からだった、母があたしをぶたなくなったのは。母は自分ひとりであたしをみれなくなったのだ。母がひとりであたしをみていたとき、守ってくれていたとき、母はあたしをぶった。それがわが子を守るということなのである。
 
 貧しくても強気な母だったが、人並みなことをしてあげられないという負い目が日毎に増幅してきたのか、負い目が強気に勝ってしまい、打擲する勇気を母からうばったのだ。その頃からあたしはしだいに図に乗るようになった。仕事帰り、うっかりワサビ入りの寿司を買ってきた母をあたしはきびしく責めた。「ワサビの入ったにぎり寿司なんて食べれるわけないでしょ、何考えてるの!」 母は「ごめんね」と何度かいいながらワサビをこそぎ落とした。
 
 「そんなことしたって、ワサビの味は取れないじゃない!」。虫の居所のわるかったあたしはますます不機嫌になって追い打ちをかけた。そんなことがあったのを思い出した。傷つけられたほうは記憶にとどまっても、傷つけたほうはすぐ忘れる、だから繰り返し傷つけてしまうのである。
 
 晋平とつきあいはじめたころ、おたがいの家庭状況が話題になったことがあった。あたしはもちろん借金娘であることを正直につたえた。背伸びして見栄をはるのはつかれる。それまでは見栄をはることもあったが、二十歳になったとき決心した、もう見栄ははるまいと。
それからすこし楽になった。プロ野球観戦も手造り弁当とペットボトル持参、荷物になるけれど。晋平はウケようと思ったのだろう、「おふくろは酒乱で、深酒すると人にからむんだ。イカスミのリゾットを食っていたら、『外米はパサパサして糊にならない』って、わけのわからない文句を従業員にいうし、オヤジはトイレで雲古がいっぱい出るとごきげんなんだ」と両親の秘密をあかした。
 
 その話をしたら母は、「家柄は関係ないんだね」といって笑いころげた。笑っている母を見て、あたしはつくづく母に対する自分の不寛容を思った。そう、あたしは過ちにきびしすぎるのだ。過ちをおかさない人などいない、問題は過ちをゆるすかゆるさないか、相手にいたわりのことばをかけられるかどうかである。簡単なようで簡単じゃない、いまでもできるかどうか、そのとき自分の置かれた状況によってどうなるか分からない。34歳の晋平にもできなかったのだ。
 
 あす晋平に逢っていうつもり。年末に帰郷するからしばらくあえない。メールも電話もしないでほしいといったら酷だろうか。でも、これだけは晋平にいわなければ。大切な人なら、まちがっていてもゆるしてあげなさい。

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